第110話 16-10.


「ワイズマン博士、在東京、フェルナンデス教授からです! 」

 ホプキンスの目の前に座っていたサマンサは、返事もせずに受話器ハンドセットを取り上げた。

 ヤンキー娘らしく割り切ったのだろう、ホプキンスから見ても、先程までの憂いの表情は、今はもう微塵もないように思えた。

 しかし、本当のところはどうなのだろうか、とホプキンスは僅かに首を傾げ、サマンサの美しい横顔を見る。

「ああ、私よ。……単刀直入に聞くわ、どいつ? 」

 唇を噛み締めて受話器の向こう、遥かに離れた東京からのプロファイリング報告に耳を傾けるサマンサを、ホプキンスは勿論、室内にいる全員が固唾を飲んで見守っている。

「ありがと、助かったわ」

 叩きつけるように受話器を置くサマンサに、ホプキンスが結果を聞こうと口を開きかけた刹那、先に彼女が大声を上げた。

「ロンドンのコリンズ二佐を緊急で呼び出して! 」

 サマンサがそう言った途端、通信機の前で声がする。

「博士! ロンドンFOB、コリンズ二佐から緊急通信! 」

 今度もサマンサは、返事もせずに一挙動でインカムを取り上げた。

 ホプキンスはそれに呼応するように、係員へオンスピーカーの指示を出す。

「コリンズ、今、連絡入れようとしたところなの! 犯人を絞り込んだわよ! 」

 一瞬、スピーカーから息を飲む音が流れる。

 続いて、普段通りの、落ち着いた低い声が流れた。

「駐英武官補佐官、ヒギンズ・スタックヒル三等空佐……。違いますか? 」

 今度はサマンサが息を飲む番だった。

「なんで……? 」

「理由は後回しです。そちらで割り出した運送屋に補佐官の画像を見せたところ、間違いないとの証言が複数取れました。ジャック・リバー宛小包を受け取りに来た男は、ヒギンズ・スタックヒルに間違い無いそうです」

 大きく頷いたサマンサもまた、普段通りの声と口調に戻っていた。

 もちろんコリンズと違い、明るく柔らかな声だったが。

「こっちもプロファイリングまで終わらせた。限りなく黒に近い灰色よ。……彼は、一等空尉時代、ドット戦線でミクニーと空中戦ドッグ・ファイトをやらかして撃墜キルされたの。脱出ベイル・アウトした地点がミクニー勢力エネミー・ラインど真ん中向こう側だったらしくて、かなり苦労して脱出し、漸く10日後に救出されたんだけど、PTSDでインポテンツになったらしいわ。暫く休職して治療を受けてたんだけど、サディスティックな状態でしか勃起障害が治らない。結局、新婚早々の奥さんとも離婚。……それに、メールアドレス隠匿の件も、離婚後復職してからは実施部隊を離れていて、国際部へ行く前には電通本へ出向して系内防空警戒網バッジシステム再構築スクラップ&ビルドに携わった事もあるらしくって、どうやらそこで、素人離れした高度なネットワークリテラシを身につけたみたいね」

「殆ど真っ黒ですな……。どうします? スタックヒルは今日は欠勤です。衛星情報スターインテリジェンスではIDカード位置特定は出来ませんでしたが、携帯端末の方は官舎内と位置特定出来ましたので、現在手勢を官舎へ向かわせますが、こちらは多分、空振りでしょう」

 サマンサが腕時計に視線を落とす。

「……1540時ヒトゴーヨンマルか。石動一佐あのこは今、バッキンガム宮殿だったっけ? 」

「いや、時間的にはまだ、王立歌劇場ですね。もうそろそろ出る頃で……、ちょっと待って! 」

 急にコリンズの声が緊迫する。

「? 」

 微かに、ロンドン側の室内がざわめいている様子が、ヒューストンにも聞こえてくる。

「博士、緊急エマージェンシー呼び出し・コールが入りました! 詳細把握次第ポジティヴレポート、一旦アウトします! 」

「コ、コリンズ! コリ」

 サマンサの問い掛けにも答えず、一方的に通信は切れた。

 サマンサは呆然とその場に立ち尽くし、小声で呟く。

「何が起こったの? 」

 ふら、とよろめいたサマンサをホプキンスは背後から支える。

「アーサー」

 大丈夫だ、とは言えなかった。

 だから、ただ黙って、頷いて見せた。


 涼子は貴賓席で、長い吐息を落とした。

 快感の溜息って、いいもんだわと、頭の片隅で思いながら。

 隣に座る新谷が、チラ、と顔を向け、苦笑を浮かべて再び正面を向いた。きっと、今の自分は、見っとも無いくらい緩い表情を浮かべているのだろう。

 だけど、それでもいいや、と涼子は思った。

「やっぱりライブは素敵だわ。もう、マーラー最高」

 ここが貴賓席じゃなければ、そして隣に新谷がいなければ、きっとスタンディング・オベーションしていたことだろう。

 英国が世界に誇るロンドンの3大オーケストラ、BBC響、ロンドン響とロンドンフィルの競演によるマーラーの”千人の交響曲”が終わり、巨大な王立歌劇場はいつまでもアンコールの拍手が鳴り止まなかった。

「ここまでは散々だったけど、辛抱した甲斐があったわ。こんな席、プライベートじゃとても座れないだろうし……。うん、満足満足大満足! 」

 涼子は満たされた感情を抱きつつ、この席へ辿り着くまでの自分の苦労を思い返す。

 ダウニング街10番地ナンバー・テン英国首相官邸キャビネットオフィスを訪問したとき、ブラウン首相の長女で11歳になる可愛らしい女の子に懐かれて、官邸を出る直前で別れを嫌がり泣かれたのには参ったが、それでもそれは微笑ましい出来事だ。

 続いて駐英米国大使館へ大統領を訪ねたときは散々だった。

 大統領以上に涼子ファンで、しかも熱烈すぎて少々ウザいスタスキー国務長官にお姫様抱っこで抱き上げられて、昼食会では「リョーコ、もっと食べなさい、君はもっと食べて太らなければ駄目だ! 」と叫びながら自分のステーキをまるまる一枚皿に入れられ、閉口するわ、それをだらしないと新谷に怒られるわ。

 思い出しただけでも、眩暈がするわ。

 国務長官の太れ攻撃をどうにか避けて、ようやく着いたここ王立歌劇場でも、すぐにマーラーの耽美な世界に浸ることは出来なかった。

 新谷のお供で、やはり演奏会に臨席するチャールズ国王に拝謁しなければならなかったのだ。

 予想通り、新谷をおいてけぼりにするほどのチャールズの熱烈プロポーズは、今回もジョージ皇太子の機転で潜り抜けることが出来たものの、やっぱり後で「お前に隙があるからこんなことになるんじゃ、この未熟モンが! 」と新谷からの大目玉が待っていた。

 さすがの涼子も、生徒時代の校長からこの歳になってまで、たった半日でこれほど怒られるとは思ってもおらず、貴賓席の豪華なシートに座った途端、思わず憂鬱な溜息を零してしまったものだ。

「でも、これが聴けたから、ま、いいか! 」

 そう言って席から立ち上がり振り返ると、ボールドウィンが新谷と話をしているのが目に入った。

 開演前には、ボールドウィンはイースト=モズン方面の戦線の状況監視の為に、演奏会には出席できないと聞いていた。

 そんな彼が、遅刻したのではあろうが、今ここにいるという事は。

 ボールドウィンと一緒にグローリアスで戦線監視を続けていた筈の小野寺もまた、解放されたのではないだろうか。

 そうでありますようにと心の中で祈りながら、確認しようとボールドウィンに近付くと、先に彼の方から声を掛けられた。

「ああ、石動君。軍務部長から伝言だ」

 一瞬、不安が脳裏を過る。

 が、次の瞬間、ボールドウィンの言葉は、涼子の予想を嬉しい方へ裏切った。

「彼はまだグローリアスの戦闘指揮所CDCだが、先程、イースト=モズンもミクニー接触前の状況に殆ど戦線整理を終えたと連絡があった。君に伝えて欲しいとの事だが、1700時ヒトナナマルマルまでにはバッキンガム宮殿へ行けるだろう、と」

 頬が、緩む。

 同時に熱を帯びる。

 恥ずかしい。

 だけど、どうしようもない。

 どうしよう?

 そこまで考えて、なんだか、どうする必要もないような気がして来た。

 だが、気付くと新谷がじっと自分を見ていて、涼子と眼が合うと何故かニヤリと笑って踵を返し、エントランスのほうへと歩いて行った。

 また、恥ずかしくなってきた。

 それを堪えて、ボールドウィンに礼を言う。

「アイアイサー。到着予定ETA1700時ヒトナナマルマル了解ヨーソローです。ありがとうございます」

 ボールドウィンは知らぬ顔をしてくれているが、きっと気付いているんだろうな。

 そう考えると、ますます恥ずかしくなった。

「どうだったね? 私は三楽章はロビーで聴いて四楽章からだったんだが、なかなか良い演奏だった。最初から聴きたかったものだ」

 ボールドウィンは多分、涼子の機嫌良さの原因を知っているのかも知れない。

 知っていて、だから知らぬ振りをしてくれているのだ。

 少し嬉しくなって、涼子は慌ててボールドウィンに追いつき、並んで歩き出す。

「すっごく良かったですよ、軍務局長。目立たないけれど、一楽章のファゴットのソロが、甘くていい音でした。きっとCD発売されますよ」

 と、そこへSPが近付いてきて涼子の前で姿勢を正した。

「お車が正面玄関へ参りました。新谷内幕部長もお待ちですので、お急ぎください」

「……ボールドウィン局長、お聞きの通りです」

「そうだな、行こうか」

 貴賓客用車寄せのエントランスで待っていた新谷と合流し、一歩外に出た途端、涼子は吹き荒ぶ冷たい冬の風に震え上がり、思わず自分の身体を両手で抱きしめてしまう。

「ううっ! 寒っ! 」

 ボールドウィンが笑いながら周囲を眺め、言った。

「しかし、寒い中これだけの人達がロイヤル・ファミリーの出待ちをしてるんだから、大した人気だな」

 言われて見渡すと、ユニオン・ジャックの小旗を持った人々の群れが、通路の両脇をびっしり、警官達の阻止線を押し破らんばかりに溢れていた。

「現国王は、皇太子時代から色々マスコミに弄られていましたけど、やっぱり基本的に英国民は王室を大事にしてますよね」

 揺れるユニオン・ジャックを眺めて歩いていた涼子だったが、ふと、足が止まった。

”ダッフル・コート”

 ちょっと待って。

 ええと。

 これだけ寒くて、これほど人が大勢いるのだ、ダッフル・コート自体が珍しいものではない。

「ええと」

 今度は口に出しながら、思い出そうとじっと人垣の最前列にいる、男を見つめる。

 手にはユニオン・ジャックの小旗を持ってはいるが、ただただ風に弄らせているだけで、手自体はぴくりとも動かない。

 よく見ると、フードを被って顔がよく見えない男の、僅かにのぞく唇が、わなわなと震えている。

”寒い……、わけじゃなさそう”

 どちらかというと、緊張、しているように見える。

 何故、緊張している?

 新国王を生で見る事が出来るから?

 けれど、彼の周囲の人々は、みんな笑顔だ。

 期待しているから。

 だったら、彼は?

 次の瞬間、閃いた。

「そうだわ」

「どうされました、室長代行」

 涼子の後ろを歩いていた、警務部の女性SPが声を掛けてきた。一昨日、部屋の立哨をしてくれた、モンラン三曹だ。

「あの男性、さっきコリンズから情報が流れた、ダッフルコートの男じゃないかしら」

 耳打ちされて、モンランの顔色がさっと変わる。

 刹那、まるで涼子の声が聞こえていたかのように、男が手に持った小旗を落とした。

「校長! 早くお車へ! 」

「フリーズ! 」

 涼子とモンランの声が交錯する。

 同時に男の手がコートの内懐に伸びた。

 涼子が太腿にガーターベルトで保持していたCzへ手を伸ばした時には、モンランが目の前に立ちはだかっていて、両手を前に伸ばし銃を男に向けていた。

「モンラン、駄目ェッ! 」

 危ない、と叫ぼうとした涼子はグイッと圧倒的な力で真横へ引き寄せられる。

 アレ? と思った時にはもう、警務部の男性SPが涼子の腰に腕を回し、荷物のように持ち上げて車へ走り始めていた。

 揺れる視界で確認できたのは、ダッフルコートの男の右手に光るMP5SMG、どっと崩れる人垣、涼子達が認めた”襲撃者”が誰なのか判らずに混乱しているスコットランドヤードの警官達、そして、乱暴にロールスロイスのリアシートへ、SP達に投げ込まれている新谷やボールドウィンの姿。

「きゃっ! 」

 次の瞬間、涼子もまた、荷物のようにリアシートへ投げ込まれていた。

「痛い! 」

 ふかふかのリアシートの上で転がっていた涼子の上に、固くて重い何かが、どさっと圧し掛かって来た。

 重なる複数の銃声、続いてドアの閉まる音、モンランの叫び声。

「GoGoGo! 」

 見ると、身体の上にモンランが乗っかっていた。

 途端に身体を引っ叩くような急激なGが押し寄せて、シートに押し付けられた。

 とにかく、敵勢力圏は脱した、と言う事だろう。

「内幕部長、軍務局長、お怪我は? 」

「大丈夫だ」

「石動が重い」

 新谷の不機嫌そうな声に、涼子は初めて、自分のお尻の下にあるのがシートではなく新谷の身体であることに気付く。

「あ、あ、ご、ごめんなさいっ! 」

 慌ててモンランと二人、揺れる車の中でばたばたと動き回り、クロスシートへ新谷、ボールドウィン、涼子にモンランが落ち着いて座ったときには、既に王立劇場の豪奢な外観は見えなくなっていた。

「今のが、ダッフルコートの男か? 」

 新谷がリアウィンドウを振り返りながら呟く。

「情報部が言っていたフォックスのシンパだな? 」

 ボールドウィンも涼子に尋ねる。

「そう……、だと思います。まあ、取り敢えずひと安心ですわ、犯人の手際が悪かったお蔭で」

 と、そこへ車載無線が入り、助手席にいた新谷の副官が対応する。

「現場残置の警務部からです。UNDASNの他の人員も全員、無事に現場を脱出したと」

「犯人は? 」

「警官や一般市民に怪我人は? 」

 ボールドウィン、涼子の矢継ぎ早の質問に、副官はインカムを押さえてじっとしていたが、やがて振り返って答えた。

「犯人は銃を振り回して威嚇しつつ王立歌劇場より逃走の途中、警官隊と銃撃戦の上射殺された模様です。警官一名が銃創で軽傷を負った以外、我が警務部、一般市民に被害はない模様」

 新谷とボールドウィンが同時に、長く深い溜息を吐く。

「射殺」

 仕方がないのだろう。

 彼は、我々の命を奪おうとした。

 周囲にいた、何の関係もない人々を危険に巻き込もうとした。

 だから、仕方ないのだろう。

 けれど。

 本当に殺されなければならなかったのか。

 甘いと言われれば返す言葉もない。

 けれど。

 けれど、人が死ぬのは、もう嫌。

 何かしても、そして何もしなくても、目の前に人々の屍が降り積もってゆく。

 そんなのは、もう、嫌。

 ツン、と鼻の奥が痛くなる。

 あ、泣いちゃう、と思って手を目尻に持っていこうとして、誰かが自分の手を握っていてくれているのに気付いた。

 モンランだった。

 涼子の視線に気付くと、彼女は、緊張した表情を少しだけ緩めて、ふ、とタンポポのように微笑んだ。

 彼女の空いた方の手に持たれた銃が微かに震えているのを見て、涼子は、ぎこちなく微笑を返す。

 ああ。

 この娘が、無事で良かった。

 たくさんの『仕方ない』の中で、けれどそれだけは、確実に良かったことなんだから。


「射殺された? 」

 マズアが通信機に噛みつく様に、叫ぶ。

 彼の考えていることが手に取るように、コリンズには理解できた。

 だから、マズアの代わりに、訊ねた。

「そいつは……、誰だ? 」

 本当は、そいつは武官補佐官かと訊ねたかったが、寸でのところで飲み込んだ。

通話相手は警務部員だ。情報部使用の暗号変換通信でなければ、それこそ武官補佐官には傍受されてしまう。滅多なことは言えない。

 スピーカーの向こうで、警務部SPの緊張した声がノイズに紛れて聞こえてくる。

「今のところ身許不明ですが、さっき通達のあったフォックス派シンパの人相風体に合致します、送れオーバー

 室内の空気が、一気に緩む。

 とは言え、それはけっして安堵の空気ではなく、ただ、幕切れが先に伸びたことによる、言いようのない、間の悪い『休憩』が挟まったようなものだ、とコリンズは思った。

「王立歌劇場の貴賓客用エントランスでロイヤル・ファミリーの出待ちをしていたギャラリーに紛れて、内幕部長を襲おうとしていたところを、石動室長代行がそれに気付いて警告発報しつつ退避、犯人は襲撃を諦めて逃走を図りました。警官隊に軽傷者一名。一般市民及びUNDASN関係者には被害なし、オーバー」

了解したコピー、ご苦労。以降、予定の行動に復帰せよ。後続情報はスコットランド・ヤードから収集する。以上アウト

 マズアが通信を切り、疲れたような吐息を洩らす。

「どうやら、本物のフォックス派テロリストだったようだな」

 コリンズは、彼の隣の椅子に腰を下ろす。

「結局、イブーキのお姫様に、再び助けられた訳だ。最初は純粋なビジネスでフォックス派の依頼を受けていたのだろうが、どうやら徐々に洗脳されて、結局シンパ、もしくは信者になっていたようだな」

「とにかく、コリンズ二佐」

 リザが言った。

 苦しげだが、とにかく冷静さを保とうという意思が、平坦な口調に現れている。

「可及的速やかに、スタックヒル武官補佐官の現在位置を特定しませんと」

「ですが、先任」

 銀環が小声で割り込む。

警戒監視衛星団クリスマス島からの衛星スター情報インテリジェンスだと、IDカードからの位置特定は失敗しています。英国内をカバーしている測地GPS衛星も監視衛星ブリキ缶2機も武官補佐官の位置を割り出せないとの事です」

 UNDASNが衛星軌道に投入しているGPS衛星は、対象者からの位置情報取得申請を受けて情報発信するのだが、申請がなくとも2時間に1回、IDカードから自動的に現在地申告の信号が流れるようになっている。

 また、地上監視衛星については、指定した人物のIDカードが発する電磁波信号を常時トレースする仕様だ。

 この2種類の衛星が共に武官補佐官の現在地を割り出せないということは、何らかの方法でIDカードの信号発信を持ち主が阻止した、ということに他ならない。

「つまりは、スタックヒルは既に引き返せない一線を自ら超えた、と言うことなの? 」

 そこまで言って、リザは気まずそうな表情を浮かべて口を噤む。

 銀環の悲しそうな表情に気付いたのだろう。

「そうだろうな、三佐。GPS衛星の自動現在地取得機能が捉えたスタックヒルの……、いや、まあ彼の携帯端末なんだが、その最終位置は彼の官舎だ。そろそろ、部下が補佐官の官舎へ」

 コリンズがそこまで言った時、再び通信機に呼び出しが入る。

現地指揮官オーバーロード、FOBコリンズだ。……おう、マッドか。もう、到着したのか? 」

「はい。取り敢えず、私一人ですが……。後、シャルルと警務部からはラマノフ、トァン・スーが10分以内に現着予定」

 コリンズの視界の隅で、マズアが蝋の様に顔を白くしている。

「よし、その3名が到着するまで待機。……で、様子は? 」

「はい……。ざっと家の周りを見て回ったんですが、ちょっと判別できかねます。ただ、電力メーターはよく回ってますね。それと、無線電波が……、多分、この周波数だとインターネット接続用だと思いますが、断続的に流れてます」

 家にいるのか、それともトラップか。

 微妙なところだ、とコリンズは吐息を零し、慎重策を取ることに決める。

了解コピー……。4名揃ってからエントリだ。絶対、逃がすな。抵抗したら射殺も許可するが、可能な限り生きたままで確保せよ」

 少し考えて、言わずもがなの指示を付け加えることにする。

「スタックヒルは、航空マーク出身で、生粋の戦闘機乗りファイターだった男だ。ウザいトラップは用意しないとは思うが、しかし慎重に行こう。何せ、こちらは情報部、警務部の混成部隊だからな」

「コピー、オーバーロード、FOB、アウト」

 マッドとの通信を終え、コリンズは、そう言えばさっき、ヒューストンとの通信を途中でぶち切っていた事を思い出した。

”ヒューストンに連絡してやらんと。……ヤキモキしていることだろう”

 通信機に再び手を伸ばしかけて、コリンズは、隣から聞こえてくる、まるで呪文を唱えるような、苦しげな呟きに気付いた。

 マズアだった。

「くそっ、あの馬鹿野郎! ……トチ狂いやがって! 1課長泣かせてどうするってんだ、馬鹿め」

 無意識なのだろう。

 それだけに、コリンズには、この生真面目な旧友の、本音に近いだろう呟きに、答える言葉を持っていない。

「アーネスト」

 コリンズの呼びかけに、マズアは充血した目を振り向けた。

「あの人は、皆が憧れるだけ、それで良いんだよ……。天使みたいな……、なんでそれが判らないんだ? 」

「そう、だな。全くだ、駐英武官」

 コリンズがわざと職名で呼んだことで、マズアは、我に返ったような表情を浮かべ、そのまま黙り込んだ。

 コリンズは彼から目を逸らし、通信機に再び手を伸ばしながら、考えた。

”まったくだよ、アーネスト。……まあ、俺にとっては、天使ではなく、女神様だが、な”

 女神様を独り占めできる存在。

 そうなるのは、やっぱり不可能に思え、そして、もとからそんな度胸も持ち合わせていないことに気付いて、苦笑を一人浮かべる。

 女神に仕える天使だからな、俺は。

 イヤな天使だ、と自嘲した。


「統幕本部長からの命令書、君宛だ」

 内幕部長襲撃の犯人がフォックス派シンパ、警官隊に射殺され、新谷や涼子を始めとしてUNDASNメンバー全員無事と言うコリンズからの報告で一瞬空気が弛緩したシミュレーション・ルームに、ホプキンスの声が響いた。

「私宛? 」

 サマンサが振り返ると、ホプキンスがゆっくりと頷く。

「ミッション・コマンダーは君じゃないか。忘れたわけじゃないだろう」

 相変わらず気に食わない笑いだわね。

 言い返そうとして、サマンサは大人気ないわとそれを諦め、自分の端末に送られてきた命令書を開く。

「ロンドン市内での正規軍展開作戦の発動許可証と命令書だ。サム、君がそこへ電子サインしたらすぐにサザンプトンの空母サラトガの部隊が動く」

「サラトガ? グローリアスじゃないの? 」

「グローリアスは昨日の観艦式、アットホームに引き続き今日一杯は一般公開中だからな。それに、サラトガの艦長が自ら志願したらしい」

 言われてサマンサは思い出す。

 ああ、あの五十鈴で一緒だった、百合っ子か。

 全く涼子、ファンが多くて羨ましいけど。

「気に食わない」

 ホプキンスが不思議そうな表情を浮かべるのを無視して、サマンサはキーボードから自分の認識番号を打ち込んで、拝命のボタンをクリックした。

 サインした途端、ふ、と気が軽くなった。

「さあ、アーサー」

 自分でも驚くほど、明るい声が出た。

 なに、構うものか。

「な、なんだ? 」

「素人司令官の仕事はここまで。ここから先は、プロ、つまり貴方の出番」

「博士」

 驚いた表情のホプキンスに、サマンサは微笑みかけた。

 微笑ってのは、こうするのよ、との思いも少しだけ込めて。

「適材適所、って言うでしょ? ……貴方には貴方の仕事、私には私の仕事」

 私の仕事は、出番がないほうがいいんだけどね。

 ああ。

 貴方も、か。

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