第124話 18-2.


 人気の絶えた薄暗いホール、安物臭いベル音が淋しく鳴ってエレベーターのドアが開くと、中から小野寺がゆっくりと歩み出てきた。

 彼の手術終了後から、3時間。

 予想通り、中央手術室前に人影は見えなかった。

 彼は、ゆっくりと壁を伝い歩きして、喫煙コーナーのソファに腰を下ろした。

 泣き疲れて彼のベッド脇で寝てしまったイボーヌを起こさないように~見つからないように、と言った方が良いか? ~、ゆっくり静かに部屋を抜け出して、ここまで辿り着いたが、心配した痛みはない。

 まだ、麻酔が効いているのだろう。

 入院着の上から羽織った第一種軍装の上着のポケットから煙草を取り出し、火を吸い付ける。

 禁煙を手術前に申し渡されていたけれど、まあ、大事無いだろう。

 それよりも、イボーヌには後でまた、怒られるだろうな、とそちらの方は些か、げんなりした。

 まあ、今回は、ある意味彼女には一番迷惑をかけることになってしまった訳で、何と言われようと甘んじて受け入れるしかないのだが。

 二口ほど吸い付けたとき、チン、と安物臭い音が背後で鳴った。

 早くも見つかったか、と思いながらそちらの方に目を向けると、エレベーターから降りてきたのは驚いたことにマヤだった。

「小野寺様! 」

 マヤは驚いた表情を一瞬見せたが、やがて、目を伏せる様に黙礼し、少し躊躇ってから、ゆっくりと喫煙コーナーに歩いてきた。

「もう……、大丈夫、なのですか? 」

 つい数時間前、あの現場を裸足で歩き回ったせいだろう、マヤは少し足を引き摺りながら、一歩ごと、痛そうに顔を顰める。

 彼は背後の壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がり、脱帽敬礼する。

 敬礼を解いて初めて、指の間にタバコを挟んだままだった事に気付き、小野寺は苦笑いしながら煙草を灰皿に押しつけて言い訳めいた言葉を口にした。

「……本当は明日の朝までICUに入れられて絶対安静なんですがね。全く、ICUってのは病室じゃないんじゃないかってくらい落ち着かないところですな。何時になっても照明は消えないし、そこら中で話し声は絶えないし、医療機器の作動音が耳につくし……。で、文句を言ったらいい加減面倒くさくなったんでしょう、個室へ放り込まれました。これで漸く落ち着いて眠れるかと思ったんですが、どういう訳か、ベッドにいても目が冴えたのか眠れない。かえってここの方が安静になれるかと思いまして」

 そう言って、再びソファに腰を下ろす。

「それに、煙草も吸えますし」

 マヤは暫く逡巡していたが、やがて彼の隣りに腰を下ろした。

「……どうぞ、お煙草、お吸い下さいませ。私、煙は慣れております。父……、陛下が嗜みますので」

 国王のところで少し躊躇う風を見せたのが気になったが、触れずに聞き流す事にした。

 小野寺は、遠慮しないことにして、目礼の後もう一本咥えて火を吸い付ける。

 涼子がいたら、目を剥いて怒ることだろう。

「ところで、殿下。護衛は? 」

「下に待たせています」

「どうでした? 侍従の方々に、怒られませんでしたか? 」

 マヤの服装は、数時間前の豪華なドレスから、普通の~と言っても高級そうではあったが~スーツに換わっている。

 一旦ホテルへ帰ったのだろうが、たぶんかなり厳しく怒られたであろうことは想像に難くない。

 けれどマヤはフルフルと首を左右に振って見せた。

「それほどには。じいは……、あ、侍従長は、涼子様の大ファンですの。だから、あんまりきつくは怒られませんでした」

 少し表情を緩めてそう言ったマヤは、彼の顔を覗きこむようにして言った。

「それより、あなた……、少将閣下は? 」

 表情に心配が表れている。

 彼は苦笑を浮かべ、少し明るい口調で答えた。

「私も今のところは。……まあ、怪我もしたし、このまま有耶無耶になってくれると良いんですが。いやまあ、出世なんて別にどうでも良いんですが、始末書書くのが面倒で」

 笑いがとれるとまでは思わなかったが、マヤが真面目な表情で申し訳ありませんでしたと小声で謝ってきたのには、却って困ってしまった。

 已む無く、暫くは無言で座り続けていたが、やがて、マヤが彼の方にチラチラと視線を送り始めた。

 なんだろう、なにか言いたい事でもあるのかな、と思っていると、やがて彼女は囁くように、言った。

「あの……」

「はい」

 顔を向けると、マヤは視線をツ、と逸らし、足元をみつめた。

「あの倉庫で。涼子様と、小野寺様、貴方と……、最後、日本語で話をされてましたでしょう? 何を話されてたんですか? 」

 そこでマヤは、急に顔を上げて小野寺を見た。

 揺らぎ騒ぐ感情を抑えようとして抑え切れない、そんな瞳が小野寺に注がれた。

「それに、車の中で、4年前のニューヨークでの件を私がお話したら、仰いましたわね? 私の情報は間違っているって。どこが、どう……。いえ、真実は一体? 貴方は、涼子様のなにをどこまでご存じなんですか? 」

 畳み掛けるように早口で言い切ったマヤは、きゅっと唇を噛み締め、しかし視線を逸らさずにじっと答えを待つ構えだ。

 小野寺は、ふ、と吐息を零し、煙草を消した。

「殿下。別に私は、涼子の全てを知っている訳じゃありません。私は、涼子が三等艦尉任官後最初の配置のフネの艦長だった。だから、艦医と……、ああ、そのドクターは今、涼子の執刀中なんですがね……。そいつと私だけが職務上知り得る、カルテ上の彼女の秘密に触れた。……それだけです」

 マヤが抗議を口にしようとしているのに気付き、小野寺は先に言葉を継ぐ。

「勿論、そこから彼女の過去を再構成する事はできます。しかし、それは事実かもしれないがけっして真実ではないし、勿論全てでもない」

 マヤが、口を噤み聞く態勢になった。

 小野寺は、続けて言った。

「……無責任だと仰るかもしれませんが、男と女ってのは、遂に、最後まで、お互い腹の探り合いをしながら、一緒に生きていくもんなんじゃないでしょうか? 」

 何を言っているんだろう、と自分に呆れる。

「傷つけたくない、傷つきたくない。理解してあげたい、理解して欲しい。何が正しくて、何が間違っているのか? そんな事は金輪際判らないだろうし、そして、結局それは大した問題じゃないんだ」

 が、まあしかし、嘘でもないし、いいか。

 麻酔のせいにしておこう。

「……ただ、涼子と一緒に居る時の胸の高鳴り、涼子と離れている時の胸の痛み、涼子を想う時の切なさ、涼子に泣かれた時の困惑、涼子が怒った時の戸惑い、涼子が笑った時の喜び、そして、抱き合ったときに感じる涼子の鼓動、温もり、その、夢のような柔らかさ」

 ああ、まったく全部、正直そのまんまだ。

「……そして、どうしようもない、狂おしいほどの愛しさ。それだけは、本当だって、思います」

 言葉を区切り、煙草に火をつけて再び話し始める。

「だけど、ね……。知りたくなかった事だってあります。知ってしまう事で、終わってしまう事だってある。人生には、知らずにいた方が幸せな事っていうのが、確かにあるんですよ、殿下」

 小野寺は、マヤの瞳をみつめた。

「それでも殿下。……貴女は、知りたいですか? 」

 マヤの、膝の上の拳が、きゅっと握り締められた。

 震える声で、マヤは言った。

「貴方は、知らなかった方が良かった、と? 」

 俺は意気地なしなもので、と言い掛けて、やめる。

「最初は、そう思いました。なんで、こんな事、俺は知ってしまったのか。知らなきゃ、目の前のこいつだけを真っ直ぐに愛していけたのに、ってね」

 全く、人生は、恋愛は、楽じゃない。

「知ってしまったからには、正直、見方も、接し方も変わってしまう。涼子への想いだって、自分で自分を疑ってしまう。本当に愛しているのか、それは形を変えた同情じゃないのか? 」

 少し声が大きくなっていたようだ。

 小野寺は、肺の奥まで煙を吸い込み、心を落ち着ける。

「……そりゃあ、本人すら忘れてる事です。知らん振りをしようと思えば、いくらだって出来たんだ。実際、一時期見て見ぬ振りで接した時期もありました。だけど、時折見せる、涼子の表情に浮かぶ翳、心の闇、不安に揺れる表情。……そして、それを見ている私の胸の痛み、過去への怒りや憎しみ、そして自分で自分を制御できなくなる程の愛情」

 そこまで言って、思わず苦笑が浮かぶ。

 恥ずかしいもんだ、おっさんの繰言じゃないな、こりゃ。

 全く、麻酔ってやつは。

 安物の酒より、タチが悪い。

 しかし、実際のところ、麻酔ってのは、酔うのか?

「申し訳ありません、イイ歳したオッサンがこんな事言うのは、どうにも、馬鹿な話だ。……ただ、そんな想いだけは、本物に思えたんです。知らぬ振りこそ、何にもまして残酷な、涼子を傷つける行為だって、気付いてしまいました。あいつは……、涼子は、そんな全てを自分の中に秘めながら、あんなにいつも他人の笑顔だけを心から嬉しそうに見ている。だから私は、そんなあいつの傷も闇も痛みも苦しみも、埋められた記憶も、全て……、全て包んで、一緒に生きて行こうと、思った」

 そうなんだ、と小野寺は改めて思う。

 だから、俺は。

 小野寺は、ここだけは恥ずかしがってはいけない、そう思いつつ、続ける。

「それだけは、二人で決めたんです。……自分の為に。そして、たった一人の相手の為に」

 マヤは、ゆっくりと彼の顔から視線を外し、項垂れた。

「……私、本当に世間知らずの、文字通りお姫様育ちで」

 薄い肩が小刻みに震え、膝の上に揃えた手に涙がポタポタッと落ちた。

 流れ続ける涙を拭おうともせず、マヤは言った。

「たいした苦労もせず、育ってきて……。だから、悔しいけど、そんなに強くなれない。でも……。でも……、涼子様は」

 そこで言葉を区切って、暫く大きく肩で息をしていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた瞳を真っ直ぐ彼に向ける。

「涼子様は私に、生きていく事の難しさと素晴らしさ、私が生まれてきた事の意味、生まれたからにはやらねばならない事、感じなければいけない事、そして、私が生きていく意味を教えてくれた。……だから、今度は、私が涼子様を助けたいんです。聞いても、何もできないかも知れない。いえ、多分何も出来ないでしょう、でも。聞いて、苦しむだけになっても良いんです。私、涼子様を」

 とうとうマヤは両手で顔を覆って、声を殺して泣いてしまった。

 黙って聞いていた小野寺は、マヤの肩に手を置こうとして、煙草を指に挟んだままである事に気付き、手を引っ込める。

 まあ、彼女になら、良いだろう。守秘義務違反には眼を瞑ってもらおう。主に、サムに。

 苦笑いを浮かべて、煙草を灰皿に押しつけて、煙を吐き出した後、小野寺は、ゆっくりと話し始めた。

 少し傷が痛んだ。

 麻酔が切れ始めたのかも知れない。

 まあ、酔いが醒めたその方が、恥ずかしい話をせずにすむだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る