第119話 17-9.


 まず、頭痛が起きる。頭が心臓になったような、ズキン、ズキンと脳が鼓動を打っているのかと思うほどの、リズミカルな痛みだ。

 いったん始まると、短い時で1時間くらい、長い時なら半日くらい、この頭痛に悩まされる。

 それでも最初は、2週間から3週間に一度、あるかないかくらいの頻度だった。

 それが、ここ数ヶ月はだんだん酷くなってきる気がするのだ。痛みも、時間も。

 そして頭痛を覚えた直後の睡眠では、悪夢に魘される。

 どちらが上か下か、左右もよく判らない、灰色の深い霧の中で気味の悪い浮遊感を覚える。はっきりと『見えている』のは確かなのだが、視界には何も映らない。やがて、ぼんやりと何かが浮かび上がってくる。最初のうちはそれが何なのか、判然としなかったのだが、最近、それがこちらに背を向けてしゃがみ込んでいる人間であるように思えてきた。

 そして、1ヶ月くらい前から、この夢に『音』と『匂い』がつき始めた。

 聞いているだけで死にたくなってしまいそうな、儚げな、悲しげな、女性のすすり泣く声。

 どうやら、背を向けている人物の声のようだ。それにしても、あれはいったい誰なんだろう?

 声をかけようかとも思うのだが、思いとは裏腹に、足が竦んで近寄ることが出来ない。

 それは涼子の、生物としての警戒本能故か。

 ”彼女”と接することは、涼子自身の破滅に繋がる、そんな気さえする。

 そしてもうひとつ、”彼女”に近寄れない理由は、どうやら”彼女”が発しているらしい『異臭』のせいだった。

 思わず顔を顰めてしまうほどの、生臭い臭い。生物の体液や血液の生臭さなのか、腐臭なのか、あるいはそれら全てが入り混じっているのか。

 夢でも、臭いを感じるのが、不思議だった。

 そして大抵、ここで飛び起きる。


 ああ、今日もまたあの夢だ、と涼子は一人、納得する。

 これは夢だとはっきりと判る。

 明晰夢。

 だったっけ?

 なんか、聞いたこと、あるもの。

 どちらが上か下か、左右もよく判らない、灰色の深い霧の中で気味の悪い浮遊感。

 見えていることは確かなのに、何も映さない網膜。

 あれ、と涼子は思わず首を傾げる~傾げたつもりだが、結果、ちゃんと傾いたのかどうかはあやふやだった~。

 でも、この夢は、あの頭痛の後に現れていた筈なのに。

 今日は、頭痛で悩まされた覚えがない。

 ……それとも、記憶にないだけかしら?

 悩んでいても仕方ないので、『見えているのに見えない』瞳をきょろきょろと動かしてみる。

 耳にも掌を添えて、まるでパッシブ・ソナーのように。

 少しお行儀が悪いけど、鼻も、くんくん、ひくひくと。

 もしもこれが、『あの』夢だったなら。

 もうすぐ、ぼんやりとだけど『誰かが見えて』、『泣き声が聞こえて』、『異臭が漂ってくる』筈だから。

 ……でも、これって、なんだかそれを待っているみたいで、嫌だな。

 本当は『あの夢』だ、と判った瞬間から、目覚めたくて、現実へ戻りたくて、たまらないのに。

 思わず唇を突き出してしまった刹那、灰色の靄の中から、ゆっくりと、何か……、いや、誰かの姿が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

 やっぱり、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいた。

 いつも通り。

 そしてこれも、お決まりの、泣き声。

 切なくて、哀しくて、絶望を音で表わすとこうなる、と言う見本のような啜り泣く声が、耳に届く。

 そして、あの異臭も。

 居た堪れなくなるほどの、動物として本能的に避けたくなる、厭な、不快な、臭い。

 ああ、やっぱり。

 いつも通りの、夢。

 ……だったのは、そこまでだった。

 ぼんやりしていて、漸く人間だと判る程度だった蹲る後姿の人物が、どんどんと明瞭になっていくのだ。

 あれ、やだ、なにこれ、いったいどうなってるの?

 経験のない事態に驚き戸惑っているうちに、後ろ姿の人物は、まるでスポットライトが当たっているかのようにはっきりと視界の中に浮かび上がっていた。

 中学生か高校生くらいの女の子が、蹲り、身体を震わせ、泣いている。

 白い半袖のシャツかブラウスを着ている子だ。

 次に、匂い。

 いつもなら顔を顰める程度だった異臭も、どんどん強まり、今や、吐き気を催す程である。

 そして、音。

 儚げな泣き声の合間に、呪うような、懇願するような、途切れ途切れの言葉が聞こえ始める。

 『厭』、『もうやだ』、『助けて』、『お母さん』、『お父さん』。

 そして、いつもと決定的に違ったのは。

 普段なら一歩も動けずにいる筈の自分が、動けるのだ。

 生理的な嫌悪感から、動けるのなら、今すぐにでも彼女に背を向け逃げ出してしまいたい筈なのに、けれど。

 その女の子の泣きじゃくる姿が痛々しくて、もう、見ていられない。

 そう思った瞬間、涼子の足は、一歩、前に踏み出していた。

 ゆっくりとその子の背後から近寄る。

 嗅覚が慣らされたのか、いつの間にか異臭はそれほど気にならなくなっていた。

 慰めてあげたい。

 一緒に泣いてあげたい。

 そう考えて開きかけた唇が、はたと止まる。

 私は夢の中で、喋ることが出来るのだろうか?

 戸惑っている間にも、啜り泣く声に混じる断片的な言葉が、涼子の感情を波立たせていく。

 『厭』、『もうやだ』、『助けて』、『お母さん』、『お父さん』。

 思い切って、声を掛けてみた。

「ねえ、貴女……? 」

 普段通りの声が出て、密かに安堵の吐息を落とした。

「どうしたの? どうして、そんなに泣いてるの? ……何がそんなに哀しいの? 」

 けれど、その子は答えない。

 洟を啜る音、苦しげな呼吸音の合間に、絶望を嘆く嗚咽だけが聞こえる。

「もしよかったら、おねえさんに、話してみてくれないかな? 」

 その子は両手で顔を覆ったまま、今度は涼子の呼びかけに応えた。

「おねえさんに話しても、どうにもならないわ」

 涙声だが、聞き覚えのある声だった。

 と言うことは、彼女はやはり、自分の知り合いなのだろうか?

 まあ、夢に出てくるくらいだし。

「どうして? 」

 その子は、ゆっくりと立ち上がり、両手で顔を覆ったまま振り返る。

「……だって」

 女の子は、ゆっくりと顔から掌を離す。

 ああ、駄目だ。

 いけない。

 見ちゃ、いけない。

 何故だか、そんな声が頭に響き、涼子は慌てて踵を返そうとする。

 けれど、さっきまで動けていた筈の身体は、まるで自分のものではないように、ぴくりとも動かなかった。

 已む無く、瞼を閉じようとする。

 が、睫一本、揺らす事すら出来なかった。

 涼子は、悟った。

 ああ。

 私は遂に。

 触れてはいけない、思い出してはいけない『過去』に、手を触れてしまったんだ、と。

 そして。

 きっと、自分の未来には、幸せなんて二度と訪れる事はないのだろう、と。

「だって、私は」

 泣きそうになりながら、けれど涙すら流す事も出来ず、涼子は女の子をみつめ続ける。

 俯いていた顔が、ゆっくりと、上がる。

 その顔が闇にほの白く浮かび上がった瞬間、涼子は悲鳴を上げそうになった。

「私は、貴女だもの」

 自分だった。

 予想通りで、だから予定通り。

 悲鳴を上げた。

 つもりだった。

 けれど、自分の声は遂に耳に届かず、そのかわり、視界がみるみるうちに明るい光に満たされて、なにもかもが溶けて消え去った。


 目覚めたのだ、と涼子は気付いた。

「ここは……? 」

 室内だということは判ったが、薄暗い裸電球ひとつだけ灯った、見覚えのない部屋のように思えた。

 灯りの下に男性らしき人物が立っていて、影を涼子に落としていた。

 だから余計に薄暗く感じるんだな、と納得した。

「目が醒めましたか? 1課長」

 逆光で誰だか判らない男が、訊ねかけてきた。

 今度こそ聞き覚えのある声で、涼子は心底安堵した。

「スタックヒル……、補佐官? 」

 ああ、武官事務所だったんだ。

 うたた寝しちゃったんだわ、きっと。

 ほっと溜息を吐き、辺りを見回して、自分の認識が間違っていることに気付く。

 そして、一気に思い出した。

 そうだ。

 バッキンガム宮殿で。

 彼に何か注射されて。

 ……攫われたんだ、私!

 慌てて手足を動かそうとするが、動かない。

 手首、足首を見ると荒縄が巻きついていて、壁に縛り付けられていることを理解した。

 気が遠くなりそうになる意識を、とにかく手放すまいと必死に自分を叱咤して、眼の前のヒギンズを睨みつける。

 薄暗さに眼が慣れたのだろう、今やはっきりそうと判る、いやらしいニヤニヤ笑いを浮かべる彼の表情から目を逸らしそうになる自分を叱咤して怒鳴りつける。

「ど、どういうつもり、補佐官! このロープ、早く解きなさいっ! 」

 ヒギンズは気味の悪い笑顔を貼り付けたまま、ゆっくり近付いてくる。

 いつも事務所で見慣れていた、明るく活発な部下と同じとは思えない、下衆な笑顔。

「どういうつもりか、って? あんた、判ってくれてなかったんだ? 」

 その右手にはコンバットナイフ、左手には涼子のCzが握られている。

「俺はね? ……あんたが欲しくて、あんたが抱きたくて堪らなかったんだよ、今日まで」

 ヒギンズはペロッとナイフを舐める。

 やっぱり涼子には、眼の前にいる男が、自分の知る『駐英武官補佐官ヒギンズ・スタックヒル三等空佐』と、どうしても同一人物には思えなかった。

 彼はクケケと気味の悪い笑い声を上げ、すぐに怒りも顕わにした表情を浮かべた。

「あんたが悪いんだよ、1課長、いや、涼子……。あんたが欧州1課にさえこなきゃ……。俺は、こんな事しなかった。あんたが俺を誘うから、ついノッちまった。だから、あんたが、悪いんだ……」

 ヒギンズの、瞳孔が開きっ放しの眼が、妖しく光る。

 その光は、狂気そのもの。

 涼子は、彼の言葉とその眼で、全てを一瞬のうちに理解した。

 あの視線、あの意地の悪そうな声。脅迫状だって、きっと。

 彼だったのだ。

 けれど、理解は何の解決も齎さず、ただ、絶望の色を鮮やかに浮き立たせるだけだ。

 頭が、これだけは『いつも通りの』リズミカルな痛みを感じ始める。

「頭、痛いよぅ……」

 涼子の思わず呟いた言葉はしかし、狂ったヒギンズの耳には届かなかったようだった。

 届いたからといって、彼がリザや銀環のように薬や水をくれるとは思えなかったけれど。

 優しく可愛らしい副官達に、無性に会いたかった。

「いや、元を正せば、戦争が悪いのかな? ……俺、撃墜されて以来、さあ? ……不能になっちまったんだよ」

 そう言ってヒギンズは、ベルトを外してズボンを足元に落とした。

 脳はそれを激しく拒否しているのに、身体が全く、反応しない。

 顔を背ける事も、眼を逸らす事も、瞼を閉じる事すら、ままならない。

 ただ、ひたすら、頭が痛い。

 割れるように。

「頭、痛い。お水……。リザ、銀環……」

 ヒギンズは、さも愉快そうに口を歪めてハハハッ、と笑う。

 甲高い笑い声が、頭痛を増幅させるみたいに思えた。

「苦しそうだね、涼子。そうだ、それだよ。そんなあんたが見たかったんだよ」

 ああ、お薬、頂戴。

 頭、痛いの。

「俺はね、涼子。女が苦しんでるところを見ないと、ダメなんだよ。……戦争とあんたのお蔭で、ヘンタイになっちまったんだよ」

 ヒギンズはそう言うと、UNDASNの制服をその場で脱ぎ捨て、シャツとトランクスだけになり、壁にあるスイッチに触れた。

「! 」

 目も眩むような光の洪水に、涼子は漸く、遠ざかりかけていた意識を現実へ留める事に成功する。

 成功報酬は、羞恥と絶望だったけれど。

 明るさになれた眼が最初に捉えたのは、三脚にセットされた家庭用のビデオカメラだった。

 続いて得た視覚情報は、今、自分とヒギンズがいる場所が、どうやら何処かの、窓ひとつない、倉庫らしいこと。

 黴臭い匂いに涼子は咳き込む。

 倉庫。

 ビデオ。

 縛られている、私。

 ああ。

 同じだ、『あの時』と。

 私、『また』、犯される。

 刹那、疑問が脳裏を過る。

『また』?

『あの時』?

 これは、デジャヴ?

 いや、違う。

 これは、記憶だ。

 誰の?

 私の。

「やぁ……」

 顎を乱暴につかまれて顔を持ち上げられる。

 一層酷くなる頭痛で霞む眼に映ったのは、ヒギンズの醜く歪んだ顔だった。

「そのエロティックな身体を、あられもない恥ずかしい姿をあのカメラで録画して、あんたがその綺麗な顔を歪めて泣き喚く恥ずかしい様子を全世界にネット配信するんだ……。全世界の間抜けなブタ共に、いいだろう、羨ましいだろうって自慢するんだよ。へヘ。へへへっ」

 彼の言葉の半分も涼子は理解できなかったけれど、たったひとつ、判った事がある。

 これは、デジャヴ、錯覚なんかじゃない。

 確信を得て、涼子は、何故か安心してしまい、すると涙が一滴、頬に零れた。

「ああ、いいねえ、涙。やっぱりアンタ、俺を誘ってたんだね」

 ヒギンズは、ナイフを器用に、リズミカルに動かして、涼子の着ている服を切り裂いた。

 最後に、胸の谷間にナイフを鼻歌交じりで差し込んで、一気にブラジャーを弾き飛ばす。

 胸を締め付ける窮屈な拘束から開放された途端、けれど涼子は全ての自由を奪われた事を知って泣き叫ぶ。

「きゃああっ! いやあ、いやいやいやあっ! やめて、やめてえっ! 堪忍、堪忍してよぉっ! 」

 涼子の絶望で真っ黒に染まった、血を吐くような悲痛な叫び声は、しかしヒギンズの欲望を沸き立たせる触媒にしかならなかったようだ。

「ああ、いい声だ。いい声で、鳴いてくれる」

 ヒギンズは手を叩いて狂ったように笑い喜び足をばたつかせ、やがて自分の着ているシャツを脱ぎ捨て、トランクスだけの姿になって、恍惚とした表情を浮かべた。

「そうだ、いいぞ。もっと泣け。鳴け、喚け。……俺は、あんたを自由に出来る、この日が来るのを、……夢に見るほど、待っていたんだ! 」

 ああ。

 ああ。

 誰か、助けて。

 艦長、助けて。

 助けてくれるって、守ってくれるって、約束したよね?

「艦長ぉ」

 嗚咽とともに吐き出した愛する人を求める声は、ヒギンズの勝利の踊りを止めた。

 涙の膜の向こうに、ヒギンズの顔が怒りでどす黒く染まり、醜く歪んでいるのが見えた。

「艦……、長……? 」

 割れるような頭の痛みに涼子は耐え切れず、うんうんと頷いてしまう。

「小野寺か? 小野寺だなっ! 」

「助けて……」

 絶望の果ての哀願が、どうやらトリガーになったようだった。

 頬に激しい痛みが走る。

 痛い、と感じる暇もなく、何度も何度も殴られた。

 顔が火傷を負ったみたいに熱く、口に広がる血の味が胸をむかむかとさせる。

 頬を伝う涙の冷たさが、気持ちよかった。

「あああ、あんなやつ、どこが良いんだ? ……あんたは、俺のものだ! ……あああああんたは、もう、し、死ぬまで、俺の奴隷なんだよ……。諦めろ……。あんたはこれからの一生、俺だけの為に生き続けるんだ! 」

 ヒギンズが何を言っているのか、何を言いたいのか、もう、涼子には理解できなかった。

 ただ、ひたすら、小野寺に逢いたかった。

 だから、叫んだ。

 叫べば、叶う、そう信じて。

「いやああ、いやあっ! お願い、お願いだから、艦長と逢わせて! 艦長、艦長艦長艦長艦長っ、助けてえっ! 」

 突然起こったヒギンズの笑い声に、涼子は思わず、口を噤む。

「フフフフ……。フフフ、ヘヘ、ヘヘヘ……。ハハハハハ、ワーハッハッハッハッハッハッハッ! 」

 笑い声はだんだん大きくなり、やがて突然止まる。

「あんた……。判った、よぉく判ったよ。俺が殺してやる……。馬鹿だな、あんた……。やっぱり、俺が殺してやるよ……。だって、もう、そうするしかねえじゃねえか」

 ヒギンズの骨ばった手が、涼子の喉元を押さえつけた。

「やあっ! 」

 涼子が悲鳴を上げたその刹那、ナイフと銃の冷たい感触と、汗ばんだ生温かいヒギンズの掌の感触、顔にかかる気持ちの悪い熱い吐息、全てを綯い交ぜにしたような、不思議な、けれど何時か何処かで経験したことのある感覚が、脊髄を駆け上り、脳を突き上げた。

「ふぁあぁぁ……」

 私、壊れちゃった。

 次の瞬間、忘れていた、けれどこれまでとは比較にならない、気が狂いそうになる程の激しい頭痛が涼子を襲った。

 こんなに壊れちゃったら、もう、誰も直してくれないな、と思った。

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