第116話 17-6.


 エントランスに向けて走りながら腰に手を伸ばすと、ヒップアップホルスターは空だった。

 そうか、入場時に預けたんだったなと小野寺は自分の間抜けさに苦笑を浮かべてしまう。

 幸い、預けた自分の銃は、受付身体検査ゲート脇に置かれたままだ。

 そのまま守衛を突き飛ばすようにして自分の銃を引っ掴み、階段を飛び降りた。

 ガソリン臭を叩きつけて走り去る車に向けてCzを構えたが、しかし小野寺はトリガーを落とす事はなかった。

「ぐ、軍務部長! ここで発砲してはいけません! 」

 マズアに言われるまでもなく、既にハンドガンで命中させられる距離ではなくなっていた。もとより、そんな腕は持ち合わせてはいないが。

 焦って周囲を見渡す。

 ここまで運転してきた港務部のジャガーが、たまたま係員がいなかったのか、未だ一時駐車スペースにアイドリング状態で駐車されているのに気付いた。

 運転席に飛び込み、パーキングブレーキをリリースした途端、助手席のドアが開いて驚いた。

 華やかなイブニングドレスの長い裾をたくし上げたマヤが、助手席に転がり込んで来たのだ。

「殿下! 」

 さすがに呆然と彼女の横顔をみつめていると、睨みつける様にして正面を向いたまま、マヤは毅然と言い放った。

「何をしているのです! 早く! 早く追いなさい! 」

 確かにその通りだ、と小野寺はギアをドライブに入れフューエルペダルをベタ踏みする。

 さて、始末書で済むかどうか、と意外と冷静にそんなことを考えている自分に呆れた。


 続いて階段を駆け下りてきたマズアは、呆然と遠ざかるテールランプをみつめていた。

 追わなければ、ああ、この4名は銃携帯持込許可証を内務省から発行してもらっているから、追いついても得物があるから安心だな。

 そんなのんびりした考えが頭をぐるぐる回る。

 もっと他にやる事があるだろうと呆れるが、その『他』が思いつかない、さてどうしたものかと首を捻った途端、リザの大声で我に返った。

「早く! 車を回せ! 」

 リザの焦った声、ドタバタと右往左往する宮殿警備陣の足音を聞きながら、マズアはさっき見た光景を思い出した。

 軍務部長は、やっぱり本気で1課長を。

「マズア、乗れっ! 」

 コリンズの声に振り向くと、フロントグリルに仕込んだ青の点滅灯をフラッシュさせている武官事務所のローバー4WDが厳つい車体を震わせていた。

 助手席に飛び込む。

緊急エマージェンシー、緊急! こちらFOB、状況ステータスレッド! 宮殿ブルズ・アイにてターゲットHがポイントRに接触、拉致した上逃走中! 情報部在英全エージェントはGPS情報に注意して大至急追跡を開始せよ! ヒューストンCP作戦ミッション発動オンステージ願います。そちらのチャンネルで在英全警務部員への指示を乞う! 」

 銀環が車載無線に怒鳴るように喋る声を聞きながら、マズアは再び、思う。

 軍務部長は、1課長の事を、本気で好きなんだな、と。


「くそっ! 遅かったかっ! 」

 ホプキンスが持っていたマグカップを握り潰すかと思える程力を入れた様に手を震わせ、唸るように低く吼える。

 サマンサはその姿を見て、ゆっくりと立ち上がった。

「軍務5課、至急! ターゲットHとポイントRのGPS情報をリアルタイムで送れ! サラトガCDC、ミッションエントリ! GPS情報に注意せよ! 在英情報部員、警務部員に告ぐ、状況レッド、ターゲットHがポイントRを拉致、逃走中! GPS情報に対応して大至急追跡にあたれ! 」

 一気に下命しているホプキンスの声を聞きながら、サマンサは内線の受話器を上げてボタンをプッシュした。

「ああ、医療本部長……。ワイズマンです。……はい、そうです。状況ステータスレッド。大至急作戦命令書付記A001-3号に従い準備に着手したいと……。はい、はい……。有難うございます」

 続いて総務局へ内線を繋ぐ。

「医療本部、ワイズマン。……ええ、そう、作戦命令書の付記A001-5号の。……了解アイ、……10分以内に軍務局を出ます。……そう。頼むわね」

 視線を感じて、受話器を置き、振り返る。ホプキンスと眼があった。

「サム、もう行くのか? まだ状況は動き出したばかりだ、ここにいた方が何かと対応はし易いと思うんだが」

 サマンサは椅子の背凭れにかけていたドレス・ブルーの上着に袖を通しながら、ホプキンスに微笑みかけた。

状況ステータスレッド、でしょ? アーサー。ここまで来たら、この先、あの娘がどうなるかは、判らない。でも最悪の状況に一歩近付いた事には変わりない。多分……、多分あの娘の今の状態から推察すれば、犯人の小さな一押しだけで急性白血病か、急性脳腫瘍か、またはそれに伴う併発症状か合併症状か……。いずれにせよ、あの娘の生命は、今や風前の灯火」

 息を飲むホプキンスに、サマンサは、今度は力強い笑みを浮かべて見せた。

「これも作戦ミッションのタスクのひとつよ、アーサー。医本付属ロンドン野戦病院に、脳神経科や外科、麻酔科は勿論、医療本部臨床医学研究センターの殆ど全ての研究室からエースばかりを集めた、考えられる限り最高の医療チームを編成して昨日のうちにロンドンへ送り込んでおいたの。私も今からそこに行く。後はアーサー、あなたが頑張って。私は待ってる。あの娘が生きてロンドン野戦病院へ担ぎ込まれるのを。そうすれば、今度は……、私達があの娘を、絶対救って見せる」

 そうだ。

 だからこそ、素人の私がここに居た、その意味が生きてくる。

 ここから先は、私にしか出来ない。

「素人の私が、これ以上ここにいても出来ることなんてない。ついでに言っちゃうけれどアーサー。これでも私、アンタ達を信頼してるんだから」

 アタッシュケースを持ち上げて、ドアに向かったサマンサを、ホプキンスの掠れた声が呼び止めた。

「サム」

 振り返ると、ホプキンスは顔を真っ赤にして、じっとサマンサの瞳をみつめながら絞り出すような声で、言った。

「後のことは任せてくれ。だからあのを……、頼む」

 サマンサは苦笑を浮かべ、それでも出来るだけ優しく呟いた。

「……なんか、ムカツク」

 私の方が、イイオンナ、なのに。


「マズア、コリンズ、聞こえるか? こちら小野寺だ」

 信号や車線を無視して、涼子の乗せられた車のテールランプを追跡しながら、彼は車載無線に向かって叫んでいた。

 小野寺って言うのか、この男……、ってそう言えば昨日、自己紹介されたっけ。

 マヤは、吹っ飛ぶように後方へ流れていくロンドン市街の景色を見ながら、ボンヤリそんなことを考えていた。

「マズアです! 軍務部長、ご無事で? 」

「俺は無事だ。ついでに、マヤ殿下も今ンところ無事だ、イブーキ側に申し送れ」

「イエッサー」

 目標のテールランプは徐々に、しかし確実に遠ざかる。

「クソッ。……さすがにロンドン駐在だけあって、道路事情に詳しいな」

 悔しそうに呟いた後、小野寺が声をかけてきた。

「殿下、殿下! 」

 案外冷静なのかな、と彼の声を聞きながら、マヤは顔を向ける。

 彼は予想を裏切って、苦笑を浮かべていた。

「は、はい。な、なんです? 」

「殿下も……、おっと!……全く、お転婆ですなあ。こっちは始末書で済めばラッキー、最悪退役だって覚悟してるって言うのに」

 マヤは再び前を向き、少しだけ首を項垂れる。

「すいません……。でも、私」

 彼はやっぱり冷静な口調で、言った。

「殿下。シートベルトを締めて下さい。少し揺れますからね」

 マヤは少しだけ微笑み、シートベルトに手を掛けた。

「……はい! 」

 少しだけ、涼子が彼に想いを寄せている理由が判る気がした。

 そんな遣り取りを交わしている合間にも目標の車は、裏道、抜け道を知り尽くしている様で、思わぬところで右へ左へと自由自在にロンドン市内を泳ぎ回る。

「上手く警察ヤードの検問や警備地区を避けてる気がするな。こりゃあ、追いつけないかも知れない」

 彼の暢気そうな呟きに、マヤは思わずカッとなって怒鳴る。

「なにを暢気な! ……貴方は、涼子様がどうなっても良いと仰るのっ? 」

 言ってしまってから、後悔した。

 けれど小野寺は、マヤの剣幕にも一向に構わず、左右にステアリングを切り続けていたが、やがて、ボソリと呟いた。

「……そんな訳、ないでしょう」

 マヤは唇を噛む。

 途端に車が闇を切裂く様な鋭い音を立てて尻を右へ振る。

 口の中に苦い血の味が鈍い痛みと共に広がった。


「くそっ、狭い! 」

 目標を追って殆ど車の幅しかない様なビルとビルの隙間にノーズを突っ込むと同時に、路地の外れに停車したデイムラーのテールが小野寺の視界に飛び込んで来た。

「きゃあっ! 」

 マヤの悲鳴が耳を刺す。

 うるさいなぁなどと呑気な事を考えながらも、小野寺はこの日何度目かのパニック・ブレーキを踏む。

 ビル壁面に立て付けの排水管に接触してドアミラーと塩ビパイプを後ろへ吹っ飛ばしながら何とか停車した瞬間、後からマズア達のローバー4WDがブレーキ音もけたたましく突っ込んできた。

 ガツンと少しだけバンパーを当ててローバーも停まる。

 ハンドル越しにフロントガラスを見ると、運転席のヒギンズがこちらを振り向いたのが、薄暮の中、やけに明瞭にヘッドライトに浮かび上がった。

「! 」

 彼はギアを後進リアに入れ、後のローバーに当るのも構わずにアクセルペダルをベタ踏みし、入れっ放しにしていた車載無線のマイクに叫ぶ。

「RPGだ、下がれ! 目ェ瞑って下げろ! 」

 ローバーが巨体を両側の壁にガリガリ擦り当てながら急速後退を始め、小野寺もそれに続いてバックする。

 後のローバーが路地を出て急ハンドルで左へ逃げるシーンがルームミラーに映った瞬間、視界の隅が光るのが見えた。

「頭下げて! 」

 左手でマヤの頭を力任せに押さえ付けながら片手でステアリングを思い切り右へ切る。

 フロントバンパーを壁で擦りタイヤを滑らせながらノーズを振って曲がり切り、街灯にリアバンパーをぶつけて停車した瞬間、フロントガラスが砕け散った。

 間一髪だと溜息を吐こうとした刹那、視界が真っ赤に染まり、続いて大音響が響いて、そのまま息を呑む。

 コリンズ達について来たスコットランドヤードのパトカーが、まるで漫画のように5mほど飛び上がり、きれいに腹を見せて地面でひしゃげた。

 直撃は免れたらしいが、車体下で爆発し、爆風で煽られたようだ。

「無茶しやがる」

 しかし奴はRPGを後何発持っているのか?

 その時、路地の奥の方からタイヤのスリップ音とエンジン音が聞こえてきた。

「! 」

 イチかバチか、車を前進させ路地を覗くと、既にヒギンズの車は陰も形もない。

 慌てて路地を抜ける。

 飛び出した二車線の道路には、けれど右にも左にも怪しい影は見当たらない。

 小野寺は車載無線に呼び掛ける。

「ターゲット、コンタクトロスト! コリンズ、GPS情報を! 」

「スタックヒルのはしかし」

 割り込んだマズアの声を、小野寺は怒鳴りつける。

「馬鹿者! 涼子のIDカードは生きているだろう! 」

 艦橋ブリッジでもこんなに叫ぶ事は滅多にないな、とふと思った。

「イエッサ! 」

 隣で顔色を失くしているマヤに気付き、いかんな、落ち着かなければ、と小野寺は大きく一度深呼吸をしてから、出来るだけ平静な口調で言葉を継いだ。

「マズア、俺の車は港務部サザンプトンの来客用で、戦術ディスプレイがついてないんだ。GPSコンタクト次第、貴様等が先頭に立て」

「イエッサー、1課長のポジションコンタクト、先行します! 」

 傷だらけの車体を振り回してローバーが小野寺達を迂回、追い越していく。

「どうだ? ポイントは動いているのか? 」

「いや、それが」

 小野寺の問い掛けに、マズアの躊躇うような答えが返ってきた。

「停止しています。もう1kmほどで到着しますが」

 予感が悪い方へ的中し、小野寺は低く呟いた。

「やっぱりか」

 やりとりを聞いていたらしいマヤが訊ねかけてきた。

「どういう事ですの? 停止してるって」

 マヤは、割れたフロントガラスから直接顔へ吹き付ける風が痛いらしく、両手をフードのように翳しながら喋っている。

 彼は、コリンズ車を追跡することで漸く生まれた余裕を有効活用すべく、煙草を咥え、シガーライターで火を吸い付けながら答えた。

「GPS……、つまり、監視衛星による所在地把握はね、我々UNDASNの人間が全員常時携帯しているIDカードのIC電波、または携帯端末の現在地自動発報信号を拾う事で移動をトレースしているんです。ちなみに涼子は零種軍装ドレス・ゼロの際は携帯端末は所持していません、というか服の収納機能の関係で所持出来ません。だから、IDカードが頼りなんです」

 マヤが小首を傾げる。

「それが停止しているって言う事は、相手が逃げるのをやめたって事じゃ? 」

「まさか。相手は一旦は我々を撒く事に成功しているんです。つまり、IDカードをそこらへんに捨てたんですよ。……あ、すいません。お伺いもたてずに」

 指に挟んだ煙草をひょいと持ち上げると、マヤは弱々しく微笑んだ。

 刹那、ローバーのブレーキランプが点り、ハザードが点滅する。

 小野寺もハザードを点滅させつつ路肩に寄せてコリンズ号の後ろに停車させると、運転席から降り立った。

 コリンズ車に乗っていた4人は既に車から降り、手に手に懐中電灯を持って手分けして当たりを捜索している。

「あった! ありました! 」

 銀環の声に振り向くと、街路樹の根元で灯りが回転している。

 駆けつけると、銀環が懐中電灯で街路樹~ポプラ、のようだった~の根元を照らした。

「ここに、室長代行と武官補佐官のIDカードが」

 言葉途中で、リザが銀環を押し退けて、IDカードを拾い上げる。

「涼子様っ! 」

 まるでそれが涼子であるかのように、リザは愛しそうに涙に潤む眼を細め、頬擦りした後、胸に抱き締めてしゃがみ込んでしまった。

「先任! 」

 銀環が、両手で震えるリザの肩を抱き締めるシーンを、小野寺達は暫く無言でみつめる。

「やっぱり、捨ててやがったか」

「どうします、軍務部長」

 溜息混じりに呟いた小野寺の顔を見ながら、コリンズが頭をポリポリ掻きながら話しかけてきた。

「だいたい、ここはどの辺なんだ? 俺はロンドン市内の地理は疎いんだが」

 彼は周りを見回す。

「少しお待ちを」

 マズアが携帯端末にロンドンの道路地図を表示させ、全員ディスプレイを覗き込む。

「現在地はここ、ロンドン市街シティオブロンドンの外れですね……。この次の交差点で真っ直ぐ行けば英国陸軍の近衛師団演習場。右へ行けばロンドン市街中心部へ戻る環状道路、左へ行けば昔、ニュー・ロンドンと言われていた新都心ですよ。第一次ミクニー戦争で殆ど廃墟と化し、極度に治安が悪化、閉鎖された末に無法地帯となりまして、結局現在はノーマンズランド同然、ですがね。今は確か再開発地区に指定されていて、取り壊し前の廃墟、廃ビルが少しと、後は更地、建築途中のビル工事現場ばかりです」

 コリンズがウンと唸る。

「どれもありそうなコースだなあ」

「まるで、狙ってここにIDを捨てたみたいですね」

 銀環の言葉に全員、返す言葉もなく黙り込んでしまう。

 暫くして、気を取り直すような口調でマズアが口を開いた。

「さて……。手分けして探すにしても、人出不足だ」

 いつの間にか立ち上がっていたリザが、真っ赤になった眼を細め、睨みつける。

「スコットランドヤード……、は駄目ね、201師団に応援を要請しましょう。留守師団とは言え、1個連隊程度の兵力は残ってる」

 刹那、リザの言葉を遮るように、ローバーの車内から車載無線のコール音が鳴り響いてきた。

 コリンズが開きっ放しのドアから手を入れ、スピーカー音量を上げてインカムを掴み上げる。

「ロンドンFOB、情報部コリンズ二佐だ」

「こちらロンドン上空、サラトガ所属V107、艦長の須崎一等艦佐だ。ターゲットHの車輌、コンタクト! 」

「なんだって? 」

 全員、顔を見合わせる。

 小野寺は、コリンズからインカムを奪い取り、美香に呼びかけた。

「須崎か? 小野寺だ。なんで貴様、ここにいる? 」

「ああ、軍務部長。アタシの可愛い涼子の危機なんやけぇ、じっとCDCで踏ん反り返ってる訳にはいかんやん? 大体、アドミラルが何必死になってオンナの尻、追っかけとるん? 」

 図星を刺され、小野寺は思わず怒鳴りつける。

「うるさいっ! コンタクト・ホールドしてるんならアホな事言っとらんで、とっとと誘導しろ! 」

「アイアイサー! そやけど、アホは余計じゃね」

 インカムをマズアに押し付け、ジャガーに戻ろうとして、小野寺は足を止めて後をついてくるマヤを振り向いた。

「殿下」

 小野寺は、マヤの足元を見る。

 裸足だった。

「このまま、同行されるおつもりですか? 」

 マヤは小野寺の視線に気付き、恥ずかしそうに足を左右、擦り合わせていたが、やがて、開き直ったようにさっと顔を上げ、胸を張り、凛とした声で反問した。

「アドミラル。私が、もう帰るから引き返して、と言ったら、貴官は追跡を止めて戻って頂けるのでしょうか? 」

 彼は苦笑いを浮かべて踵を返した。

「まあ、ここまで来れば、始末書が何枚に増えようが、同じですがね」

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