第100話 15-6.
調査部員の手による郵便物等の内容確認作業の弊害、即ち室内に充満するチョコレートの甘い~甘過ぎる~香りから逃れるように、ホプキンスはサマンサと二人、半ば小走りで廊下に出た。
「まさに、『甘く危険な香り』と言ったところだな」
喫煙ルームに入って直ぐに、ホプキンスは急いで煙草を咥え、甘い香りを追い出すかのような勢いで煙を思い切り肺に吸い込む。
減煙中だからか、いつもの銘柄『セブンスター』が少々喉にキツく感じられる。
そう言えば今日はまだ朝から3本目だったか、とぼんやり考えていると、吸煙機越し、向かい側に座るサマンサが眼に入った。
普段はキツいくらいに鋭い瞳が、何やら虚ろだった。
「博士」
呼び掛けると、虚ろだったブルーアイに、弱々しい光が漸く灯った。
「ふぇ? 」
「間抜けな返事だな」
ここぞとばかりに叩いてやった憎まれ口でサマンサは、なんとかリブートしたようだ。
形の良い眉がきゅっと逆立つ。
「失礼ね」
「火がついてないんだが」
サマンサは暫くホプキンスを睨み付けて、ゆっくりとライターの火を吸い付けた。
「で、なによ? 」
ホプキンスは、さっきから疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「宮殿内トイレで発見された脅迫状だが、なんで犯人はここへきてUNDASN内部の人間に捜査の目が向くような危険を冒して、UNDASNの封筒を使用したんだろうか? 」
UNDASNの封筒は、別になんという事もない唯の事務用品でしかないが、いざ手に入れるとなるとやはり全くの部外者では難しい。今まで市販の無地封筒やコピー用紙を使い、新聞やチラシの切り文字を手間をかけて切り貼りする等、正体の隠蔽を図ってきた犯人は、何故ここへ来てUNDASN内部に目が向くような真似をしたのだろうか?
しかしサマンサは、彼の疑問をいとも簡単に解消して見せた。
「そんなもの、目を向けさせたかったからに決まってるじゃない」
「なんだって? 」
思わず呟いた言葉に、サマンサは面倒だと言わんばかりの口調と表情を返してきた。
「2月15日の晩よ? 犯人は、ロンドン・ウィーク期間中での犯行を目論んでいた。この時点で内部に疑惑の目が向いたって時間的に自分にまで捜査の手が届く可能性は低い。そんなローリスクを恐れるよりも、犯人は」
そこでサマンサは一旦言葉を区切り、まるで反吐でも吐くように顔を歪めて、掠れた声で言葉を継いだ。
「涼子が、自分に恐れ戦く姿を、表情を堪能したかったのよ。魔の手は、部内に、いや、お前のすぐ傍まで迫っているんだと報せる事で、獲物を一層弱らせようとしていたに違いないわ」
「しかしそれじゃあ、事件発生後になるかも知れないが、結局は足が付くのでは? 」
「そこまで考えてはいないでしょうよ。……涼子が手に入った時点で、犯人の人生は完成、ハッピー・エンドなんでしょうから」
犯人に対する怒りもあったが、それ以上にホプキンスはサマンサの浮かべた表情に囚われていた。
ひょっとすると、何も知らされていない涼子より、今のサマンサの方が犯人の変態的な異常嗜好を満たせるくらいに弱っているのではないだろうか?
「……疲れた」
溜息混じりのサマンサの呟きに、そうだろう、と思う。
慣れない、どころか普段の彼女の任務とは全く異質のデューティだ、疲れているのだろうと、ささやかな同情を密かに贈り、2本目に火をつける頃、再びサマンサが呟いた。
「JACK……、Jack、か」
独り言かと思ったら、いきなり腰を上げてホプキンスの隣に座り込み、しかも身体を寄せてきた。
歳甲斐もなくドキリとしてしまったが、それを隠す暇もなくサマンサが囁くように話し掛けてきた。
「ねえ。……なんか私、引っ掛かるんだけど。ジャック、って」
言われて、ホプキンスはサマンサの言葉を鸚鵡返しに呟いてみる。
「JACK……、ジャック、な。……うーん。ジャック、ジャック、と……」
ジャック。イギリス、ロンドン、ジャック……。
ああ、コリンズのファースト・ネームはジャックだったな、確か。だが、それは関係ないのだろう、たぶん。
頭の中で繰り返すうちに、胸の中の、まるでロンドンに降る霧のようなもやもやが、ゆっくりと渦巻き、やがて徐々に焦点を合わせ始め、ひとつの明確な形に纏まろうとしていた。
「ジャック……、ジャック……。イギリス、ロンドン、ジャック……。ジャック? 」
ホプキンスは思わず顔を上げ、サマンサを見つめる。
口から煙草がポロリと床へ落ちたが、構ってなどいられなかった。
「どうしたの? 」
ホプキンスは、サマンサの問い掛けに答える余裕がない程に驚いていた。あまりの、胸糞の悪くなるような犯人のセンスに。
「そうか……。なんてヤツだ」
「だから、何がっ? 」
口の中に、苦い味が広がる。
「君の若い時の二つ名だよ」
「私の……、二つ名? 」
「そう。最前線の将兵達から敬意を込めて冠せられた二つ名。サマンサ・ザ・リッパー。その元ネタを知っているかね? 」
ホプキンスは上体を起こし、壁にぶつかる様に背を凭れさせ、震える声で呟いた。
「ジャック・ザ・リッパー」
サマンサの驚いた様な表情が、ホプキンスには少しだけ新鮮に感じられた。
「ジャック・ザ・リッパー。『切裂きジャック』だ。19世紀末のロンドンを恐怖のどん底へ突き落とした、女性ばかり狙う猟奇連続殺人者。迷宮入りの、な」
ホプキンスの答えに、若い時には
彼女の指から、煙草の長い灰が音もなく床へ落ちた。
「あー、お腹減ったな」
さっきから室内に充満しているチョコの甘い香りに刺激されてか、やたら腹が鳴るミシェルは、端末の前でウンと伸びをして呟いた。
「一個くらい、貰っちゃっても判んない……、よね? 」
『チェック済』と書かれた箱から床へ零れ落ちた開封済の封筒が、さっきから甘い香りを漂わせて、自分を手招きしているように思えて、ミシェルには仕方がないのだ。
「疲れたときは、糖分摂取で脳のリフレ」
言いつつそっと手を伸ばした刹那、サマンサとホプキンスが部屋に戻ってきた。
慌てて手を引っ込める。
そっと顔を上げて二人の表情を見て、ミシェルはおや、と思った。
サマンサもホプキンスも、部屋を出て行った時と較べて、15分程経過した今は、妙に余裕がない表情をしていたのだ。
思い詰めたように下唇を噛み締めたサマンサの後を、怒っているような、焦っているような、複雑な表情を浮かべた赤ら顔のホプキンスが続く。
”……なにがあったのかしら”
休憩してきた筈だろうに却って緊迫してるわぁと思いながら、チョコを諦めて端末に顔を戻した刹那、二人は同時に椅子に座り、そして同時に短い吐息を零した。
徐にサマンサが早口で言った。
「防衛医科大東京校の臨床医学教授部精神・神経科課程教務室、ハリソン・フェルナンデス教授を緊急、最優先で呼び出して」
通信員が慌しく手と口を動かし、20秒ほどで相手が出た事を知らせる。
「ああ、ハリー、私よ、サム。……ごめんね、忙しいのに妙な事頼んじゃって。……うん、読んでる、読んでるんだけど。……そう、追加資料が出たの。……ええ。……時系列的には、これが一番最初。うん、緊急で……。そうね、最優先は犯人像の特定、続いて犯行の傾向性。……うん、……うん。……判った、待ってるわ。……うん、ごめん! 恩に着る! 」
受話器を置いてすぐ、サマンサはミシェルに声を掛けた。
「ミシェル。さっきパジャマ党が送ってくれた犯行予告状とその封筒の画像イメージ、ハリーんところへ転送して。セキュリティは普通でいいから」
「
ほんとに余裕、ないんだな。
ミシェルは手を動かしながら、けれど残りの感覚器を総動員して、そっと二人の様子を伺っていた。
自分は単なる応援要員だとは雖も、この空気の重さには、まるで自分まで当事者であるかのような錯覚を覚えてしまうし、錯覚の上塗りで重大な責任まで感じてしまいそうになる。
会議用テーブルに両肘をついて頭を抱えてしまったサマンサを、ホプキンスは暫くの間じっとみつめていたが、沈黙に耐えかねたのか、意を決した様に彼女の傍らに椅子を引いていき、腰を落ち着けて話しかけた。
”おお、勇気あるわ。さすがスパイの親玉……、だったっけか? とにかく、アンタ漢だ、ホプキンスさんカッケー! ”
ミシェルは二人に向けていた感覚器に視覚を加える。即ち、振り返って、様子を見る事にした。
「なあ、博士。さっきの、ジャック、の件だが」
サマンサは紙の様に白い顔を微かに持ち上げ、ホプキンスを無言で見上げる。
これほどの美人が、絶対零度のオーラを纏ってたら、シャバのカタギさんならビビッて逃げ出すだろう。
「……まさか、ヤツは本気で『ジャック・ザ・リッパー』を気取っている、なんて事はないだろう、な? 」
サマンサは再び視線を机に落とし、なにやら口の中で呟いた様だったが、ミシェルの耳には届かなかった。
けれど、その直前にホプキンスが言った言葉には覚えがあった。
ジャック・ザ・リッパー。
大昔、イギリスかどこかで市民を恐怖のどん底へ叩き落としたという、切り裂き魔、連続殺人犯で、警察の必死の捜査にもかかわらずついに
「すまん、もう一度頼む」
サマンサの呟きは、やっぱりホプキンスにも届かなかったようで、勇気あるスパイの親玉は、聞き直した。
と、突然。
サマンサは、そのハニーブロンドを振り乱して上体をガバッと持ち上げ、ホプキンスを怒鳴りつけたのだ。
「まだ! わからないっ! そう言ったのよっ! 」
”あー、びっくりした、あー、びっくりしたな、もう”
冗談抜きで、ミシェルは椅子から5センチは飛び上がった程だった。
だが、ホプキンスはさすがに動じる風も無く、黙って視線をサマンサに注ぎ続けていた。
「再度プロファイリング依頼を出したところ、アンタも横で聞いてたでしょ。……その結果が出るまでは、何も言えない。わからないわ」
今度は諦めたような口調で静かに言うと、サマンサはふーっと長いため息をついて、淋しげにホプキンスに微笑みかけた。
「ごめんね、大きな声出しちゃって。だめね、やっぱり私……。素人だわ」
あぁ、この博士のこんな泥臭い、というか人間臭いところが、なんだか逆に格好良く感じてしまう、とミシェルはぼんやり思う。
”つか、萌え? やだ私ちょっとアブナイんじゃね? 百合? 百合なのこれ? ”
慌てて首を振り、ミシェルは再び2人に注意を戻した。
ホプキンスはと言うと、相変わらずの仏頂面ながら、優しくサマンサの肩をポンポンと叩き、静かに話しかけた。
「いいんだ、博士。君は良くやってる。こう言うのもなんだが、私ならこうも早く犯人を絞り込めなかったよ」
なかなか紳士じゃん、と、ミシェルは思わず頬を緩める。
「ちょ、アーサー。あ、あんた、なによ」
ホプキンスの頸筋もほんのりと赤い。たぶん照れているのだろう、やはり照れているらしいサマンサのほんのり朱に染まった顔から視線をはずし、言葉を継いだ。
「君の言う通り、プロファイリングが済んでからの話だ。だが、私は思うのだが、不幸にして涼子ちゃんが犯人の手に落ちた時の事を考えると、な。多分在英の情報部エージェントや警務部員だけでは、とてもじゃないが実効制圧力に欠ける、と思うんだよ。最悪の事態を考えると……、や、考えたくはないが、しかし考えたとすると、UNDASNの正規部隊を投入するしかないと、思うんだが」
結構、大胆且つリスキーな提案だと、ミシェルは一瞬、息を飲む。
軍事政治の素人~これでもちゃんとした兵科将校なんだけどなぁ、恥ずかしながら~の私でさえ、そう思うのだ、こっちの美人博士は……、あ、やっぱり。
「そ、そりゃそうかも知れないけど、英国内の実施部隊を使うなんて、手続きやらなにやらで」
だが、ホプキンスには何か策があるのか、僅かに唇の端を持ち上げた。
「英国駐留の実施部隊を使うとすれば、君の言う通りだ。だが、今現在、幸いにもサザンプトンには観艦式に参加した空母が2杯、未だ停泊中だ。この陸戦隊が使える。IC2は寄港しているだけで、駐英部隊ではないからな。だから、もし万が一、犯人にその恐れがあるのなら、軍務局長、いや統幕本部長に進言して、何時でも投入できる手続きだけはしておきたい」
ホプキンスは、ふっ、と短い吐息を吐くと、少し口調を緩めた。
「私が言いたいのは、それだけだよ、博士」
サマンサは、ニッコリと微笑む。
あ、可愛い。
美人なのに可愛い、ってのは、どう考えてもアンフェアよねと、ミシェルは少々理不尽な嫉妬心を覚える。
「ええ……。ええ、そうね。アーサー、貴方の言う通りだわ。判った。そちらはお任せするわ。確か統幕本部長はヒューストンに
しかしサマンサは、次の瞬間眉を曇らせて独り言の様に呟いた。
「だけど……。だけど、いくら英国駐留部隊じゃない、IC2の陸戦隊を使う、としてもよ? 後で英国政府がどんな難癖つけてくるか判らないじゃない。それに、ここまでの情報で、英国駐在のUNDASNメンバーの内部犯行説は一層濃くなったのに、そんな派手な手を使ったら、先にバレちゃうんじゃない? 第一、統幕本部長がそれを許可するかしら? 」
ホプキンスも、ウンと言ったきり、腕を組んでしまった。
そりゃそうだよな、とミシェルも二人同様、腕組みをして考える。
でもまあ、そこはそれ、UNDASN唯一にしてCIAやMI5すら一目置いている~実際、CIAやMI5を始めとして世界各国の諜報機関からと思われるハッキング攻撃を毎日のようにUNDASNが受けているのは、ミシェルの部署では常識だ~腕利きの非公開、非合法活動部隊のことだ。
なんとなれば、どんな手を使っても……、なんて映画みたいな裏技、ご都合主義すぎるかな?
そんなことを考えているうちに、ミシェルが視界の隅に捉えていたディスプレイに変化があった。
「あ! ……博士、これ! 」
「どうしたのっ? 」
サマンサとホプキンスが足早に周囲に集まってきた。
ミシェルは、ディスプレイ上に開かれている幾つかのウィンドウのうち、ひとつを最前面に表示させた。
「これが監視システムのモニタ。ほら、この問題の22サイトの内、18サイトが情報更新されたってワーニングを発してます。で、こっちが検索システムのモニタ、これを見ると、その18サイトの更新した情報内容の精査中のステータスが出てますよね? そのリアルタイムの同一情報源比較検査の中間結果をこっちの窓に表示してるんですけど、一致率が98.5%と上がったでしょう? 」
ホプキンスは、大きく頷いてから、小声で言った。
「それは了解だ、一尉。……で? それがなんだ? 」
もう、腰を折らずに黙って聞いてよね。
ミシェルは視線をサマンサに移す。ああ、こっちの博士はさすが美人さん、目の保養になるわと、全然関係のない感慨が浮かんできた。
”つか私マジやばくね? いっちゃうか? そっちいっちゃう? お姉さまとか呼んじゃう? キャァ! ”
ああ、これも関係ないとミシェルは慌てて仕事に戻った。
「で、こっちが解析システム。この解析結果を中間モニタした結果がこのウインドウに表示されているテキストです。AIの作成したテキストだから少し読み難いけど、ほら」
サマンサとホプキンスの顔が一斉にディスプレイに近付き、同時によっつの眼が細められたのを見て、ミシェルは素早くキーボードを操作してテキスト音声変換ツールを起動させた。
端末の内蔵スピーカから、無感情な女声が流れ、シンと静まったシミュレーション・ルームに不気味に響いた。
『確かな情報によると今日2月17日深夜から翌日未明にかけて石動涼子のSEXYショーを配信予定』
わあ、ひく。これはひくわぁ、自分。
『SEXYショー』て、何そのセンス。
ディスプレイからじわじわ距離を取りながらサマンサとホプキンスの顔をそっと見上げると、二人とも顔色が真っ青だった。
「これは、一種の犯行声明だわ」
「彼女を拉致して、その姿をネット上で配信しようってのか……」
今にも血管が切れそうなホプキンスに、サマンサは口を彼の耳元に近づけ、囁く様に言った。
その仕草自体がそれこそセクシーだったけれど、彼女の言葉の内容はシリアスそのものだった。
「アーサー。これは、統幕本部長を動かす為の、重要なキーワードよ! 」
ホプキンスは驚いた表情でサマンサを見、そして大きく頷いてミシェルに顔を向けた。
「一尉。この3種類のモニタ結果とこの解析テキストをメモリスティックか何かに落としてくれ」
ミシェルもつられて大きく頷いた。
「コピー」
操作しながら、聴覚は背後のサマンサとホプキンスの会話に集中する。
「これは
ホプキンスの残酷だが冷静な分析に対し、サマンサは怒りを押し殺したような低い声でそれを否定した。
「……ライブ配信なんてこの犯人はしないでしょうね。逆探知ができるかどうか、私には判らないけれど、そんな危険性云々以前に、この犯人はそんな事しない筈よ」
なんで言い切れるんだろう、と小首を傾げると、ホプキンスがそれを代弁してくれた。
「なんで言い切れるんだ? 」
「コイツは、涼子を独占したいの。自分だけの女にして、自分だけが堪能したいの。それを配信しようとするのは、他の涼子ファンへの見せびらかせ行為よ。涼子は自分のモノになった、ざまあみろ。そう言いたいだけ」
「まるで、ヤスモノのテロ組織のようだな」
呆れたようなホプキンスの言葉に、サマンサの声も同調するような響きだった。
「ええ、そうね。だから、この予告された映像配信も、一部を編集したサワリ程度の内容でしょう。だから、ライブはあり得ない。ってことは」
サマンサは一旦言葉を切ると、再び口調に冷静さと理性を纏わせた。
「ねえ、アーサー。ロンドンに連絡してサイト管理者確保と同時に、情報提供者の逆探知みたいな事、できないかしら? 」
サマンサの言葉に、ホプキンスがウンと唸り声を上げた。
「どうかな? ……そんな技術、現地のエージェントにあるかね」
ああもう。
ミシェルは二人の会話を背中に聞きながら、焦れた。
主に、情報部長に対して。
でしゃばらない、と言う自分のポリシーを捨てて~そんな大袈裟な、と自分でも思いながら~、ミシェルは振り返った。
「出来ますよ」
ホプキンスとサマンサが、同時にミシェルに視線を飛ばしてくる。
「昨年夏、情報部のエージェント全員のIDカードに、音声、画像、HTML、テキスト全対応の逆探知ソフト『絶対ババンと! たどりつ君』を配布したでしょう? あれならISO27000取得企業や政府機関はともかく、一般サーバくらいなら、楽勝です」
「あー」
漸く思い出したらしい。
「同じもの、警務部にも配りましたし」
「あれは、君だったのか」
ちょっと自慢しちゃうか。
ホプキンスの表情に、ミシェルは思わず自慢したくなって、言葉を継いだ。
「私がちょちょいと、3日で作りました! 暇だったもんで! 」
「通信員! コリンズを呼び出せ! 」
あれ?
誉めてくれないの?
予想を裏切るホプキンスのリアクションに、ミシェルは内心肩を落とす。
見ると、サマンサの唇がマグカップと一緒に震えているのに気付いた。
どうやら、この状況だと、お褒めの言葉はお預けになりそうだった。
誰か私の、この精神的空腹を満たしてくれる人はいないかしら。
「はい」
突然、ミシェルの眼の前に、褐色の物体が甘い香りとともに出現した。
細く長い指の先、淡いピンクのマニキュアが奇麗だ。
指から順に腕を視線でなぞっていくと、ニッコリ微笑んだサマンサの顔があって、彼女がチョコを差し出してくれてるんだとそこで初めて気付いた。
「博士」
「お腹、減ってない? ……私、ペコペコ。一個くらい、失敬しちゃっても判んないよ」
「ありがとうございます! 」
自分だって余裕ないだろうに、ほんと、この美人さんは。
うー。涙腺緩むぅ。全アタシが泣いた。
「お礼は、欧州室長代行に言いなさい」
一口食べて、ミシェルのフィジカル、メンタル両方の空腹は、一挙に解消した。
スパイの親玉さんと同じくらいに私も結構アナクロだな、と思うと、頬が熱くなった。
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