第121話 17-11.


「サラトガ陸戦隊TF突入準備完了レディ・エンゲージ、いつでもいけます」

 リザの報告を聞いた小野寺が頷くと、コリンズがドア上の換気口の隙間から光ファイバーの偵察用カメラを差し込んだ。

「中の様子は? 」

 小野寺の問いに、コリンズはファイバー先端のカメラが捕らえた映像が映る携帯端末をみつめ、レポートする。

「照明はついてます。……部屋の真ん中に、あれは、家庭用のデジタル……、ビデオカメラ、かな。スタックヒル、室長代行ともに、確認出来ません」

 確認できるまで待っていても仕方ない、と小野寺は即座に決断した。

「須崎、ドア抜き」

 美香が無言で頷き、傍らの部下に親指をぐっと立てて見せた。

 爆薬をセットしたサラトガ陸戦隊A中隊第1小隊の小隊長が、電気着火装置を端子にセットし、サムアップで美香に答えた。

 ソーセージの貼り付けられたドア、壁面を取り囲むようにして、突入部隊として選抜されたレンジャー分隊10名がセッティング。そのうち一人は、破城槌バッティング・ラムを構えて仁王立ち。レンジャー達に寄り添うように、右に小野寺、美香。左にコリンズ、マズア、そしてリザが並ぶ。爆風と爆発のインパクトは壁に向かう筈。

 美香が頷くと、全員が手に持った銃のセイフティを外し、コッキング状態にする。

「カウント3! ……サンフタヒト! 」

 ボスン! と鈍い音がして、ドアが吹き飛んだ。加えて、資料によると築20年の古い耐爆構造の建物の壁が、いとも簡単に崩れ落ちた。

 ドアのあった出入り口は、今や当初の3倍ほど、4m程の大きな穴になっていた。

 バッティング・ラムの出番はないと悟ったレンジャー隊員がドスンと重い音を立ててそれを地面に放り出した。

 その音が合図だったかのように、突入部隊の先頭にいたひとりが音響閃光手榴弾フラッシュ・バンを倉庫内に投げ入れた。

用意レディセット! 」

 全員が瞼を固く閉じ、耳を塞ぐ。

 一瞬遅れて、大音響、辺りが真っ白になる程の凶悪な光。

 光の中へと、レンジャー分隊が姿勢を低くし、アサルトライフルを構えて飛び込んでいった。 


 コリンズが再び光ファイバーの先端を入れる。

「分隊、エントリ完了。スタックヒル、視認タリホー。……室長代行も確認。スタックヒルが室長代行を盾にするように抱きかかえて部屋の中央で立っています。足元に、イヤー・プロテクターとゴーグルが2つ、落ちてます、フラッシュ・バン対抗策ですね、効果なし。室長代行にも装備させていたらしい」

 一瞬、コリンズは言葉を詰まらせ、迷ったように口をぱくぱくさせた後、言葉を継いだ。

「奴は片手でナイフを室長代行の頸動脈に当ててます、もう一方の手には、銃。室長代行のこめかみに」

 生意気な、そして馬鹿が、と小野寺が口をへの字に曲げた刹那。

「あ、あの! 涼子様、涼子様はご無事なんですか? 」

 切迫した声が背後から届き、全員がギョッとして振り向いた。

「マ、マヤ殿下! ……こ、こんなところまで! 」

 リザの叫びに、マヤを羽交い絞めにしていた銀環が、無声音で答える。

「すいません、先任! 止めたんですけど、殿下がどうしてもって」

「だって! だって私、涼子様が」

 止むを得ないと小野寺は即決する。

「判りました、判りましたから、暫くお静かに」

 言ってから、思い出して付け加える。

「後任。貴様、絶対に殿下を守り切れ。何かあったら予備役どころか、統一軍事法廷軍裁送りで懲役、覚悟しろ」

「アイサ! 」

 銀環がマヤを背中に庇いながら答えるのを見て、顔を前方に戻しかけて、もうひとつ思い出し、小野寺は再びマヤを見た。

「殿下。涼子は無事です。……いまのところ」

「小野寺様」

 やれやれだと、彼はマヤの言葉を遮るように、全員に命令した。

「いくぞ。エントリ」

 小野寺は、耳に指し込んだ小型イヤホンをもう一度確認した後、大きく三度、深呼吸をする。

そして大きく一歩踏み出し、穴から室内に入って叫んだ。

「スタックヒル! 石動は無事かっ? 」


「それ以上、近寄るな! 」

 だだっ広い倉庫の真ん中で、膝撃ちや腹撃ち、立射など様々な姿勢を取るレンジャー隊員達の銃口に囲まれながら、ヒギンズは涼子の首に腕を巻きつけナイフを押し当て、反対側の手に握った銃を小野寺に向けた。

 最初に眼に入ったのは、ヒギンズの握る銃、涼子のCz。

 次に、涼子が殆ど裸だということ。

 苦しそうだなと一瞬感じたが、よくみると、涼子の表情はまるで仮面のように無表情で、ただ鮫のような真っ黒な穴と呼びたくなるような両目が、欠片ほどの光も宿さずにこちらに向けられている。

 小野寺とヒギンズたちの丁度中間に、爆風で倒れたのだろう、三脚付きのAVカメラを見て、初めて怒りを覚えた。

 提げた銃を、持ち上げようとした瞬間、自分の股の間からすっと伸びた黒光りする銃身に気付いて我に帰る。

 美香が腹撃ちの姿勢で、アサルトライフル~H&K56だと判って、美香も妙な趣味をしていると思った~を構えていた。

 ゆっくり瞳だけ移動させると、コリンズ、マズア、リザ達も、それぞれの銃をヒギンズに向けている。

 ちらりと背後を見ると、扉が吹き飛んだ大きな穴には、サラトガ陸戦隊の後詰めの部隊が蟻が這い出る隙間もないほどに銃を構えて待機している。

 周囲全員がプロフェショナルであることを再確認し、小野寺は短い吐息を零し、ゆっくり一歩、踏み出した。

「寄るなと言っただろう! こいつがどうなってもいいのかっ! 」

 悲痛とも言える叫びが耳に届く。

 小野寺はもう一歩、前に足を踏み出してから、答えた。

「馬鹿か、貴様。何年軍人やっとるんだ」

 案外、冷静な声が出せた。

 が、それが挑発に繋がったのか、ヒギンズの持つCzが三度、火を噴いた。

 足元で土煙が3箇所から上がる。

 ヒギンズは顔中に汗を光らせながら、口を歪めて笑う。

「立場が判ってんですか、軍務部長? ……それ以上近付いたら、涼子は」

 ヒギンズが涼子の喉元にあてたコンバットナイフをグッと、一層近付ける。

「涼子」

 小野寺は、呼びかけた。

 無駄だろう、と半ば諦めつつ。

 それほど、涼子は、傍目にも『壊れて』見えた。

 呼び掛けると、鼻の奥がつんと痛くなった。

 泣きそうなんだ、と理解して、自分に呆れた。

 そして、間に合わなかったんだ、結局、と考えかけて、慌ててそれを打ち消した。

 壊れていようが狂っていようが、まだ涼子は生きている。

 生きていれば、連れ帰る事が出来る。

 連れ帰って、そしてどうする?

 新たに湧き出してきた疑問を慌てて沈めて、小野寺は涼子に向って、言った。

「遅くなってすまん。帰ろう。……大丈夫か? 」

 と、それまで輝きを失っていた涼子の瞳からボロボロッと涙が零れ始め、か細い声が洩れた。

「お……、おじさん、ごめんなさい……。もう、犯さないで……。涼子、もう厭や……。おばさんにもおねえちゃんにも言わへんから……。もう、これ以上、涼子を……。涼子を、犯さないで! 」

 お国訛りの日本語だった。

 理解できないのか、ヒギンズがギョッとして涼子を見る。

 チャンスだと思い、小野寺は素早く、サイトをヒギンズの額に当てた。

 刹那。

 涼子は、うああっ! と鋭く叫ぶといきなり両手両足を無茶苦茶に振り回し、泣き叫び始めた。

「うわああっ! もう厭やぁっ! 堪忍して! もう私を犯さんといて! 撮らんとって! 赤ちゃんできてまうぅ! やめて、やめてやめてやめてやめてお願いやからもうやめて、私をこれ以上、穢さんとってえぇっ! 」

 ヒギンズが慌てて涼子を獲り押さえようと、小野寺達に向けた銃口を逸らす。次の瞬間、涼子の振りまわした手が、偶然ヒギンズのナイフを持った手を弾いた。

 小野寺は、反射的に叫んていた。

「ナイフと銃を狙え! 」

 言いながら小野寺は、ヒギンズの銃を持った手にサイトイン。腕に覚えは、ない。

 けれど、ここにエントリしているレンジャー徽章持ちなら難なくやってくれるだろう。

 二発の銃声が、殆ど同時に響き渡った。

 ナイフが宙を飛び、床に突き立つ。

 銃がガタンと重い音を立ててその隣に転がる。

 一拍間を置いて、怪鳥のような短い悲鳴が響き渡る。

「ぎゃっ! 」

 ヒギンズは、血飛沫を上げる両手をだらんと身体の前に垂らし、地面に膝をついていた。

 ふぅっ、と全員が、同時に溜息を吐いた。

 力が抜けた。

 視界の中で、犯人確保と人質救出の為にレンジャー隊員達がササッと足を前に進めたのが見えた。

 刹那。

 銃声や悲鳴など、なかったかのようにぼんやりと虚空に視線を彷徨わせてゆらりと立ち尽くしていた涼子が、ゆっくりと顔を足元に向けた。

「えへ」

 確かにそれは、笑い声だった。

 その証拠に涼子の口は、見事に円月刀の形を象っていた。

 ぞっとした。

 次に、過去の映像がフラッシュバックする。

 サンフランシスコ。

 五十鈴のアットホーム。

 血が滴るペンを舐める、美しい悪魔の姿。

 ヒースロー。

 銃口を自分に向けて笑いながらなんの躊躇いもなくトリガーを引いた、涼子。

 咄嗟に彼は叫ぶ。

「涼子、駄目だ! 」

 涼子はしかし、驚くほどの素早さで、銃を拾い上げた。

 それまで、空恐ろしいほどに無表情だった涼子の顔に、暗い愉悦が微かに浮かぶ。

 そしてゆっくりとマズルを小野寺に向けた。

「涼子様! 」

 堪え切れず叫んだリザの方へ、まるで音声反応のようにマズルが向けられる。

「涼子! 」

 今度は小野寺へ。

 全員、申し合わせたように、構えていた銃を下ろす。

 レンジャー隊員達ですら、あまりの予想外の事態に戸惑い、足を止めていた~射撃姿勢を崩さなかったのはさすがにプロフェッショナルだ、けれどそのマズルは半数はヒギンズへ、残りの半数は虚しく涼子とヒギンズの間を彷徨っていた~。

 どうしようもない。動きようがなかった。

 凝固してしまったUNDASNの面々を不審に思ったのか、マヤが銀環を引き摺って室内に飛び込んできた。

 一瞬で二人は、他の全員同様、固まる。

「涼子……、様……? 」

 呆けたような表情で呟いたマヤは、その場でへなへなと崩れ落ち、寸でのところを銀環に抱きかかえられる。

「涼子、銃を」

 小野寺が掠れる声で言った瞬間、涼子の洞のような瞳がキラ、と輝いた。

「涼子を苛めたひとは、みんな、殺しちゃう」

 あはは、と涼子は明るく笑った。

 瞑い笑顔に、残忍さを滲ませて。

 けれどそれは、久々に彼女が見せた、人間らしい、表情だった。

「涼子がみんな殺しちゃう」

「涼子」

 小野寺は、もう一度、呼ぶ。

 涼子は、くすくす笑いながら、小首を傾げた。

「最初は、あんた? 」

 思わずごくんと生唾を嚥下してしまう。

 妙に響き渡ったその音が、自分だったのか、他の誰かだったのか。

 妙にそんなことが気になった。

 と、その時、ガタリ、と物音がした。

 初めて気付いた。

 全員の注意が涼子に向けられている間に、ヒギンズが床に突き立ったナイフを血塗れの手で抜き取っていた。

「があああっ! 」

 野獣のような唸り声を上げてナイフを振りかぶったヒギンズの目は、涼子に向けられていた。

 涼子は笑顔のまま、手をゆっくりと回し、マズルをヒギンズへ移動させる。

「涼子、やめろ! 」

 今度は、止まらなかった。

 小野寺は、再び銃を構えた。

 任官以来、ずっと艦隊マークで艦隊勤務、ミクニーはおろか人間など撃ったことも、マズルを向けた事もない。さっきだって、レンジャーが上手く銃を弾き飛ばしてくれた。

 だから。

 ナムサン、と呟いた。

 漫画じゃあるまいし、本気でそんな念仏を唱えることになるとは、思っても見なかった。


 レンジャーのライフルがヒギンズのナイフを握った手首を吹き飛ばし、美香のライフル弾が頭をザクロみたいにかち割った時には~小野寺の撃った9m/mパラ2発は、結局ヒギンズには当たらなかった~、涼子のCzのマズルは未だヒギンズの姿を射線上に捉えていなかった。

 壊れた操り人形のようなヒギンズが、四肢を不自然にバタつかせながら、もんどりうって仰向けに床へ転がり、停止した瞬間、漸く涼子の動きが追いついた。

 その光景をスコープの丸い視界で捉えていた美香は、間に合ったか、と安堵の溜息を吐きながら、ライフルを下ろす。

 手の甲で額の汗を拭い、肉眼で再び涼子達の姿を捉えた、刹那。

 涼子が首だけで振り返った。

 銃をヒギンズに向けたまま。

「? 」

 思わず涼子の顔を凝視する。

 と、涼子は不意に眼を弓のように細める。

 唇がゆっくりと開く。

 漏れ聞こえたのは、可愛らしい、子供のような笑い声だった。

「えへへへ」

 半円形に開かれた唇~まるで、子供の描いた落書きのような~を、彼女自身の舌がペロンと舐めた。

 その仕草はまるで、照れ隠しのようでもあり、腕白小僧が自慢気に自分の武勇伝を披露しようとしている直前のようでもあり、けれど実はもっと邪悪な~例えば、悪魔が願望と魂の取引バーターを持ち掛ける直前のような~仕草には違いなく、そしてそんな涼子が美香には、背筋をぞくぞくと快感が駆け上って一瞬でエクスタシーに達してしまうほどに、艶っぽく見えた。

「涼子に意地悪するひとは、涼子が殺しちゃうよ」

 歌うような、甘い囁きが、騒然とした周囲の音という音を押し退けて、クリアに響く。

 止めなきゃ、と不意に思った。

 何を、かは判らないが、とにかく、止めなきゃ。

「り」

 けれど、呼び掛ける間もなく、涼子は動いた。

 酷薄そうな、そしてどこか淫靡な笑みを浮かべた顔を美香達に振り向けたまま。

 子供が親に、自分のお遊戯を誉めてもらいたいような表情。

 涼子は、リズミカルに6度、トリガーを引き絞った。

 ヒギンズの死体が、銃声が響く都度、踊る。

 薬莢が床に落ちる涼しげな音をパートナーにして。

「きゃ」

 マヤの悲鳴が一瞬、美香の鼓膜を震わせるが、唐突に止む。

 視界の片隅に、涼子のB副官に手で口を塞がれたマヤの姿が映った。

 涙をぼろぼろ零しながらもがいているマヤの悲鳴の続きは容易に想像できたし、その口を塞いでいるB副官もまた眼に一杯涙を溜めていて、その哀しみもよく理解できた。

 自分だって、そうだから。

 ただ、立場とか、年齢とか、心に付いた手垢とかに縛られて、涙を流さずにいるだけで。

 美香達の哀しみに気付く風もなく、涼子は機嫌の良さそうな笑顔を浮かべたまま、うふふふふ、と笑った。

 既にそれが人間の死体なのかどうかも判らないほどに損壊したヒギンズ『だったもの』を、涼子はチラ、と見て、今度は身体ごと美香達を振り返る。

「こいつ、馬鹿だよねぇ。死んじゃったよ? 」

 楽しそうだった。

「だから、涼子、言ったのに。……涼子を苛めるひとは、殺しちゃう、って」

 歌うように、そしてその歌に合せてリズムを取るように、涼子は話す。

 楽しそうに。

「涼子の裸、見た人たちは、みんな、みんな、死んじゃうの。だって、涼子が殺しちゃうもん」

 半裸の涼子の、雪よりも白い肢体に真っ赤な返り血を浴びながら笑う姿は、美しいだけに一層、残酷さが際立つ。

 美香は刹那、そんな涼子を抱きたいと考え、そんな淫らな自分の欲望に驚き、己を叱りつける。

 叱りながらも、美香は涼子の引き裂かれたブラの間に見え隠れする白い、豊満な双丘から眼を離せないでいた。

「涼子に悪戯したひとは、みんなこうなるの。おじさんだって、知らない恐いおじちゃんやおにいちゃんも、いっぱい、いっぱい血を流してたよ」

 涼子はゆっくりとした仕草で、頬に飛んだ返り血を手で拭い、それをぺろっと舐めた。

「うふふふ。みんな、涼子が泣いてても、笑って見てたクセに」

 言いながら、ゆっくりと銃を持った右手を持ち上げ、マズルで美香達を順番に舐めていく。

「みんな、弱虫泣き虫だよ、ねぇ? 」

 拭ったせいで、却って血糊がべっとりと広がった顔を、涼子はゆっくりと傾けた。

「次は、誰? 」

 瞬間、美香は初めて死の恐怖を覚える。

 覚えがあった。

 任官、卒配で乗り組んだ駆逐艦”初霜”、哨戒行動を終えて前進拠点へ単艦帰投中、敵軽巡3杯、駆逐艦2杯に包囲された初めての実戦。

 絶対死ぬ、そう思って、涙が溢れて仕方なかった。

 九死に一生を得て母港に辿り着いた後も、それでも涙は、嗚咽は、身体の震えは止まらなかった。

 その後暫くは夜毎悪夢に悩まされたし、今でも時折、魘される晩がある。

 それから今日まで、もっと際どい、死を覚悟するような戦いを何度も経験したけれど、あれほどのインパクトのある~トラウマ、と言っても良いかも知れない~戦闘はなかったと思う。

 けれど、今。

 今この瞬間は、あの実戦の時よりも、恐ろしかった。

 出そうになった悲鳴を、無理矢理飲み込んだ、刹那。

 小野寺が、一歩、前に出た。

 彼が何をしているのか、何をしたいのか、判らなかった。

 小野寺は、Czを持った右手を、だらんと下げて、もう一歩前に踏み出す。

「軍務部長」

 掠れた声で彼を呼び、釣られて一歩前へ出ようとしたリザを、美香は反射的に手で制する。

 リザを止めて数瞬の後、美香は初めて理解した。

 壊れた涼子を止められるのは、彼しかいないのだ、と。

 だから、インカムに、囁くように指示を吹き込んだ。

「突入分隊、艦長より達する。全員、軍務部長より後ろへ下がれ」

 銃口マズルを涼子に向けたまま、音もなく後退していくレンジャー分隊と入れ替わるように前に出た彼の、聞き慣れた声が静かに響いた。

 普段通りの、無愛想な喋り方だった。

「涼子。もう、いい。一緒に帰ろう」

 刹那、涼子の残酷そうな笑顔が、曇る。

「銃を仕舞え」

 涼子のマズルは、しかし真っ直ぐ彼に向けられたままだった。

 再び、涼子が微笑んだ。

「……次は、おじさんだね? 」

 一瞬、ムッとした表情を浮かべた小野寺を、美香は場違いながら可笑しく思った。

 しかし彼は、すぐに無表情に戻って、ゆっくり、ゆっくり、涼子へ近付いていく。

 それにつれて、涼子の表情からは笑みが消え、不安そうな表情に塗り変わって。

「来るな……。やだ、来るなよぅ。……駄目だったら、来ちゃやだよぅ」

 泣きそうな表情で、イヤイヤするように首を振る涼子の眼に、みるみる涙が溜まっていく。

 久し振りに見た、涼子らしい表情だ、と美香は懐かしささえ感じた。

「来るなあっ! こっ、殺すよ! 」

 とうとう堪え切れず涙を零すと同時に発した大声は、しかし小野寺には効果がないようだった。

 小野寺が歩み寄るたび、涼子は銃を構えたまま、徐々に後退さり、とうとう壁際にまで追い詰められる。

 小野寺は、5mほど間隔を取って歩みを止めると、無言のまま、ドレスブルーの上着を脱いで、片手で涼子に差し出した。

「羽織れ。風邪ひくぞ」

 涼子はぼろぼろと涙を零しながら、恐怖からか、顔を歪ませ、湿った、震える声を上げる。

「なんで、涼子を苛めるの? ……おじさん、そんなに殺されたいの? ……いったい、涼子になにするの、そんなにおじさん、死にたいの? 」

 平坦な、冷静な口調だった彼が、不意に、優しく語りかけた。

「なぁ、涼子。……俺は別に死にたい訳じゃないし、殺されたい訳でもない。もちろん、お前を苛めようとしているわけでもない」

「じゃあ、なんでこっち来るの? 」

 叫ぶ涼子に、小野寺は、ゆっくりと頷きかけた。

「約束を守ろうと思って、な」

 涼子の唇が、「どんなやくそく? 」と動いた、ように美香には思えた。

「二人で、生きていこう、って約束だ」

 涼子の瞳に、光が戻った。

 けれど。

 それは哀しみの光、だったように、思う。

 次の瞬間、顔全体で絶望を表わした涼子は、叫んだ。

 悲痛な叫びだった。

「だって、私……! もう、汚されちゃってたんだもの! ずっと昔に、穢されちゃってたんだものっ! ……もう忘れてたのに! 思い出したくなかったのにいっ! 」

 肺の中の空気を全部吐き出すような、吐血するのではと思うほどの絶叫の後、涼子は空いていた片手を銃把に添えて、掠れた声で呟いた。

「やっぱり、意地悪、だもん」

 涼子がゆっくりと瞼を閉じた。

 銃声が響いた。

 長い睫が、揺れたように見えた。

「艦長ッ! 」

 美香の叫びが合図だったかのように、小野寺の背中から、真っ赤な噴水が真横に噴き出した。

 少し遅れて、貫通した9ミリ弾が壁に当たって床へ落ちる音が響いた。

「……涼、子」

 どくん、どくんと間欠泉の様に背中から、そして左胸から血が噴き出し、みるみる足元に血溜りが広がっていく状況で、小野寺の声は、それでもやっぱり無愛想で、けれど優しかった。

 涼子が、ゆっくりと瞼を開く。

 その黒い瞳が、どんどん大きく見開かれていく。

「さあ……。涼子……」

 美香の位置からでも、涼子のその黒曜石のような瞳には彼の姿だけが映っていて、それがゆっくりと大きくなっていくのが、はっきりと見えた。

 瞳の中の小野寺が、遂に彼だと判らない程大きくなって、涼子は耐え切れなくなったのか、唇を震わせて顔を背ける。

 小野寺の、上着を持った手がゆっくりと、しかしぶるぶると震えながら動いて、涼子の身体にぱさっとそれを落とした。

「さあ、涼子。……終わりだ。よく、頑張った、な」

 涼子の視線が、真っ直ぐに彼の右手に向かっているのが判った。

 彼の手に握られた、Cz。

 そのグリップに巻きつけられた、場違いな、彼に似合わぬ緑色のリボンの意味は、美香には判らなかったけれど、涼子がそれを凝視していること、そして凝視している黒い瞳がみるみると知性と理性の輝きを取り戻して宿し、覚醒していくことだけは、はっきりと判った。

 涼子の手から、銃が滑り落ちる。

 銃を手放した両手が、ゆっくりと動き、彼の首に巻きついた。

 回された両手首の荒縄が痛々しかったけれど、涼子の、涼子らしい感情溢れる声が、美香の耳には懐かしかった。

「艦長ぉ……。私……」

 小野寺はもう腕を上げる力も残ってはいなさそうで、けれど、はっきりと呟いた。

「いいんだ。黙ってろ」

 堪えていた涙が瀧の様に流れ、涼子の頬の血を洗い流す。

「うっ、うっ、うえっ……。ううう、うわ、うわああああああああん! 」

 涼子は子供の様に彼にむしゃぶりついて泣き声を上げる。

 涼子の、長く美しい、真っ白な脚が、みるみる小野寺の血で真っ赤に染まっていく。

「艦長、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 私、こんなに汚されて……、ごめんなさいいいっ! 」

「もう、謝らんでいい、涼子。……お前が無事なら、もう充分だ」

 彼は言いながら、涼子の返り血と涙に塗れた頬へ唇を落とした。

 涼子は少しだけ困ったような表情を浮かべ、ゆっくりと眼を閉じながら、歌うように、日本語で、彼女の故郷の訛りで言った。

 美香と小野寺以外、誰も判らなかっただろうお国訛りの彼女の言葉を、美香は生涯忘れないだろう。

「えへ……。私、こないに……、汚れてしもうたのに……。こないに幸せで……、ええん……、か、なぁ? 」

 そのまま膝から崩れた涼子を、小野寺は支えきれず、二人床に倒れこむ。

 今度こそ、我慢できなかった。

 我慢できなくたって、構うものか。

 美香は堰き止めきれず、堰を切って溢れる涙をそのままに、インカムに囁きかけた。

「メディック、ブルズアイへエントリ。重傷者WIA2名だ。犯人は死亡、ボディバッグを。突入班はブルズアイの周辺警戒、関係者以外立ち入らせるな、B中隊、車両全車は撤収準備、A中隊はブルズアイから半径500mの周辺警戒、英国陸軍関係者といえども近付けるな。警務小隊、現場整理にあたれ。あぁ、それと本艦へ連絡、WIA搬送用に救難機を向かわせろ」

 美香はゆっくりと立ち上がると、手に持ったH&Kをガランと投げ出し、大きく洟を啜り上げてから、左右を顧みて、立ち尽くすコリンズ達に、掠れた声で言った。

「なにをボヤボヤしてる。動かんか」

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