第102話 16-2.


 スコットランドヤードの総務課にさんざん厭味を言われた末に借り受けた会議室の前で立哨している警官の不愉快そうな表情が、一層マズアの疲労感に重石を積んだ。

 舌打ちしかけるのを、なんとか欠片ほど残った『外交担当幕僚』の矜持で押さえ付けて、ドアを開き薄暗い室内に入ると、武官事務所のローバーから外して持ち込んだ野戦用多次元通信機の前で誰かと通信中のコリンズが、チラと振り返った。

「……そうか、そっちもか。……ん? ……ああ、そうだ。他の連中も同じだと言ってきた。……しかし、そんな事があり得るのか? ……まあ、いい。もう暫く頑張ってくれ。いざとなれば、電通本へでも応援要請する。アウト」

 コリンズはインカムを外して振り向いた。

「……どうだった、話はついたか? 」

 マズアは帽子をポンと机の上に投げ出し、イスに座ってゴシゴシと顔を擦り上げる。

 紅茶じゃなく、濃いコーヒーが飲みたかった。

「駄目だ。今回、内務省はハードルが高いよ。……最終的には、治安局長の許可が下りたら、と言うところまでは詰めたんだが。それでもやはり、出勤時間になるまで待つしかない」

 こんな時、涼子ならばあっと言う間に問題をクリアしてしまうだろうに、当然のことながら今は頼ることは出来ず、それ故、我が身の不甲斐無さが余計に情けなくなる。

 コリンズと自分の間にある会議テーブルの上に置かれたマグの中の、誰かの飲み残しだろう冷めたコーヒーに、思わず手が伸びた。

 無意識だったが、手を伸ばしかけたマグをコリンズがさっと横から掻っ攫い、一気に飲み干すシーンを見て、我に返った。

 飲まなくて良かった、安堵の吐息を零しながらコリンズに質問を投げかけた。

「で? 『教祖サマ』達は全部とっつかまえたのか? 」

「今の所、ロンドン市内居住の9人の内、7人までは確保した。地方居住者では、ヨーク市内の2名は確保、現在連行中だ。どいつもこいつも、素直に吐いてるよ」

「それで? 情報源ソースは? 」

 仕方ない、自分で淹れるかとマズアは重い身体を椅子から持ち上げて、コーヒーサーバーに歩み寄りながら訊ねた。

「いつも、捨てアドからの不定期なメールで届けられるそうだ。ログに残った着信時間から考えると、どうやら1ヶ所から同報発信されているらしいんだが」

 伏せて置いてあったマグに、ぬるそうなコーヒーを注ぐ。

 それでもコリンズの飲み残しに較べれば、甘露だろう。

「じゃあ、そのメールを逆に辿れば良いんじゃないか? 捨てアドとは言え、経由したゲートウェイを辿る事はそう難しい事じゃあるまい」

 今度は、コリンズが両手で顔をゴシゴシと擦り上げた。

「俺もそう思ったんだが、ね。実は、さっきの通信もその件なんだが、辿れないんだ」

 マズアは、取り敢えず立ったままコーヒーを一口飲んで、訊ねた。

「何故? なんとかって言う恥ずかしい名前の逆探ツールを持ってるんだろう? 」

 コリンズの顔が僅かに歪んだように思えた。

「途中で、煙のようにログが消えるんだ」

「消える? ログが、か? 」

 マズアが席に座ると同時に、コリンズは続きを話した。

「ああ。逆探ツールを使ったら、確かに途中までは通信経路を辿る事が出来るんだが、何箇所か経由したゲートウェイのどこかで、ログ自体が削除されている、だとさ」

「ログの改竄? 」

「恐らく、な。一般的な捨てアドだったら、少なくともそのメールアドレスが嘗て存在していた事は知れる筈だし、使用された回線やゲートウェイ、発信元のIPまでは判明する筈なんだ」

 手の中でのマグを弄びながら、コリンズは宙に視線を漂わせて言葉を継いだ。

「少しそこらへんに詳しい奴を、管理者の自宅へ送り込んで色々調べさせてるんだが、さっぱりお手上げらしい。なあ、マズア」

 コリンズは、首を捻りながら、視線をマズアへ戻した。

「貴様、どう思う? そんな事が可能なのかね? ログが削除されている、ってことは即ち、サーバ自体にハッキングしてるって事だろう? 素人にそんな事が可能だと思うかね? 」

 マズアは、コリンズの言葉を反芻する。

 サーバの通信ログが削除されている、だと?

 それは即ち、パブリックな通信網を駆け巡るインターネット・メールだ、つまりはプロバイダや通信会社のサーバにハッキングを仕掛けている、そういう事だ。

「素人じゃ無理だろう。ある程度の腕を持ったハッカーが専用のウィルスなりファイアウォールなりってツールを使用しているように思えるが、そうなると俺は門外漢だからな」

 そこまで言って、一人の部下の名前を思い出した。

「そうだ、ヒギンズにでも聞いてみるか? スタックヒル補佐官。あいつは元々空総出身でね。ここへ来る前、一時期だが防空警戒管制網バッジシステムの更新に電装通信本部電通本へ出向していた事があるとか言ってたから、そこらへんは俺達より詳しいんじゃないか? 」

「……スタックヒル補佐官か」

 コリンズは暫く天井を向いて無言で何事か考えていたが、やがて気のなさそうな声を出した。

「いや、いい。今、無闇に情報を拡散するのは拙い。やめておこう。……それより、統幕の作戦指揮本部CPに電通本からエキスパートが応援に来ているらしいから、そっちへ当った方が早いだろう」

 そう言って、コリンズは腕時計に視線を落とした。

0614時マルロクヒトヨンか……。少し早いが、まあ、良いか。アーネスト、貴様、この後の予定はどうなってる? 」

「俺の方はとにかく、内務省のエライさん方の出勤時刻までは空きだ。石動課長が起きてくる0830時マルハチサンマルまでには、一旦オフィスへ戻るが」

 コリンズはマズアの言葉を聞きながら、立ち上がって言った。

「俺は少し回るところがあるから出掛ける。すまんが、貴様はここにいてウチの連中の連絡係を頼めないか? 」

「構わないが、何処へ行くんだ? 」

「ちょっと、野暮用だ。ああ、時間がきたら、行ってもいいからな」

 振り返りもせずに早足で出て行ったクラスメイトの背中を呆然と見送って、マズアは呟いた。

「勝手なヤツだ」

 思い起こせば、生徒時代から、どこか一風変わったところのあるヤツだった。

 だが。

 今は、彼の偏屈さに賭けるしかない。


「そうか……。車がないのを忘れていた」

 仕方ない、寒いが少し歩くか、と口の中で呟く。

 コートの襟を立てて歩き出したコリンズは、昨夜武官事務所からスコットランドヤードへ向かう車中で聞いた、マズアの話を思い浮べていた。

「あのひとが、なあ」

 古いクラスメイトが、生真面目そうな表情は昔のままに語った、涼子の人生。

 運転しながら、ポツリポツリと話す彼の言葉が、最初はうまく頭の中に収まらなかった。

 いや、『担当事件の一関係者に関する情報』としては、そこはプロらしく、全てを胸に収める事はできたのだ。

 だが、ジャック・コリンズという『一人の人間』が、彼女の過去を拒否していた。否定していた。

 どれだけ否定しても、拒否しても、どうにもならぬ過去の出来事だと言うのに。

 話自体は短い話だ。

 しかも長年の間、UNDASNという純軍事組織の、非正規戦、非合法活動を担って、所謂『陽の射さない裏街道』を歩いてきた自分には、ありふれた話だし、もっと酷い話も山のように、ある。

 正直、そんな酷い行為の片棒を担いだ事だって、数えきれないほどに、ある。

 しかし、そのありふれた話の主人公が、涼子だと知った、いや涼子であることを認めざるを得なかった時。

 一挙に増したその話の重さに、悲鳴をあげそうになった。

 辛うじて飲み込んだその悲鳴はしかし、いつまでも胸の中で消え去らず反響し、ついに増幅さえされて。

 スコットランドヤードへ到着し、部下を集め、一応の作戦指示をし終えて一息ついた、その瞬間。

 彼は、自分の頬に涙が流れている事に気が付いた。

 俺は本当に、諜報、防諜部隊のベテラン・エージェントだったのかと、己の歩んできた、けっして他人に自慢の出来ない人生を疑った。

 いや、俺は確かに今日まで、他人には話せないような、薄汚い戦いを続けてきたのだ。

 『地球、太陽系、銀河の平和』、『人類の未来を守る』、『地球統一の尖兵』、そんな”奇麗事”に隠された権謀術数、人間という”生物”の持つ凡そ全ての暗黒が内包する”黒い力”を縦横に使い、暗闇を演出してきた。

 そんな彼にとって、幸福の裏側などは、珍しい話でもない。いや、『戦争の世紀』と呼ばれたこの時代、もっと悲惨な話はそこら中に転がっていたし、彼にとってはよくある話、と言えるほどだった。

 だが、しかし。

 自分がこれからもUNDASNの、そして複雑な国際情勢の日陰、闇の世界で生きて行く、辛いが、どことなく割り切る事の出来た爽やかさすら感じさせるような覚悟をさせた、今や彼自身の心の支えである彼女が。

 そんな世界の闇を見過ぎて無感動が常態となった~他人は自分をスカル・フェイスだと言うが、それはけっして先天的な特徴ではないと、自分では思う~彼でさえ引いてしまう様な壮絶な傷痕を背負い~それは、彼女が『身近な存在』だから、だろうが~、そしてその為に今、生命の危機にさえ曝されているとは。

「辛かった、だろうに。可哀想に、なぁ」

 口をつくのは月並みな、安っぽい同情、自分は安全圏に居ながら外の者をまるで創作物の登場人物だと割り切った上での感想、そんな言葉でしかなく、そして今彼が涼子の為にしてやれる事は、こうして、再び彼女に伸びる魔の手を断ち切るしかない。

 そして、それだけで、魔の手を断ち切ったからと言って彼女が救われる訳ではないことすら、はっきりと理解している。

 振り返るとブラック・キャブが1台、向こうから走ってくる。

 それに手を上げながら呟いた。

「それでも、やらにゃあ、な」

 タクシーのリアシートに落ち着いた彼は、運転手に行き先を告げた。

「メリディン・グロブナーハウス」


 ちょっとは元気になったのかな、とミシェルは、隣に座っているサマンサの表情を見て、思った。

「……オッケー、解った。ごめんね、ほんと、面倒な事お願いしちゃって。……え? ……はあっ? ……あははははは! 了解了解、このお礼はいずれ、精神的に、ね」

 軽い口調と明るい笑顔で会話していたサマンサは、けれど通信を切った途端、とても同一人物とは思えない程暗い表情に戻ってしまった。

 まだ、駄目か。

 結構、焦ってんのかな。

 ミシェルも、密かに溜息を零す。

 サマンサの視線が捉えているのは、ディスプレイに表示されている、防衛医科大東京校のフェルナンデス教授から送信されてきた、再プロファイリング結果の報告書の文面だった。

「『白人男性、25才から40才、知能ランクはAもしくは特Aクラス、社会適応能力で何らかのコンプレックスあり、適応障害、気分障害の可能性。性的特徴は被虐的自虐的双方の傾向が見られる。攻撃的性格はあまり見られないが、最終的には自己愛の強さに起因して、自分より優秀な性的対象を死に至らしめる程の破壊衝動を秘めている可能性が強い』、か……」

 サマンサがディスプレイに表示されている文面を口にするのを聞いて、ミシェルは背筋がぞくりとした。

 SなのかMなのか、素人目にはドSに思えるけれど、それにしては『死に至らしめる』ってのは、正直、トップレベルの変態だと思う。

 そんな人間が、同僚として日々一緒に働いているのだと考えると、いくら勤務場所が海を挟んだ向こう側とはいえども、ひく。怖気が走る。

「確かに、少ない証拠じゃ、これで精一杯ってところね」

 溜息混じりにそう呟いて、サマンサは、気だるそうな表情のまま、端末を操作した。

「ねぇ、ミシェルゥ」

 こういうダルそうな呼ばれ方ってのも、結構オツなものだ、と知らぬうちに頬が緩む。

 しょっちゅうだと、ちょっとウザいけど。

「イエスマム」

「今、貴女にメール転送したから。そこに添付されてるプロファイリング結果から使えそうなパラメータを拾い出して、在英国UNDASN名簿から対象者を検索、抽出してくれないかなぁ? 人事局の基本データベースと詳細データベースのアクセス許可は、統幕本部長サインのある作戦指示書のナンバー、そのまま使える筈だからぁ」

 ここはいっちょう、私だけでも元気に振舞おうか、と思う。

 キャラじゃないけど。

「ラージャー! あーハイハイ、確かに届いてますぅ! 」

 サマンサが、ふんわりと微笑んだ。

「ありがとね、ミシェル」

「え? 」

 心当たり……、ないな。

 小首を傾げると、サマンサの手が伸びてきて、肩から胸へ落ちた三つ編みおさげを弄びながら、彼女は言った。

「貴女がこの部屋にいてくれて、良かったわ」

 思わず頬が熱くなる。

 それこそ、キャラじゃないけれど。

 私は、オタクではあるけれど、腐ってはいないのだ。

 ……だけど、ちょっと、いいかも。

 照れ隠しもあって、ミシェルはさっきのサマンサの呟きを聞いて思った事を、提案してみることにした。

「あの、博士。提案なんですけど」

 サマンサが小首を傾げて先を促してきた。三つ編みおさげを弄ぶ指は止まらなかったけれど。

「人事局データベースの他に、二次検索用として医療本部の過去病歴データベースも参照できたら、もうちょい、精度が上がると思うんですけど」

 別に許可など得なくたって、自分なら爪の垢ほどの痕跡も残さぬままに、さっくり欲しい情報だけを、欲しいだけ隠密裏に掘り起こす事が出来る。

 けれど、この提案の目的はそこじゃない、サマンサが少しでも元気になってくれるような、『明るい材料』を提供する事にある。

 サマンサはうーんと唸って、暫くは瞼を閉じていたが、やがて目を開くと、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「過去病歴を含むカルテDBデータベースは、やっぱり無理だわ。あれは、統幕本部長権限だけじゃ参照出来ないもの、医療本部長決済と担当医師承認が同時にいるし」

 そこで言葉を区切り、小首を傾げた。

「どうしても、必要? 」

 ミシェルは少し食い下がってみることにする。

 けっして、サマンサのような美人の憂い顔が見たいから、と言うわけでは、ない。

「いえ、強いて必要、と言う訳ではないんですが……。このコンプレックスや性的特徴ってところは普通の人事DBじゃ解らないでしょ? それに在英の人員って言っても結構人数がいるし、この条件だけで絞り込んでも、あんまり効果がない様な気がするんですが」

 サマンサは暫く眼を閉じて唸っていたが、やがて吐息と共に決断を下した。

 同時に、指がおさげより離れる。

「とにかく、今は人事DBだけでやってみて。そこから先は状況を見て、必要なら私が申請してみるわ」

 そうだろうな、とミシェルは頷く。

 医師倫理規定に関してだけは、UNDASNだから、と言う言い訳が通用しないことは知っている。

 実際、医療本部のカルテDBだけは、特別強固なセキュリティが施されている。

 世界中でそれを破る事ができるのは、多分、自分だけだろう。

 なにせ、自分がそれを仕掛けたのだから。

 だから、提案が却下されても然程残念には思わなかった。

 それより自分の髪を弄るサマンサの指が離れていった事の方が残念だった。

 仕方ない、か。

 ミシェルは、殊更に明るい笑顔を謝罪代わりに浮かべた。

了解しましたアイアイマム。申し訳ありませんでした」

 が、この決断が後で微妙に涼子の運命に影響を及ぼす事になろうとは、ミシェルもサマンサも、この時点では気がつかなかったのだ。

 不幸にも。

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