第106話 16-6.


 本日二度目になるグロブナーハウス訪問、ロビーへ足を踏み入れると、早朝、カウンターで会話した老人が、無表情なまま黙礼してきたので、コリンズは少し慌ててしまった。

 こんなところにも五つ星の格式とそれに相応しいサービスが生きているのかと、多少の驚きと感動を覚えながら、ソファに座っていると、数分もしないうちに肩を叩かれた。

 振り向くとヒッカムが立っていた。

 朝とは違い、無言のままだ。

 確かに声高に話せる状況ではないのだろうと、コリンズもまた無言のまま頷いて立ち上がり、先を歩くヒッカムの後を追う。

 20世紀から変わっていないのではと思える程の古臭いエレベータで3階まで上がると、そこはホテルのメイン・ダイニングのようだった。

 広いが、どことなく厳めしい雰囲気のメイン・ダイニングを横目に通路を奥へ進む。

 角を曲がると、昨夜顔を見かけたイブーキのSP2名が立っている個室が見えた。

 ヒッカムはそこで漸く足を止めると、振り返って、低い声で言った。

「実は、そのまま殿下のお部屋にて謁見して頂こうと思っていたのですが、殿下がコリンズ中佐と二人きりで話をさせて欲しいと仰いまして」

 ヒッカムは、腕時計に目を落とす。

「今、10時3分ですから、30分……、そうですな、10時35分終了を厳守頂きたい」

「承知致しました。……お骨折り、感謝いたします」

 ヒッカムは頷いて、手を部屋の方へ差し伸べた。

 SPの開いたドアの前で一礼し、一歩室内へ入って、まず室内の暗さに驚いた。

 VIP用の個室なのだろうが、唯でさえ薄暗い~本来、ムーディと表現すべきなのだろうが~間接照明が、どうやら半分ほども灯されてはいないようだった。

 個室といっても、ゆったりとした3人掛けソファが3セット、充分な間隔を置いて据えられた広さで、ここで2時間ほどブランデーを傾けたら、一体幾ら位払わねばならないのだろうと考えて、あまりの自分の貧乏臭さに辟易した。

「マヤ殿下、本日は」

 そこで絶句した。

 部屋の一番奥、ドアを入った正面に座っていたマヤが、いきなり両手で顔を覆い、肩を震わせ始めたのだ。

 ドアは既に閉められていて、ヒッカムは室外だ、SPすらいない。ここにはコリンズとマヤ、本当に二人きりだった。

 と言う事は自分で対応するしかない訳か、とコリンズは腹を括った。

「殿下」

 もう一度声を掛けると、マヤは涙に濡れた頬を上げて、叫ぶように言った。

「コリンズ様! 涼子様は……、涼子様は大丈夫なんでしょうかっ? 」

 マヤの出自からすると考えられない非礼だったが、時間を限定されているコリンズには好都合だった。

 それにしても、ヒッカムはどんな話し方でマヤを脅したのか。

 少しだけマヤに同情しながら、それでもヒッカムの筋書きを利用させてもらう事にして、コリンズはゆっくりと答えた。

「殿下、ご心配なさらず、大丈夫です。……今のところは、ですが」

 コリンズはマヤの前に進み、向い側のソファを指差す。

「座ってもよろしゅうございますか? 」

 マヤがコクン、と頷くの見て、ソファに腰を下ろす。

 見た目以上に柔らかいクッションで思わず後ろへ倒れそうになるのをどうにか堪えて、コリンズはマヤに身体を向けた。

「殿下、ご心配頂き、光栄の極みでございます。……しかし、正直申し上げまして、この先、石動の安全は充分に保証されているとは言い難い状況です。その為にも、殿下のご協力が必要なのです」

 マヤは、ハンカチを取り出して上品な仕草で涙を拭うと、決然とした表情を浮かべて、ゆっくりと頷いた。

 目は泣き腫らして赤く、そして今も涙が溢れるのを懸命に我慢している様子だが、その毅然とした態度、風格はさすがに一国の王族と呼ぶに相応しい、とコリンズは思った。

「なんなりと、コリンズ様。涼子様をお助けできるのなら、マヤはどのような事でもいたします」

 コリンズは微笑んで~こればかりは、自然と微笑む事ができた、と思う~軽く頭を下げ、本題に入った。

「ところで殿下。2月14日の深夜は、ヒースロー空港で私達をお助け頂きありがとうございました」

 マヤの目が大きく見開かれる。

「……ご存じ、だった……、のですか? 」

「ええ、気付いたのは昨日の観艦式ですが。勿論、UNDASN部内でもこれは秘密です。昨夜の石動とのお忍びも、そのささやかな御礼のつもりで許可差し上げた次第です」

「それは……、ご迷惑をおかけいたしました」

 項垂れるマヤに、コリンズは慌てて声をかける。別に責める気などこれっぽっちもないし、それにここでテンションを下げられては、肝心の本題のヒアリングが心許なくなってしまう。

「いえ、お気になさらず……、と言うよりも、本当に我々は殿下のお声がけにて命拾いしたのです。本来ならこちらから勲章のひとつでも、と」

 弱々しいけれどそれでも気丈に微笑を浮かべたマヤを見て、コリンズはいよいよ本題を切り出すことにした。

「それよりも殿下、昨夜は本当にお疲れ様でございました。しかも結果的には殿下ご自身の身にも危険が及ばないとも限らない状況、まことにお詫びのしようもなく」

「いえ、私のことは本当に良いのです。それより私」

 マヤの頬に涙が伝う。

「私……。知らぬとは言え、昨夜は涼子様を危険な目に」

「いや、本当にお気になさらず……」

 コリンズは慌てて宥める。

「失礼ながら、時間がございません。単刀直入にお尋ねいたします。ヒースローでは到着ロビーの中にお入りになりましたか? 」

 マヤはもう一度涙を拭うと、今度ははっきりとした口調で答えた。

「ええ。最初……、午後10時40分前後だったかしら? 到着ロビーに入り、UN専用機の到着を知って、そこでお待ちしようと思ったのですが、警備の方々にターミナルビルから出るように言われて外に出て……、あの……、その、見張っておりました。涼子様を」

「ロビー内では不審な人物を見かけませんでしたか? 」

 マヤは目を細め、どんな些細な事も思い出してみせる、とでも言うような慎重な口調で話す。

「あの時は……、少し飛行機の到着が遅れましたでしょう? 私が到着遅延ディレイの案内を電光掲示板で見ていましたら……。そう、UNDASNのお迎えの方々がロビーへ参られました。その中に貴方もいらっしゃいましたわ」

 コリンズは照れ笑いを浮かべる。

「仰る通りです。私などの顔まで憶えていらっしゃるとは、さすがですな」

 マヤは少しだけ微笑んで、言葉を継ぐ。

「それで、ああそろそろ到着なのかな、って思って……。そうだ! あの時……。そうだわ、ああっ、どうしよう! なんで思い出さなかったのかしら! 」

 今にも頭を抱えんばかりに身悶えしているマヤに、コリンズは少し厳しい口調で先を促した。

「どうされました? 何を思い出されたのです? 」

 再びコリンズに向けられたマヤの瞳には、後悔が如実に現れていた。

「実はその時、男性に声をかけられたのです。その男性も国連機を待っている、と言ってました。何やら少し……、ええ、率直に申し上げますと、少し不気味な感じのする方でしたわ……。そうだわ、それでその後すぐに、姿を消したんです。それで、その時は私、少し不審に思っていたのですが……。その後の銃撃戦やら、尾行やらで」

 言葉が途切れた。

 マヤは、自分の手で、自分の口を塞いでいた。

 コリンズは、ああ、と言って、微笑みかけた。

「よろしいんですよ、殿下。尾行の件も知っています。タクシーで、でしょう? あの後、駐英武官事務所から、ヒルトンホテルまでも尾行されましたね? 失礼ながら、我々も殿下のご乗車を逆尾行させて頂きましたから」

 マヤは消え入りそうな声で答える。

「そ、そうでしたか……。あの、ごめんなさい。……私、あの」

「いえ、それはよろしいのです。それより、その不審な男性の人相特徴服装その他なんでも結構です。憶えてらっしゃる事を全てお教え頂きたい」

「ベージュの着古したようなダッフルコートに赤と緑のタータンチェックのマフラー、ズボンはグレーのシングル、靴は黒の革靴紐なし。背は私と同じ位、少し貧相な感じで、髪はブロンド……、少し薄いかな、でも禿げてるってほどじゃなくて……。顔はあんまり印象がないんです。でも金壷眼で、鼻はワシ鼻、それにすごい訛りのきついコクニイで話しかけられたっけ……」

 コリンズはメモを取りながらマヤの記憶の良さに舌を巻く思いだった。

 職業柄、と言ってしまえばそれまでだが、元々が聡明な女性なのだろう。

「いや、ありがとうございました。たいへん参考になりました」

 コリンズの言葉に、マヤはキョトンとした表情になる。

「え? ……あ、あの、コリンズ様、昨夜の事は聞かずともよろしいのですか? 」

 コリンズは、正直にネタをバラすことにした。

 マヤが、昨夜の行動が涼子を危険に曝すような行為だったと自分を責めていることを知り、少しでもそれを軽減してやろうと思ったのだ。

「ああ、ヒッカム中佐から、そう聞かされていたのですね。いや、正直に申しますと、そちらはカムフラージュ、殿下にお会いするための口実だったんです。本当はヒースロー空港での事を聞きたかったのですが、そちらは殿下、多分お忍びだったのでしょう? それに、昨夜は私を筆頭にUNDASNだけでも15名が石動に張り付いていたのですから、聞かずとも」

マヤは恥ずかしそうに目を伏せ、小声で謝った。

「そうでしたの……。あの、ほんとに、余計なお気遣いまでさせてしまって」

「いえいえ、マヤ殿下、そちらは本当にお気になさらないで下さい……。おっと、長居をしてしまいました、私はそろそろ……」

 そう言って立ち上がろうとするコリンズにマヤは不安そうな視線を投げかける。

「コリンズ様……。これで涼子様は大丈夫でしょうか? 」

 ええ、勿論、大丈夫ですよ、と答えようとした刹那、マヤは再び激しい動揺を見せて上擦った声を上げた。

「ああっ! 涼子様にもしもの事があったら、私、どうしよう? 」

 コリンズは再びソファに腰を下ろし、マヤに話し掛ける。

「殿下……。殿下のそのお気持ちを石動が知ったら、彼女はきっと涙を流して喜ぶでしょう。けれど、ご心配なく。決して殿下にこれ以上余計なご心配をお掛けすることはないとお約束いたします」

 そして少し躊躇ってから、マヤの肩を優しくポンポン、と叩き再び立ち上がった。

 室内に監視カメラが設置されている~きっと盗聴マイクもあるだろう、後でマヤは怒られるかも知れないが、それはもう自業自得と諦めてもらわねば~ことは入室した瞬間に気付いていたが、まあ、これくらいは勘弁してもらおう。

「彼女は……、我々にとっても欠く事の出来ない大切な人間ですから、ね。勿論、任務の上でもそうですが……。それ以上に、人として、石動涼子という一人の女性、いや、ひとりの人間として、彼女はUNDASNに必要なんです」

 少し気取りすぎたかな、と思った。

「コリンズ様」

 マヤが潤んだ瞳でコリンズを見上げた刹那、ドアが開いてヒッカムが顔を出した。

 コリンズはヒッカムに目礼し、そしてマヤに向かって腰を折った。

「殿下。貴重なお時間を割いて頂いた上に、貴重な情報までご提供頂き、誠にありがとうございました。……なお、この件は、石動にはご内密に」

 マヤもヒッカムの手前、すっとソファから立ち上がり、毅然とした態度でコリンズに応えた。

「その件、確かに承りました。コリンズ中佐、御苦労様でした。石動代将アドミラル・イスルギにも何卒、よしなに」

 コリンズが立ち上がり、頭を下げ、再び上げた時には、マヤの表情は完全に皇女としてのそれだった。

 ヒッカムの先導で部屋を出て行くマヤを見送りながら、コリンズは、ボソ、と呟いた。

「殿下。石動は必ず、私が守ります」

 それは、マヤの為でもなく、もちろん、UNDASNの為でもなかった。

 ただ、自分が守りたい。

 そう、思ったことを、コリンズは漸く言葉にするのを思い止まった。


 グロブナーハウスの車寄せで客待ちしていたブラック・キャブに乗り込み、コリンズは首を捻る。

「さて……。こいつはいよいよ、判らなくなったな」

 マヤが記憶していた、ヒースローにいたダッフルコートの男。

 聞けば聞くほど、確かに怪しげな男には違いなかったが、それはしかし、コリンズの頭の中の『犯人像』からは遠く懸け離れていたのだ。

 ロンドンでフォックス派のテロ活動のコーディネーター役を請け負った、というハリー・リュックソンなる人物の画像は、残念ながら、ない。

「取り敢えずは、ヒューストンに連絡して検索照合条件に追加。……後は、国際部長の交渉で少しでも早くバッキンガムの画像を手に入れるしかない、か」

 それにしても、とコリンズは再びううむ、と唸る。

 勘だが、マヤの証言の信憑性は非常に高いと思われる。

 だから、何処かの誰かが、涼子の、いや、少なくともUNDASN幹部達の動向を気にしていたという事実は、厳然としてあるのだ。

 問題は。

 それが、マクラガンを狙っていたフォックス派シンパ~またはプロの犯罪コーディネーター~か。

 涼子を狙っている、サマンサ言うところのド変態ストーカー野郎なのか。

 いずれにせよ、涼子を狙う犯人は、今回のフォックス派襲撃事件を巧みにカムフラージュとして利用している。

「くそっ! 」

 思わず口にでた言葉に、運転手が怪訝そうな顔をしてルームミラー越しに見ているのに気付き、コリンズは視線をそらし、朝のロンドンの風景を眺めながら、尚も考える。

”フォックス派も、ストーカー野郎も、全く絶妙なタイミングで仕掛けてきやがったもんだ”

 焦るな落ち着けと言う自分と、どうしようもなく焦る自分が押し合いへしあいしている顔がガラスに映っているのに気付き、コリンズは思わず苦笑いを浮かべた。

 笑顔は上手くなったが、ポーカー・フェイスの方法を忘れてしまったようだった。

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