第117話 17-7.


 コリンズの車に続いて小野寺がジャガーを発進させ、車載無線のスイッチをオンにすると、スピーカーから美香のハスキーな声が車内に響いた。

 こちらのGPS情報を重ねてコリンズや他の追跡班を巧みに誘導しているらしいことは、素人のマヤにもすぐに理解できた。

 グローリアスで出会った美香との、袖触れ合うような短い時間が、昨日の事なのにまるで数年も経たように、懐かしく思い出される。

「なんだ、須崎の奴。電子偵察機ホーネットまで奢ってくれたのか。対地支援管制機アウルアイと合わせりゃあ、百人力だ、手回しがいい」

 どう言う意味ですか、と恐る恐る訊ねると、小野寺は簡単に教えてくれた。

 美香は、監視衛星情報スター・インテリジェンスの誘導で皆が追跡している間に、電子偵察機に車の電気電波系統EFIやGPSが発する固有電磁波を記憶させ、IDカードロストによるGPSが無効になった場合に車体固有情報を直接トレースさせる事で、追跡継続を可能とするよう、どうやら準備していたらしい。

 美香らしい、策敵重視の攻撃方案だと、小野寺は笑いながら言った。

「涼子様……。人気がありますのね」

 それは、単なる感想のつもりで呟いた言葉だった。

 けれど、小野寺には何か引っ掛かるところがあったらしい。

「……殿下も、涼子ファンのお一人なのでしょう? 」

 僅かに棘を含んだ言葉に聞こえて、マヤはゆっくりと彼の横顔に視線を向ける。

 小野寺はけれど、唯、前だけを見続けていた。

「ソクラテスは『無知の知』と言ったそうだが……。無知を自覚することが賢明な事であるのと同じくらいに、無知である事そのものが罪、ってのも、やっぱり正しい事なんだと思いますよ」

 意味が判らなかった。

 判らなかったが、この男は、彼は、何かを訴えたいのだ。

 そう思い、黙ってその無愛想な横顔をみつめる。

「無知であるが故に、涼子の生命を危険に曝すこともある。……皮肉なものですね。勿論、誰の責任でもないんでしょうが」

 マヤは、おずおずと訊ねる。

「……それは、どういう意味です? 」

 小野寺はそこで初めて、ちら、と顔をこちらに向けた。

 苦しそうだった。

「インターネット上で……、石動涼子ファンサイトが世界中でどれだけあると思いますか、殿下? ……なんとまぁ、1,000万サイトを超えるそうですよ」

 また、話が変わった。

 なんのことだろう?

「しかもその7割がR指定、つまり、アダルトサイトです。殿下の御前で下品な話をして恐縮ですが、謂わば、女性の裸やセックスを扱う、個人が立ち上げた趣味のホームページですね。そんな700万サイトのバーチャル空間で、涼子は」

 思わず頬が熱くなり、次に、口の中に苦い何かが広がった。

 胸がざわめき、不快感が募る。

 彼の、次の言葉が予想できたから。

「……毎日毎日、……犯され続け、辱められ、痴態を晒されている」

 マヤは言葉を発しなかった。

 発せなかった。

 ただ、彼をみつめ続けた。

 暗い車内でも一目でそうと判るほど、彼の顔色は白かった。

 きっと自分も、そうなのだろう。

 それでも彼は、さっきよりは余程冷静な口調で、続けた。

「しかも、インターネット上だけじゃなく、世界中のイエロージャーナリズムも、今や涼子を追いかけまくっている。ある事ない事、毎日毎日、書かれない日はないくらいだそうです……。やつらは、涼子の肉体だけ、性的魅力SEXだけにしか興味がないんでしょう」

 そこで小野寺は口を噤み、遣る瀬無さそうな吐息を零した。

「けれど、それは別に、大衆心理というかマスコミュニケーション的には、下衆だけれども悪じゃない。私だって男だ、女性の裸に興味はあるし、過去、そんなメディアを見た事なんてない、などと言うつもりは毛頭ありません」

 小野寺は苦笑を浮かべ、肩を竦める。

「ただね。問題なのは、それが石動涼子という、硝子の様な儚く脆いハートと危うい過去を持つ女性に関することだ、と言うことです」

 やはり、彼は、以前聞かされた涼子の哀しい過去を知っているのだろう。

 その上で、自分の知らない涼子の何かを知っているのだ。

 だから、蒼白の、無表情の横顔が、怒っているように見えるのだ。

「……殿下が先程仰られたように、もちろんUNDASN部内でも、涼子のファンは沢山います。ただ、ね。違うんです」

 思わずマヤは、こくんと頷く。

「何と言うか、感覚的にね。違うんです。……同じ死線をくぐってきた運命共同体的、というか、互いに背中を、命を預け合う信頼感、と言うか。……ううん。うまく言えないが、要は、UNDASNの連中と涼子の間では基本的な人間関係が出来ているんです。……それは多分、殿下もそうでしょう? 聞きましたよ、4年前の国連本部ビルでの事件」

 そんなことまで知っているのかと、思わず恥ずかしさにマヤは顔を伏せる。

 上目遣いでそっと彼を見ると、彼は怒りと哀しみ、そして苛立ちが綯い交ぜになったような、複雑な表情に見えた。

「しかし、インターネットやイエロージャーナリズムに群がる連中は、違うんだ。涼子を人と見ていない。偶像、アイドル、単なるセックス・シンボルとしか見ていない。……いや、そうとしか見ることが出来ない」

 彼は、その『視点』自体に憤っている訳ではないのだ、とマヤは思う。

 見も知らぬ、けれど『いいオンナ』と道で擦れ違い、その形の良い尻から、胸から、エロティックな脚線美から眼を離せない、そんな男の心理など今更説明不要だし、形や表現、興味のベクトルは違うけれど女性だって、実は似たようなものだ。

 そんな『動物としての雄、雌の本能』を商売にするマスコミ、そしてそれを匿名であるのをいいことに、趣味としてネットワーク上で己の欲望と妄想を晒す一般市民。

 善悪などなく、それは、どうあれひとつの表現なのだ。

 そう。

 だから、これは我儘だ。

 『一人の人間として』の涼子を知らない全ての『ファン』の、我儘なのだ。

 そして、涼子を知っているからこそ、知らぬ連中が涼子をそうとしか見ていないことによるリスクが嫌というほど理解できるから、だから彼は、憤っている。

 ぶつける先のない怒りを持て余して。それでも怒っているのだった。

 マヤにはよく理解できた。

 マヤ自身が、故国へ帰れば、規模こそ、方向性こそ違えど、国民、一般大衆、マスコミからは、『そうアイドル』と見られているのだから。

「今、我々が追っている犯人はUNDASNの人間です。涼子の身近で、彼女に日々接していた、部下であり、仲間だ。……ところがそいつは、何を勘違いしたのか、そちら側、シャバの興味本位の、涼子を知らない連中と、同じ感覚を持ちやがった」

 最後には無表情に戻り、溜息混じりに呟くように言った彼の言葉に、心の底からの憤りを感じたようにマヤには思えた。

 けれど自分にとって、今追っている犯人と、小野寺とは、合法か非合法か、それだけの違いでしかないのではないか?

 それすら、自分の我儘にしかすぎないのだろうけれど。

 マヤは視線を自分の膝に落として、おずおずと口を開く。

「貴方は……。貴方は、どうなのです? 」

 言ってしまって弾みがついた。

 マヤは厳しい口調で、続けて言った。

「貴方は、涼子様をそうは見ていない、とでも? 男の視線で、女性である涼子様を見たことなどない、と言い切れて? 」

 彼は暫く口を噤む。

 上空や地上捜索班、時にはヒューストンから無線の音声が交錯し、そこへ割れたフロントガラスから排気ガス臭い風が遠慮なしに吹き込み渦を巻いて、狭い車内にうるさく響いているのだけれど、感覚的にはまるで静寂の空間の様だ。

 その静寂を愛惜しむような、低い、けれどよく通る声で彼は、漸く口を開いた。

「私は、もう、40歳を越えました。……まあ、世間で言うところの、薄汚い世俗の垢に塗れて、適当に手を汚し、そんな汚れに時には眼を瞑って生きてきた、草臥れた中年男、中間管理職です」

 優しい笑顔を一瞬浮かべた彼を見て、マヤは内心驚く。

「ははっ。別に自虐趣味もないし、露悪趣味でもないんだが、隠しても仕方ないし、隠せるものでもありません。……いや、本当に度々下世話な話でお許し下さい、殿下。……40年以上生きてきて、恋愛だって……、まあ、そんなお洒落なもんじゃない、格好悪い、見っとも無いもんですけれど何度も経験したし、そのうちの何人かの女性の身体は知ってます。……それどころか、夫婦の真似事みたいに、女と暮らした時期だって、あります。……ただ、ね」

 彼の唇が、刹那、哀しげに震えた。

「私は、涼子の任官後最初の上官だった、という、ほんの偶然から、涼子の過去を知ってしまった。涼子の苦しみと、胸の奥底に密かに抱いた傷、そして涼子が胸の奥に抱えている爆弾の存在を知ってしまった。それを知ってしまって、目を瞑っていられる程には、汚れてはいなかった、ってだけの事です。その意味では、殿下の仰る通り、涼子のSEXや肉体に興味がない訳じゃあ、ないです」

 そうなのだろう、と彼の数瞬前の優しそうな笑顔、そして哀しげな表情を思い出し、マヤは頷く。

 その上で、訊ねる。

 そうではないでしょう?

 私の予想は、正しいのでしょう?

「お聞きする限り、それでは貴方は、……涼子様に同情しているだけじゃありませんの? 」

 彼は、煙草を咥え、しかし今度は火をつけぬまま、ふぅっ、と見えない煙を吐き出した。

「俺は……、いや、失礼。私は、男ですからね。……涼子の過去に受けた傷の深さや苦しみを、本当の意味では判っていないんでしょうね。多分この先、何年経ったって全ては判ってやれません。……これは言い訳になるかもしれませんが、殿下。同じ女性としても多分、ご理解頂けない程の苦しみだと思いますよ」

 そう言って彼は、再びマヤを見た。

 穏やかな、表情だった。

「ただ、私は、それで良いと思ってる。……涼子は、あれほどの深い傷を負い、今この瞬間もいつ爆発するか判らない爆弾を抱えながら……。それでもあいつの想いはいつも、周りに向かっていた。どんな時だって、あいつは大きく深く、そして限りない優しさで相手を包みこんでいた。私は本来、度量が大きいとはとても言えない人間ですが、唯一涼子に関して言えば、それは、この私も同じですよ」

 ゆっくりとステアリングを切る間、口を噤んでいた彼は、やがて静かに言葉を継いだ。

「どんな時だって、涼子を心の真ん中に置く。それだけは胸を張って、正しいと言えます。……俺は、あいつの、全てを包みたい」

 一瞬、彼は淋しそうな笑顔をマヤに向け、すぐに前を向いた。

「いい歳をした中年男が、こんなことを言うのもどうかと思うんですが……。この、胸の苦しさだけは、本物だ。それだけは真実です」

 思わず、マヤは、涙を零してしまう。

「あ……」

 慌てて指で涙を拭う。

 が、彼の瞳には、ただ前方のローバーのテールランプしか映っていないように見えた。

 涙を誤魔化すつもりで、マヤは、口を開く。

「私……、聞きました。涼子様のご両親、戦死なさったんでしょう? 」

 彼は、無言のまま、微かに頷く。

「それで、まだ中学生だった涼子様は、引き取られた伯母様のお宅で……。伯父様からレイプ未遂にあったって」

 彼は暫く無言のままだったが、やがて、掠れた声をあげた。

「それを……、どこで? 」

「4年前、ニューヨーク時代に、私があんまり涼子様に夢中だったのに嫉妬した友人が、街の不良をけしかけて、涼子様を襲わせたんです。その時もやはり未遂に終わったんですけれど、その時、涼子様が友人にそう言ったと……。結局、涼子様、その友人の罪を一切なかったことにして、前線へ転属されていきました」

「そう……、ですか」

 彼の声が、微かに震えていた。

 怒っているのだろうか、と思った。

 けれど、マヤには、どちらかと言うと彼は悲しんでいるように思えてならなかった。

「未遂、ね。……未遂、か。そして赦した、と」

 彼は、無表情のまま、けれど声には怒りを込めて、言った。

「しかし、殿下。その情報は、間違っています。……それは、涼子が無理矢理忘れようとして作り出した、あいつの」

 それっきり彼は、口を噤んでしまった。

 先を促そうかと思い、マヤもまた口を噤む。

 『情報は間違っている』。

 どこが?

 それに、気になるキーワード。

 『涼子が、無理矢理忘れようとして』。

 それは、たった4年前の、しかも大事件に絡んで知り合った女性の記憶を、『忘れる』と宣言し、本当に忘れていた、涼子『らしい』キーワードではないだろうか。

 マヤは、宇宙から届いた涼子の手紙を思い出す。

 『忘れなければ』、『この先生きていくのが辛い』出来事。

 『間違っている』、『情報』。

 ぽつん、と落ちた小さな疑問は、見る見るうちに胸いっぱいに広がり、それは不快感となって口から溢れ出しそうだ。

 思わず手で口を押さえようとして、マヤは身体に衝撃を感じる。

 シートベルトが食い込む感覚。

 身体を揺さぶり続けていたサスペンションが、鎮まった。

 気付くと、先を走っていたローバーも、自分が乗ったジャガーも、いつの間にか停車していた。

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