08 がーるず・りめんばーど…?

 パーク内のシャワールーム。


 これまでの、現実離れしていてテーマパークらしい装飾のされた建物と比べると、そこはずいぶんと質素で、素っ気なく実務的で、あまりにも「普通」な内装だ。だが、それは無理もない。そこはパークスタッフ用の設備で、本来は客が立ち入ることは出来ない場所だったから。

 そんな、パークの中ではある意味異質とさえ言える普通なシャワールームの一番奥の個室の前に、百花がいる。彼女は扉の外側に背を預けて、もたれかかっている。個室の中にはソラがいて、びしょ濡れになって冷えてしまった体を温水シャワーで温めていた。

 さきほどソラがアトラクションの川に飛び込んだとき、近くのスタッフの何人かが、彼女がパークの経営者の娘だと気づいたらしい。そのスタッフたちがソラと百花をここまで案内してくれて、着替えも用意してくれたのだった。


「どうして、あんなことを……」

「え?」

 流れる水音に邪魔されて、つぶやくような百花の言葉は、うまく聞き取れなかった。ソラは、一旦シャワーを止める。

 百花が、さっきよりも大きな声で言いなおす。

「どうして、飛び込んだりなんかしたんですのよっ⁉ あの、オレ様イケメンの……さ、さっきまで一緒にいた方も、言っていたでしょうっ⁉ スタッフに頼めば、落とし物は拾ってもらえたんですのよっ⁉ わざわざ……あ、貴方が川に飛び込む必要なんて……」

「百花ちゃん……」

 シャワールームの内側から、ソラも扉にもたれかかる。扉をはさんで、百花とソラは背中合わせのような状態になる。もちろん、二人はそんなことには気づいていない。

「百花ちゃんは忘れちゃったかもしれないけど……ぼくは、覚えてるよ? ぼくたちが、一番最初に会ったときのこと」

「え……」

「あのときは、今とは逆だったよね」




――――――――




 それは、今から十数年前の、ある日の出来事だった。


 そのころはまだ、百花のイケメン狂いは今ほど酷くもなく。彼女を取り巻く環境も、今よりもずっと自由で、普通だった。

 とはいえそれは、国内有数の資産家の娘……あくまでも、『お嬢様としての普通』ということである。一般庶民とは一線を画す超セレブのお嬢様として生まれた百花は、幼いころから一流の家柄に恥ずかしくない環境と、責任を与えられていた。そしてその環境は幼い彼女に、「自分は他の人間とは違う、選ばれた人間だ」……「選ばれた自分は、その立場にふさわしく振舞わなければならない」……という、一流の人間としての矜持プライドのようなものを与えていた。


 その日も百花は一流の人間の責任として、世界各国の要人たちが出席するような社交界のパーティーに参加していて、今は専用のリムジンで自分の屋敷まで帰るところだった。


「ふう……」

 つまらなそうに、ため息をつく幼い百花。リムジンのスモークガラスから、外の風景を流し見ている。その様子は、当時の彼女の年齢からすれば、あまりにも大人びて見える。

「あら?」

 その車が、大きな川にかかる橋を渡ろうとするとき。橋の歩道から川を見下ろしている、一人の少女の姿が目に入った。

「……何を、しているのかしら?」

 別に、その少女にそれほど大きな興味がわいたわけではない。

 そのころのプライドの高い彼女は、自分以外の人間に興味を持つことなど滅多になかった。普段なら、通り過ぎた瞬間にそんな少女のことなんてすぐに記憶から消えてしまっていたはずだ。

 ただその日は、何故か彼女のことが気になってしまった。

「……車を停めてくださる?」

 運転手にそう言って、リムジンを路肩に停めた百花。ウインドウを開け、その少女に尋ねた。

「貴女、そんなところで何をしているの?」

「え……? あ、あの……」

 突然話しかけられて驚いた様子の彼女は、天敵を前にして怯える小動物のように、ビクビクと震えている。何かを言おうとしているようだが、声が小さすぎてよく分からない。

 このままではラチが明かないと思った百花は、仕方なく車をおり、彼女と同じように自分も橋から下を見下ろしてみた。

「……?」

 川の流れはゆるやかで、水もそれほど濁っていない。比較的大きな川だったが、うっすらと、川の底まで見通すことが出来る。ちょうど、彼女たちがいる真下あたりに……何か光るものが沈んでいるのが見えた。

「あれ、貴女の?」

「あ、あの…………はい」

「落としてしまったの?」

「……あ、いえ……えと……あの」

 やはり、何を言いたいのかよく分からない。

「……ふん」

 これ以上は、もう相手にするだけ無駄だ。

 そう思った百花は、さっさとその場を立ち去ることにした。彼女に背を向けて、待たせているリムジンに向かって歩き出す。


 そこで……、

「わ、私……の、好きな……アニメの、キーホルダーで……」

 とぎれとぎれで、消えてしまいそうなほど小さいながらも、やっと彼女の言葉が聞き取れた。

「お父様に……『子供っぽいから、捨ててこい』って言われて……それで……」

 振り返る百花。

 少女は寂しそうな表情で、また川の底で光っている物のほうを見ている。最初に車の中から見たのと同じ表情だ。

「それで?」

「そ、それで……」

 口ごもる少女。やはり、そこから先は言葉にならない。しかし、百花には彼女の状況が何となく分かった。

「要するに貴女……親にナイショでそのアニメ? のグッズを買ったのを見つかって、『捨てろ』って言われたのね? それで、言いつけ通りに一度はこの橋から捨てたんだけど、今更やっぱり名残り惜しくなってしまって、川の底に沈んでしまったそのキーホルダーをずっと見ている。だから、いつまでたってもこの場を離れることが出来ずにいる……そういうことでしょ? 違う?」

 少女は、ゆっくりとうなづく。

「ふんっ」

 百花は、さっきと同じように鼻を鳴らして、彼女にまた背中を見せる。そして、吐き捨てるように言った。

「くっだらない。バッカじゃないの」

「え……」

「そのキーホルダーが本当に好きなんだったら……橋の上から動けなくなるくらいに、好きだったんなら……。最初から、どうして捨てたりなんかしたのよ? 親に歯向かえばよかったじゃない? 今からでも、親に反抗してそのキーボルダーを持ち帰ってしまえばいいじゃない? 誰に何と言われても……世界中の人間から後ろ指をさされたとしても、その『好き』を守り通せばいいじゃない? それが出来ないって言うのなら、貴女の『好き』なんて、しょせんその程度だったってことでしょ? 敵を作る勇気も、自分を不利な立場に置く勇気もないくせに……一丁前に、『好き』なんて言うんじゃないわよ! 自分の気持ちを守り通す覚悟もないんだったら、そんな『好き』なんて、さっさと諦めなさい!」

 それは、百花の強がりだった。

 まだ幼くてプライドだけが高く、イケメン狂いに目覚めてもいない彼女の、理想混じりの本心。自分だってまだ、「好き」なんて気持ちはよく分かっていなかったのに……そんな自分をはるか上空の棚に上げた、勝手な言い分だ。


 きっと彼女は、そんな自分の強がりに、心の底では気づいていたのだろう。気づいていたからこそ、さらにその少女に苛立ってしまっていたのだ。

 自分にはよく分からない「何かを好きになる」という感情を、この少女は持っている。たとえそれがあいまいで弱々しく、誰かに否定されたくらいで消えてしまうようなものだとしても……。この少女は確かに、自分には無いものを持っている。そのことに嫉妬していただけなのだ。

 とにかく。一方的に少女に話しかけた百花は、そのまま一方的に言いたいことだけ言って、その場を立ち去ろうとしたのだった。


 しかし、そのとき……。

「そっ……か。そう、だよね……」

 立ち去る百花の背後で、少女が動くような気配がした。

 何か得体のしれない覚悟のようなものを感じて、また百花は後ろを振り返る。するとそこには……橋の手すりによじ登って、川に飛び込もうとしている少女の姿があった。


「ちょっ、あ、貴女っ⁉ な、何して……っ!」

 慌てて、彼女に手を伸ばす百花。橋から川までは、建物の四、五階分くらいの高さがある。そんなところから飛び降りたら、無事でいられるはずがない。

「バ、バカなのっ⁉ そんなことして……!」

「で、でも、あのキーホルダーは、私の大好きなものだからっ! 私がどうなっても、守らなくちゃいけないものだからっ!」

 百花の強がりのセリフを真に受けて、完全に川に飛び込む覚悟を決めているらしい少女。その体に、慌てて伸ばした百花の手が、ギリギリで到達する。彼女はその手を思いっきり自分の側に引いて、少女を抱き寄せた。

 少女の小さな体は百花の力に素直に従って、橋の手すりの内側に傾いていく。危険な状態は脱出して、なんとか、彼女が川に落ちることは回避されたようだ。

「ふう……」

 安堵のため息をつく百花。

 それから橋の手すりにでも寄りかかってバランスを整えて、「あ、貴女ねっ! いくら何でも、いきなりこんなことするなんて非常識というもので……」と、自分を驚かせた彼女を非難しようとした。

 だが、

「え……?」


 少女を引き寄せる力が、強すぎたのかもしれない。あるいは、思っていたより少女の体が軽くて、力が有り余ってしまったのか。百花自身が想像していたよりもずっと勢いがあった力の反動で、彼女の体は川に向かって飛び出していた。

 ちょうど、橋の手すりのこちら側に来た少女と、行き違いになるような形だ。勢い余った百花は橋の手すりの向こう側に飛び出して……川に向かって落下していったのだった。


「ちょ、ちょっとーっ! な、なんでワタクシが、こんなことにぃーーーーー……」

 ばしゃーん!

「ガボっ! …………ゴボゴボゴボ」

「あれ? え? え? ……えええーっ⁉」

「お、お嬢様ーっ! 百花お嬢様ーっ!」

「ゴボゴボ…………」


 お嬢様修行の一環として水泳も習っていたはずの百花だったが……いかんせん、パーティー帰りのゴージャスなドレス姿では、それを活かすことも難しい。数分後に、リムジンの運転手によって助け出されるまでの間。

 パーティーで出された有機栽培のフルーツジュースや、一流レストランのシェフが作った高級食材のスープの味を忘れてしまうくらいに大量の川の水を飲み……完全に溺れてしまった百花だった。

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