第120話 17-10.


「うわああああぁぁあぁぁああっ! 」

 身体に突き刺さるみたいな、鋭い、狂ったような涼子の悲鳴に、ヒギンズはぎょっとして手を止め、獲物の顔を見る。

 涼子の細い手足がブルブルと震え始めたかと思うと、忽ち壁に涼子を張りつけていた4本の荒縄を止めた太い釘が壁から抜け落ちた。

「な、なんだっ? 」

 予想外の馬鹿力を見て、思わずヒギンズは涼子から、数歩後退する。

「わあああああっ! 」

 涼子は野獣じみた叫び声を上げながら、両手で頭を抱え、その場に蹲る。

「こ、壊れた、の、か? 」

 呟いた途端、涼子の声が倉庫に響いた。

「そうだったんだ……」

 蹲った涼子が、両手を頭から放し、ゆっくりと顔を上げ、もう一度、繰り返した。

「そうだったんだ……」

 その顔を見て、ヒギンズは思わず息を飲む。

 普段見慣れた、けれどけっして飽きることなどない、憧れ続けてきた、明るく知性的な、奇跡のように美しい表情はとっくに消え失せていた。

 そして、拉致してからこれまでの弱々しい女性としての儚さや恐怖に震える姿から滲み出る、背筋がゾクゾクするような色気も今は、ない。

 ただ、そこにあるのは。

 絶望や哀しみ、その他人間の持つありとあらゆる感情とは無縁の、唯動物として生存する為だけに最低限必要な機能しか備えていない、無表情。

 いつも眩しくみつめていた理知的な煌き、ついさっき見せた涙に潤む絶望の暗い輝き、そんな光という光を全て失った、まるでブラックホールのような、ただの暗い穴と化した、瞳。

 それだけ。

 人は、理性や知性、人間としての尊厳を手放した瞬間、これほどまでに汚らしく朽ち果ててしまうのか。

 そして、聖女のように煌めく美しさを放っていた、同時に妖精のような無垢な彼女を、ここまで穢したのが自分である事を改めて認識した時。

 ヒギンズは、涼子への生理的な嫌悪感を覚えると同時に、嘗て感じたことのない恍惚感が胸の奥から溢れ出し、あっという間に絶頂へ昇り詰めた。

 ヒギンズが我に帰ってビクリと身体を震わせた瞬間、獣のように四つん這いで蹲っていた涼子がゆっくりと上半身を起こした。

 まるで休憩から戻った人形遣いが人形の紐を手繰り寄せたかのように、涼子は何の予備動作もないまま、唐突な動きでぴょこんと立ち上がり、そのままフラフラとよろめいて壁に凭れると、今度はその紐が切れたように、ペタリとその場へ座り込んでしまった。

「……なんだ? 」

 思わず口から出た疑問にまるで答えるように、涼子の、唾液で怪しく光る~ヒギンズには、まるでそれがミミズがのたくっているように思えた~唇が開いた。

「私は……、もう……、あの時……。汚れちゃってたんだ……」

 日本語だった。日常会話程度なら問題ない彼の日本語力が、涼子にとっては~いや、ヒギンズにとっても、か? ~不幸だった。

 涼子がガックリと首を項垂れて、続いて呟いた言葉がヒギンズを激昂させた。

「ごめんな、艦長。ごめんなぁ……。私、もう……、もう、艦長と一緒に歩いていかれへん……、みたい……」

 ヒギンズは最後のセリフを聞いた途端、ナイフを逆手に持ち直した。

 全てが憎かった。

 氷のように冷たい笑みを浮かべ、無言のままサイン済みの離婚届を差し出した妻が、憎かった。

 胸に燻り続ける絶望の感情、敵地のど真ん中に放り出された、救出までの気の遠くなるような死の恐怖との戦い。

 そんなあれこれを綺麗に洗い流してくれた、涼子という上官への想いは、恋だった。

 まぎれもなく、恋だったのだ。

 それほど愛し、求め、遂に手に入れた奇跡の様に美しい女神である涼子を、自ら徹底的に破壊し尽した自分が、憎かった。

 そしてなにより、これほど徹底的に破壊されても尚、心を込めて艦長と呼んでもらえるあの男が、憎かった。

 そして、自分にそんな醜い現実を叩き付けた涼子が、殺したくなるほど、憎かった。

「くそおっ! ……み、みんなで寄ってたかって、俺を馬鹿にしやがってっ! 」

 ヒギンズは涼子に駆け寄る。

「殺すっ! 今すぐ殺すっ! こ、殺してやるっ! 」

 眩しい憧れの象徴だった涼子の黒髪を乱暴に鷲掴みにし、項垂れた頭を持ち上げたヒギンズは、けれど振りかざしたナイフを、ポトリと落とした。

 涙や洟水、涎にまみれた顎から雫となって垂れた彼女の体液は、ありとあらゆる汚物を煮詰めたようにも見えて、夢のように白い、豊満な胸へ、ポツリ、ポツリとゆっくりとしたリズムで滴り落ちる。

 そんな、爪の先程の意志の欠片も感じられない涼子の、唇の端が、僅かに持ち上がったのだ。

 それは。

 笑っているように見えた。

 なんの感情もなく、ただ、生理的な欲求のみに突き動かされて浮かべる笑みの、陰惨な翳に、ヒギンズは根源的な恐怖感を覚える。

「ひ……、ひいいっ! 」

 尻餅をついて彼女の頭をボールのように放り投げ、そのまま手と足を動かして、彼女との距離を取る。

 指に絡みついた数本の髪さえ、汚物のように思え、狂ったように手を振り回し払い落とす。

「く……、くそっ! 」

 飼い犬に手を咬まれたような悔しさと敗北感が募り胸から溢れ、再び怒りが恐怖を乗り越えて、ヒギンズが落としたナイフに手を伸ばした、刹那。

 耳を劈く轟音が建物を揺らし、ヒギンズの頭の中で暴れ回った。

「な、なんだ? ……なんの音だ? 」

 やがて我に帰り、銃を握り直す。

 見張り用として脚立を立てかけておいた換気口に駆け寄り、数度ステップを踏み外しながらも昇って、外を覗いた。

 驚いた。

 死ぬかと思った。

V107バートル? 」

 ぎらつくサーチライトを地上に向けて縦横無尽に刺し込みながら、何機もの大型輸送用VTOLが、地上数十mを乱舞していた。

 英国陸軍ロンドン師団が、この戴冠式ウィークに、暢気に演習などする筈はない。事前に、国防省に何度も入念に確認して、それでここを撮影スタジオに選んだのだ。

 それが、なんで、ここに?

「いや、待て」

 このエンジン音。

 大気圏内用じゃない。

 第一、英国陸軍のV107のエンジンは、ホイットニー社製じゃなく、ロールスロイス社製を積んでいた筈じゃなかったか?

 とすると。

 ヒギンズは再び、換気口から外を見て、息を呑んだ。

 あの機体、機首下部のHMD連動ミニガン、迷彩塗装カウンター・シェード、尾部のマーク。

 UNDASNだ。

 そしてどてっ腹に描かれたインシグニアは。

「サラトガだとっ? ……な、なんで、正規軍が展開してるんだっ? 英国領内、しかも首都グレーター・ロンドンのど真ん中だぞっ? 」

 次々と黒い空から完全武装の陸戦隊員がラペリング降下してくる。

 着陸、接地したV107の尾部スロープドロップ・ゲートからは空母搭載の軽装甲機動車LAV高機動車HMVが次々と吐き出されている。

 辺りは光と轟音の洪水だった。

 ヒギンズは、眼の前で繰り広げられるまるで映画のような光景をみつめながら、考えた。

 本当に、死ぬかも知れない。

 だが、まだ、俺は涼子を抱いてない。

 脚立の上から、床に蹲り何やらブツブツと呟き続けている涼子を振り返った。

 けれど、俺は今、本気で。

 この、人間をやめて動物に成り果てた卑しい白痴の雌豚を、俺は本当に抱きたいのか?

 一瞬、そんな疑問が過る。

 が、とにかく今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 なんとかしないと。

 開け放してあった換気口の蓋を慌てて閉めて再び振り返ると、『涼子だった筈の』白痴の女は、なにやら聞き慣れぬ歌を歌いながら、洞のように真っ黒な瞳を、虚空に泳がせていた。

抱く抱かないの話どころではないのだ。

 今は、今自分の置かれた絶体絶命の状況は打破するためには、『この獣』を使って何とかするしかない。

 コイツを抱くのは、後回しだ。

 自分まで動物になったような気がした。

 いや、人間なんてとうの昔にやめていたんだ、とすぐに気付いた。


 小野寺達が、捜索に加わっていた警務部や情報部と一緒に現場に到着した時、すでにサラトガのV107は建物の周囲に着地し、陸戦隊は殆ど展開を終わっていた。

 美香が駆け寄って来て、さっと敬礼する。

「おう、ご苦労」

 答礼する小野寺に、美香は一瞬笑顔を浮かべた。

「お手柄だった。よくホーネットやホークアイを上げてくれていた」

「光栄でありますっ! 」

 美香は自慢げに、ボディーアーマーを着込んでいるにもかかわらず、その地球の重力を無視して見事な形を維持している胸を張る。

「女の勘って奴です、軍務部長」

 美香はすぐに笑みを消し、背後にある倉庫を振り返った。

「それより、どうします? 完全包囲はしましたけど。倉庫内の図面は未入手ですが、上空からの分析では平屋、出入り口は1ヶ所だけ、窓なしパーティションなし、換気口が3ヶ所ありますが人の出入りは無理な大きさ、蓋は閉まってます。ご存じの通り、耐爆構造です」

 美香はガンナーズ・グローブを嵌めた手を伸ばし倉庫を指差す。

「取り敢えず、破城槌バッティング・ラムと『ソーセージ』は持ってきましたけど、耐爆構造ですからそれで抜けるかどうかは判りません」

 『ソーセージ』とは、プラスティック爆薬をチューブに詰めて、それこそソーセージの様な形状にして壁に張りつけるものだ。壁抜き等に使われる。

 コリンズが倉庫を見ながら呟く様に言う。

「突入は……、無理かな」

「人質がいるんですよ! 」

 リザが怒声を上げるのを、コリンズはさらりとスルーし、美香に顔を向けた。

「それ以前の問題として、室長代行は無事かどうか……。どうです、須崎一佐? 」

 美香は腕を組み、うんと唸ってから早口で答える。

現着エントリ直前のホークアイのレポートだと、生体反応は2体。でも、うち1体は反応が弱いって」

 美香の言葉を聞いたせいか、小野寺の背中に隠れるように立っていたマヤが、ウッと声を上げた。

 その声が届いたらしく、美香が不審そうな顔をして小野寺の背後を覗き込んだ。

 ああ、拙いなと思っていると、案の定、美香の声が大きく響いた。

「マ、マヤ殿下? 」

 美香は小野寺に掴みかからんばかりの勢いで迫った。

「ちょ、ちょっと軍務部長! なんでこんな危険な現場に殿下がいるんです? なにかあったらどうすんです? あんた、馘になりたいんですかっ! 」

 彼は苦笑いで肩を竦める。

「色々あって……、な」

 チラ、と振り向くと、マヤは身体を小さくしてペコリと頭を下げた。

「それはともかく、だ」

 小野寺はヒップアップホルスターからCzを抜き、セイフティを外しながら周囲を取り巻く面々を見渡して、言った。

「生体反応が弱いってのが涼子だと仮定する。となると、持久戦って訳にゃいかん。俺達は警察じゃない。軍隊だ。俺達のやり方で、さっさと涼子を救い出す」

 全員が、無言のまま、しかしその瞳にそれぞれの感情を浮かべ、力強く頷く。

「よし。……須崎一佐。サラの陸戦隊は突入準備レディ・エンゲージ。君の指示でいつでも攻撃できる態勢を取らせろ。壁抜きじゃなくて出入り口のドアを抜こう。ソーセージはドアとその周辺の外壁に集中させろ。突入はドア抜き後にレンジャー徽章持ち……、あぁ、分隊選抜済みだな? じゃその分隊を突入させる。それと、ガスや煙幕は今回は使うな、涼子の生体反応が弱いのが気になるからな。音響閃光手榴弾フラッシュ・バンだけにしとけ、まあ、ヤツもプロだ、対策はしてるだろうから、効果は期待できんが。車両は後詰めだ」

 美香は不服そうな表情を浮かべていたが、やがて渋々と言った顔つきで投げやりな敬礼をして命令を受領した。

「アイアイサー。パドス中隊長、本隊を指揮しろ。アトラス二尉、突入小隊集合、突入準備エントリ・セット! 」

 美香に頷き返し、小野寺はコリンズ達に顔を向ける。

「まず、ソーセージでドア抜きしたら、レンジャー小隊エントリ、フラッシュバンに全員備えろ。続いて俺、須崎、コリンズ、マズアの四人でそこから突入。ショートランド三佐は後詰めで周辺警戒、須崎艦長に代わってサラトガ部隊の指揮官オーバーロードとの連携を行え。李一尉はすまんがマヤ殿下を護衛してくれ。他の警務部、情報部は陸戦隊後方で待機、本部CP情報のモニタを。万一犯人、人質を取り逃がした場合は即座に追跡に移れるよう、車両はアイドリングで待機させろ」

 全員を見渡し、彼は密かに吐息を零す。

 やれやれと思いながらも、決まり文句。

「以上だ。何か質問は? 」

 全員が、一斉に口を開いた。

「部長、いけません! 」

「私が先鋒承ります! 」

「奴は自分の部下です、自分が真っ先に」

「部長はどうか後方で殿下と。代わりに自分が突入します」

 そこは、全員声を揃えて「アイアイサー」だろう、と苦笑いを浮かべつつも一蹴する。

「却下だ」

 小野寺の言葉に、全員が口を噤んだ。

 が、一人無言のままでいた美香が、沈黙を破った。

「艦長」

 昔の呼び名に戻っていたが、小野寺は黙って顔を向ける。

 小野寺に次ぐ階級を持つ彼女だ、言わせるだけ言わせよう。

「お気持ちは判りますが、ここは実効制圧力を考えて」

 小野寺は思わず、苦笑を浮かべる。

 と、何かを感じ取ったのか、美香は不意に口を閉ざした。

 小野寺は、真っ直ぐ、倉庫をみつめた。

 涼子がいる筈の。

「貴様等の理屈や想いは理解できるが、やはり、ここは俺が先頭に立つ。……立たなきゃ、ならん」

 美香が、意地の悪そうな笑顔を浮かべた。

「それは、恋人としての責任感? 」

 なんとまあ、美香らしい言い方だ、と小野寺は感心しつつも、首を横に振る。

「そんな下らんもんじゃないさ、須崎」

 視界の隅で、リザと銀環、マヤの顔が、怒りの表情を浮かべたのが見えた。一人美香だけがニコニコと微笑んでいる。ああ、コイツ、メンドクセェ。

「考えても見ろ」

 やれやれ、と肩を竦めて、再び苦笑を浮かべる。

「俺が最初に突入しなきゃ、一生、尻に敷かれちまう」

 きっと照れ笑いだと、バレているだろう。

 顔が赤くなっているのが、自分でも判るほどだから。

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