第125話 18-3.


 夏休みも中盤の、その日は午後から雨だった。

「あーん、置き傘持ってくるのん、忘れたー! 」

 教室に戻り、自分の机を見るが、ないものはない。

 先週部活の帰りに降り出した雨に、机の中の置き傘を使用して、そのまま家に置きっ放しだったようだ。

「こんなんやったら、クラブの連中とバス停まで一緒に帰ったら良かったなー」

 コーラス部に籍をおく中学2年の涼子は、クラブ終了後、友人が一緒に帰ろうと誘うのを、置き傘があるからと先に行かせ、教室に戻ったのだ。

 両親が亡くなって、2ヶ月。

 隣りの市に住む伯母の家に引き取られたものの、中学校卒業までは転校したくない、という涼子の願いを伯母達はあっさりと聞き入れてくれた。

 しかし学区が違うため、今までの様に友人達とお喋りしながら歩いて家に帰ると言う訳にもいかず、途中のバス停で友人と別れ、隣り町へ帰らねばならない。だから今日だって待っていると言う友人達を先に帰した。

 それが涼子には少しだけ淋しかった。

 諦めて教室を出た瞬間、カバンの中で携帯電話が鳴った。

 相手番号を見ると、非通知。

「誰やろ? 」

 出て見ると、伯父だった。

「おじさん! どないしたん? 」

「涼子ちゃん、傘あるかい? おじさん、仕事の帰りで、今車で学校の近くを通ってるんだけど。まだ学校なら、一緒に帰ろう」

 涼子は一も二もなくオーケーして待ち合わせを決め、校門前で待っていた伯父の車の助手席に駆け込んだ。

「うわー! すっごい濡れてしもた。おじさん、ありがとー! 」

 伯父は毎日、車で30分程の会社まで自家用車で通勤している。

 詳しくは知らないが、工業用化学薬品を扱う会社とかで、営業部長だったか次長だったか、まあ結構偉い、でも、普通のサラリーマンだ。

 生活が苦しい、と言うほどではないが、3年前に建てた一戸建て住宅のローンの負担も重いらしく、また、実の娘が私立の女子高にこの春入学したりと何かと物入りで、と口癖のように言っていた伯母は、とうとう先月から近くのスーパーマーケットにパートで働きに出ていた。

 そこへ涼子を引き取って育てる事になり、生活はますます苦しくなったのだろう、いくら暢気な中学生でも、それくらいは見当がつく。

 涼子の両親は専科幹部とは雖も佐官、有名大企業の取締役並みの収入もあったし、ちょっとした財産と呼んでも差し支えないほどの蓄えが遺産として涼子には残されている上に、戦死認定で二階級特進、年金と恩給に賞勲加算金もついて、涼子の口座に毎月振り込まれる額は多分叔父夫婦の月収を遥かに超えるだろう。

 それを是非好きに使ってほしいと申し出た涼子に、叔父夫婦は首を横に振って、言った。

「これは君の将来のために使われるべきだし、君のご両親もきっとそう願っているはず」

 それだけに、優しく接してくれる伯母夫婦や「おねえちゃん」「りょうちゃん」と互いに呼び合う、昔から仲良しで可愛がってくれる高一の従姉に、涼子は大きな感謝の念と、少しの罪悪感を、日々感じていた。

「おじさん、今帰りなん? 今日は早いんとちゃうのん? 」

 涼子はハンカチでビショビショになった髪や手足を拭きながら話しかける。

 エアコンの冷風が、少し寒く感じられた。

「うん……。ああ、うん」

 電話での話し方と違い、何か様子が変だった。

 首を捻りつつも、涼子は構わず話し続ける。

「今日ね、指揮者の先輩がねぇ、秋に開かれる市民音楽会で、石動、1曲ソロパートうとてみるか、言うてくれてん。私、音痴やし初めてやし、なんや緊張するわあ」

 最近は、やっと伯父伯母とも、本当の親子の様に話せるようになってきた。

 最初の頃は、ですます調がどうしても抜けなかったが、自分から垣根を作るなんて、唯でさえ私を引き取って苦労が増えただろう伯父伯母に悪いと考えた末だった。

 けれど、お父さんお母さん、と呼べる程には、割り切れていない。

「そうか。何日いつだったっけ? 皆で聴きに行かなきゃなあ」

 応えた伯父の口調は普段通りの明るいそれで、気のせいだったか、と涼子はそのまま今日の出来事を喋り続けた。

 5分も走っていると雨はますます激しくなり、ワイパーも追いつかない程の土砂降りになってきた。

「凄い雨や」

 窓の外を見ると、車はいつものバス通りとは違う道を走っている。

「へえー。こんな抜け道があるんやねえ。バスはもっと大きい道しか走らへんもんねえ」

「そうだね。この道はいつも空いてるし、だいぶ近道なんだ」

 そう言ったきり暫く黙って運転していた伯父は、不意に涼子に声をかけてきた。

「制服、濡れてるじゃないか。風邪ひくぞ、後のシートにタオルがあるだろう? 手を伸ばして取りなさい」

「はーい」

 涼子は背凭れ添いに上半身を捻ってリアシートを覗き込む。

「おじさーん、あらへんー」

「下に落ちてないか? 」

「ふぇ? 」

 涼子はシートに添って身体をうんと伸ばし、リアシートの床を覗き込んだ。

 同時に、車が急停車したショックを感じた。

 あれ、と思って身体を元にもどそうとした途端、ガクンッ! とリクライニングシートが倒れ、涼子も身体を捻ったまま、倒れてしまった。

「きゃっ? 」

 一声叫んで振りむこうとした瞬間、何かが身体に乗りかかって来た。

「! 」

 伯父が、息荒く涼子の身体にのしかかっていた。

「りょ、涼子ちゃん! 」

 ザッ! と耳の奥で血が下がる音がした。声が出ない。

「おじさん、君がウチに来てから、生活が苦しくって、毎日ストレスがたまって。だからさ、いいだろ? おじさんに息抜きさせてくれよ? な? いいだろ? な? 」

 伯父の熱い吐息が頬に掛かるたび、鳥肌が立つ。

 涙がボロボロ零れた。

 漸く首を微かに横に振るが、伯父の目は、既に正気を失っているようにしか見えなかった。

「い……、いやあ」

 漸く声になった涼子の思いは、余りにか細く、それが伯父の興奮を一層誘った様だ。

「き、君は本当に美人だねえ……。身体だって、もう大人じゃないか」

 まるで自分のものには感じられない腕や足を使って伯父を押し退けようともがくが、1ミリたりともその熱く重い身体は離れてくれない。

「おじさん、やめて、お願い! お、おばさんやおねえちゃんに怒られるよお」

 伯父は急に手を止めて、鬼のような形相で涼子を睨む。

「それは、涼子ちゃん次第だ。もし、君が喋ったら、君は野垂れ死にだよ。それにウチの家庭も崩壊する。君は恩を仇で返す気かい? 」

 涼子には、伯父の低い声が、地獄から響く悪魔の声にしか聞こえなかった。

 涙が次から次へと溢れ、息をするのも苦しかった。

 自分がこれからどうなるのか、薄っすらと理解していた。

 それは、怖くて恐ろしかったけれど、それ以上に伯母や従姉を悲しませたくはなく、そして兎に角死にたくなかった。

 伯父は、涼子の夏服のブラウスの襟に手をかけた。

「ひぃ」

 喉が鳴った。

 それが合図だったかのように、伯父は顔を歪めて笑い、闇雲に涼子の身体に覆い被さってきた。

 もう限界だった。

 伯母や従姉の顔が消え去り、死にたくないと言う願いも吹き飛んで、涼子は叫んだ。

「きゃあっ! やめてっ! おじさん、あかんて! 厭やて! お母さん、お父さん!助けてえっ! 」

 身体中を鈍い痛みが走る。

 涼子は喉も避けよとばかりに絶叫した。

「やあっ! 痛い、痛いって! やめてよお、もういやぁ! もういややてぇっ! 」

 さすがに五月蝿いと感じたのか、伯父の大きな掌が口元を襲った。

「んんんん! ……んっ! 、ううっ! 」

 息ができない。

 鼻は詰まっていて、涙も止め処なく零れて、唇の端からは涎がだらだらと溢れる。

 このまま死んでしまうのかなぁ、と熱に浮かされた頭の隅でぼんやり考えていた。

伯父がやっと唇を離した瞬間、涼子自身も知らぬ間に、唇から絶望の声が洩れた。

「お母さん……、お父さん……。た……、すけて……」

 伯父が耳元へ唇を寄せて、囁いた。

「涼子ちゃん。君のお父さんもお母さんも、もう死んだんだ。これからは、俺だけを頼りに生きていかなきゃだめなんだ。……判るね? 」

 それは、死刑宣告だった。

 涼子は、伯父に初めてを奪われ、その日は3回、犯された。


 その晩は、伯母には気分が悪いと言って、食事もとらずに部屋に引き篭もった。

 1秒でも早くシャワーを浴びて、汚れを流したかったが、それ以上に伯母や従姉の顔を見ていられなかった。

 下腹部がズキズキと痛む。

 蒲団を被ると、闇に伯父の正気を失った顔が浮かぶ。

 慌ててタオルケットを蹴って飛び起き、暗闇の中頭を抱えて荒い呼吸を鎮めようともがく。

 漸く呼吸が整い、脳内に大音響で響き渡っていた心音がフェードアウトするにつれ、今度は伯父の声が闇の底から聞こえてくた。

「お父さんもお母さんも、もう死んだ」

「君が誰かに喋ったら、君は野垂れ死にだ」

「君は恩を仇で返すのか? 」

「俺だけを頼りに生きていかなきゃだめなんだ」

 後から後から、止めどもなく涙が流れてきた。

 頭が割れるように痛かった。

「お父さん、お母さん。……涼子、どないしょう? もう、結婚できへんかなあ? 幸せになられへんの? ……どないしたらええのん? 」

 闇に両親の笑顔が浮かぶ。だが、父も母も、何も言わずに笑っているだけだった。

「お父さん、お母さん! なんで……、なんで、死んでもうたんよおっ! 」

 涼子の魂の叫びは、空しく降り続く激しい雨に吸い込まれて消えていった。

 そのまま気を失ってしまった様だ。枕もとの時計を見ると、午前2時を過ぎている。

 涼子の部屋は、従姉と共同なのだが、彼女のベッドは空だった。

 新築一戸建てで、3人家族、部屋は2つほど余っているのだが、幼稚園の頃から涼子を可愛がってくれた従姉は、淋しいでしょう、おねえちゃんと一緒の部屋を使おう、と言ってくれたのだった。

 気分が悪いと言って早々に部屋に引っ込んだ涼子に気を遣って、今夜は別の部屋で寝てくれているのだろう。

 涼子はそっと部屋を抜けだし、風呂場へ向かう。

 熱いシャワーを浴びる。

 ボディソープでこれでもか、これでもかと言うくらい丁寧に身体中を洗う。

 洗っても洗っても、あの痛くて熱くて気持ちの悪い感覚が消えず、最後は、真っ赤になった肌の痛みと情けなさに泣きながら身体をスポンジでこすった。

 30分もがむしゃらに身体中を擦りまくって洗い疲れてしまうと、ほんの少し、疲れた分だけ、落ち着いた。

 シャワーで泡を洗い流す。

 ふと首を廻らせると、風呂場の湯気で曇った鏡に自分の身体が映る。

 あらゆるところに蚯蚓腫れやひっかき傷、鬱血の跡が残っていた。

「消えへん……。一生、この傷消えへんのんやろな」

 再び涙が零れた。

 人間って、一体、どれだけ泣き続けられるんだろうと、チラ、と思った。

 熱いシャワーが涼子の涙と泣き声を流していく。

 私の幸せも、流れていっちゃう、となんとなく思って、また、泣いた。


 結局その夜は、一睡も出来ず、朝5時、制服に着替えて家を出た。

 食卓に、メモを置いた。

『おばさん、おはようございます。昨日はごめんなさい。今朝は気分が少しよくなったので、それに早朝練習もあるので、もう学校に行きます。おねえちゃん、お部屋占領しちゃって、ごめんなさい』

 勿論、早朝練習など予定されておらず、バスなどまだ走っていない。ゆっくり歩いて学校に着くと、もう午前7時だった。

 本当ならもっと早く着けたのだろうが、歩くたびに下腹部に鋭い痛みが走るのだ。

 ガニ股になってしまう。歩く度に、涙が零れた。

 暫く学校近くの公園のベンチに蹲って待っていた涼子は、校門が8時に開くと、音楽室へ向かった。

 涼子の担当するパートはメゾ・ソプラノ。

 ソロパートのある楽譜を開いた。

 歌ってみようかと口を開くと、漏れたのは嗚咽だった。

”こんな素敵な歌。私みたいな汚れた人間に、歌う資格なんか、ないのかも”

 そんな考えが浮かび、しかし頭の片隅では、何をバカな、とも思え、暫く躊躇していたが、やがて楽譜を閉じ、五線の引かれた黒板の隅に、チョークで伝言を残した。

『部長へ。石動は、少し気分が悪いので、保健室に行ってきます! 調子が良くなったら練習に戻ります』

 養護教諭に断って、白いカーテン越しに朝日の差し込む清潔そのもののベッドに横たわると、少しは気分が楽になった様な気がして、睡眠不足も手伝い、少しだけウトウトした。


「おーい、りょーこー! 」

「あほー、あほー! 」

 遠くから、懐かしい声がする。

 薄っすら目を開けると、コーラス部の女友達2人が笑っていた。

「あー……。せっちゃん、ふみちゃん」

「りょーこ、大丈夫かあ? 」

「どないしたん、風邪か? 」

 昨夜以来、初めて優しい言葉をかけてもらった気がして、一筋涙が頬を伝う。

 突然の涼子の涙に、2人はさすがにぎょっとする。

「ちょっと、どないしたん? 」

「なんや、まだ身体、辛いんか? 」

 もう自分は、眼の前で心配そうに表情を曇らせている優しい、明るいこの娘達とは違う。違ってしまった。

 昨日までの自分とは違うのだ、そう思うとますます哀しくなってきた。

「ん……。ごめん、なんでもない」

 今、この2人に話できたら、どんなに楽だろう?

 出来る訳もないそんな事を考えると、後から後から、どんどん涙が零れてくる。

「ごめんな? なんでも、ないねん。ごめんなあ、ごめん。ちゃうねん、なんでもないねん。……うっ、うっ……うえっ、えっ……! 」

 シーツを胸に掻き抱いて、子供の様に泣きじゃくる涼子を、中学2年の女の子2人と、泣き声を聞いて慌ててカーテンを開けた若い女性養護教諭は、為す術もなく見下ろしていた。

 結局、練習終了まで保健室で横になっていた涼子は、迎えに来たせっちゃん、ふみちゃん2人にバス停まで送ってもらった。

「あー、バス、行ったとこや。後、30分くらい、けえへんで? 」

「どーする? 一緒に待っといたろか? 」

 涼子は、力無く微笑んで首を横にふる。

「ううん、ええよ。ごめんな。明日からまた、頑張るから、今日はせっちゃんふみちゃん、もう帰って? な? 」

 暫く押し問答を繰り返したが、結局、せっちゃんとふみちゃんは、涼子が口をきくのも億劫なのだろうと判断したようで、手を振りながら帰って行った。

「帰りたないなあ」

 バス停前のベンチでガックリ座っていると、見覚えのある乗用車がすっと停まった。

 顔から血の気が引いた。

 運転席には伯父が口を歪ませて笑っており、助手席のドアを開けると、ねっとりとした口調で、言った。

「迎えに来て上げたよ。乗りなさい」

 涼子は、唇を震わせて掠れた声を出す。

「……い、……厭」

 走って逃げようとしたけれど、足が竦んで立つ事も出来なかった。

 大声を上げて助けを呼ぼうとしても、喉がカラカラで、掠れた声しかでなかった。

 伯父は、邪悪な笑みを浮かべたまま、ポツリと言った。

「昨日、君の裸の写真を撮ったんだ。憶えてないのか? ……早く乗りなさい。この写真を学校のみんなに配られてもいいのかい? 」

 そう言って背広のポケットから取り出したカメラのディスプレイには、確かに、裸の自分が写っていた。

 涼子は観念してベンチから立ち上がり、這うようにゆっくりと、助手席に乗り込んだ。

車は、昨日と同じルートを通り、昨日と同じ場所に静かに停車した。

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