鏡の中のひかり
生島いつつ
第一幕
序章「プロローグ」
とある市内にある産婦人科。新しい命を宿した幾人もの母が通う。彼女たちが我が子を産み落とす場所だ。
この日は随分若い男女も来院していた。そんな男女とすれ違った女はこの時、救急で来院し、ストレッチャーで分娩室に運び込まれた。苦悶に顔を歪ませ周囲に目を配る余裕はない。
やがて彼女から新たな命が生まれた。久保家の次女として生まれた新しい命は「ひかり」と名付けられた。
ひかりはすくすく成長するが、唯一家族が首を傾げる行動がある。転機はひかりが小学校に上がる前、六歳時の年末の大掃除だった。
ひかりの自宅は古い昭和建築の平屋建てで、庭の外れに大きな蔵がある。その中にはいつの時代からあるのかわからない、両開き式の大きな三面鏡があった。成人女性の背丈ほどの大鏡で、ひかりは大掃除の時に初めて見つけた。それからひかりは時々蔵に出向いては両開きの鏡を開け、中に映る自分と対話をするのだ。
幼いながらも周囲の訝しむ様にすぐ気づいたひかりは、それから数日も経つと家族の目を盗んで対話をするようになる。それ以外はこれといった異質さを見せず、ひかりは小学生になった。
小学二年の時に家主であり父方である同居の祖父が他界し、小学四年の時には両親が離婚した。ひかりとひかりの姉は同居の祖母が育児をするということで父親に引き取られ、母親は出て行った。小学校卒業までは祖母と父と姉の四人で暮らす。
しかし中学生になってすぐ、父は籍を入れない女を連れ込むようになり、やがてそれは事実婚状態となった。中学二年に上がる間際、姉が結婚をし、家から独立した。それからひかりの生活は周囲に目立たない中で徐々に歪を生む。
◇
どうしてこうったのだろう。人生とは本当にわからない。ショックや絶望も間違いなくあるのだが、それよりもこの事実に現実味がないという方が表現としてしっくりくる。僕は二十代で早くも戸籍にバツがついた。
あれから四年、三十歳になった僕は父親の経営する不動産会社に招聘された。独り身になって守るべき家庭もないというのが理由だ。加えて後継者として引退前に我が子を経営者に育てたい父親の意向である。
それまで勤めていた電子機器メーカーの技術職を退職し、僕は二十二歳までを過ごした地元に戻った。そして畑違いの仕事、不動産会社の営業社員となる。
未だに元妻の死の真相がわからない。検視では自殺。それが間違いないことは僕自身理解している。しかしその動機は不明だ。遺書もなかった。
中学生の時から恋人関係で、大学を卒業と同時に入籍した。これほど長い時間を過ごした彼女なのに、彼女の死の理由がわからなくて、僕は妻のことを何も知らなかったのではないかと悲観する。
そんな思いを胸に秋のとある日、毎年恒例となった参拝にやってくる。車で急な坂とカーブを走り抜け、山頂にある大きな寺。僕の地元からほど近く、電子機器メーカーに勤めていた時すらもわざわざ越県帰省までして通った
厄除け、交通安全などの祈祷で知られる祈祷寺だが、他の目的を持って参拝する人もいる。僕のように。
広い敷地と本堂は自由に歩き回れる。本堂脇のお堂は中には入れないが特徴的で、正面が開け放たれている。そこでお参りを済ませ本堂に向かう途中の階段で、夫婦らしき若いカップルとすれ違った。
その夫婦と連れ添うように歩くのは、夫婦どちらからの親と思われる中年の男女。更に中高生くらいの少女。彼女もまた夫婦どちらかの親族だと思われるが、少女以外は明るく幸せそうな雰囲気を纏うのに対し、少女だけはどこか浮かない表情に見える。受験の合格祈願でもしていたのだろうか? その学業はあまり思わしくないのだろうか?
とは言えすれ違いなんて一瞬。僕は階段を上がりきってその団体のことなど忘れてしまい、自分のお参りに意識が向いた。
◇
お義兄さんが運転する車に乗って中学三年の私がやって来たのは、小高い山の上にある畑宿寺。妊婦のお姉ちゃんと、お義兄さんの実父実母は移動中からも幸せそうな表情をしていた。生まれてくる我が子・孫の顔を見るのを待ちわびている。
車を降りると見えるのは緑の絨毯。上って来た山を形成する高木のはずなのに、上から見ると滑り落ちることもできそうな錯覚が生まれるから絨毯みたいだと思う。尤も受験生の私が「滑る」や「落ちる」の単語を使うのも不謹慎だが。
今日はここにお姉ちゃんの安産祈願に来た。ネットなどでの紹介ではあまり書かれていないが、このお寺は地元では、お腹の子に対するご利益もあると知られている。もうあと数カ月でお姉ちゃんの出産日だ。
私が最初にお姉ちゃんから妊娠を聞かされた時は感動と喜びに浸った。それは間違いないと思う。しかし日を追うごとに胸が締め付けられるような、喜びや感動の感情とは違うなにかが私の中で成長していった。だから最初に抱いた感動と喜びも本物だったのか、今では自信が無くなっている。
なぜだろう? 姉妹仲がいいから甥か姪ができるのはとても嬉しいことなのに、アレルギー反応でも起こしたような、更にはどこか不安に圧し潰されそうな複雑な感情が渦巻く。自分でもこの感情の根拠がまったくわからないから憂鬱だ。
そんな重い足取りでお義兄さんの両親とお姉ちゃん夫婦についてお寺の敷地内を歩く。駐車場からすぐに寺務所があり、そこは屋内を通過できて、再度外に出ると石畳だ。その幅の広い石畳を途中折れて、大きな階段がある。その上に本堂があった。
石の階段を一歩一歩丁寧に踏みしめて、本堂の前に到着するとお参りをする。
――お姉ちゃんの子供が元気で五体満足で生まれてきますように。それから私を好きになってくれる、可愛い可愛い、生意気ではない甥っ子か姪っ子に育ちますように。
私は自分本位で我儘放題のお願いごとをした。
「お守り買って帰ろうか」
おばさんの言葉でお参りを切り上げ、来た階段を下り始める。下からは二十代か三十代くらいの男の人が上がって来る。その人は「無」という一文字が似合いそうな表情をしていた。尤も彼が足元をしっかり見て歩いていたから、私にあまり表情が見えていないせいなのかもしれない。
ただ男の人が一人でこんな場所になんの用だろう? と場違いな印象を私は抱いた。とは言え、それも場のメンバーの空気に意識を戻せば彼のことはすぐに頭から離れる。私は憂鬱な気分を隠すように、愛想笑いをおじさんとおばさんに向けた。うまく表情が作れているかは自信がない。
しかし頭から離れたはずなのに、下から上がって来た男の人とすれ違った瞬間だ。後ろ髪を引かれるように振り返った。なんだ、これ? 心臓がドキドキする。それなのにどこか他人事のようで違和感があり、それは自分の感情ではないような気さえもした。その考えが間違っていないのであれば、心当たりは一つしかない。
――なにか言った? なにかあった?
口に出さず意識の中で問い掛けてみるが、彼女から声が返ってくることはない。やっぱりか、という思いだ。まさかこんな場所で彼女と話せるとは思っていない。それは私が一番よく知っていることだ。
今あった感情の波は絶対私のものではなかった。今日もいつものように夜、彼女と話すのだから聞いてみようと思う。
しかしこの日の夜、彼女は笑って誤魔化すばかりで、私の質問を受け流した。
◇
地元に戻ってきて親のもとで仕事を始めて季節が巡り、二度目の夏がきた。
資格は取らないといけないし、それと並行して慣れない業務を覚え、更には営業職として結果も出さなくてはならない。転職から一年が過ぎるのはあっと言う間だった。今年は宅建士の受験が控えている。
そんな折、一人暮らしをしている僕の部屋に一人の少女が居着くようになる。恵まれた容姿に垢抜けない高校一年生。端的に言うと美少女だ。僕にとって彼女との出会いはこの夏だった。
そしてこの夏のうちに、僕と彼女の奇妙な共同生活が始まった。
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