第94話 14-9.
「ああ、楽しかった! 」
UNDASN、イブーキ双方ののSP達には予定外の苦労をかけてしまったし、その分財布もすっかり軽くはなってしまったが、それでも涼子は、今日彼女を誘ってあげて良かったと、しみじみ思う。
「お姉さま、はい」
ようやく地上に出た涼子を待っていたマヤは、ちょこんと肘を突き出して見せる。
「ありがとう、マヤ」
涼子が腕を絡ませるのを待って、マヤは歩き始める。
「ねえ、お姉さま? 」
「なあに? 」
不意に声を掛けられて、涼子はマヤの横顔を見る。
マヤの瞳が不安の光を浮かべているように思え、涼子は先に言葉を発した。
「マヤ。今夜は本当にありがとうね? ……凄く、楽しかったわ」
「お姉さま、ほんと? 」
涼子の懸念は当たりだったようだ。
うん、と頷いて微笑みかけてやる。
「……ちょっと最近、疲れ気味だったし、ストレスも溜まってたんだけれど、なんだか、マヤのお蔭で解消できたって感じがするの」
実際、こんなに騒いだのはいったいいつ以来だろう、と涼子は記憶を辿る。
少なくとも、昨年地球に戻ってきてから今日まではなかった、そう気付いて、涼子は吐息を落とし、再びマヤに顔を向けた。
「それに、大切な過去を、思い出す事もできたし」
マヤが小首を傾げる。
涼子はそんな子供っぽいマヤの表情がおかしくて、くすくす笑いながら正解を教えた。
「決まってるじゃない。忘れちゃいけない、素敵な思い出。……マヤ? 貴女との出逢いのことよ? 」
そう言って前を向いた途端、腕が後ろへ引っ張られた。
振り向くと、マヤが立ち止まり、じっとこちらを見ている。
「ん? マヤ、どうしたの? 」
「お姉さま。……ううん、涼子様」
マヤは何かを堪えるような表情で、立ち竦んでいる。
「なあに? 」
優しく問い掛けてやると、マヤは思い切ったように、口を開いた。
「涼子様は、私との出逢いを……、大切だ、素敵な思い出だ、そう思ってくれているの? 」
涼子は絡めていた腕を解き、マヤと正面から向かい合って、彼女の両腕を擦るようにしながら、うんと頷いた。
「当たり前じゃない、マヤ。こんな素敵な、可愛らしい妹を授かった記念の日、なのよ? 」
そう言うと、マヤは何も言わず、ゆっくりと両手を上げて、涼子に抱きついた。
胸に顔が埋もれる刹那、逆光だったが、マヤの頬が濡れていることに涼子は気付いた。
”心配だったのね、マヤ”
そう思うと、本当の妹のような気さえしてきて、涼子は背中に回した手に力を入れる。
華奢な身体でむしゃぶりついてくるマヤに少しづつ後ろへ押されながら、涼子は優しく耳元で囁く。
「さあ、そろそろ帰りましょう? その角を曲がると、もうホテルよ」
胸の辺りから、くぐもった声が聞こえてきた。
「帰りたくない、私」
涼子は思わず苦笑を洩らし、マヤを身体から引き離す。
「ほらほら、そんな事言って困らせないで。貴方には、また明日から、貴方にしか出来ないお仕事が待ってるんだから、ね? それに、貴方の帰りを首を長くして待っている人もいるでしょ? 」
マヤは手の甲で涙を拭うと、こくんと頷いて、ぼそっと言った。
「私、ダメね。涼子様にいつも、同じ事ばかり言われてる」
涼子は、少しだけ表情をきつくして見せる。
「駄目なんかじゃない。そんなこと言わないで、マヤ。貴女は、充分頑張ってる。それは、皆が知ってるわ。充分頑張ってるからこそ、時々甘えん坊さんになるだけなの……。私で良ければ、何時でも甘えさせて上げる」
マヤの上目遣いの大きな瞳に、涼子は自分の姿が映っているのを認める。
それは、自分でも驚くほどに、優しい笑顔を浮かべていた。
「……私達、これが最後じゃないんだから」
そう言って、涼子はマヤの額に、啄ばむ様なくちづけを落とす。
真っ赤になってフリーズしたマヤがリブートするまで、数分を要した。
「あ、そうだ」
グロブナーハウスの正面エントランスの灯りが見えるところまで来て、涼子が声を上げた。
マヤが振り向くと、涼子はポシェットから出したらしい小さな紙袋を差し出した。
「これなあに? 」
涼子は小首を傾げて照れ臭そうな口調で答えた。
「いつもマヤのお傍にいらっしゃる、あの侍従長さんだったっけ? あの方へのお土産」
思い掛けない涼子の言葉に、マヤは驚く。
「じいに? どうして? 」
「だってあの方、多分今夜も、凄くマヤの事心配してらっしゃるに違いないもの。だから、お詫びも兼ねて、ね。マヤから渡してあげて? 」
マヤは掌の上の紙袋と涼子を交互に見つめる。
自分の心が温かくなって行くのがよく判った。
涼子の、素朴で素直な思い遣りが、まるで我が事のように嬉しく、誇らしかった。
「あのね、涼子様。じいはね、涼子様のファンなんですって。だから、涼子様から直接渡された方が喜ぶと思うのだけれど」
涼子は心持ち頬を赤くして両手を振る。
「あー、駄目よ、駄目! 私、こんなの駄目なの。だから、侍従長さんには、マヤからよろしく言っておいて、ね? 」
「そうなの? じい、きっと残念がると思うのだけれど」
マヤがそう言った瞬間、人気の絶えた街角に声が響く。
「殿下! マヤ殿下! 」
じいだわ。
振り向こうとしてマヤは、いきなり涼子に抱きかかえられるようにして振り回される。
気が付くと、眼の前に涼子の背中があった。
侍従長の声が聞こえた瞬間、涼子は一挙動でマヤを腰ダメに抱いて自分の背中へ隠し、右手で腰のCzを引き抜いて、声のする方に構えていたのだ。
流石に、侍従長はその場で両手を上げてフリーズした。
マヤは慌てて涼子の背中に叫んだ。
「涼子様、待って! じいです! 侍従長です! 」
「ふぇ? 」
間抜けな声を上げて、眼の前の侍従長と背後のマヤを交互に見比べていた涼子は、夜目にもそうと判るくらい顔を真っ赤にして、両手をバタバタと振り回し始めた。
「あ、やだ、ご、ごめんなさい! 」
涼子は慌てて銃を下ろす。
侍従長は冬だと言うのに、額の冷や汗をハンカチで拭って、大きな溜息をついた。
マヤが先頭に立ち、涼子の腕を引いて侍従長の元へ駆け寄る。
「じい、ただいま! 」
侍従長は腰を折って低い声で答える。
「姫、お帰りなさいませ」
涼子が慌てて挨拶を口にした。さっきの失敗で余程あがってしまっていたのだろう、外交の場では流麗な口上を述べる涼子なのに、もう見ていて可哀想になるくらいのグダグダっぷりだった。
「あ、あの、えと、ごめんなさい、さっきは勘違いを……、て言うか、それより、その、こんな時間まで殿下を引き回してしまいまして誠に申し訳ありません。あ、は、初めまして。私」
涼子の言葉を侍従長が遮った。
「UNDASNの石動涼子大佐、存じております。初めまして、ではありませんぞ、いつぞやは姫のお命を救って下さり、本当にお世話になりました。改めまして私、摂政殿下付き侍従長を勤める、アイザック・リヒテンシュタイン男爵です。以後、お見知りおきを」
侍従長が4年間の事件のことを言っているのが判ったのだろう、涼子はペコリと日本風に頭を下げた。
「あ、あの節は、マヤ殿下に対しまして大変失礼な振舞に及んだ事を、改めてお詫び申し上げます。それに、さぞかし、今夜は心配されましたでしょう? 」
気難しそうな侍従長のご機嫌を伺う様に、チラ、と小首を傾げる涼子の姿は眩暈を覚えるほどに可愛らしかったが、その手に未だ銃が握られているのが妙にアンバランスに思えた。
侍従長も、マヤと同じ感想を抱いたようで、彼は急に、豪快に笑い出した。
「いやいや、心配などと、とんでもない。石動大佐がついていらっしゃるんだから、心配なぞ無用、と思っておりました。今さっきも、見事な
涼子は、そこで漸く右手の銃に気付いたらしく、慌ててホルスターに戻してペコリと頭を下げた。
”今だわ”
マヤは思いついて、涼子から預かった紙袋を彼女に押し付けた。
「あ、駄目! 」
「いけません。涼子様から、直接、ね? 」
「なんですかな? 」
マヤと涼子の押し問答を見て、リヒテンシュタインは訝しげに尋ね掛ける。
侍従長にそう訊かれて、観念したのか涼子は、溜息を零しながら紙袋を差し出た。
「あ、あの……、こ、これ……。安物で返って失礼かとは思ったのですが、何分持ち合わせが少なく……。男爵閣下のご心労に対し謝罪の意味を込めまして、私が買ったものなんですが。もし、お気に召して頂けるのなら、光栄に存じます」
男爵のしかめつらしい顔が、パッと綻ぶ。
「おお! これはこれは……。お気遣い感謝致しますぞ! 」
嬉しそうな表情で侍従長が開いた紙袋からは、銀の懐中時計用の鎖が滑り出てきた。
「これは良い! 早速、使わせて頂きましょう。石動大佐、感謝致します」
「あ、いえ、あの、とんでもございません」
慌てる涼子に、マヤは追い討ちを掛けてみた。
「涼子様、私からもお礼申し上げます」
いっそう慌てて顔を真っ赤にする涼子を、マヤと侍従長、二人でさんざん笑った後に、侍従長が優しく声を掛けてきた。
「さ、姫。そろそろ冷えてまいりました。明日の舞踏会でも大佐とはご一緒できるのですから、今夜はこの辺で」
侍従長の言葉に、今度はマヤが驚く番だった。
「えっ! じい、なんで涼子様とのお約束、知っているのですか? 」
侍従長は余裕の笑みを浮かべる。
「はっはっはっ。それぐらいの事、20年も姫にお仕えしていればすぐにわかりますわい。4年前の国連本部での石動大佐の見事なステップ、このじいもよく憶えておりますぞ」
今度は涼子が蒼褪めていた。
「い、いやですわ、男爵閣下、お戯れを」
涼子はここは一番、逃げるが勝ちを決め込んだようだ。
「そ、それでは、私はこの辺で失礼させて頂きます。本当にマヤ殿下、今夜は楽しい晩を過ごさせて頂き、有難う存知ました」
涼子は、格好こそそぐわないものの、スカートの裾をつまんで、ちゃんと礼に則った
「涼子様、こちらこそ、楽しい一時を本当にありがとうございました。おやすみなさいませ」
「石動大佐、おやすみなさい」
「殿下、男爵閣下、おやすみなさいませ」
マヤとリヒテンシュタインは、涼子に背を向けてゆっくりとホテルの正面玄関に向かって歩き始めた。
マヤは途中一度だけ涼子を振り返ったが、涼子は頭を下げ続けており、最後までその顔を見る事は出来なかった。
落ち着いた雰囲気のグロブナーのロビーの景色は、見慣れた風景だった筈なのに、マヤは一歩そこへ足を踏み入れた途端に、言い様のない寂寥感を感じてしまう。
今夜の出発時には人が溢れていた~思えば、あの人々はUNDASNや自国のSP達だったのだろう~のに、今は閑散としている、もちろんそのせいもあるだろうが、違うんだ、とマヤは思い当たる。
これは、煌くような時間を心行くまで楽しんだ自分の、別れ難い過去への未練と惜別の情を忠実に写し取った、心象風景なのだ。
知らず知らずのうちに、マヤは立ち竦んでいたようだ。
リヒテンシュタインの声に、マヤは我に帰った。
「姫……。何やら、お淋しそうですな? 」
図星だった。
だが、それだけに返す言葉もない。
「もう! じいの意地悪! 」
だが、うろたえるばかりでは面白くないと、マヤは逆転狙いの攻勢に出る。
「それよりじい? よかったわね、大ファンの涼子様からプレゼントまでもらって」
良くて逆転、悪くてもドロー。
侍従長は、ゲホゴホガホとわざとらしく咳き込んで見せてから、明後日の方を向いてボソ、と答えた。
「な、何を申されます、姫。いやなに、如何にも安物臭いが、だからと言うて突き返す訳にもいきませんでしょう」
言いながら、それまで大事そうに手に持っていた紙袋をポケットに仕舞いこむリヒテンシュタインの態度が可笑しくて、マヤはくすくす笑いながら、先に立ってエレベータに乗り込んだ。
ゆっくりと上昇を開始したケージに訪れた柔らかなGのもたらす奇妙な浮遊感に身を任せながら、マヤの心は既に、明日の舞踏会場へとそれこそ浮遊していた。
楽しみだ。
望み続けてきたのは確かだけれど、まさか本当に、もう一度涼子と踊れる日が来るとは夢にも思わなかった。
贅沢など言わぬ、ただ、ただ、一目逢いたかっただけ、再び言葉を交わしたかっただけ、そんなちっぽけな希みを胸に抱き生きてきた、この4年。
それらが一気に叶っただけでなく、ピカデリーサーカスのフェスティバルを楽しむデートまで実現し、その上、あの思い出のラスト・ダンスを再び現実のものと出来るなんて。
なんて、なんて幸せなのだろう、私は。
明日が訪れるのが、待ち遠しい。
そう、明日を待ち焦がれる日が我が身にやってくるなどと、昨日までの私には考えも出来なかった。
いや。
違う。
あの、4年前、ビッグ・アップル・シティで、涼子と初めて逢ったその日から。
涼子が、美しい微笑を浮かべて『忘れちゃいけない、素敵な思い出』と語ってくれた、あの出逢いの日から、今日まで。
涼子といつか再会を果たす事が出来るだろう、『遂に訪れないかも知れぬ明日』を、私は、今日まで、ずっと、ずっと。
待ち続けていたのだ。
チン! という古臭い到着のベルがマヤを現実へ引き戻す。
今日は、ゆっくり眠ろう。
明日の為に。待ち望んでいた、明日の為に。
マヤは密かに頷いて、ケージから降りる。
マヤが涼子とのデートの余韻をゆったり味わいながら、鼻歌混じりのシャワーを終えて、就寝前の恒例、明日のスケジュールを説明に訪れた侍従長の懐中時計を見ると、燻し銀に輝くチェーンは、早くも涼子のプレゼントに付け替えられていた。
少しだけ、侍従長に嫉妬を覚えた。
「ふぅ、疲れたぁ」
まぁ結構楽しんだんだけどね、と思いながら、今夜も泊まることになった駐英武官事務所に戻った涼子だったが、オフィスへ顔を出した途端、更に疲れる羽目に陥った。
その先鋒となったのは、リャン・チャンニだった。
「きゃあっ! 1課長、可愛い! 」
涼子はそのテンションの高い叫び声で、思わず30度ほど後へ仰け反ってしまう。
「しーっ! や、やめてよ、目立っちゃうわ! 」
慌てて制止しようとしたが、遅かった。
「ほんとだー! 1課長ハイティーンみたい」
「可愛い、食べちゃいたいくらい! 」
「すごいですねえ、よくそこまで化けましたねえ」
もう、殆ど見世物状態である。
誉められているのか貶されているのか、判らなくなってくるほどだ。
「お願い、もう堪忍っ! 」
顔を真っ赤にして叫びながら、一目散に武官室へ駆け込んでホッと一息つき、額の汗を拭いながら顔を上げると、ソファでマズアとコリンズが、ニヤニヤ笑いを浮かべて座っていた。
「1課長、お帰りなさい」
「どうもご苦労様でした」
涼子はどうにもバツが悪く、けれど何時までもドアに張り付いている訳にも行かずに、吐息を零してソファに腰を下ろした。
「なんなの、2人とも。なんか、言いたそう」
涼子は、2人を等分に睨みつける。
マズアとコリンズは、二人、顔を見合わせて頷きあった後、再び涼子に笑顔を見せて、声を揃えて、言った。
「それにしても1課長、良くお似合いですなあ。まるでハイティーンみたいだ! 」
「もう、二人とも嫌い! 」
涼子がプイッ、とそっぽを向くと、二人は笑いながら口々に執り成す。
「まあまあ、1課長、そう怒らずに」
「そうですよ、室長代行。純粋に誉め言葉です、ええ」
「なんだかなぁ」
まるで、卒配、初任幹部時代に、部下の古参下士官達からからかわれた時代を思い出してしまい、苦笑を浮かべてしまう。
「そういうことにしておくわ。……とにかくコリンズ、今夜はご苦労様。リザや銀環は? 」
「二人とも、先に解放しましたよ」
コリンズの言葉に、涼子は少しだけ表情を引き締める。
ここから先は、お仕事だ。
涼子の表情の変化に気付いたマズアが、口調を改めた。
「コリンズにも話していたところなんですが、MI5から報告が入りました」
「英国内の
コリンズが表情を消し去った。
「ええ、その通りです。『お喋り薬』の効果で、いくつかルートが表面化したようです。シンパかどうかは別として、そもそもの正体は今回の一連の襲撃事件の兵站を一括請負した、プロのようですね」
制服姿も新鮮でよかったけれど、やっぱりコリンズはこっちかしら、と涼子はぼんやり頭の隅で考える。
「それって、ひょっとして今回の事件だけじゃなくて、フォックス派全体の兵站部の可能性もあるんじゃないのかしら? 」
涼子がそう言うと、コリンズは少し口元を綻ばせながら頷いた。
当たり、だったようだ。
「ええ、MI5でもそう観測してます」
「てことは、コリンズ」
涼子は、少し眉根を寄せた。
「それだけフォックス派とのパイプが出来てるんだとしたら、ひょっとして、いつの間にかフォックスのシンパになってた……、なんてこともあり得るんじゃないかなぁ? 」
「仰るとおりです、室長代行」
コリンズは、微かに顔を顰める。
「ですから、38号議案がプレス・リリースされた明日以降も、襲撃の可能性は消えていない、と言う事になります」
涼子は頷きながら、答えた。
「これは私達国際部の管轄ではないし、貴方達の方がプロだから言わずもがな、だと思うんだけど。こうなったら、慎重に、ね? 」
コリンズはゆっくり頷きながら答えた。
「無論です。そろそろ、地球人同士の無益な殺し合いにも、ピリオドを打ちませんと、ね」
涼子もマズアも、無言のまま大きく頷き、暫くは武官室は沈黙に包まれた。
唯でさえ、いつ終わるとも知れないミクニーとの壮大な命の遣り取りの真っ只中にいる地球人類。
コリンズの言うとおり、そんな最中、地球人同士が殺し合いをしているのはもう、いい加減にして欲しい、とつくづく思う。
涼子が溜息を落とした刹那、インターフォン呼び出し音が室内に響いた。
ブルーな気分になりかけていた涼子は、少なからずホッとする。
マズアが手を伸ばして受話器を取った。
「……ああ、いらっしゃる。少し待て」
マズアはそう言うと、送話口を押さえて涼子の方を向く。
「在サザンプトン、IC2旗艦F010グローリアス座乗、軍務部長からです。一般外線です」
涼子は一瞬表情をパッと明るくしたが、二人がじっと自分を見ている事を思い出し、なんとか冷静な表情に戻して、マズアから受話器を受け取った。
「はい、替わりました。石動です、お疲れ様です。アイサ……、只今戻りました」
「別に用事じゃないんだが……、ちょっと、な」
無愛想な口振りに、微かに見え隠れする小野寺の優しさが嬉しくて、嬉しすぎて涼子は、思わず胸が一杯になり、言葉が上手く出てこない。
と、ハンドセットを押し当てているのとは反対の耳に、コリンズの声が聞こえてきた。
「ああ、駐英武官……。さっき言ってた資料探しなんだが、ちょっと付き合ってくれんか? 」
マズアも、棒読みのような返事をしている。
「ああ、いいよ。手伝おう。確かあれは書庫だ」
微妙に演技の下手な二人が可笑しくて、でも有難くてけれど申し訳なくて、涼子は慌てて小野寺に言った。
「あ、軍務部長、少しお待ちを。……ねえ、二人とも。良いのよ、別に何でもない話なんだから」
送話口を押さえて振り向いた涼子に、二人は笑顔を向けて、静かに部屋を出て行った。
閉められたドアに向い、涼子は拝む手付きをして話に戻る。
「拙かったらかけ直すが」
「ううん、大丈夫よ。……コリンズとマズアが席を外してくれたの」
そこまで言って、涼子は声を低くする。
「なんか、気付かれたのかな? ごめんなさい、拙かった? 」
涼子の心配を余所に、彼の声は普段通りの無愛想だった。
「別に、構わん。今更だ。……だいたいこの電話だって、グローリアス艦内からだぞ? フネの通信班に、全部モニタどころかログまで採られてるんだ。積極的に言いふらす必要もないが、隠す必要もない」
彼の言葉を聞いて、涼子は今更ながら改めて彼の想いの丈を知る。
今度は素直に想いが言葉になって、でも一緒に涙まで零れてしまう。
「ありがと、艦長。私、うれしい」
涼子は流れる涙を手の甲で拭い、グスンと鼻を啜り上げる。
「アットホームの時、艦長、バレたって構わないって言って、腕組んでくれたでしょ? 嬉しくて、だけどなんだか夢みたいで、半分くらい信じられなかったの。明日の朝目覚めたら、消えてなくなってそうで……。現実の艦長は迷ってて、んで、ひょっとして後悔なんかしてるかもって」
言ってるうちに、どんどん涙が流れて来て、涼子はとうとう言葉に詰まってしまった。
「迷ってなんか、いないさ。結構前から、な」
彼の声が、耳に、心に、優しく響く。
「……結構、前、から? 」
「そうだ。俺は、迷った事はなかった。……ただ、勇気が足りなかったかも知れんが、な」
ああ、幸せだ。
こんな幸せ、私には勿体無いくらい。
だから、今は。
ただ、彼の言葉に、素直に甘えたい。
「私も……、迷ってなんかいなかったよ」
漸く、それだけを言葉にした刹那、受話器を通して
「呼び出しだ。イースト=モズンがまたぞろ、騒々しくなってきた。すまん。お前の無事な声が聞けただけで俺の方は用済みだ。また明日、な」
この淡白さが、とても彼らしく、だから彼の想いが現実のもので、そしてそれが明日以降も”日常”として続く証のように思えて、涼子も素直に、別れの言葉を告げることが出来た。
「艦長、ありがとう……。ごめんなさい、忙しいのに、心配かけちゃって。おやすみなさい」
「おやすみ」
愛してる、と言いたかったが、モニタされている事を知っている以上、さすがに言いかねた。
受話器に響く無機質なトーン音を聞きながら、涼子はそっと呟く。
「愛してる、艦長……」
誰も聞いていない筈なのに、妙に顔が熱かった。
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