15.追跡
第95話 15-1.
そろそろいい頃合か、とコリンズがマズアとともに武官室へ戻ると、涼子はソファに座り、ぼんやりと虚空をみつめていた。
カジュアルな服装の彼女がそうしているだけで、無骨な軍事行政機関のオフィスはこうも華やぐものか、とコリンズは内心驚く。
が、マズアはどう思ったのか、すぐに机の上からペーパーを取り出して、涼子にそれを渡して明日の行動予定確認を始めた。
真面目な奴だ、と思いつつ、コリンズもマズアの隣に座り、ペーパーを横から覗き込んだ。
「うん。明日は結構余裕ね」
涼子は、一通りの説明を聞き終えた後で、ほっと溜息を吐きながら呟いた。
①
②
③
④
⑤
そして明後日には新谷内幕部長も離英、涼子は尚数日はロンドンに残るが、それも後始末や関係各方面への儀礼訪問が殆どで、イベント的にはおまけみたいなものだ。
「そうですね。まあ、初日に比べれば、と言う程度ですが」
そこで言葉を区切り、マズアはペーパーから顔を上げて微笑んだ。
「ははぁ。1課長、コベントガーデンの記念演奏会が気になるんでしょう? 」
図星だったようだ。
涼子が、柔らかく微笑んで頷く。
「ふふ、ばれちゃった? BBC交響楽団とロンドンフィル、ロンドン交響楽団の合同演奏によるマーラーの『千人の交響曲』でしょ?
へえ、と思い、コリンズは口を挟んだ。
「室長代行はクラシックがお好きなんですか? 」
「うん、そうね。好き、かな。だから、今回の一連の訪英行事はこれが数少ない楽しみなの」
涼子はスケジュールから目を離し、少し遠い目線になる。
彼女の表情をみつめるうちに、コリンズは気付いた。
明日、彼女はプライベートで、音楽会以外になにか、お楽しみがある様子だ。
別に、確証がある訳ではない。
ただ、彼女の柔らかな表情が、ただ単に好きな音楽のコンサートに行ける、それだけにしては妙に煌いているように見えたのだ。
後は、観艦式関係で訪英している軍務局のメンバーが、明後日内幕部長と共に離英するという、傍証だけ。
彼女が誰かのものになってしまうことに対しての、淋しさや悔しさは、もちろん、ある。
ただ、それよりも、そんな幸せをオーラのように纏って微笑む涼子を見る事のできる幸福感の方が、今は大きいように思えた。
我乍ら、頭に馬鹿がつくほどのお人好しだ、と呆れてしまう。
反面、それでもいいか、などとぼんやり考えていると、涼子が独り言のように呟く声で我に帰った。
「だけど、それより楽しみだったのは、今日の観艦式だったんだぁ……。あー、やっぱりフネは良いなぁ」
マズアが笑いを堪えるような表情を浮かべる。
「『ボーイ! ビール』ですからな」
「それは言いっこなし! 」
顔を赤くして苦笑を浮かべた涼子は、だけどやっぱり楽しかった、と独り言を洩らした。
「戦艦か空母……。ううん、艦種はなんでもいいや、また、ブリッジに立ちたいなあ」
余程、疲れているのかな、と思い、コリンズは訊ねてみる。
「室長代行は、やはり幕僚勤務よりも実施部隊配置が向いていると、ご自分でそう思いますか? 」
涼子は少し眼を閉じて考え込み、やがて少し頬を紅潮させてから、答えた。
「ううん……。私、あんまり良い艦長、良い指揮官じゃ、ないって。……自分でもね、それは判ってるんだ」
マズアが意外だ、という口振りで言った。
「そんな事はないでしょう。実際に1課長はこれまで」
もちろん彼は、コペントガーデンでのイブーキ側SPとの一件を知らないから出た言葉だろう。
涼子は、淋しげな笑顔を浮かべながら、首を横に振ってみせた。
「ほんとにね、ダメ艦長だった。冷静に考えて、そう、思う。……て言うか、私、ほんとは軍人なんて向いてないんじゃないか、なんて、ね。また
オープンテラスで見た涼子の哀しげな表情がコリンズの脳裏に蘇えった。
「でも、
深い溜息を零した後、涼子は誤魔化すように弱々しい微笑を浮かべ言葉を継ぐ。
「私、いつからかわかんないけど……、ちょっと、対人恐怖症気味なところがあってさ。……時々、人と会ったり話したりするのが、恐くなる事があるの。その点、フネってさ、一種の閉鎖環境でしょう? 周りはみんな一緒に弾の下を潜り抜けてきた、運命共同体みたいな人ばっかりで。……だから、疲れがたまってきたりすると、すぐに艦隊が懐かしくなっちゃう」
やはりそっちか、とコリンズは密かに吐息を洩らす。
それとタイミングを合わせたように溜息を洩らしたマズアを見やると、何故だか彼は妙に渋い表情を浮かべていた。
おや、と思った。
彼の表情が、地雷を踏んでしまった、と言っているように思えたのだ。
何か知っているのだろうか?
コリンズの推理は、昨夜、マズアが誰かと涼子にまで秘密にして行っていた会議に行き当たる。
あの会議は単に、R.I.シンドロームの件だけではなかったのだろうか?
いや、それはそれで議題に上がった筈だ。
ただ、その背景にある涼子の『なにか』が、コリンズの立ち位置からは、隠れて見えない。
そのピースさえ揃えば、今、目の前にいる儚げな女性を廻る『シチュエーション』~R.I.シンドロームも、そうなればその一症状でしかないのではないか? ~の全貌が見えてくる、筈だ。
彼の思考は、涼子の声で中断される。
マズアの表情の渋さに気付いたらしい涼子が、なにを勘違いしたのか、言い訳し始めたのだ。
自分のスカル・フェイスには、まだ自信がある。だからそれは、生真面目な親友が原因だろう。
「あ、えと、マズア? そ、その、ごめん。ごめんなさい」
階級などお構いなく、まるで子供のようにペコリと頭を下げる涼子の態度には、もう慣れた。
「……ちょっと私、疲れてるみたいだね。ごめんね、実際に未だ、ミクニーと闘ってるって言うのに、不謹慎だった。自分のダメさに甘えて、実施部隊に戻りたいなんて、甘えん坊だったわ、うん。ごめんね、忘れて。……それこそ、軍人失格以前に社会人失格だわ」
今度はマズアが言い訳をするターンだった。
「いや、全然、そんな事思っていません、どうぞ気になさらないで下さい。ですから1課長、謝らないで下さい。違うんです、その……。そう、さっきから頭痛が、ね、その少し、してたもんで」
やっぱりこいつは嘘が下手だ、とコリンズは苦笑を浮かべる。
「ほんと? 」
涼子も気付いたようだ。
「……だけど、やっぱり、不適切な発言だったわ。ごめんなさいね? 」
涼子はそう言って、もう一度頭を下げた後、心配そうな表情を浮かべて続けて言った。
「それより、大丈夫? 徹夜続きだったし、風邪でもひいたんじゃないの? 今日はもう、休んだら? 明日はゆっくりで良いんだし、さ」
「そうですね。そういや、ヒギンズも『風邪で熱っぽい』って、今日は早々と帰りましたし。……こりゃ、うつされたかな? 」
マズアはわざとらしく、二、三度咳き込んでみせてから、ソファから立ち上がった。
「さあ、じゃあ今夜は、そろそろ解散しますか。1課長、昨夜と同じ部屋を使って下さい。明日は
涼子も立ち上がりながら答える。
「うん、ありがとう。そうさせてもらうわ。コリンズは? 」
コリンズも立ち上がり、言った。
「私も、もうひと仕事したら休ませてもらいます。今日は久し振りに
涼子はくすくす笑いながら、確かに軍人らしくなく、バイバイと手を振った。
「じゃあ、二人とも、おやすみなさい」
涼子が退室した後、一拍おいて、コリンズはマズアに顔を向けた。
「おい、貴様。……風邪なんて、嘘だろう? 」
マズアは、指で眉間を押さえながら暫く沈黙していたが、やがて疲れた表情でコリンズを見る。
「ああ、嘘だ。昨夜も言った通り、俺は彼女にさえ言えない秘密がある。……おっと、言い方が拙かったか。……そう、これは軍機だ、統幕本部長直命の、な。だから、聞かんでくれ」
「統幕本部長の直命? 」
マズアは立ち上がり、自分のデスクに戻る。
「そうだ。なにせ、秘密の内容ってのが1課長に関する事だからな」
酸っぱそうな表情を浮かべて呟くように言ったマズアは、いきなりそっぽを向いて、怒った口調で言った。
「だから、もう聞くな。俺は喋りたくない。そして……。多分、貴様も聞かない方が良かった、と思うような内容だ。……だから、もう探るな、俺を放っておいてくれっ! 」
コリンズは暫く、クラスメイトをじっと見ていたが、どうやら、本当にこれ以上は喋りそうもなかった。
「判った。……じゃあ、おやすみ」
まだまだ追求されるとでも思っていたのか、マズアは拍子抜けしたような表情を浮かべていたが、やがて、後悔を噛み締めるような、苦しげな口調で、静かに答えた。
「ああ、おやすみ……。怒鳴って悪かった」
コリンズは、無言で頷いてみせると、ゆっくりと部屋を出た。
「やれやれ。冗談抜きで制服ってのは肩が凝る……、ん? 」
最近、多くなり始めたと部下から指摘された独り言を呟きながら、割り当てられた部屋に入ったコリンズは、暗い部屋で忙しなく点滅している赤いランプに気付いた。各ゲストルームに設置してある、通信端末のメッセージ受信ランプだ。
「……フォックス関係じゃない? 」
統幕本部長暗殺計画絡みの連絡なら、最優先で携帯端末に入るよう、在ヒューストン
それがわざわざ、昨夜割り当てられた武官事務所の宿泊室の端末に入るということは、別件だろう。
しかも、今夜のベッド、即ち武官事務所に宿泊する旨連絡したのは、自分の上官である情報部長と情報2課長だけである。
「デザート・フォートから……、何の用だ? 」
諜報、防諜の最前線にエントリされたエージェントが、本部とやりとりをする事は稀だ。
身分を隠し偽って動く作戦が殆どなのだ、下手に統幕と連絡を取る等、いつどこで、”敵”にばれるかも知れない。
だから、普段はUNDASNの携帯端末さえ~IDカードは勿論~持ち歩かない。
今回は、統幕本部長暗殺という緊急度の高い最優先ミッションがターゲットの訪英直前にブレイクした為、臨時でエントリしたコリンズが已む無く取った措置である~元々のミッションは、涼子のストーカー捜査及び軍機漏洩調査だったのだから~。
妙な胸騒ぎを覚えながら、受信メッセージを開く。
画像メッセージらしく、自動的にAFLディスプレイのスイッチがオンになった。
「ホワイトノイズ……? 」
眼の前で吹き荒れる砂の嵐に呆然としていたコリンズは、ディスプレイの下、隅っこの方に、一見無意味な数字の羅列が10桁ほど、小さなフォントで表示されているのに気付いた。
その10桁が、みるみるうちにランダムに変わっていく。
「情報部特命通信! 」
UNDASNの中でも、情報部や調査部、査察室といった一部の情報系部隊でだけ用いられる特殊な暗号通信で、極秘情報や極秘指令のやりとりの際にだけ使用される。
久々に見たな、とコリンズは暫くぼんやりと画面をみつめていたが、やがて我に帰り、慌てて左手の腕時計を外した。
竜頭を引き抜き、失くさないようにそっと机の隅に置いてから、今度は自分のIDカードを取り出して、片隅の小さな凹みに抜き取った竜頭をセットする。
そのカードを通信端末のカードスロットへ刺し込むと、自動的にドライバーが検索、設定され、パスワード入力画面に変わった。
コリンズは慎重にパスワードを入力する。
暫くするともう一度パスワード入力を要求してくる。
一般的なログイン認証ならば、確認の為のパスワード再入力なのだが、そこがトラップだ。だから二度目は一度目とは違う文字列を入力。
緊張して待っていると、三十秒後、ホワイトノイズの画像は、意味のある画像に変わった。
その画像はしかし、文字の羅列だった。
一見、英文に見えるが、よく読むと何の意味もない乱数のような文字の羅列である。
コリンズはその文書をディスクにダウンロードする。
ダウンロード完了後、キーを押すと、画面は再びホワイトノイズへと変わった。
コリンズはメッセージの削除を選び、カードスロットからIDカードを引き抜いて、ディスクに保存した通信内容~ディスクと言っても、端末のローカルメモリではない、この段階で画面は情報部のサーバのリモート接続画面に変わっていて、保存場所はサーバ上の一時ファイルであり、後で端末内のデータ復旧をされても情報はサルベージ等出来ないようになっている~をもう一度画面に呼び出す。
今度こそ、文字の羅列は意味のある文章へと変わった。
読み進めるうちに、コリンズは自分の表情がみるみる強張っていくのを感じていた。
額に浮いた嫌な汗を、背広の袖で拭う。
最近こそ、滅多に特命通信を受けることはなくなったが、若いときにはイヤと言うほど受け取ったものだ。
だが、これほどに自分の感情を揺さぶる特命は、初めてだと思った。
三度読み返し、コリンズは長い溜息を零す。
1時間もそうしていたような気がしたが、我に帰って部屋の時計を見ると、3分も経っていなかった。
「ボケてる場合じゃない」
呟きながら室内の電話を取り上げ、武官事務所の通信室を呼び出した。
「情報部コリンズ二佐だ。統幕軍務局情報部長ホプキンス三等陸将に緊急最優先親展通信、情報部牽制セキュリティ特Aで頼む」
今回のミッションほど、自分の本名と身分職名を正直に名乗る場面が多いのも初めてだ、コリンズは相手が出るまで、ぼんやりそんなことを考えていた。
ああ、現実逃避してるなと自分で判っていた。
この冥い予感がどうか外れていますように、と。
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