第134話 20-2.
翌日は
蒼く高い空が、まるで海底から見上げる水面のようで、かえって冷ややかさを感じてしまうほどだ。
朝食後、手配したレンタカー~年代物のトヨタカローラ、右ハンドルだった、ケープケネディの官舎に置いている自家用車は左ハンドルのレクサスだったので、ワイパーとウインカーが逆の位置にあり、最初は間違えて涼子に笑われてしまった~を操り、助手席に涼子を乗せて療養所を出発した。
開け放った窓から流れ込む空気は、未だ少し肌には冷たく感じられたけれども、どこからか匂う新緑の爽やかな香りが優しくて、サマンサは一瞬下がりかけたテンションを持ち直す事が出来た。
レマン湖の大噴水が噴き上がり、虹を作り出すのを見て、涼子が子供のような歓声を上げた。
「わあっ! すごいすごい! 綺麗! 」
思わず頬を緩めながらも、サマンサは囁くように訊ねる。
「涼子、大丈夫? 気分悪くなったら、すぐに言うのよ? 」
「はーい! でも大丈夫! こんな素敵なところをドライブできるんだもの、絶対、大丈夫! 」
涼子は至極、ご機嫌だ。
「喜んでもらえて光栄だわ」
サマンサはITSに運転を任せ、涼子に身体を向けた。
「……でも涼子、良いわねえ、その服。あんた、何時の間にそんなの買ったの? 」
はにかみながら、涼子は答える。
「あ、えへ……。これね。これは、あのロンドンの最後の晩、イブーキ王国のマヤ殿下とお忍びで遊んだ時に、ホテルのブティックで買ったんです」
サマンサは思わず顔を赤らめる。
あの時、サマンサは中央手術室前でマヤをそうとは知らずぞんざいに扱ってしまったのだ。
「アンタ、なんでそー言う大事な事を、ちゃんと言わないのよっ! アンタのせいで、かかなくていい恥かいちゃったじゃない、この馬鹿! 」
後日、小野寺を散々詰ったものだが。
「そうなの。でも、ほんと、あんたにお似合いで、可愛いわ」
「店員さんに選んでもらったんですけどね。……私、あんまりこんなお買い物したことないし、お洒落ってあんまり、興味なかったし」
笑顔で言ってから、涼子は視線を湖の方に向け、ぽつりと、独り言のように言った。
「だけど、すごく、お気に入りなの」
その、療養者特有の透き通るような白い肌に見え隠れする、純粋な喜びと裏返しの儚さに、サマンサは鼻の奥がツン、と痛くなって、慌てて顔を背ける。
この
みんなと同じ、平凡な人生を歩んでいたなら。
とっくに、ありふれた下らない、けれど日常を彩る楽しい経験など済ませてしまっていて、だったら、こんな儚い笑顔を浮かべる事もなかっただろうに。
零れそうに目尻に溜まった涙を、涼子に気付かれないように指で拭う。
「どうしたんです? 」
「ん? ああ、ちょっと目にね、ゴミが……。ああ、美容院着いたわよ。さあ、もっとキレイになりましょ! 」
レンガ造りのアパルトメントの1階、色とりどりの鉢植えの花が咲き乱れる店頭に、サマンサは車を止めた。スイスの道交法はよく知らないけれど、ここら辺は駐車禁止の制限などはないらしい。
ジュネーブへ通うようになって一週間、たまたまオフを過ごすことになったある日、くさくさする気分を変えようとぶらりと街に出て見つけた、郊外の馴染みの店だ。
その日、ぶらぶらと道を歩いていたとき、店から出てきた中年女性と偶々出くわし、どこかで見た顔だな、などとぼんやり考えていたら向こうから声をかけてきた。言われて思い出した、療養所の患者向けの出張理容美容サービスを請け負っている店で、だから見覚えがあったのだ。数分の立ち話でウマが合い、それ以来贔屓にするようになった。
中年の上品なマダムと大人しそうな若い女性店員が一人だけという小さな店だが、静かな、それでいて懐かしさを感じさせる素朴な会話がお気に入りで、以来、ここはサマンサの秘密の休憩所になっていた。
だから、他人を連れてくるのは、これが初めてだ。
検査手術とは言え、開頭術ですっかり髪の毛を剃られて暫くウィグのお世話になっていた涼子だったが、あれから約2ヶ月、漸く髪もベリーショート程には伸びた。
「マダム。頭部手術後だから、パーマ禁止、シャンプーはいいけどあまり強くはしないであげて。それ以外ならどうしたって構わないから、可愛くしてあげてね」
サマンサの言葉にマダムは微笑み、鏡に映る涼子に微笑みかけた。
「もう充分可愛いわよね、お嬢さん。でも、もう少しくらいなら、私もお手伝い出来るわ」
若い店員に、毛先を少しだけ揃えてあと洗髪と頭皮マッサージを頼んで隣に座ったサマンサはその会話を聞きながら、早くも睡魔に襲われた。
子供の頃から、他人に頭や髪を触ってもらうのが気持ちよくて大好きだった。
もう一度くらい、子供の頃に戻りたいかな、などと思っているうちに寝てしまったらしい。
目が醒めると、隣にいた筈の涼子が見えない。
鏡の中を探すと、待合ソファでマダムと楽しそうにお喋りしている涼子の姿が見えた。
「やだ、涼子ったら。一層若返ったんじゃない? 」
声を掛けると涼子が頬を染め、隣でマダムが上品な笑い声を上げて、涼子の頭を優しく撫でた。
店を出た涼子は、高く澄んだ青空に向かって大きく両手を振り上げて伸びをした。
「あー。気持ちよかった。サッパリしちゃった」
さあ腹ごしらえよ、とサマンサは、車でフィッシャーマンズワーフ近くのロマンド地方の家庭料理を出すレストランへ向かう。
レマン湖で獲れた魚料理が自慢のこの店も、サマンサの待避所のひとつだ。
レースのカーテン越し、春の陽射し溢れるテーブルで、食後のコーヒーを飲んでいる涼子の満足そうな表情を見て、サマンサはもう大丈夫だろうと、ハンドバッグから用意のものを取り出し、テーブルの上を涼子の方に滑らせた。
「もう、そろそろ大丈夫だと思うから、渡しておくわ」
中を見た涼子の大きな瞳が、一層、大きくなった。
辞令だった。
「……統合幕僚本部政務局国際部欧州室室長代行兼欧州1課課長、代将一等艦佐石動涼子。現職及び代将位を解任し、政務局国連部部長付け、国際連合本部事務局国連事務総長スーパーバイザー兼エグゼクティヴ・アナライザー、ネゴシエーション・チーフ・ディレクターへの現職出向を命ず」
涼子は、声に出して読み下した後、顔を上げて呆然としていたが、やがて淋しそうな微笑みを浮かべて呟いた。
「……私もとうとう、シャバかぁ」
涼子の頬を涙が一筋、ゆっくりとつたう。
「あー……。ええと、涼子」
「あ、先生、大丈夫だよ。少し、淋しくなっただけ。……だって、20年近く制服暮しだったから」
思わず声をかけたサマンサに、涼子は指で涙を拭い微笑みを浮かべる。
「先生も、この方が良いって、考えた上で決めてくれたんでしょう? それに、艦長も奨めてくれてるし。私、先生も、艦長も信頼してますから。うん、大丈夫! 」
胸が詰まる。
言葉が、なにも出てこない。
ええと。
こんな時、何を。
何を言えば、いいんだっけ。
ああ、そうだ。
「涼子、ありがとう……」
少し、違う気がした。
昼食後、サマンサは涼子を促し、再び車を走らせた。
レマン湖周遊道路を1時間ほども走らせ~スイスのITSの設定標準速度のノンビリさには、サマンサも驚いたものだった~、ジュネーヴ州からヴォー州へ到ると、周囲の風景はどんどん、絵に描いたような『森と湖の国』へと移ろってゆく。
ドライブの目的地はサマンサも初めていく場所だったが、学生時代に読んだバイロンの詩集が忘れ難く、観光地と呼ばれるところにあまり興味のない彼女にしては珍しく、一度は訪れてみたいと思っていた『観光名所』だった。
モントレー市街と書かれた案内標識に逆らって走り、着いたところはレマン湖にその質素で無骨な、けれど落ち着いた風格のある美しいシルエットを映し佇む、シヨン城だった。
サマンサは、沈黙に感慨を込めてゆっくりと、崩れかけた石段を踏み締め城門へと登る。
時折振り返って、後をついてくる涼子を顧みる。
ここへつくまでは、変化を重ねる周囲の風景に子供のような声と感嘆の溜息を交互に繰り返していた涼子も、サマンサの態度や表情から何かを感じ取ったらしく、いつの間にか溜息を落とすだけになっていて、ただ、時折彼女が振り返った時にだけ、にこりと微笑みを返すようになっていた。
城内は、歴史を感じさせる佇まいと13世紀が最盛期と謂われる栄華を懐かしむような侘しさが同居している不思議な静寂に満ちていて、知らず知らずのうちにバイロンの詩、『シヨンの囚人』を諳んじていたのだが、ぼんやりと予想していたよりも城内は狭くて、やがて1時間もするとサマンサは車に戻り、振り返りもせずにエンジンを掛けた。
シヨン城にエンジン音はやっぱりそぐわないわ、などと考えながら、涼子の手前遠慮していた煙草をぼんやり吹かしていると、遅れて戻って来た涼子が、助手席に乗り込みながらポツリと訊ねた。
「……もう、いいんですか? 」
その言葉の裏側に潜む意味に気付き、サマンサは驚いて涼子の顔をまじまじと眺める。
この娘は、私がこの城に憬れていたことを、いったい。
ああ、ひょっとすると、違うのか。
だとすると、この娘はテレパス?
いや、でも、私の顔見てれば、気付くかな?
サマンサはふっ、と笑って、煙草を灰皿で揉み消した。
「ええ。もう、いいわ」
車をゆっくりとスタートさせる。
「確かに、ここを訪れるのは夢だったけど、いざ実際に叶ってみると、まあ、こんなもん、ね」
夢なんて、得てして、そんなものなのだろう。
私だって、もしも夢が叶っていたら、ひょっとして平凡で退屈、そして怠惰な暮らしを日々繰り返しつつ「人生なんてこんなものか」と呟いて、不倫の一度くらいしていたかも知れないのだ。
……いや、不倫ならまだしも、万引き常習、いやいや、キッチンドランカーだったりして。
思わずそんな『アナザー・ウェイ』を想像して、クスリと笑いを洩らすと、涼子が首を傾げてこちらをみつめていた。
「それに、シヨン城ってのは、少し離れた湖畔から眺めるのが素敵らしいから」
5分も走ると、湖畔に石垣を積んで作った、緑地に着いた。
やはり石造りのベンチに座り、レマン湖越しに臨むシヨン城は、学生時代に絵葉書で見たのと同じアングルで、そしてこれもまた、絵に描いたような美しさだった。
『こんなものか』ってのは同じだけれど、少しはこちらの方が落ち着いてて、いいわね。
隣に、涼子が座る気配がした。
なんでこの娘は、こんなに懐かしくて甘い香りがするのだろう、と、瞳は城の遠景を捉えたままで、内心思う。
考えるうち、ふと、ひょっとしたら限度を超して優しいこの娘の、優しさ故の甘い香りなのかも、と思い至る。
だとすると、いつまでも甘えてはいられないだろう。
思わず実現した、私の『センチメンタル・ジャーニー』は、それこそ『こんなもの』でいい。
判ってはいたけれど、所詮、私には似合わない。
きっと、何年か経っても、ここを訪れたことだけは風化せずに心に残り、やがて~それが死の直前かもしれないけれど~キラリと煌く『私の宝物』になれば、それでいいじゃないか。
何も恋やオトコだけが、煌く宝物である必要もないのだ。
……とそこまで言っては、強がりだろうか?
サマンサは、涼子を見ないまま、話しかけた。
「実はね。さっき渡した辞令の発令書、4月1日付けで発令されて3月末には届いてたんだけど、私が止めてたの。あなたが、落ち着いて変わってゆく現実を受け入れられる精神状態になるまでって……。だから、あなた宛のプライベートな通信とかも、今まで、全部私が預かってたんだ。……ごめんね? 」
気配でわかった。
涼子は今、それはそれは見事な優しい笑顔で、首をふるふると振っているのだろう。
「そんな、先生、謝らないで。私、怒ってなんてないです」
「ありがと……。でも、今日帰ったら、全部渡すわ……。大丈夫、ね? 」
今度は、気配は伝わってこなかった。
だから、少しだけ、ズルをする。
視線を足元の湖水に移すと、ゆらゆらと揺れる涼子が、目尻をハンカチで拭っていた。
ふと、思い当って納得する。
やっぱり、この甘い香りは、この
夕焼けが美しい時間に療養所へと戻ったその日、食堂でいつものように若い看護師達と夕食を採り終え、個室に戻った涼子は、ドアの郵便受けに突っ込まれた手紙の束をみつけた。
驚きつつも緩む頬を隠しきれず、震える手で束を胸に抱え、涼子は椅子に座り、ベッドを机代わりにして手紙を広げた。
公用通信は全くなく、全ては涼子宛の私信ばかり。
真っ先に見つけたのは、ロンドン、ピカデリー・サーカスにあるコベントガーデン劇場の外観写真がプリントされた1枚の絵葉書。
すぐに判った。
あの夜、誘われて、浮かれ舞い上がり怖いほどに幸せで涙を流し、今日まで生き抜いてきた喜びを噛み締めつつ慣れぬ化粧を親友にしてもらい、夜を想像して下着のバリエーションの乏しさに肩を落とした。
夢の始まり。
天にも昇るその夢はけれど、地獄よりも残酷な悪夢の始まりだったけれど。
どちらにせよ、二人で訪れる事のなかったその地の絵葉書を送ってくれたのは。
まるで、ポーカーの真剣勝負のように、震える手で裏返したそこには、彼の名があった。
見る見るうちに涙で曇る視界、そんな自分を叱咤しつつ涼子は、貪るように、短い、けれど懐かしくも温かさの感じられる筆跡で綴られた文章を、何度も何度も繰り返し読む。
『涼子。
元気でやってるか?
俺は、術後経過も順調で、お前がジュネーヴへ転院した翌週に退院し、そのままロンドンでリハビリをして4月1日からは無事、デザート・フォートへ復帰した。
時折、政務局へも顔を出すが、お前の姿が見えないから、ちょっとだけ、面白くない。
既に辞令は出ているだろうが、ニューヨーク勤務だな? どんな職場でどんな任務かは想像できんから、あまり無責任なことは言えないが、まあお前ならなんとでも出来るだろうと思ってる。だから気楽にやってほしい。
裏の写真は、行けなかった室内楽演奏会の会場。今度こそ、一緒に行きたいものだ。
焦らず、ゆっくり、我慢せず。
頑張れなんて言わないから、お前らしくノンビリやっていけば良い。
小野寺より
P.S.
大サービスだ。愛してる』
滂沱と流れる涙の滴を絵葉書に落とさないように読むのに苦労した。
手の甲で、服の袖で、痛くなるほど顔を擦りながら、それでも途切れることなく流れる涙に半ば呆れつつ、痛む胸、詰まる息に閉口しつつ。
瞼を閉じれば、まるでイメージファイルを保存したかのように、その文章の一字一句を間違えることなく、いやそれだけではなく、万年筆で書かれたらしいその筆跡、インクの濃淡まで正確に思い浮かべられる程に繰り返し読み、眺めた後。
絵葉書の写真を掌で撫で、『愛してる』の文字を指で何度もなぞり、最後には両手で胸に抱き、涼子はそのまま椅子から床へ崩れ落ち、膝を突いて、嗚咽を堪えることを諦めた。
「艦長ぉ……。逢いたい……。逢いたい、よおっ! 」
自分でもはっきりと判る意味のある言葉はそれだけで、後はなにがなにやら、もう判らなくなった。
声が掠れる。
胸が苦しい。
喉が痛い。
息が出来ない。
それでも涙は滝のように溢れ出し、堰き止めようとして堰き止め切れぬ想いの正体は、身を切られるような苦しさ、海よりも深い後悔、そして気が狂いそうなほどどうしようない、彼への、愛。
涙で何も見えず、半ばパニック状態に陥った涼子は、振り回した指先に触れた『なにか』を必死に掴む。
柔らかく、温かい『それ』がなんなのか、悟る前にそれはふわりと、まるで冬の夜の羽布団のように涼子を優しく包んだ。
甘い、懐かしい香りがした。
「涼子、大丈夫。大丈夫よ」
額に触れた、微かに湿る柔らかな唇の感触に驚き、刹那止まった涙の向こうで揺れていたのは、サマンサの優しげな笑顔。
「大丈夫、涼子。大丈夫だから」
繰り返し囁くサマンサの声は、まるで子守唄のように心地良く耳朶を擽る。
「艦長に、逢いたいよぅ」
相変わらず息は苦しかったけれど、喉は痛かったけれど。
何故か、話すことが出来た。
「逢いたくて、逢いたくて、抱かれたくて、キスしてほしくて、気が狂いそう」
サマンサの、リズミカルに背中を叩く手が、まるで胸の中で溜まっていた言葉を外へと順番に出してくれているように思えた。
「それがね。……恋するってことなのよ、涼子? 」
彼が、無愛想なまま、けれどゆっくりと頷いたように思えた。
「恋してるって事」
サマンサはゆっくり頷き、言葉を継ぐ。
「……生きてるから、苦しい。生きてるから、恋をする。恋をするから、苦しいの。……良かったね、涼子。生きていて」
再び、涙が流れる。
けれど、今度の涙は、何故か安心感のある、優しい滴に思えた。
こんな涙も、あるんだわ。
安心できるって、眠くなることなのね。
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