第127話 18-5.


 廃倉庫から女性の悲鳴が聞こえる、しかも2、3時間は続いていると近隣住民から通報があったと本署から連絡を受けた。

 丁度付近を巡回中だった大阪府警西堺警察警邏課の警部補は、パトカーを運転している若い巡査に目で合図し、乙報で急行すべく、赤色灯を点灯しサイレンを鳴らした。

 指示された場所に着くと、通報者や野次馬が漸く日の暮れた薄暗い倉庫前の空き地に屯していた。

 通報者から様子を聞いていた、近くの交番からバイクで駆け付けたという若い警官がパトカーから降り立った警部補に状況を報告した。

「えーと、倉庫の持ち主は青空不動産、となってます。昨年までは、近所の酒屋の倉庫だったらしいですが、廃業後に青空不動産の所有になった様です」

「青空不動産、って」

 警部補は首を傾げる。

「そうか、あの青田興業の」

「ええ、半沢会系青田興業の会社ですよ。時折、ベンツやなんかで怪しい風体の男達が夜中にやってきては出入りしていたようなんですが、こんな悲鳴は初めてだそうです」

「数時間続いたって? 」

「ええ。最初は気にならない程、か細い悲鳴だったそうですが、徐々に聞こえなくなり、それがつい1時間程前に、絶叫の様な悲鳴に変わって、それも30分程で収まったらしくて」

 警部補は、ゆっくりと倉庫の入り口に歩み寄りながら、ぼやく。

「やれやれ、全く都会ってところは……。か細くて気にならなきゃ、悲鳴でも構わんのかね? 俺達が中に入る。君、野次馬の整理を頼む」

 運転してきた若い巡査を連れて、たった1ヶ所のシャッターの脇にあるドアの前に立ち、ノブに手をかけると、簡単にドアは開いた。

 懐中電灯を差し出して警戒しつつ入ろうとすると、若い警官が横からさっと手を伸ばす。

「あ、自分が先に入りますよ」

 そう言うと、いとも簡単にドアをあけ、まるで友人の家に遊びに来た様な気軽さで中に入っていった。

 警部補はふうっと短い溜息を吐き、ぶつくさボヤきながら続いてドアをくぐる。

「先に入るのは構わんが、もうちょっと注意せんと……。全く、最近の若い……、ん? どうした? 」

 呻き声に気づいて足元を見ると、若い警官はペタンと、まるで腰でも抜けたかのように、床に尻を落としていた。

「どうした? 」

 警部補が薄暗い裸電球に照らされた室内を見渡すと、凄惨な光景が飛び込んで来た。

「なっ! ……な、なんだこの状況は? と、とにかく、救急車出場要請、それから本署に連絡! 」

 床には、血塗れの男が3人、倒れている。

 頭を押さえてのたうち回っている男、うつ伏せで血溜まりに倒れて、足をピクピク痙攣させている男。そしてプロレスラーの様な男は、大の字に倒れ、目と腹部から大量の血を流している。

 微かに腹が上下しているところで、かろうじてまだ生きていると見てとれた。

 そして。

 倉庫の中央、血の海の真ん中で、胡坐をかいて座り込んでいる血塗れの全裸の美少女は、歌を歌いながら、AVメモリスティックだったらしき物体に、ゆったりとしたリズムで、ナイフの柄を叩きつけていた。

 言葉もなく、呆然とその光景をみつめていた警部補はやがて、その場の光景に不釣合いな、美しい歌声が響いているのに気づいた。

 そうだ。この曲は。

 タイトルは思い出せなかったが、その歌声は、まるで天使の歌声のような、透明感あふれる澄んだ声だ。

 倉庫に響く可憐な歌声が、妙にその場にマッチしている様に、彼には感じられた。

「はーるーは、なーのみーのー、かーぜーのさむさよー」


 小野寺は煙草の煙を長く吐き出し、吸殻を灰皿に押しつけながら、言った。

「勿論、涼子はその場で保護され、家庭裁判所送致。メモリ内の助かった画像の再生により、虐待による心身喪失状態での本能的正当防衛行為、って事で無罪、病院送りです。日本じゃこの頃、未成年者の凶悪犯罪が増加していて、少年法や刑事訴訟法の見直しが行われていましたが、もしも法改正が前倒しで施行されていたら中学生までは成人同様と看做されていました。そうなれば下手すりゃ実刑だ。そうなっていればUNDASNにも入れなかったんだが……。しかしUNDASNウチの人事部も、よくもまあ涼子を合格にしたもんです。人手不足ってのは、時々恐ろしい結果を生み出すもんですな」

 小野寺は一旦言葉を区切り、マヤを見る。

 廊下の暗い照明でもはっきりと判る真っ蒼な顔は、けれど、涙を零すまい、耳を塞ぐまいと必死に感情を押し殺しているように思えた。

 それはたぶん、マヤの、涼子への愛ゆえだろう、と彼は思う。

 同情こそが今、真剣に涼子を愛する自分が、けっしてしてはならない事なのだと、マヤはそう思っているのだろう。

 その良し悪しは別として、小野寺は話してよかったかな、と思い、続けた。

「ええ、3人とも一命は取りとめました。しかし、伯父は重度のPTSDで廃人同様、もちろん薬の横流しがばれて会社はクビ、麻薬取締法と未成年淫行だったか児童虐待だったか、とにかく青少年性犯罪で有罪、7年かそこらで釈放、出所後すぐに行方不明になりました。ああ、涼子の両親が残した預貯金は、伯父にあらかた横領されて残額はゼロに近かったそうです。ヤクザ2人は失明、重態でしたが命は助かって有罪。出所後、1人はアル中で死亡、もう1人は行方不明。……多分、組織に消されたんでしょう。勿論、伯母の家庭は崩壊です。従姉はグレて売春から犯罪に手を染めた挙句、なんとかって感染症に罹患したらしく10年程前に死亡、伯母は娘の治療費を稼ごうと無理に無理を重ねた結果、娘に続いて過労による突然死、だそうです。もっとも、涼子自身の記憶の中では、伯母も従姉も存命で、喧嘩別れみたいな感じでUNDASNへ入隊した為、今更会うのが気まずいから、長い間日本へ戻っていない、だけど手紙のやりとりだけは続けてるって事になってたようですが」

 小野寺は胸の奥から迫り上げてくる苦いものを、無理矢理嚥下する。

「伯母や従姉宛に涼子が出していた手紙は、UNDASN部内では非公開情報扱い、要検閲重点監視情報に指定されていましてね。少なくともUNDASN部局内から投函されると、私宛の私書箱に転送される。まあ、そう指定したのは、私と、主治医なんですが。……正直、十数年間もの間に溜まった数百通の手紙の山を見るのは、やり切れんものです」

 理由も判らず湧き起こる後悔と謝罪、感謝と気遣いを届けようとして綴られた、優しい想いと温かい想い、虚実取り混ぜた思い出の一杯に詰まった、けれど、決して届くことのない手紙。

 小野寺は、新たに煙草を咥え、火を吸い付ける。

 そろそろ、口の中が苦くなってきたが、それは煙草のせいか、それとも。

 折れそうになる心を励まして、彼は話を終局へと進めた。

「結局涼子は、家庭裁判所から病院に収容されたんですが、当初は廃人同様でね。脳波も重度の精神薄弱児並、専門家も一時は匙を投げたらしい。しかし、どうやら涼子はその時、誰の子か知らんが、妊娠していたらしいんですね」

 彼はチラリ、とマヤを見て、すぐに視線を前に戻して言葉を継ぐ。

「母体保護法の許諾範囲内でしたから、もちろん、病院関係者は堕胎させようとした。が、精神薄弱児並みの知性しか持っていない筈の涼子が、俄然堕胎を拒否したらしいんです」

 隣で息を呑む気配がした。

 確かに、涼子らしいといえば涼子らしい、エピソードだ。

 あまりにも、哀しいけれど。

「その日から涼子の、奇跡的な復活が始まったらしい。この経過は後に、当時の主治医が学会で発表しています。たしか、稀有の症例だとかなんとかで、ラスカー賞だったかディクソン賞だったか何か、受賞したらしいです。それほど、奇跡的な復活を遂げたらしい。まあ、胎児は20週目で死産だったんですがね。……それから1年ほどで涼子は退院、社会福祉施設に保護されたんですが、その後一度も中学に顔を見せる事なく、卒業」

 けれど、俺は、と小野寺は自分自身の冷静さに驚く。

 途中で話せなくなるのでは、と最初は危惧していたのだが。

「卒業後、全寮制で夜間高校に通えるという企業に、中学担任の世話で就職し、その夜間高校の教師の推薦で、15歳で大検合格、その年の内に奇跡的に、MITやハーバード、ケンブリッジや東大京大並みの難易度と言われたUDNASN幹部学校に現役合格。中学に1年間しか通わなかった人間が、です。その1年間も、優秀ではあったらしいが、それほどの学力ではなかった様で、一体、涼子は何故、突然、『天才』になったのか」

 マヤはじっと自分の膝を微動だにもせずみつめているだけだったが、彼女の全神経が耳に集中している事は気配から簡単に察する事が出来た。

「彼女の急激な、そして異常な程の学力向上は、突き詰めると、驚異的な記憶力と応用力の向上にありました。殿下もご存じかもしれませんが、あいつは数十ヶ国もの言語を、自由に使いこなせる。これも記憶力が驚異的に良いからです。もちろん、語学はセンスのものでもありますがね。そして、その驚異の発現には、原因があった」

 ああそうか、と彼は納得する。

 ここまで冷静でいられたのは、本当に辛いのが、ここからだからだ。

「……あいつは、……涼子はね、殿下。消し去りたい過去を、己の意思の力で消す事ができるんです。どんな方法で? ……脳の中で、特に記憶を司る、海馬って部分を、物理的に変形させてるんですよ。人体の驚異、生命の奇跡って奴ですね」

 サマンサの即席脳生理学の講義を思い出す。

「忘れたい過去を、本当に忘れる。……こいつは、普通の人間でもよくやる、無意識の自己防衛反応らしいです。ただし、その遣り方ってのは、シナプスと呼ばれる神経線維がインデックス、つまり索引になっている過去の体験の繋がり、紐付けを意識的に切ったり、違うところに繋げたりと、普通はそんな程度のものらしい。だから、何かの拍子で簡単に思い出してしまう怖れもある」

 何かの拍子、それすらも怖れて、涼子は。

「ところが涼子の場合は、徹底して忘れようとした。それが、海馬の物理的変形による無意識下での記憶喪失、記憶改変だった。どうも、そう言うことらしい」

 俺はなんで。

 中学二年の涼子の傍にいてやれなかったのだろう?

「脳がその形を変え、記憶を消し去る、その副作用はみっつあるらしい。ひとつめが、異常な記憶力の向上であり、急激な学力の向上に繋がっていたんです。ふたつめは、殿下もご覧になったでしょう、あの現場での涼子とも思えない残虐な行動を。あれがふたつめの副作用、所謂多重人格による精神への衝撃の緩和。そして海馬の物理的変形の齎すみっつめにして最も残酷な副作用。それが、あまりに無理な脳の変形を繰り返す余り、脳自体がその圧迫に耐えられず、脳腫瘍、白血病等、脳周辺の病変により死に至る程のダメージを受けやすくなってしまったって事だったんです」

 突然、小野寺の精神に限界が訪れた。

 声が震える。

 胸が詰まり、息もできない。

「こんな事ってありますか? ……自分の脳が、命が、爆弾を抱える程のダメージを、死ぬかも知れないリスクを負ってまで消し去りたい過去を持つなんて。だけど、涼子はそれを選んだんだ。それ程までに消したい過去を、いつ爆発するかも判らない爆弾を抱えて……、それでも、あいつは……、あいつはいつだって、明るくって精一杯……、生きていた。恋していたかったんだ」

 ああ、神がいるのなら、出てきてくれ。

 そして、一発俺に殴らせろ。

 それを試練だなどと抜かしやがるのなら、俺が殺してやるから。

 怒りを溜息で吐き出し追いやって、小野寺はゆっくりと顔をマヤに向けた。

 ようやく、オチだ。

「殿下。私の知っている話は、これで終わりです」

 マヤの両目からは、瀧の様に涙が零れており、頬を濡らし、そして雫となって、そのスカートを濡らしていた。

「ごめんなさい」

 マヤの口から微かに声が洩れた。

「……え? 」

 聞き取りにくく、訊ね返すと、マヤは叫ぶように、言った。

「ごめんなさい! 私……、私っ! 」

 マヤは握り締めた拳を、力任せに、何度も、何度も涙で濡れたスカートに叩き付ける。

「なんて酷いことを貴方に、そして涼子様にしてしまったのでしょう! ……貴方にこんな辛い話をさせてしまうなんて、私っ……! もう、涼子様に会わせる顔がないわ! 」

 ごめんなさい、ごめんなさいと泣き喚きながら自分の膝を殴り続けるマヤを、小野寺はじっとみつめていたが、やがて手を差し伸べて彼女の膝に置き、その柔らかな拳を握り締めた。

 我に帰って顔を上げたマヤに、小野寺は微笑みかけた。

「殿下。貴女が悪い訳じゃない。……もちろん、私だって、涼子だって、悪い訳じゃない。もう、終わった事、終わってしまった事なんです。だから、泣かないで、自分を責めないでください」

 そうだ。

 誰が悪い訳でもない。

 今となれば、もう。

「目が醒めたら、涼子はきっと、殿下に会いたがるでしょう。……その時は、どうか、笑顔で会ってやって下さい」

「うああっ! 」

 マヤはごめんなさい、ごめんなさいと呟きながら、彼の肩に顔を押しつけて、何時までも、何時までも、子供の様に泣き続けていた。

 背中を叩いてやりながら、小野寺はチラ、と思った。

 泣きたいのは、俺もなんだが。

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