20.湖畔

第133話 20-1.


 4月に入って、漸くスイス、レマン湖のほとりにも春が近付いてきたようだ。

 遠くイタリア側やフランス側の山々は、藍色に近い青空を背景に未だ峰に真っ白な雪を頂いているが、スイスの人々は、もう春らしい明るいファッションを身に纏い、休日ごとに湖畔で遊ぶ。

 サマンサは、訪れる度に明るくなっていく景色を眺めながら、ゆっくりと療養所の門をくぐった。

 涼子が、世界中に設置されている医療本部付属療養センターのうちのひとつ、ジュネーヴ療養所に転地療養の為転院してから、既に三週間が過ぎようとしていた。

 即ち、サマンサがこの施設の所長待遇顧問になってから同じく三週間が過ぎた、と言う事だ。

「ふぅ」

 サマンサは思わず、美しい景色には似合わぬ、憂鬱な吐息を零した~療養所というだけあって、ここジュネーヴ療養所は遠くアルプスや眼前のレマン湖を借景にして、マイナスイオン溢れる林の中に隠れるように建っている、武骨な柵と衛兵の立つ門さえなければ、まるでお洒落なコテージのようにも見えるのだ~。

 療養所に移って1週間で、涼子は漸く開頭手術後のリハビリを許され~勿論、ただでさえドジな彼女は最初、転びまくって身体中に赤アザ青アザを賑やかに散りばめていた~、二週間目には車椅子での療養所周辺の1日1時間程度の散策が許され、三週間目には、看護師付き添いの上での徒歩散策が許される様になり、涼子はその頃から、めっきり以前の明るさを取り戻した様に、表面上は見えた。

 けれど、2日おきに療養所を訪れるサマンサとのカウンセリングの時や、時折、夕食後に自室の窓から夜空を見上げている時、涼子の薄い肩が、細かく震え、頬が涙で濡れている事を、周囲の人々は知っているようだった。

 それでも普段は、涼子はやっぱり職員達~医師や看護師、職員、食堂や清掃の外部業者のおばさま達にまで~に大人気で、笑顔も漸く板につきはじめていた。

「りょうちゃん! ほら、おいしいチョコケーキだよ、一緒に食べよう! 」

「りょうちゃんりょうちゃん! 今夜のデザート、ほら、プリンが余ってるからね、特別にオマケだよ! 」

 療養所と雖も軍隊組織の一部であり、当然職員も軍人軍属、患者達も軍人軍属(時折その家族)だから、緩やかながらも”程よい秩序”はある筈なのだが、けれど涼子のまわりは秩序が自然と緩みがちであった。

 涼子は、若い士長クラスの看護師や二尉クラスのレジデントにまで、何時の間にか”りょうちゃん”と呼ばれるようになっており、それに影響されたのか、診療科の看護師長や主任医師、果ては一佐の階級を持つ療養所長までが涼子を”りょうちゃん”と呼ぶようになっていた。

 もちろん、涼子の方も、それは昔通り、肩書きや秩序慣習にはとんと無関心で、一回り以上年下の艦士長の看護師から「りょうちゃん」と呼ばれても、頓着せずに笑顔で「はーい」と振り向き、それが一層”りょうちゃん人気”を押し上げる原因になっているようだった。

 そんな中、唯一人、二日おきに訪れる”所長待遇顧問”のサマンサだけは、”涼子”又は”アンタ”と呼び続けた。

 別にサマンサだって、元々軍人とは思えない破天荒さを持ってはいるし、どちらかと言うと軍紀なんかクソ喰らえと考えるタイプだ~医師倫理は、別だ~。

 けれど、涼子を巡るジュネーヴの空気は、彼女にはどうにも面白くなかった。

 きっと、そんな想いが表情に出るのだろう。

 だから、サマンサはジュネーヴを訪れる度、現地職員と自分の間に、微妙な垣根が立ち上がっているような気がしてならなかった。

 一佐の所長よりも上位階級者の突然の闖入が、どうもりょうちゃん人気に沸く療養所の人々に小さな波紋を投げ掛けているようで、サマンサはそれを敏感に感じ取っていて~しかも、心当たりがありすぎるほどあるものだから~、冒頭の溜息へと繋がる訳だ。

”……仕方ないか。まあ、このノンビリした田舎の療養所じゃあ、私みたいなのは浮くよね”

 そんな遣り切れない気持ちを癒してくれるのは、皮肉な事に、涼子だった。

 悔しいけれど、それでもこんな気分の日は、涼子に逢いたくてたまらなくなった。


 その日、カウンセリング終了後、サマンサがカルテを入力していると、カーテン越しに若い複数の女性の笑い声が聞こえてきた。

 診察衣からパジャマへ着替えている筈の涼子の声、それに聞き覚えがあるのは、ここで働く看護師達2、3名といったところか。

 五月蝿いなあと軽く顔を顰めながらも、いつの間にか手は止まり、彼女達の姦しい会話に耳を傾けていた。

「やだみんな、もう今日はお仕事終わったの? 」

「今日はもう上がりだぜっ! ところでりょうちゃんは診察終わった? 」

「りょうちゃん、どしたの? 目が赤いよ? 」

「ううん、なんでもないの。ちょっと、ゴミがね……。それよりみんな揃ってどうしたの? 」

 涼子の声に、看護師達の声は一層華やぐ。

「そうそうそ! りょうちゃん、晩御飯食べたらさ、私の部屋へこない? 」

「部屋って、寮の? みんな、夜はオフなの? 」

「そうそう! でね、みんなでお菓子持ち寄って、カラオケ大会しよって」

「えー? カラオケえ? あー、ダメダメ、私音痴なんだもん、やだよ! 」 

「りょうちゃん、音痴なのはみんな知ってるって!それ聴いてさ、りょうちゃん笑いものにしよってのが、今夜の趣向よ! 」

「えー! みんなヒドイー! オニだよここにオニがいるよー、オニー! 」

 若い娘達の笑いさざめく声が診察室に響く。

 苛立ちはあっさりと限界に達して、サマンサは椅子を立ち、荒々しくカーテンを開けた。

 看護師達は一斉に口を噤み、緊張した表情をサマンサに向け、如何にも慣れていなさそうな手付きで敬礼してみせた。

 その表情、態度がいっそう、サマンサの心に鑢をかけてゆく。

 一方、彼女達に釣られてサマンサの方を振り向いた涼子だけが、ニコニコと日向のような暖かい笑顔を浮かべたままだった。

 どうにも涼子は、ジュネーヴに来てからというもの、日に日に幼くなっていく様で、それがまた胸がきゅんとなるくらい可愛くて、サマンサは思わずへの字に結んでいた口を緩めてしまう。

 看護師達をどやしつけてやろうと思っていた胸の内の炎は急速に鎮火していって、サマンサは一瞬言葉に詰まり、その後転がり出た言葉は何故かマシュマロ並みのふわふわさだった。

「あー、んんっ……。た、楽しそうな企画だけど、一応診察室だからね。もう少し、お静かに、ね? 」

「先生、ごめんなさい」

 涼子が、悪戯のばれた小学生の様にペコリと頭を下げる。

 なんだか、自分一人が悪者になったみたいで、サマンサは急に哀しくなってしまった。

 慌てて複雑な笑顔を浮かべ、そのまま診察室を出ようとして、足を止めて振り向いた。

 面白くないなぁ。

 だったら、せめて。

「じゃあ、カラオケ大会まで、夕食中は涼子、借りるわね」

 せめて晩御飯くらい、涼子に付き合ってもらわなきゃ、やってらんない。

「涼子、晩御飯つきあってよ」


 職員用の食堂だからと言って、あまり美味いものではないな、とサマンサはコーヒーを啜りながら、ぼんやり思う。

 ケープケネディの医療本部の士官食堂や将官用レストランだって、そう言えば大して美味くなかった。

 そりゃあ、医療関係機関の食堂だから、減塩、コレステロールカット、糖分カット、一食何キロカロリーと健康第一なのは判るけれど、それにしたって、たまにはジャンクフードや脂の滴るニューヨーク・ステーキくらい食べなきゃやってらんないわよねぇ、などと考えていると、頬の辺りに視線を感じた。

 涼子が、デザートのレアチーズケーキのフォークを口に突っ込んだまま、首を傾げてこちらを見ていた。

「どしたの? 」

 我乍らぎこちない、と思いつつ笑顔を向けると、涼子は、それは見事な可愛らしい笑顔を浮かべた。

「先生、やっと笑った」

 ぎこちない作り笑顔が、今度こそ心理状態を表わす笑顔に変わる。

 ただし、苦笑、だったが。

 ああ、もう。

 なんか、悔しい。

 サマンサは、取り敢えずなにか話題を、と、涼子に質問を投げ掛けた。

「どう? 涼子。ここの生活は? かなり慣れたみたいだけど」

 涼子は笑顔のまま、こくんと頷く。

「お陰様で、だいぶ、慣れました。みんな、親切だし、色々遊んでくれるし……。なんだか、友達と旅行に来ているみたいな感じです」

 サマンサはその表情を見て、なんとなく感じた。

 この……。

 もう、UNDASNに復帰するつもりがないのかも知れない。

 しかし、それも一瞬のうちに杞憂に終わる。

「それに、これも復帰の訓練のひとつだと思って。だから、頑張ろって」

「……え」

 サマンサは、涼子の口から出た思わぬ言葉に、間抜けな声を上げてしまう。

 涼子は残りのケーキをパクッと食べると、ナプキンで口を拭いながら、言った。

「艦長がね? ……私がこんな事になっちゃう前に言ってくれたんです。『お前は暫くの間、制服脱いで、ゆっくりと心の癒せるところに勤務した方が良い、半年か1年、俺を信じて辛抱してくれ』って」

 サマンサは、小野寺の顔を思い浮かべる。

 彼は、マクラガンから聞いたのだろう。

 でないと、あの馬鹿がそんな気の利いたこと、考える訳がない。

 まさか今回の事件が、この様な最悪の結果に終わるとは思ってもいなかった時点で、マクラガン統幕本部長に、制服を脱がせてシャバへ出向させることが転地療法にもなるとアドヴァイスしたのは、自分だ。

「私、ほんとは実施部隊配置がいいな、なんて思ってたんだけど、艦長にそう言われて、ウンって言ったの。艦長信じるって」

 涼子は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「その代わり、私を守って、って」

 再び顔を上げた涼子は、もう、笑顔に戻っていた。

「艦長、守るって言ってくれた。だから……、シャバに出たら戸惑わないように、今からあんまり軍隊式の関係とか秩序、気にしない様に、って」

 サマンサは思わず微笑む。

 今度は、素直に笑えたようだ。

「そう……。そう、なの」

 幼児のように、両手で紅茶のカップを持って口に運ぶ涼子の姿を見て、サマンサは思う。

 この娘は、強い。

 ちゃんと、明日を見据える強さが、この娘にはある。

 だからこそ、思わぬ方向から思わぬ力が掛かったら。

 ポキン、と心が折れるのだ。

 けれど、それはそんなに悪い事ではないのかも知れない。

 だって、ひとはみんな、哀しみの中で生きていくものだから。

 だからこそ、一瞬が煌く。

 その一瞬の煌きを抱き締めて、永遠を歩く事が出来る。

「ほんと、羨ましいわ」

 思わず呟いた言葉に涼子が小首を傾げる。

「ああ、なんでもないわ」

 笑って誤魔化し、殆ど空になったコーヒーカップを持ち上げて顔を隠しながら、サマンサは更に、思う。

 私は馬鹿だったから、だから本当に、一瞬の煌きを胸に抱いて、長い坂道を歩み続ける羽目になった。

 けれど。

 けれど、涼子。

 貴女は、違うのだ。

 一瞬の煌きを、幾つも、いくつも、その小さな、薄い両の掌から溢れんばかりに抱えて歩く、その横には彼がいるのだから。

 私自身が、望み、希い、追い求めようとして果たせず、ついに手放し、二度と手の届く事のなくなった煌きを、貴女は手にし、哀しみで出来た生を、それはそれは見事なほどに美しい笑顔を浮かべて生きていく。

 生きて、ゆける。

 彼と。

 二人で。

 二人で、生きてゆけるのだ。

 よし、とサマンサは頷き、ソーサーにカップを叩きつけるほどの勢いで置く。

「ねぇ、涼子? 気分転換に、明日、一緒に髪切りに行かない? んで、後、ちょいとここら辺りをドライブでもしようよ! 」

 皿が割れそうな高い音に驚いていた涼子が、そのままの表情でサマンサをみつめていた。

「え? だ、だって、私」

 涼子はそっとティカップを置き、戸惑ったような表情を浮かべる。

「ドライブなんか行っても、良いんですか? それに、先生、明日はケープケネディへ戻る筈」

「いーいーのっ! アンタの主治医は私なんだから、私が許可したらオーケー! 」

 きょとんとした表情の涼子に、こればかりは負けない自信がある、ウィンクを贈る。

「……それに、私、病院って好きじゃないのよね」

 食後、サマンサは食堂前で涼子と別れた後、療養所に隣接した幹部職員寮にリザーブしている自室に戻り、ケープケネディへ親展通信を申し込んだ。


「副官いる? あ、リブか、ハロハロ。私ぃ、サマーンサ。……なんか連絡ある? ……そう、……うん、それは後で連絡しとくわ。……あ、そっちはもう、無視ね、無視。他には? ……うん、うん。アイアイ。……あ、それと予定を変更して、後4日程ジュネーヴに滞在する事にしたから。緊急、重要な予定って、なかったよね? ……あ? ……ああ、あの会議はいいわ。1週間程延ばすって、関係方面に連絡しといて。……じゃ、悪いけどリスケして送ってくんないかな。……うん、……うん、アイ。……ああ、それと! 」

 サマンサは、一度口を噤み、大きく一回、深呼吸をした。

「……それと、この回線、医療本部長に回して」

 声が知らぬうちに低くなってしまったことが、妙に哀しかった。

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