第130話 19-3.


 サマンサは、小野寺とマヤと呼ばれる謎の女性を連れて滅菌処理室を通り、無影燈に照らされた手術室へ戻った。

 室内の50名が一斉にサマンサ達を注目した。

 マヤは小野寺の後に隠れるようにして立っている。

 小野寺はスピーカーから流れる室内を満たす女性の声に驚いた様に、ゆっくりとサマンサを振り返った。

「……これは、涼子、か? ……涼子が、喋っているのか? 」

 サマンサは静かに口を開いた。

「そうよ。詳しい説明は省くけど、今、彼女は、涼子は心の中で葛藤している。過去の傷を全て、一気に思い出してしまった事による後悔、これから生きて行く事への恐怖。それに負けて、再び脳を変形させて、全てを闇に葬り去ろうとしている。だけどそれは、彼女の肉体的にはもう、限界なの。これ以上の脳の変形は、彼女の命も一緒に葬ってしまう。脳腫瘍か急性白血病か、もしくは急激な肉体変化に耐えられずに、心臓発作か脳溢血か」

 サマンサはじっと彼の目をみつめた。

「今、生理的には彼女は覚醒状態にある筈よ。貴方の声が聞こえている筈なの。全てを思い出してしまった彼女に、辛くても生きる意思を持たせる事ができるのは、貴方しかいないの。彼女さえ、生きていく意思を持てば、何年かかろうが私が、私達が、彼女を復帰させて……、彼女を彼女に、石動涼子に戻して見せるわ。だから」

 彼は暫くサマンサのブルーアイをじっとみつめていたが、やがて、真っ直ぐに涼子の横たわる手術台に視線を向けて、静かに言った。

「……それをさせる為に、俺を探してたんだろ? 判った。やる」

 小野寺の、なにもかも悟ったような平板な声が無性に哀しくて、サマンサは自分の足元に視線を落として、呟いた。

「バカ」

 掠れた声が情けなくて、それでも彼の背中に突き刺さればいい、と思った。

 けれど彼は、まるでサマンサの呟きなど聞こえなかったように、ゆっくりとした足取りで手術台へ向かっていった。

 余計に敗北感が溢れてきて、悔しくて仕方なかったけれど、サマンサはそんな感情を短い吐息ひとつに押し込め吐き出して、小野寺の後を続く。

 取り囲む医師団の人垣が割れ、道が開いた。

 手術台の横に置かれたスツールに腰を掛け、彼は労わるように、いとおしそうに、全裸の涼子をみつめる。

 徐に、AIコンソール横に立つSEに声をかける。

「この音声だが、自動英訳か? 原語は? 」

「イエッサ、自動英訳です。原語は日本語カンサイ地方方言、ですが」

「じゃあ、俺だけでいい。原語出力をイヤホンかなんかに出してくれないか? それと、俺はコイツに日本語で話しかける。俺の言葉の英訳は、スピーカーに回して医師団に聞かせてやってくれ」

「アイサー」

 これから彼と彼女の愛の囁きを聞かされるのか。

 そう悟った瞬間、サマンサは思わず大声を上げそうになった。

 寸でのところで掌で口を覆い、押し留める。

 逃げちゃ駄目だ。

 聞かなきゃ。

 死んでも、気が違ってしまっても、それでも聞かなきゃいけない。

 そうして、私は。

 堪え切れずに涙が溢れた。

 そうして私は、きちんとこの恋に破れなければならない。

 そうしなきゃ。

 このけったくその悪い馬鹿を心から追い出せないじゃないか。

 自分の判断は間違っていない、と思えた。

 だけど。

 首尾よくそう出来たとして。

 彼を心から完全に追い出すのには、いったい何年かかるのだろうか?


 早速、日本語が流れるヘッドセットが用意される。ヘッドセットに取り付けられたマイクが彼の声を拾い、別チャネルで自動英訳されて、別のスピーカーに流れる様に素早く設定が変更された。

「そやのに私だけ、幸せになりたいやて……。ほんま、厚かましいなあ、私。軍人になる前かて、あのヤクザも、おじさんも、おばさんも、おねえちゃんかて……、お腹の赤ちゃんかって。私が、殺したようなもんやからなあ。艦長? 私……、もう、死んだ方がええんかなあ? 」

 イヤホンから懐かしい訛りが流れてくる。AI変換だろうから、ところどころイントネーションが可笑しいのはご愛嬌だろう。

 それにしても懐かしい。

 そう言えば涼子は、二人きりになると、よく、大阪弁がボロボロ出たっけ。

 平和だった頃を回想しつつ、小野寺は静かに語りかけた。

「涼子、涼子。……俺だ、判るか? 」

 一瞬、涼子の声が途切れる。

「……艦長? え? ……ほんまに、艦長なん? 」

「そうだ。さっきはご苦労だった。よく……、頑張った、な」

 モニタを凝視していた臨床検査技師達からざわめきが起こる。

「あ、アドレナリン濃度が急変! 」「心拍数が急上昇! 」「脳波からα波が消えました! 」

 サマンサの横に立ったカーネギーが、掠れた声を上げる。

「会話、してる」

 視界の隅のサマンサは目を瞑り唇を噛み締めたまま、塑像の様に微動だにしなかった。

「涼子。お前らしくもない、何をブツブツ言ってるんだ? 」

「艦長、聞いてたん? ……艦長、知ってたん? ……ごめん、ごめんな、艦長。私、私、もう、艦長に顔見せられへん。私……、汚れてんねん」

「汚れてなんていない。馬鹿なこと、言うな」

 それ以外、言うべき言葉がみつからない。

「ごめんな、艦長! ……隠すつもりなんか、なかってん。ほんまに、ほんまに……、忘れててん。ごめん、ごめんなあ。私、こんな恥ずかしい……。艦長が……、初めてやって思ってたのにぃ」

 涼子の閉じた瞼から涙が一筋流れる。

「私な、艦長? きっと、なんか悪い事したんや。……赤ちゃんかて、死んでしもたんは、きっと、バチかなんか、あたったんや」

 彼は静かに聞いていた。

 とにかく、聞いてやるしか、今の俺に出来る事はないんだと、自分に言い聞かせながら。


「お父さんお母さんが亡くなって、好意で引き取ってくれたおばさんやおねえちゃんも、それにおじさんも……、不幸にしてしもた。ヤクザも殺してしもうたし、それだけやのうて、軍人なんかになってしもうて、同僚も部下も敵も、ようけ殺してしもた。……こんなん、バチあたって当然やん? 私、やっぱりアホやなあ。そんな悪い事ばっかりしてて、なんで幸せになれるやなんて、……あはは、思てもうたんやろ? ……勝手な、厚かましい女やわ。何を勘違いしてたんかなあ? 宇宙へ出たら、幸せになれるんちゃうか、やて……。結局、みんなの幸せ奪って、このザマや。な、艦長? ……私もう、死んだ方がええんとちゃうかなあ? ……恋なんか、せえへんだら良かった! 恋してなかったら、今頃、もっと、楽やったのにぃ」

 一瞬の間を置いて、彼は口を開いた。

 とにかく、涼子を失いたくない。

 それしかなかった。

「涼子、聞いてくれ。……お前は悪くなんかない。俺だって悪くない。今となっては、誰も悪くないんだ。……そして、誰だって正しいなんて言えない。どうすれば良かったのか、何をすれば正解だったのかなんて、誰も言えないし、正解なんか存在しない。……ただ、な? 」

 全てが、遅すぎたのだ。

 全てが終わってしまった後で、涼子は現れたのだから。

 全てが終わってしまった後で、俺は涼子と出逢ったのだから。

 全てを背負い、今の涼子が在るのだから。

 全てを背負いこんだ涼子しか、俺は知らないのだから。

 そんな涼子しか知らない、俺が、唯一つ、出来る事。

「ひとつだけ俺が、胸を張って言えるのは」

 そうだ。

 俺には、もう、それしかない。

 俺には、最初から、それしかない。

「お前の事を想うだけで、こんなに胸が苦しくて、こんなに心臓が爆発しそうになるって事だけだ。わかるか? 涼子」

 彼は力無く置かれた涼子の腕をとり、自分の胸へあてる。

「艦長の心臓、すごいドキドキしてる……。なんで? 私といるから? 艦長、私もドキドキしてる……。なんで? 艦長といるから? 」

「心拍数、上昇しています」

 誰かの声を、小野寺は背中に聞きながら、思う。

 俺の心電図バイタルがモニタされてなくて良かった。

「これって……、こんなん、ええのん? ……こんな、ドキドキして、ええのん? 許されるのん? ……私、生きててええのん? 」

 でないと、俺が困るんだ、涼子。

 俺は、物語はハッピーエンドしか認めない。

「当たり前だ。……俺とお前で決めたんじゃないか。……二人、一緒に生きて行こう、って」

 涼子の固く閉じた瞼からは、いまや瀧の様に涙があふれている。

「……こんな、……こんな、汚れた女で……、こんな悪い女でも……、艦長。ほんまに、好き、て言うてくれるのん? 」

 自分の胸にあてていた涼子の掌を、彼は自分の両手で、まるで宝物を扱う様に慈しみながら包み、ゆっくり、口付けて言った。

 二度と言うつもりはなかったのだが。

 まあ、仕方ない。

「特別サービスで、もっぺん言ってやる。……好きだ、涼子。愛してる」

 彼の手の中の涼子の指が、ピクリと動いた。

「艦長……。もう、離れたない。私も、艦長、好き」

 一旦言葉を区切った後、涼子は再び、今度はおずおずと、と言った風に続けた。

「……こんな幸せで、ええのん? こんな女やのに、幸せになってええのん? 私、恋して、ええのん? ……なんや、信じられへん」

 俺も信じられん。

 だけど、現実だ。

 俺が、守らなければならない、現実だ。

「いいんだ、涼子。幸せになっていいんだ。恋だって、していいんだ……。誰の許可も、赦しもいらん。それだけは、俺達二人だけで、決められる事なんだ」

「私と艦長、二人だけで、決めていい事……」

「そうだ……。二人で、だ。生きて行く事、幸せになる事、恋していく事。……これだけは、二人だけで、決められるんだ」

 ああ、もう。

 とんだ恥曝しだ、まったく。

「艦長……。まだ、おる? 」

「ああ……。いる。すぐそばにいる」

「……キス、してくれへん? 」

 かなりシュールなシチュエーションだが。

 まあ、恥の掻きついでだ。

「今日は、特別サービスの大バーゲンだ」

 立ち上がって、そっと顔を涼子に近付ける。

 涙でマスクをぐしょぐしょに湿らせた看護師が、酸素マスクを外す。

 彼はゆっくりと顔を近付け、唇をそっと重ねた。

 刹那の短いキスの後、スピーカーから流れた声に小野寺は驚いた。

 小野寺だけでなく、その場に居合わせた全員が、驚愕した。

 それは、不思議な現象だが、AIの合成音とは想えない程、情感のこもった”言葉”だった。

「……嬉しい。私の一生、もうこの先、幸せばっかりしかないんや……。艦長、おおきに。艦長、格好悪いのん、ごっつ嫌がってたのに……。ほんま、ありがとうなぁ」

 音声が途切れ、数瞬、ホワイトノイズが流れる。

 小野寺には、それがまるで涼子の、安堵の溜息のように思えた。

「……ああ。……恋、して……、よ……、かった」

 それっきりスピーカーからはホワイトノイズしか聞こえなくなった。

「涼子? ……涼子、涼子? ……涼子! 」

 何度呼び掛けても答えないスピーカーを、肝心な時に故障かと睨みつける、その途端。

 サマンサの悲鳴のような叫び声に身体がビクリと震えた。

「バイタル・サインどうなってるっ? か、各種パラメータの値っ! 」

「脈拍、平常値へ下がりました」「体温、現在39度……、38.5度……。徐々に下がります」「血圧、心拍数、落ち着き始めました! 」「白血球も減少傾向、正常値へ! 」「α波、徐々に増加」「言語野、聴覚野……。電磁波減少中! 」「脳幹温度、下がります! 」「アドレナリン濃度下がりました」「ドーパミン放出系、正常値へ」「体内電流、平常値に戻ります! 」「血液中塩分濃度、急激に下がっています! 」「中脳辺縁系、活性化」

 サマンサの涙声が、響く。

「睡眠紡錘が現れた。ノンレム催眠……、δ波も出始めたわね」

 意地っ張りの彼女らしい、声だった。

 小野寺は、涼子の手を握ったまま、ゆっくりとサマンサを振り返る。

「……眠った、ってことか? 」

 サマンサの涙に濡れた瞳が、微笑んでいた。

「助かったのよ、彼女は」

 そう言ってサマンサは彼の肩に優しく手を置いた。

 その横で、妙に傷痕に響く、迫力のあるバリトンの涙声が聞こえてきた。

「俺は……、確かに聴いたんだな……。”脳が歌う愛の歌”を……」

 こう言うのは、第三者の方が泣きやすいもんだ、と小野寺は頭の片隅でぼんやり思う。

 それにしても、やれやれ、このは。

 言いたいことを言うだけ言って、寝やがった。

「暢気者め」

 ははっ、確かにこいつは”いい船乗り”だ。

 背後で聞こえるマヤの啜り泣きの声が、懐かしく感じられた。

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