第132話 19-5.
3時間ほどウトウトしたサマンサは、携帯端末のバイブレータで起こされた。
「なんだよ、バカ……。カウンセリング中は特A以外呼び出すなって言ったのに」
ぶつぶつ言いながら目を擦り、何気無くベッドを見ると涼子がいない。
一気に目が醒めたサマンサは携帯端末を放り出して立ち上がり、思わず叫ぶ。
「涼子! 」
部屋の灯りをつけ、ベッドへ駆け寄る。
温もりは、感じられなかった。
「まさか、部屋を出た筈ないし」
監視カメラもあるし、もちろん患者は常時監視中の筈、部屋を勝手に出るなんて出来る訳がないのだ。
とすると、必ずこの病室内の。
と、何処からか、啜り泣く声が聞こえてきた。
「……涼子? 」
見ると、ベッドの影、床に座り込み、壁に凭れて膝を抱き、背中を丸めて泣いている涼子がいた。
サマンサはひとまず、ホッと息をつき、ゆっくりとベッドの端を回って涼子の足元に立つ。
「涼子……? どうしたの? 」
涼子が、ゆっくりと顔を上げた。
涙や鼻水でグショグショになったその顔は、儚げで頼りなげで、震える身体は同性ながら抱き締めたくなるような小ささだった。
「先生? 」
サマンサはしゃがみこんで、ハンカチを取り出し、涼子の顔を拭ってやる。
「ほらほら、もう泣かない! 小さい子みたいだね、涼子は。……ほら、洟。チンしなさい。チン! 」
涼子は素直にチンとして、ペロッと舌を出して頬を赤くし照れ笑いしてみせた。
「やっと、笑ったね」
思わず零れた言葉に、涼子は恥ずかしそうに身を捩った。
「私ね、泣き虫だから……。よく艦長に、さっきみたいに涙拭いてもらって、ハンカチ汚しちゃった。そしたら艦長、いっつも怒るんだよ? 『石動、お前なあ』って。『こんな時は、ちゃんと洗濯して返しますって言うもんだ』って」
そう言って、涼子は再び涙を一筋流して淋しそうに呟いた。
「艦長、もう……。怒ってくれないよね。怒ったくらいじゃ、済まないほど、私……」
サマンサは涼子の横に並んで腰を下ろす。
「バカだねえ、涼子は。確かにアイツはすぐ頭に血が昇る脳筋野郎だけどさ? そんな薄情な奴じゃないわよ」
白衣のポケットから、サマンサは煙草とポケット灰皿を取り出して、涼子に向かってウインクする。
「内緒だよ? 病室内は禁煙なんだけどね」
実際は、精神科のカウンセリング用病室に関してだけは、患者が喫煙者の場合のストレスを考慮して喫煙可になっているのだが、今は言わずにおいた。
ニッコリ笑って、ウンと答えた涼子の頭を撫でてやり、サマンサは火を吸い付けた。
「涼子、さ。……寝る前、私が言った事、考えた? 」
涼子は微かに頷き、そして言った。
「……でも、良く判んなかった。あ、でも艦長のこと、信じてないってことじゃないんだけど、だけど、でも……」
サマンサも頷き返す。
「私も良く判らないわ」
サマンサの答えが予想外だったのか、ポカンとした顔を向ける涼子に、サマンサは照れ笑いを返して、紫煙と一緒に本音を吐き出した。
「誰だって、相手の気持ちなんて判らないわよ。エスパーじゃあるまいし。ましてや異性の事なんて、判る訳がないの。当然、相手だって同ンなじ。判らなくって当然なのよ。……つか、女の気持ちがよく判る男、なんて、そっちの方がキモいってぇのよ、ねぇ? 」
サマンサは笑みを消す。
「……でもね。大事なのは判ってる判ってないじゃないの」
サマンサは、じっと煙草の先から天井の換気扇へとゆらゆらと立ち昇ってゆく煙をみつめる。
そう。
人の心なんて、この煙みたいに掴み所がない。
判っていたら、きっとあの時、私はアイツと別れなかった。
「判ろうとして、悩んで、もがき苦しんで、そして、お互いに傷つけあいながらも、傍にいたい、一緒に生きて行きたい、と思う気持ち。そうしたい! って思うと、胸が苦しくなる、そんな訳の判らない理屈抜きの感情」
サマンサは再び涼子の瞳をみつめる。
「アイツは、アンタに対してそう思ったの。だから、アイツは黙ってアンタに撃たれたの。……ははっ、アイツ、バカだからね。フリスコでの五十鈴のトラブルでも思い出したんじゃないのかな? ……だからアイツは手術後絶対安静って言われてるのに、病室を抜け出して手術室の前で待ってたんだよ? そんなアイツだから、涼子。アンタも、手術中に、言ったんじゃないの? 恋してて良かった……。生きていて、いいんだねって」
涼子は、サマンサが口を閉じるのを待たず、涙をボロボロ流しながら、むしゃぶりついてきた。
「でも! だって、私……。私、艦長になんにもあげられないもの! 身体だって汚れちゃってたし、私、いつも艦長を困らせて、傷つけてばっかり! 」
吐瀉するように苦しげに叫んだ後、涼子はサマンサの胸に顔を埋め、一声、遠吠えみたいな泣き声を上げた。
「恋なんてするんじゃなかった。恋しなけりゃ、ただ、艦長に憧れてるだけだったら、もっと楽だったのに……。どうしよう、先生? 初めての恋が、こんな無茶苦茶になっちゃうなんて……、初めての恋でこんなに苦しむなんて、私」
深く長い吐息を零し、涼子は掠れた声で、呟いた。
「気が違っちゃいそうだよぉ……」
後は声を殺して泣きじゃくる声だけが病室に響き渡る。
サマンサは暫く、優しく涼子の背中を撫でてやっていたが、ゆっくりと彼女の身体を胸から剥がし、涙を流し続けている瞳をみつめ、やがて静かに話し始める。
「それがね、涼子。……男と女が、一緒に生きていく、恋していく、って事なの」
ああ。
話してて、泣きそうだ。
「恥ずかしくったって、照れ臭くったって。お互いに欲しくて、独り占めしたくて、理解して欲しくて理解したくて、理解されなくて哀しくて理解できなくて悔しくて、それでも、胸が痛くなるほどに相手が恋しくって、もっと、もっと相手に愛して欲しくって。……そうやって、傷つき傷つけられながら、思い出を、哀しみも喜びも……、全部まとめた幸せを積み上げていく。……そう言う、ものなの」
私は、失敗したけれど。
「涼子。貴女は、貴女とあの馬鹿は、決めたんでしょう? 二人で生きていこうって、決めたんでしょう? ……だから貴女は今、こうして泣いていられる。生きていられるんじゃない? ……アイツだってそうだよ? 」
あの馬鹿が、あんなに必死になるなんて。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だって、あの馬鹿、私には。
「涼子になら、自分の恥ずかしい、汚いところを曝け出してもいい、それでも一緒に生きて行きたいって、思ったから……。アンタに撃たれたんだよ? 」
判っていて撃たれた、あの馬鹿。
そんな馬鹿を、未だに忘れられない、この馬鹿。
馬鹿ばっかりじゃ、あまりにも哀しすぎるし、切なすぎるじゃないか。
「だから! ちゃんと生きなさい! しっかり、自分の足で、歩きなさい、涼子! 」
そして涼子の肩を掴んで胸から引き剥がし、じっとその大きな瞳をみつめて言った。
「あんたがあの馬鹿を傷つけまいとして恋をやめちゃったら、それこそアイツは唯の馬鹿になっちまうじゃない! そんなの、ちっとも嬉しくなんかないんだ! ……あんたが、ちゃんと生きて! ちゃんと最後まで! アイツを愛してやんなさい! 」
そうだよ。
でないと、それこそ私が馬鹿みたいじゃないか。
「できない、っていうなら」
ああ、言っちゃ駄目。
だけど、言わなきゃ。
あいつ以上に、馬鹿になんなきゃ。
「私がアイツを……、盗っちゃうぞ」
感情を殺した、平板な声で言ったつもりだった。
ぽろぽろと大粒の涙を流し、唇を噛み締めサマンサを見上げていた涼子は、パン、パンと自分の膝を掌で叩いていたかと思うと突然、サマンサの胸にむしゃぶりついて泣き喚いた。
「いやだ! いやだいやだいやだ! お願い、艦長盗らないで! もう……、もう、1人はイヤだよおっ! 」
涼子は無茶苦茶に腕を振り回し、サマンサに拳を振るう。
けれど衰弱しきった彼女の力は、全くダメージなど感じられず、却ってその儚さにサマンサは思わず涙を零しそうになる。
「私、私、知ってたんだ! ……
とうとう力尽きたのか、涼子はサマンサに抱きついたまま、胸に顔を押し当て、嗚咽交じりに、叫ぶ。
「あの時、私、哀しかった! 私、苦しかった! ……もう、イヤだ! あんなの、イヤだよお! 」
それは、私のせいかも知れないけれど。
サマンサは、思う。
それだってね、涼子?
それだって、恋の、ひとつのかたちなんだよ?
そうよ、あの時、アイツと私は。
ふたりとも馬鹿だったかもしれないけれど、ちゃんと。
ちゃんと、恋、してたんだ。
サマンサは涼子の両腕を掴み、ゆっくりと身体から引き離し、微笑みかけた。
「その気持ちがね、涼子? 」
自然と微笑みかける事ができた自分を、サマンサは誉めてやりたいと、ふと、思う。
だってアイツにはもう、誉めてもらえないもの。アイツにこんな話、出来る訳ないじゃん。
「その胸の痛みが、生きてるってことなの。恋してるって事なの。あんたとアイツが、二人で、一緒に決めた事なのよ? 」
涼子は今度こそ、サマンサに全身を投げ出し、抱きついて叫んだ。
「うわあああっ! 」
涼子は泣き叫ぶ。
「私、かっこわるい、恥ずかしい! 情けない女だ! ……先生の事、先生の気持ちなんて考えずに、こんな汚れた女のクセに、まだ、幸せになろうとしてるなんて! 」
ああ、この娘には、勝てないな、とつくづく思う。
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ……でも、それでも私、それでも、幸せになりたい、生きていたい! やっぱり、艦長に恋していたいよおっ! 」
サマンサは子供のように泣き叫ぶ涼子を、子供を抱くように、ふんわりつつみ、大きく上下する背中を擦ってやりながら、耳元で囁いた。
「……それでいいのよ、涼子。それでいいの」
ああ、オウン・ゴールだ。
格好悪いったらありゃしない。
試合にも勝負にも、負けっぱなしだ。
「大丈夫。あんたからアイツを盗ったりなんか、しないから」
これじゃあ、負けたからって、何処にも当たり所がないじゃないか。
その日以来、涼子は見る見る身体、精神ともに安定し、回復に向い始めた。
結局、第二の人格は、あれ以来一度も表に出ることなく、静かに、主人格に統合されたようだった。
1ヶ月後、検査手術の術後経過も見極めた上で、サマンサは涼子のジュネーヴ療養所への転地療法を決め、医師団に告げた。
病院屋上で搬送に使われる救難VTOLの到着を待つ間、サマンサは思い切って涼子に訊ねてみた。
「ねえ、涼子? 」
車椅子に座った涼子が黒い大きな瞳で見上げてくるのが胸を塞ぐようで苦しくて、サマンサは思わず目を逸らしてしまう。
「先生、なんですか? 」
「本当に、いいの? あの馬鹿に逢わずにジュネーヴへ移っても」
「先生、ありがとう」
思いのほか明るい声に、サマンサは涼子に視線を向ける。
けれど、涼子は泣いていた。
「だけど、ごめんなさい。私、今は未だ、会えない」
サマンサは何故かしら胸がドキドキしてしまい、取り繕うように答えた。
「うん、そう。そっか。……いいのよ、いいの、うん」
慌てて取り繕った安普請だけあって、忽ち言葉に詰まり、サマンサは言わでもがなの嘘を吐き出してしまう。
「や、アイツも逢いたがってたから、ちょっと、ね」
涼子は泣き笑いの表情で答える。
「嘘。……先生、優しいんだから」
まんまと見破られ、サマンサは唇を噛む。
どんだけ、みっともない、馬鹿なんだろう。
私は。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら瞼を閉じて深呼吸を繰り返していると、涼子の静かな声が聞こえてきた。
「今、逢ったら私、きっと艦長を困らせちゃうから。……泣いて喚いて我儘言って、きっと艦長や先生を困らせるから」
瞼を開くと、涼子は、恥ずかしそうに、エヘヘと笑った。
「艦長には、ちゃんと笑えるようになったら、逢います。それまで、もう少し」
不意に口を噤んだ涼子に、サマンサは、傍らにしゃがみ込んで笑顔を向けて、言った。
「うん。そうだね」
涼子の今にも溢れそうに涙を湛えた瞳に、自分の笑顔が映っている。
いい笑顔じゃない、サム。まだまだ現役、捨てたモンじゃないわ。
「涼子は、笑顔が素敵だものね? ……まあ、私ほどじゃないけど」
二人顔を見合わせ笑い合う声を、
「……そうか、笑ってたか、アイツ」
小野寺の声に、サマンサは不用意に振り返った。
「ん? ……あ? 何だって? 」
小野寺の表情から、自分が随分間抜けな顔をしていた事に気付く。
「バカ……。いい、なんでもない」
「なによもう、さっきから! バカバカって煩いのよ! アンタよりは賢いっての! 」
取り敢えず、
この馬鹿に、馬鹿と言われるほど馬鹿じゃないっての!
……ほんとは、聞こえてたんだけど。
意地でも知らんふりしてやる。
「どうでもいいが、パンツ丸見えで威張ってんじゃねえよ、三等艦将ドノ」
言われて気付いた、無意識に足を動かしたりモゾモゾしているうちに、タイトスカートがずりあがっている。
サマンサは思い付いて、乱れた裾もそのままに、彼の胸に頭を乗せて腕を回し、脚を絡ませる。
「へぇ、なによアンタァ? ちょっと、久し振りだからって欲情しちゃったんじゃないでしょうね? ああ? こんなメタボで、まだちゃんと勃つの? 」
相変わらずの無表情のまま、彼は言い放つ。
「馬鹿か。こんな状況、しかも相手がお前じゃ勃たねえよ! 」
本気で悔しかった。
サマンサはきゅっと唇を噛み締め、少し力を入れてしがみつき、彼の耳元に唇を寄せ、小さな声で囁く。
声が少し震えた。
だけど、言ってやる。
「ね? ……もっぺんだけ、してみる? 」
流石に彼もギョッとして、みつめ返す。
「……サム? 」
戸惑った様子の彼の表情を見て、サマンサは、自分を叱り付けた。
散り際は奇麗に。
でないと、きっと引き返せなくなる。
サマンサは勢いよく起き上がり、返す手で彼の傷口をベシッと叩く。
「ぐぅっ! 」
苦痛に顔を歪める小野寺に、アハハハと軽い笑いをサービス。
そう。
その調子よ、私。
「冗談よ、冗談! 何マジになってんのよ、このケダモノ! 涼子に言い付けちゃうわよ! 」
言いながらベッドから降りて乱れたスカートを直し、靴を履いて、彼に背中を向けたまま呟いた。
「あーあ! こんなことになるんなら、あんな
ひとつくらい、本音を零してもバチは当たるまい。
そう思いながらゆっくりとドアに向い、ドアノブを握って再び肩越しに彼を振り返る。
「サム……」
少し沈んだ声で、彼が呟く。
涙が溢れてきた。
ヤバイ、と思い、顔を背ける。
なんでこんなときだけ、優しいのかな、この馬鹿は!
「嘘よ、嘘! 」
とにかく笑え、私。
「悪い、ごめんね。さすがに今のは、シャレになんなかったわね」
言葉半ばで笑顔のサービスに失敗した事を悟り、慌てて身体を廊下へ逃がして、スプリングの動作でゆっくりと閉まるドアから手だけを入れてバイバイ、と振った。
「また、来るよ」
病室から小走りに離れ、エレベータ前の喫煙コーナーに駆け込む。
最後の声は、湿ってなかった……、よ、ね?
煙草を咥えてサマンサは、思わずポツリと呟いた。
「最後のも、嘘。……もう、来ないわ」
涼子のジュネーヴ転院に従い、サマンサの兼職肩書きも”ジュネーヴ療養所長待遇顧問”に変わっていたが、それは彼には言えなかった。
明日からは、ケープケネディとジュネーヴの往復の毎日となる。
サマンサはやがて両手で顔を覆い、声を殺して泣き出した。
その場にいた見舞客や入院患者、通りすぎる職員や医師、看護師、患者達の目も気にせず、肩を震わせ暫く嗚咽を洩らしていた。
火のついていない煙草が1本、コロンと足元に転がったのに気付いて、思った。
煙草、やめよっかな。
ああ、これも嘘、ね。
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