第131話 19-4.
小野寺が病室のベッド上に半身を起こして携帯端末を開き書類決裁をしていると、ノックの音が聞こえた。
視線をディスプレイから離さず、指を動かしつつ答える。
「入ってよし」
「失礼いたします! 軍務部長閣下! 」
「ん? 」
ここは医療本部付属ロンドン野戦病院の外科病棟の将官用個室である。
UNDASNは軍ではあるが、今時『閣下』などと内部の人間が呼ぶ事はない。
外部の人間が敬称、尊称として、役職名または階級に『閣下』や『殿』とつける事はあるが、部内の人間は、役職名か階級だけで呼ぶのが普通だ~階級上下関係なく、組織内で親しまれている人物は階級や役職も付けずに”さん”付けの場合すらある~。
”
そう思いながらゆっくりと開くドアを注視していると、そこにはコンサバ系のスーツの上に白衣を羽織ったサマンサが不動の姿勢で敬礼していた。
綺麗な形をした唇の端が、ひくひく痙攣している。笑いを堪えているらしかった。
「なんだよ、サムか」
彼は苦笑を浮かべて視線をディスプレイへ戻す。
「なんだはないでしょ? なんだは」
サマンサは怒った顔をして、ゆっくりとベッド脇に近付いてきた。
「せめて答礼くらい……、ってちょっとアンタ、怪我人のクセに何やってんのよ? 」
そう言ってベッドの端に腰を掛け、彼に寄りかかって端末を覗き込む。
「いてててっ! 痛いよ、バカ! そっち、撃たれた方だって! 」
「バーカ! これ位、リハビリだと思って辛抱なさいな! ホント、情けないなぁ」
サマンサはジロジロと彼の顔を覗き込み、からかう様に言った。
甘い香りが鼻を掠め、少なからずドキリとさせられた。
「それでも医者か! ……仕事中だよ、俺は忙しいんだ」
「なんだ、仕事かぁ」
小野寺は感情の漣を悟られまいと、顔を背ける。
「私はまた、”リョーコ・イスルギのアダルト・ファン・サイト”でも見てるのかと思ったわ」
「アホッ、シャレにもなってねぇ」
彼は諦めて決済ワークフローのアプリを閉じ、携帯端末をベッドサイドのテーブルに戻して、枕に凭れた。
「あーあ、仕事する気も失せちまった。また副官に怒られる」
言ってから、サマンサが横でモゾモゾしているのに気がついた。
「……何やってる? 」
サマンサはいつの間にやら、靴を脱いで、ベッドにもぐりこもうとしていた。
「もうちょっとそっち寄ってよ」
「……たく」
「文句言わない、将官用個室のベッドはセミダブル・サイズなんだからっ! いくら中年太りだからって、まだ余裕あるって! 文句言わない言わない! 」
サマンサは、パフと音をたてて枕に頭を落とし、溜息交じりに言った。
「あーあ。疲れたっ、と」
ブロンドが微かに匂い、彼を懐かしい気分にさせる。
初めてサマンサと一夜を共にした、軽巡五十鈴の医務室の消毒液臭い、狭い患者用ベッドが思い出された。
いや、消毒液の匂いと思っていたが、これはサマンサの香りなんだと、今にして漸く気付いた。
妙に、懐かしく思えた。
「懐かしいねえ、こうしてると」
自分の考えを読まれたみたいで、小野寺はいつの間にかみつめていたサマンサの顔から視線を外し、慌てて関係のない話題を振った。
「忙しいんじゃないのか? 相変わらず」
「ん……。ああ、まぁ、たいしたこと、ないよ」
サマンサは、今まで通りの『医療本部臨床医学研究センター精神・神経科研究室長』としての勤務と並行して、医療本部付属ロンドン病院非常勤顧問の肩書きで『石動涼子治療プロジェクト』リーダー兼主治医を兼務し、あれ以来、ロンドンとケープケネディを1日おきに往復する、という生活を続けていると聞かされていた。
「あんた、退院来週だったっけ? 」
「うん。早ければ、だ。んで、4月上旬まで自宅療養と通院リハビリ」
「そう。良かったじゃん」
あっけらかんとしたサマンサの声に、小野寺は思わず苦笑を浮かべ、必要以上に大きな声で答えた。
「おう」
サマンサもチラリと彼を見て少しだけ微笑み、すぐに視線を外す。
3月も下旬になり、ロンドンもそろそろ春の気配だ。
大きくとられた窓から部屋に射し込む日光は、気持ちを穏やかにする。
2人は暫く、そのまま日光に身を委ね、無言で天井をみつめていた。
やがて、サマンサが口を開く。
「さっき……」
ぽつん、と呟くような声が聞こえた。
チラ、と視線を向けると、サマンサはじっと天井を睨んだままだった。白いシーツに広がるハニー・ブロンドのうねる豊かな髪が、窓から射し込む陽光にキラキラと輝いていた。
「涼子、ジュネーヴ療養センターへ移送されてったよ」
言い終えて彼女が視線をこちらに向ける気配を感じ、小野寺は顔を天井に向ける。
「開頭検査の術後経過は良好。もう、感染症とか心配ないから、ね」
小野寺は、無言のまま頷いた。
術後の涼子の容態、経過については、1週間ほど前にサマンサから聞かされた。
涼子の手術後、1ヶ月近くも音沙汰なしでいきなりそれを聞かされて、小野寺は何故もっと早く話をしてくれなかったのかと愚痴っぽく問うたところ、サマンサは獲物を見つけた猫のような表情を浮かべて言ったものだ。
「あんただって、仮にも療養中なんだし。襤褸雑巾みたいに弱ってるヤツに聞かせる話でもなかったから」
どう? 私医者っぽかったっしょ? と自慢げな表情に思わずガックリきたものだったが。
その時に聞かされた話は、確かに、病人に聞かせるような内容ではなかった。
術後、ICUに収容された涼子は、麻酔が切れた後も眠り続け、漸く3日目の朝、目覚めた。
目が醒めた途端、たまたま側にいた男性看護師を見て錯乱状態に陥った涼子は、検査用の端子やコード、点滴ラインや輸液ポンプ、カテーテルなどを喚き声をあげながら全て引き千切り、全裸のままICUを脱走しようとして看護師や医師達によってたかって取り押さえられた。
その場は無理矢理鎮静剤を打たれて再び眠らされたものの、その後は、目が醒めると大声で泣き喚き、錯乱状態に陥ると自傷行為に走る様になった。
どうやら、ICU譫妄と術後譫妄、加えて拉致事件のショッキングな記憶が重なったらしい。
サマンサは、取り敢えず涼子を隔離病棟へ移し、医師や看護士は全て女性で固めた上で、24時間監視体制を敷いた。せっかく快方に向かおうとしている涼子の精神状態が、譫妄により後退することが怖かったのだ。
結局、ハロペリドールの注射とリスペリドンを投与することでなんとか会話が出来るようになったのが手術後10日を経てから、だったらしい。
その日から3日間、サマンサは涼子の病室へ仮眠用ベッドを持ち込んで、対話を続けた。
「涼子。久し振りね? ……私を、憶えてる? 」
初日、わざと白衣を脱いで、私服のスーツ姿で病室に入ったサマンサは、ゆっくりした口調で語りかけた。
涼子はゆっくりと上半身を起こして、弱々しく微笑みながらこくんと頷いた。
「サマンサ……、ワイズマン先生。……五十鈴乗組み時はお世話になりました」
「光栄ね、覚えててくれたんだ」
サマンサはおどけた口調で言い、ベッド脇の丸椅子に腰をかけた。
涼子に気付かれぬよう、ポケットのICレコーダの録音スイッチを入れる。病室内の監視カメラも録画モードで作動済みだった。
手にはなにも持っていない。もちろん、涼子の警戒心を解かせ、緊張を解すためだ。
「さて。今日からカウンセリングよ。ゆっくりやろう。疲れたら言ってね? 時間はたっぷりあるんだから」
サマンサが質問を始めると、驚いたことに涼子は、手術中の彼との会話を明瞭に記憶していた事が判った。
確かに脳波がα波消失、つまり『覚醒状態』での会話だったとは言え、その後の外科的処置による麻酔や物理的時間経過、譫妄発症による記憶や理性の混濁状態もあって、形而下記憶は少なくとも表層上、本人にとっては夢のような儚い記憶に変わりつつあるだろう、と考えていたのだ。
ポツリ、ポツリと、ゆっくりと、涼子は床へ落としてしまったジグソーパズルをもう一度作り直すように、手術中の会話を、紡ぎ直していく。
今度は、AIの平板な人工音声ではなく、肉声で。
無意識のうちに込められた、感情に彩られた語り口で。
長い時間をかけて全てを話し終わってから、涼子は疲れた笑顔を見せた。
涙ぐんでしまいそうになるほど、儚い、幼げな笑顔だった。
「私ね、先生。艦長に、告白された時……。嬉しくて、嬉しくて、泣いちゃった」
涼子は、ポツリと呟くように言った。
幼い笑顔が消えると、一転、落ち着いた大人の表情に変わった。
「やっと、好きな人とひとつになれるんだって思うと、嬉しくて……。これから、色々、やりたい事があったんだ、艦長と」
涼子は言葉を区切り、顔を伏せて、まるで独り言のように、続けた。
「……あははは、バカですね、私。何を信じてたんだろう? こんな仕事なんだから、どっちも、いつ死ぬかも知れないって言うのに」
ゆっくりと上がった顔は、全てを受け入れて悟りを開いた~いや、諦め、だろうか? ~聖母のように思えた。
「でも……、それならそれで良かったんです。艦長が、一緒に生きて行こうって言ってくれたんだから。どっちが先に戦死するかわかんないけど、でも、それは仕方無いんだもん。その日が来るまでは、幸せばっかりしかないんだ、って信じてた」
涼子はそう言って、少し疲れちゃった、ごめんなさいと断って、ベッドに身を横たえた。
そして、寝返りをうってサマンサに背中を向け、暫くして声を震わせて言った。
「でも……。もう、私、恋は、いいや」
「……涼子」
それまで黙って聴いていたサマンサは、思わず声を出してしまう。
止めなければ、と思った。
いや、自分が聞いていたくなかったのだ。
「だって……。艦長に、あんな恥ずかしいこと知られて。しかも、艦長まで撃ってしまうなんて……。私もう、艦長に顔なんか見せられない! ……艦長だって、もう、私の事好きでなんか、いてくれる筈、ないもの! 」
そう叫ぶと涼子は、頭からシーツを被って、声を殺して泣き始めた。
「もう……。こんなになるんなら……、こんな私なら、最初から恋なんてしなけりゃ……、良かった」
「ちょっと待ちなさい、涼子」
後から思い返すと、あの時、サマンサの頭の中には、治療とかカウセンリングなんて言葉は消し飛んでいたように思える。
サマンサは椅子から立ち上がり、涼子のシーツをバッと引き剥がした。
胎児の様に背を丸め膝を抱えた涼子が、涙でグショグショになった顔をサマンサにゆっくり向ける。
「艦長は、もっと違う人と幸せになればいいのよ。……一体私、中学ン時から何人殺したんだろう? 私が幸せになるなんて、きっと、許されないんだわ」
「いいから、こっち向きなさい」
サマンサが肩に手を掛けると、涼子はそれを振り払おうと身を捩った。
「やだ! 」
そう言うと涼子は枕を掴んでサマンサに投げつけ、叫んだ。
「もう、私に構わないでっ! 」
サマンサはヒョロヒョロと飛んできた枕をぱふっと受け止める。
哀しくなるほど、弱々しいその力に、サマンサは思わず涙を零しそうになる。
涼子の顔の横にそっと枕を置いてやり、彼女は静かに言った。
「わかったわ、涼子。今日はもう、寝ましょ? 私、そこの仮眠用ベッドで寝るから、何か用事があったら起こしなさい」
そして、シーツを涼子にかけてやり、ベッドから数歩離れかけてふと立ち止まり、視線を自分の足元に落として、付け加えた。
「だけど涼子。ゆっくりでいいから、よく考えてみて」
嗚咽だけが響く。
聞いていようが聞いてなかろうが、構わない。
そう、思った。
これは医者として言うんじゃない。
ひとりの女として、一度は彼女と同じ男と心を繋げた女として、サマンサ・ワイズマンとして、恋敵に放たねばならない言葉だ。
「アイツが貴女の過去を知ったのは、私と同じタイミング、つまり五十鈴の時よ。その時、アイツが、どんな気持ちでそれを心に仕舞ったのか。知ってしまって、それでも何故、貴女と一緒に生きていきたいって思ったのか……。ね? もう一度、自分で考えてご覧? 彼が、手術中に貴女にかけた言葉の裏に、どれほどの想いがあったのか? それはけっして救命治療中の患者に対する励ましなんかじゃないってこと。それを疑うようなら私……、貴女を絶対に許さない」
涼子はシーツから涙で濡れた瞳を出して、サマンサの方に顔を向けながら、ポツリと問い返す。
「どんな……、気持ち? ……何故、私と? 」
サマンサは何も答えず仮眠用ベッドに体を横たえ、リモコンで部屋の灯りを落として言った。
「おやすみ、涼子」
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