第105話 16-5.


 0830時マルハチサンマル前に目覚めた涼子が、シャワーを浴び、髪を乾かし終えるのを待っていたように、部屋のインターフォンが鳴った。

「はーい」

「軍務局長次席秘書官がお見えです」

 昨夜、自室にアンヌを招いてメイク教室を開いた涼子だったが、なにぶん慣れない事だ、どうにも煮詰まってしまい、結局は今朝、零種軍装に見合ったメイクアップを改めてお願いした次第だった。

「ありがとう。お通しして」

 SPに答えて受話器を戻す前にドアが開き、アンヌが入ってきた。

「おはよう、涼子」

「おはよう、アンヌ。ごめんなさいね、朝早くから。忙しいでしょうに」

「いいのよ、気にしないで」

 アンヌは確かに機嫌の良さそうな口調で、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。

「それにしても、ほんと良かったわぁ。アンヌがボールドウィン局長と一緒にグローリアス泊だったら、こんなことお願いできないもの」

 溜息混じりでそう言うと、アンヌは明るい笑い声を交えながら頷いた。

「ほら、軍務局長ったらイースト=モズンの件で昨日からサザンプトンの艦内に缶詰でしょ? だからあの色男プリティボーイの世話は副官に任せて、こっちは思わぬ休暇が貰えたのはいいけれど、暇で」

 突然、アンヌの、小鳥の囀りのような声が途絶えた。

「? 」

 髪を梳く手を止めて鏡台から振り向くと、アンヌの驚いた表情が目に飛び込んできた。

「どうしたの? 」

 涼子が問うと、アンヌは掠れた声を上げる。

「貴女……、気付いてないの? 」

「ふぇ? 」

 涼子はブラシを持った手を下ろし、自分の姿を見る。

 シャワーを浴びたばかりだから、まだ、ブラとパンティだけだ。

 別に期待している訳じゃないけれど、取り敢えず、白の、上下お揃い~上下揃いが、この白のレースのものしか持ってきていなかったのだけれど、後は上下バラバラの私物、軍支給のソルジャーブラとスパッツだ~を身に着けている。

 こんな姿だからかしら、でも女同士なんだし、それを言ってる訳じゃないよね、とぼんやり考えていると、膝にポツリと、冷たいなにかが落ちた感触に、ビクリと身体が震えた。

「……あ、れ? 」

 続いて二滴、三滴と滴が剥き出しの肌に花を咲かせる。

「……なんで? 」

 息が苦しくて、喋り難い。

 漸く絞り出した声が、自分のものではないように、湿っぽかった。

「私……、泣いてるの? 」

 目から溢れた涙が、頬を伝い、顎の先から、止め処なく膝へと落ちていく。

 駄目だと手の甲でぐいと目を拭い、顔を上げるとアンヌが困ったような表情で目の前に立っていた。

「……どうしたの、涼子? 何? どうして泣いてるの? 」

 囁くような優しい声が心に沁みて、そうするともう、堰き止め切れないほどの涙が堰を切って溢れ出して、すぐにアンヌの優しい表情が滲んで見えなくなってしまった。

「なんでだろ? ……泣く理由なんて、ない筈なのに」

 そう言った筈なのに、自分の耳にはとてもそうは聞こえなかった。

 それが哀しくて、思わず「うえぇぇ」と子供みたいな嗚咽が洩れる。

「涼子」

 アンヌの声で、ぐしゅんと洟を啜り上げると、涙の膜の向こうで両手を広げて微笑んでいる姿が見えた。

「うあ……、うあぁん! 」

 胸に飛び込む。

 押し倒すほどの勢いで、むしゃぶりつくように抱きついたのに、アンヌはよろめきもせずにしっかりと受け止めてくれた。

 それが嬉しくて、涙と洟でぐしゃぐしゃの顔を、アンヌのカシミアらしいセーターに押し付ける。柔らかな毛足が、こそばゆかった。

「……今日は、涼子にとって、楽しい日になるんじゃなかったの? 」

 耳朶を擽るように囁くアンヌの声が、心地良い。

「おかしいの。私、おかしいの……。な、涙が、止まら、な、いの。……アンヌ、なんでかなあ? 私、おかしくなっちゃったの? 私、嬉しいんだ。……ほ、ほんとに、嬉しいんだよ? 」

 アンヌが子供を寝かしつけるように、トン、トン、と背を叩くリズムが、魔法のように言葉を紡ぎだしてゆく。

「10年以上待ってたんだ、私。こ、今夜、やっと……、艦長と……。なのに、なんで? なんで、泣くのかなあ? なんで私、泣いてるの? 」

「そうかそうか、うんうん、そうなの」

 アンヌのあやすような相槌を聞くうちに、ゆっくりと膝から力が抜けてゆく。

 気が付くと涼子は、床に座り込んだアンヌの膝の上で、まるで赤ん坊のように抱きかかえられていた。

「……私、恐いの。……恋してきて、好きで好きで、どうしようもなく大好きな艦長との、デートなのに。……私、壊れちゃったのかな? 嬉しいのに、恐くて、涙が……。涙が止まんないよぉ」

 一気にそう言い切ると、なんだかホッとした。

 たぶん、自分が何故泣いているのかが判ったからだと、思う。

 アンヌは、ゆっくりとしたリズムで涼子の身体を揺すりながら~赤ちゃんが母親の腕の中で安らかに眠る気持ちが、判ったような気がした~、歌うように、言った。

 ああ。

 なんでアンヌは、こんなに身体も声も、心まで、柔らかくて優しいのだろう?

「大丈夫。……ねえ、大丈夫だよ、涼子? 」

 思わず、大丈夫なんだと思えてきて、こくんと頷く。

「幸せって、怖いものなのよ? 」

「……そう、なの? 」

 問い返すと、アンヌは眼を閉じて、頷いてみせる。

「涼子は、幸せ下手なのね、きっと。……だから、なんでも疑っちゃう。……ほんとかな? 夢じゃないのかな? こんなの嘘かも知れないわ。……なんて、ね? 」

 そうかも知れない。

「だから、幸せを失っちゃった時のことを思うと、怖くなるのよ。一度幸せを知っちゃうと、一人が余計に辛くなる、ってね? 」

 そうかも知れない、いや、きっとそうだ。

 今まで追い求めるだけだったあのひとの心を手にして、もう二度と離したくない、一人はもういや、そう叫んでいる自分がいるのだ。

「明日は、確かに誰にも判らないわ。だから、幸せな今が、怖くなる」

 うん、うんと頷いていると、止まりかけた涙が再び溢れそうになる。

「でも、怖がるばかりじゃ、駄目」

 囁くような口調は変わらないけど、その言葉は力強くて、涼子は思わずビク、と身体が震わせてしまった。

「幸せを知らないままの、なだらかな、でも、確実に高度を下げていく不幸せと、一度は真っ蒼な空を気持ち良く駆け巡った後の、急降下のような不幸せ。……私なら、なだらかな墜落は御免被るわ」

 涼子を抱くアンヌの手に、微かに力が入ったように感じた。

「だって、大切にしたい何かを貰えないまま生きていかなければいけない暗闇は、厭だもの。同じ暗闇でも、嘗て愛する人から貰った大切な心の欠片を抱き締めて歩く暗闇は、まだ、耐えられるもの。煌くダイヤのような宝物を持って歩く暗闇は、いつの日か再び、上り坂に行き会える気が、するもの」

「大切な……、宝物」

 涼子が鸚鵡返しに呟くと、アンヌは微笑んで頷いてくれた。

「涼子、貴女は今日まで、幸せを知らなかったのかも知れない。不幸だったのかも知れない。……けれどね」

 涼子は、アンヌの細めた目に、光る何かを認めた。

「けれど、そんな日々も、今日の幸せを掴む為にあったんだと、私は、そう、想う」

 壊れてしまいそうな心を抱き締め、それでも耐え切れず、明日には限界かも、いや次の瞬間には壊れてしまうかもと震え、足が竦み、目も見えず、右も左も、前も後ろも判らずに泣き喚いていた自分に、だからこそ、あのひとが手を差し伸べたのだとしたら。

 それが、今日、手にした怖いほどの幸せの、切欠だったのだとしたら。

 刹那主義かもしれないけれど、確かに私には、幸せを一度は手にする権利があるのかも知れない。

 そう思えた。

「いいのよ、涼子、それで」

 まるで心が読めるかのように、アンヌが再び囁いた。

「幸せな時間が、どれだけ続くかは、誰にも……、神様にだって判らないけれど。……だけど、幸せから貰った宝物だけは、生き続ける限り、ずっと輝いているのだから」

 そうかも知れない、と思った。

 単純だな、私、と自己嫌悪しかけたけれど、やめた。

 アンヌに抱かれて、きっと心まで子供に還っちゃったんだわ、と思うと、可笑しくなって、思わずクスリと笑みを洩らす。

 刹那、頬にポタリと涙が落ちた。

 私、まだ泣いているのかなと、いつのまにか閉じていた瞼を開くと、アンヌが微笑みながら、またひとつ、涙の滴を涼子の頬へプレゼントしてくれた。


「ねえ、アンヌ? なんかさ、私、田舎から出てきた家出娘みたいじゃない? 大丈夫かなあ? オバサンが無理してる様に見えない? 」

 零種軍装を纏った涼子が3階のオフィス前で立ち止まって、振り返った。

「大丈夫、涼子」

 アンヌは涼子の背中をそっと、押す。

「奇麗よ、涼子。自信持ちなさい。……今、貴女に必要なのは、自信」

 アンヌは、後ろから涼子の顔を覗き込む。

 大きな黒い瞳が、今にも涙を零しそうに膨らんで、アンヌの顔を丸く映していた。

「それは、貴女の為だけじゃないわ。……貴女が大好きな、彼のためにも必要なのよ? 」

 ね、と頷いてやると、涼子もまた、頷いて漸く微笑を浮かべた。

「ごめんね、ありがとう、アンヌ」

「ほらほら、泣かない泣かない! お化粧崩れるわよ! 」

 オフィスの中へ涼子を押し入れると、号令が聞こえてきた。

「アテンション! 室長代行、参られました。おはようご……、ざいま、す」

 若い女性三曹の号令はしかし、後半、失速した。

 見ると、オフィス内にいた全員が全員、申し合わせた様にポカンと口を開いて涼子を見ている。

 やっぱりな、とアンヌが溜息を零した途端、全員がわっと立ち上がり、涼子を取り囲んだ。

「1課長、素敵過ぎます! 」

「凄く綺麗、どこかのお姫様みたい! 」

「一昨日よりも、更にバージョンアップしましたねえ! 」

「化けましたねぇ! 」

「写真一緒に撮って下さい! 」

 アンヌは人垣から一歩離れる。

 確かに涼子と言う超一級の素材を得て、アンヌも腕の奮い甲斐はあったけれど、その完成予想図は、大きく、遥か斜め上に裏切られた。

 それほど涼子は、美しく、輝いていた。

 けれど、とアンヌは、人々に囲まれて恥ずかしそうに頬を染めている涼子を見ながら、思う。

”……きっと、それは貴女の心のときめきと煌きが、私のメイク以上に、零種軍装の鮮やかさ以上に、貴女を奇麗に見せているのね”

 胸の奥で、そっと可愛らしい友人に、アンヌはそう囁いた。

「何を騒いどるんだ? 」

 驚いたような声に振り向くと、武官室のドアが開き、コルシチョフとマズアが立っていた。

 二人の背中に隠れるように立っているのは、リザと銀環だ。

 二人の顔が赤い理由は察しがついたが、涼子一人、判っていないようだった。

 さすがにギャラリーが口をつぐみ解散すると、涼子が敬礼して挨拶をした。

「部長、駐英武官。おはようございます」

「あ、ああ、お、おはよう」

 口篭りながら答礼したコルシチョフは、これ以上は耐えられんとばかりに背後のマズアを振り返った。

「んん、じゃあ駐英武官。行くか? 」

「あ、はい。そうですね」

 涼子が小首を傾げている。

「え、部長、もうご出発に? 駐英武官も? 」

 マズアが取り繕う様に答える。

「あ、1課長、申し訳ありません。国際部長には政務局長命令により別件で内務省へ臨場エントリ頂く事になりました。その後、舞踏会で合流頂きます。申し訳ありませんが私もスコットランドヤードへ行ってから、舞踏会で合流します。1課長は予定通り新谷内幕部長と米国務長官との昼食会、続いて国立歌劇場をお願いします」

 早口でそう答えると、マズアはコルシチョフの背中を押す様に、物問いたげな涼子の視線から逃げるようにして慌てて事務所を飛び出して行った。

「え? 何? 」

 どうやら涼子は聞いていなかったらしい。

「あ、あの、室長代行」

 リザが如何にも作り笑いです、というぎこちない笑顔を向けながら、言い難そうに言った。

「自分は、駐英武官に依頼されましたので、国際部長に同行します。後任副官は外務省から38号議案の件で打ち合わせがブレイクしたので、そっちへ回ってもらいます。それぞれ、バッキンガム宮殿で合流できる予定ですので、申し訳ありませんが、新谷内幕部長のお迎えは、SPだけお連れになって、室長代行にお願いします」

 リザは一気に、捲くし立てる様に言うと、銀環を振り返った。

「さ、後任、急ごう」

「アイマム。あ、室長代行、そ、それでは」

「え、あ、ふ、二人とも、ちょっと……」

 涼子の差し伸べた手が、虚しく二人の消えたドアに向かって暫く揺れていたが、やがて、静かに動きを止めた。

「……な、何があったの? 」

 涼子が目を真ん丸にして振り返った。

 アンヌも思わず首を捻る。

 突発的な事態が発生し、予定が変わるのはUNDASN高級幹部にはよくあることだ。

 けれど、それが今回の一連のイベント全てに関わるステーク・ホルダーである涼子の頭上を通り越して、などあり得ない。

 それなら、寝ている涼子を叩き起こしてまで状況を伝えるのが、普通の方法だし、アンヌも今までそうやってボールドウィンを叩き起こしたものである。

 いったい、なにが起こっているのか?

 政務局内のことだ、確かに、軍務局長秘書官であるアンヌにとっては所管外である。

 だが、妙に心に爪を立てるこの出来事が、アンヌはいつまでも気になって仕方がなかった。

 それが何を意味するのか。

 気付いたときには、全てが、終わった後だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る