第91話 14-6.


 寺院の石段を降りて暫く進むと、大きな中華風の門が現れ、そこをくぐると再びロンドンの街並が出現する。

「あぁ、楽しかった! 私、中華街って初めてだったから、すごく面白かったわ! 」

 はしゃぐマヤを見て、涼子も目を細めて頷いた。

「そっか、マヤは初めてだったものね。私の母国、ニッポンにもね、中華街があるの。ヨコハマ、コーベ、ナガサキの3ヶ所が有名かな」

「ロンドンの中華街とは違うのかしら? 」

「うーん……。同じっていうなら、こう言う門・・・・・・、これは善隣門って書いてあるわね、こんなのはどこもあるわね。後は、ちょっと言葉はヘンだけど、和風の中華街って言うのかな? 日本の街並に上手く融け込んでる感じね。フリスコでもロスでも、勿論ここロンドンでも、中華街って、こう全く違う空間って言うか、存在をアピールしているって言うか」

 マヤは感心した様に頷いている。

「ふーん……。日本て、やっぱり不思議な国ね。母上の生まれた国。一度、言ってみたいなぁ」

「あら、マヤは日本に行った事ないの? 」

 マヤは少し淋しそうな表情で自分の足元を見る。

「母上は、父上と結婚してから、結局一度も里帰りしないまま、イブーキで亡くなったんだって」

 湿っぽくなった空気を吹き飛ばしたかったのだろう、マヤはテンションを元に戻して笑顔で涼子を振り向いた。

「ねえ、お姉さまはちゃんと里帰りしてる? 」

 涼子は、一瞬立ち止まってしまう。

「そう言えば、もう何年も、帰ってないような気が……。おばさんやおねえちゃん、元気かな」

 このままだと、折角のマヤの気遣いを無駄にしてしまいそうで、涼子はマヤに笑顔を向けた。

「あ、そうだ。さっきイブーキにご招待頂いたお返し、って訳じゃないけれど、マヤ、貴方がもしも日本に行く機会があるのなら、連絡して。私が案内してあげるわ」

「ほんとっ? トーキョーも? キョートもナラもオーサカも? 」

 ネルフシュタイン訪問もいいが、マヤと一緒にお里帰りもいいかも知れない。

 そんな事を考えながら、こっくりと頷いた瞬間、賑やかな音楽が耳に届いた。

 顔を上げるとその先には、オルガンが奏でる賑やかな音楽と、明滅する無数の電飾に彩られた遊園地が、まるで夢の様に街中の広場に『出現』していた。

 レスター・スクウェアは、もう眼の前だった。


 メリーゴーランド、コーヒーカップ、鏡の迷路、ゴーカート、ミニSL。

 移動遊園地のこと、大したアトラクションがある訳でもないのだが、すっかり童心に帰ったマヤに引き摺り回され、涼子は疲れ切ってしまい、思わずベンチにどすんと腰を下ろしてしまう。

「次はほら、お姉さま! 観覧車に乗りましょう! 」

 ゆっくりと顔を上げると、マヤの瞳は遊園地の電飾の100倍程も煌いている。

”これは断れないわね”

 覚悟を決めて涼子は両手を膝に突っ張って気合を入れた。

「観覧車ね、いいわよ。……ヨッコラショ」

 立ち上がり、笑顔をマヤに向けると、彼女の表情は激変していた。

 先程までの輝く笑顔は消え、蒼褪めた顔に驚きと悲しみが綯い交ぜになった表情だ。

「どうしたの、マヤ? 」

 涼子の問い掛けに、マヤは震える声で答えた。

「い、今……。お姉さま『ヨッコラショ』って言った? 」

 ドイツ語の会話に挟まった、マヤの異様に上手い『ヨッコラショ』という日本語が、涼子に不可思議な思いを抱かせた。

「え? あ、やだ、私そんな事言った? 恥ずかしいなあ。でも」

 それがどうしたのだろう、反問しようとして、涼子の言葉はマヤの湿った声に遮られる。

「お母様が、病気で死の床についたとき、ベッドから起き上がる時に、良く言ってらした。『ヨッコラショ』って」

 途端にマヤの大きな瞳が潤み始め、ボロボロと涙が止めど無く頬を伝う。

「涼子様! 死んじゃ嫌ッ! 」

 そう叫ぶとマヤは、涼子にむしゃぶりついてきた。

「な、何言ってるの、マヤ。ちょっと疲れただけじゃない、馬鹿なこと言ってないで」

 そう言いながら優しくマヤの黒髪を撫でてやる。

 突然何を、と訝りながらも、マヤが自分で決めた『姉妹』の設定を忘れて名前を呼んでいる事で、涼子は彼女が本気で心配している事が察せられたのだ。

「だって私、4年前に初めてお逢いしてから今日まで、涼子様の事が心配で心配で、戦死されるんじゃないか、ケガでもされてはいないかって、そればっかり……。だから……、だって」

 後は泣きじゃくるばかりのマヤを抱き締めながら、涼子はマヤの言葉を反芻する。

「4年前……」

 4年前という言葉が、しきりに心に漣をたてている。

 4年前、国連本部でマヤと初めて出会った、それは昨日、雑談の中で聞かされて理解している。

 けれど、それだけじゃない。

 それだけで済まされない、何かがあった筈なのだ。

 何があった?

 4年前に、確かに、何かがあったのだ。

 マヤと出逢った、ニューヨークの街で。

 だから、心がこんなにざわめく。

「頭……、痛い」

 ビクッ! と胸の中のマヤが震えた。

「そうだ……」

 思い出した。

 私は、このを知っている。

 4年前、私とこの娘は、初めて出逢った、そしてその夜。

 ニューヨーク、国連本部前。

 テロリストの襲撃から、この娘を助けた。

 灰色の霧に包まれた過去は、今は鮮やかに、まるで昨日の出来事のように思い出せるようになっていた。

 涼子は自分の胸に顔を埋めているマヤの両腕を持ち、引き離してまじまじとその瞳を見る。

「マヤ、……マヤ、あなた! 」

 そうだ、この瞳だ。

 この深い慈しみを湛えた濡れた瞳が、テロリストを確保した後、息を切らせて地面に寝転がった私を覗き込んでくれていた。

 それじゃあ?

「ど、どうしたの? 涼子様」

 マヤは驚いた様子で涼子を見上げている。相変わらず姉妹設定も忘れたままだ。

 そうだ、あの時もこの娘は。

 私を気遣って『涼子様』と泣き叫んでいたっけ。

 だけど、それなら、この頭が割れるような、痛みは、何?

「涼子様? 」

 名前を呼ばれて、涼子は再びマヤの心配そうな顔をみつめる。

 マヤをテロリストの魔手から救い出した、それは確かな事実だろうが、それならばこの頭痛は、なんだ?

 何か、他に、私は忘れていることが、ある。

 それが何かは判らないけれど、まだ、過去の姿は全て現れた訳ではないのだ。

 4年前、国連本部前で起きたテロ事件。

 その出来事は忘れていたことなどなく、ずっと涼子の記憶の中に存在していた事実だ。

 但し、その事件は、ついさっきまで『どこかの国に属する、何らかの目的を持ったテロリスト』から国連事務総長を庇い、犯人逮捕の切欠を作った、そんな記憶だった筈だ。

 え?

 どこかの国、ってどこ?

 何らかの目的、ってなに?

 そうよ、それに、第一。

 そこに、マヤはいなかった。

 いなかったわ、マヤなんて。私の把握していた記憶の中には。

 何故?

 何故、私は、私の記憶は。

 マヤをそこから排除してしまっていたのだろうか?

 だけど。

「だけど私は、貴女を、マヤを……、知っていたのね」

「涼子様……。思い出したの? 」

 一瞬、マヤの瞳に輝きが現れる。

「なんで、私……、今まで忘れていたのかしら? 」

「私、あの時、国内の、宮殿内の王位継承を巡る抗争に巻き込まれて、国連本部の前で狙われたところを涼子様に」

 それは、思い出した。

 しかし、それだけではない筈だ。

 もしもそれだけならば、忘れてしまう必要など、ない筈だもの。

 もしもそれだけならば、頭痛など、きっとおきない筈だもの。

 だから、何かがあった。

 だから、マヤごと、私は今日の今日まで、忘れていたのだ。

 何かが、心の底からゆっくりと浮かび上がろうとしていた。

 それを今度こそ逃がすまい、確かめたいともがく涼子と、これ以上は何も知りたくないと抗う涼子、自分の中に二人の涼子がいる。

 この我慢できないくらいの酷い頭痛は、その二人が争っているからなのだろう。

「うっ」

「涼子様! 」

 耐え切れず、思わず膝から力が抜けて、数歩後ろへよろめいた。

「きゃっ! 」

 可愛らしい悲鳴が、背後で聞こえた。

「ああっ! チョコクレープ、落としちゃった! 」

 振り返ると、涼子の身長の半分くらいしかない巻き毛でそばかすの可愛い小学生くらいの女の子が、泣きそうな表情で足元に落ちたチョコクレープをみつめている。

 涼子がよろめいた際に女の子と接触してしまい、手に持っていたチョコを地面へ落としてしまったようだ。

 刹那、頭の中で争っていた片方の涼子が、叫んだ。

『過ぎ去ったことを思い出そうとしてる場合じゃないでしょう! 』

 涼子は思わず、女の子の傍にしゃがみこんだ。

「あらあら、ごめんなさいね、お嬢ちゃん。お姉ちゃんが悪かったわ、許してね」

 泣きそうな表情で足元に視線を落としていたその女の子は、やがてニコリと涼子に微笑みを返す。

「ううん、いいのよ、お姉ちゃん」

 ホッと涼子は安堵の溜息を落とす。

 彼女が許してくれたことよりも、頭痛が嘘の様に消えていたことの方が、理由としては大きいかも知れない。

 いいわ。

 思い出す必要のある過去ならば、きっといつか、思い出せる。

 いえ、それ以前に、忘れちゃいけない過去ならば、忘れる訳など、ないもの。

『いいの、涼子、それで? ……本当に、いいの? 後悔しない? 』

 もう一人の涼子が哀しげな表情でそう念押ししながら、フェードアウトしていくのを止めようともせず、涼子は目の前の可愛い女の子に、感謝を込めて微笑んだ。

「ありがとう。貴女、良い子ね? 私はリョーコ。お嬢ちゃん、お名前は? 」


「キャメロン。キャメロン・ディナークラウドよ」

 物怖じしないキャメロンに、蕩けるような優しい表情で微笑む涼子を見て、マヤは一瞬、嫉妬すら覚える。

「じゃあね、キャメロン。リョーコが、お詫びに新しいチョコクレープを買って上げる。パパやママは? 心配させちゃいけないから、ちゃんとご挨拶しなきゃね」

「パパとママは、あそこのテラスにいるわ」

 キャメロンの指さす方向のオープンテラスに、確かに若夫婦が座って、こちらに顔を向けていた。

「じゃあ、キャメロン。いったんパパとママの所へ行こう! 」

 涼子はそう言ってキャメロンと手を繋ぐと、マヤを振りかえって言った。

「マヤ、ごめんなさいね」

「ううん、私はいいの。それより涼子様、大丈夫? 」

 マヤは心配そうに涼子の顔を覗き込みながら訊ねる。

「うん、大丈夫。それより、キャメロンと一緒に、ちょっとだけお買い物に行くから、暫く待っていて貰えないかしら? 」

 キャメロンと手を繋いで歩き始めた涼子の後姿を見ながら、マヤは考えた。

”涼子様……。4年前の私の事を思い出すのと同時に、ひょっとして、あの事まで? それで? ”

 マヤの親友が嫉妬から引き起こした涼子襲撃事件。

 そして、それを切欠に封印が解かれてしまった、義父によるレイプ未遂。

 マヤは、涼子に自分の事を思い出して欲しい、と願いながらも、同時に、涼子がそれらの忌まわしい過去を一緒に思い出す事を恐れていたことを改めて思い出す。

 それは、涼子の傷をこれ以上抉りたくない、という思いと、自分との思い出が忌まわしい過去と同じレベルで記憶されていたくはない、という思いが、複雑に交じり合った感情だ。

 涼子がキャメロンの両親と笑顔で話をしている光景を眺めながら、マヤは尚も考える。

 けれど、こうして涼子の様子を観察する限り、過去の傷痕に悩まされているようには、どうにも思えない。

 極端な話、思い出す前と思い出してから、態度の違いが殆ど見えないのだ。

 確かに、思い出した直後は驚きを顕わにしてはいたし、しかもそれはほんの数分前の話だ。

 態度の違いに気付く程に接触していないのは確かなのだけれど、それでも、少女と話す姿や彼女の両親と挨拶を交わす姿に、欠片ほどの動揺すら見出せないと言う事は。

 純粋に、マヤとの出逢いを思い出しただけで、それに紐付く筈の忌まわしい過去までは呼び覚まされてはいない、ということなのだろうか。

 そんな事を考えているうちに、どうやらキャメロンの両親は、涼子と娘の買い物を心良く承諾した様だった。

 UNDASNのIDカードの威光もさることながら、やはり涼子の人柄が大きいのだろうな、と思う。

 涼子はマヤの方を振り向いて明るく言った。

「じゃあ、すぐに戻るから、マヤ、もう少し待ってて。さ、行こう、キャメロン! 」

「判ったわ、いってらっしゃい! 」

 涼子とキャメロンは、まるで本当の親子の様に~彼女の年齢を考えれば、キャメロンくらいの子供がいても不思議ではないのだ、とふと思う~、手を繋いで売店の方に走って行った。

 ひょっとしたら、と、マヤはベンチに腰を下ろしながら、尚も考える。

 涼子は、思い出しても良い過去、思い出したくない過去、それらをちゃんと、取捨選択しているのかも知れない。

 もちろん、無意識のうちに。

 大学の心理学の授業で、そんな不思議な脳の働きを聞いた覚えがある。

 あの時、4年前は、全てが密接に関連づいていて、涼子はそんな取捨選択する間もなかっただろう、だから全てを忘却の彼方へ追いやった。

 しかし、今。

 自分との再会が、都合よく、楽しかった過去だけをサルベージするキーワードとなったのなら。

 それは涼子にとって、そして自分にとっても、考え得る一番『ベター』な結果だと言えるのではないだろうか?

「それなら私も、少しくらいは」

 涼子様の、お役に立てたのかもしれないわね、とクス、と笑みさえ漏れてきた。

「お待たせ、マヤ」

 涼子の声に、マヤは思索を中断して振り返る。

 キャメロンは右手に新しいチョコクレープ、左手に大きな熊のぬいぐるみを持って幸せそうに笑いながら、両親に報告している。

 涼子はキャメロンにバイバイと手を振った後、マヤを振り返って言った。

「ごめんなさいね、マヤ。退屈だったでしょ? 」

 マヤはううんと首を横に振り、それでも涼子の体調が気懸かりで、顔を覗き込んで訊ねた。

「でも、お姉さま……。ほんとに大丈夫なの? もう帰りましょうか? 」

「もう大丈夫よ。ほら、マヤ。それより観覧車、乗るんでしょう? 行こ? 」

 笑顔の涼子に、確かに先程の様な翳りは、これっぽっちも伺えず、マヤは漸く安心の笑みを浮かべることができた。


 移動遊園地の観覧車だから、さほど大きくはなく、一周3分程のものだ。

 ゴンドラに乗り込むと同時に涼子は、ジャケットのポケットからなにやら取り出して、向かい合わせに座ったマヤにはい、と手渡した。

「え? なに? お姉さま」

 あまりにも自然な仕草だったので、マヤは何も考えずにそれを受け取り、数瞬の後にその意味が判らず声を上げてしまった。

「いいから開けてみて、ね? 」

 マヤが小さな紙の包みを開けると、中から出てきたのは銀のブレスレットだった。

 細いチェーンと六角形の銀の輪が複雑に絡みあったそれは、マヤの掌の上で、窓から射し込む心許ない光の反射とは思えないほどに鮮やかに煌めいていた。

「やだ可愛い! これ、頂いてもいいの? 」

 涼子は少し照れ臭そうに、頬を赤くして視線をマヤから外しながら答える。

「だって……、マヤ、バレンタインギフトにチョコレート、贈ってくれたでしょ? 」

 確かに、贈った。

「オフィスで見たときには誰だか思い出せなかったんだけれど……。さっき、4年前のことを思い出した時に、ああ、あのチョコは、って」

 涼子は苦笑を浮かべて、肩を竦めた。

「それで、キャメロンにお詫びの品を買う時に、あぁ、ついでって訳じゃないんだけれど」

「お姉さま」

「だから、少し早いけれど、ホワイトデーのお返し。来月になれば、直接会って渡すって訳にもいかないでしょう? 」

 嬉しい。

 この一夜だけでも生涯の宝物なのに、その上、プレゼントまで貰えるなんて。

 もう、このまま死んでもいい。

 真剣にそう思い、すぐに慌てて否定する。

 駄目、駄目よ、死ぬなんて。

 勿体無い。

 マヤはだから、涼子の胸に飛び込む。

「涼子様! ありがとう、嬉しい! 」

「きゃあっ! マ、マヤ、ゴンドラが揺れるって! 」

 そうは言ってもマヤも涼子も、同年代の平均的女性体格よりも華奢だ~マヤの見るところ、涼子は一部の部位は平均以上の羨ましさに見えたが~、すぐに揺れは収まる。

 涼子は安心したとばかりにほぅ、と吐息をひとつ落とした後、微笑を浮かべてマヤの髪を両手で撫でながら、言った。

「安物なんだから、そんなに喜ばないで? それに、お詫びもかねてるんだから」

「お詫び? 」

 思わず涼子を見上げる。

「なんで、こんな素敵な娘のこと、私ったら忘れちゃったのかしらね? ……だから、これはお詫びと、この先何年経っても、今夜のことは忘れない、って、……うん、そう。ちょっと大袈裟だけど、誓い、みたいなもの」

 さっき以上の喜びに身体を震わせる。

 これほど、自分の事を、王女としてではなく、マヤ個人、一人の女性として、大切だと言い、優しく見守ってくれている人がこの世に存在すること自体が、まるで奇跡だと思った。

 そしてそれ以上に、涼子の辛い過去を引き摺り出す事無く、ただ、ただ、綺麗な、素敵な煌めく思い出として今夜を終われそうなことが、嬉しかった。

 涼子の優しく微笑む瞳が、その心配は杞憂だよ、と語りかけてくるようで、マヤは心の底より安堵し、身体をゆっくりと離して自分の席に座り直した。

「ありがとう、涼子様。これ、大事にする! 明日の舞踏会にもつけて出るわ! 」

 涼子はマヤの言葉に微笑んで頷いた後、そろそろ頂上にさしかかるゴンドラの窓の外に溢れるシティ・ライトに視線を移し、懐かしそうな口調で言った。

「舞踏会か……。そう言えば、4年前、マヤとワルツを踊ったわね。なんだかもう、10年も前の出来事みたい」

 マヤも釣られて、地上を見下ろす。

「あのラスト・ワルツ。でも私には、まるで昨日のことみたいに、鮮明に思い出せるわ」

 そこで、不意に思い付いた。

 そうだ、今よ、今なら言える、あの案を提案できるわ。

「ねえ、涼子様。明日の舞踏会でのラストダンス、一緒に踊って頂けないかしら? 」

「ふぇ? 」

 間抜けな声を上げ、暫くは目をぱちぱちと瞬いていた涼子は、次の瞬間、ゴンドラが揺れるくらいに激しく両手を振り回して叫んだ。

「だ、駄目よっ! お、踊れないわよ、無茶言わないで! 」

 顔を真っ赤にしている涼子には申し訳なく思ったけれど~ほんの少しだけ、だ~、だからと言ってマヤは引き下がるつもりはなかった。

 元々、涼子が思い出そうが忘れたままでいようが、こうして涼子とデート出来ようが出来なかろうが、マヤは明日、バッキンガムでラストダンスのお相手を申し込むつもりだったのだから。

「だって、あの時はすごく上手に踊ってらしたじゃない」

「た、大変だったのよ! 両足とも踏みまくってアザだらけになったし! それよりなにより、一番ショックだったのは、立ち居振舞も難儀な程の全身筋肉痛が、翌々日に来たことなのよっ! 」

 ごめんなさい涼子様その辛さは若い私にはちょっと判らないわと思いつつも、涼子の慌てぶりに怯みそうになるが、駄目よここで引いちゃ駄目と自分を叱咤し、マヤは涼子の両手を握り締めて声を張った。

「お願い、涼子様! 私、今日までの4年間、涼子様ともう一度ラストダンスを踊る事だけを夢見てきたの! 」

「うぐぅ」

「涼子様? 」

 短い吐息、ひとつ。

「……判ったわ、マヤ」

 暫くは、オドオドと視線を虚空に泳がせていた涼子だったが、やがて観念したように、がっくりと首を縦に振った。

「不調法者だけど、よろしくね? ……あ、足踏んじゃっても、怒らないでね? 」

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