第90話 14-5.


「ねえ、マヤ、お腹減ってない? 中華街においしい飲茶屋台があってね? そこの肉まんがホッペが落ちちゃいそうなくらい美味しいの! 」

 涼子がそう誘うと、マヤは小首を傾げて訊ね返した。

「ニク……、マン? 」

「そう、ビーフケーキ! ほんと美味しいんだから! いっぺん食べたらクセになっちゃうわよ、だからいこ? 」

 そんな会話があって、涼子はマヤの手を引いて、露店のテント村を抜け、中華街にやってきた。

「お姉さま、ほんとに美味しいわね、ニクマン! 」

 肉まんを頬張りながらマヤは目を輝かせる。

「そう? 良かった! 『中華料理は日本が世界一』とか言うけど、飲茶系に関してはやっぱり本場よねえ」

 別に自分が作った訳ではないのだが、マヤの嬉しそうな顔を見るうちに、何故だか自分も嬉しくなってくる。

「私、もう一個、食べよっと。おばちゃん、もっこちょうだいな」

 前半はドイツ語、後半は広東語で喋る。

 涼子は、アジア系の言語だけでも広東語や北京語、タガログ語にハングル語等数ヶ国語をネイティヴばりに操れるのだが、欧州室勤務の現在、これらの言語能力は専ら街の買い物でしか活用していない。

「お姉さま、ほんと、健啖だわ」

 マヤにそう言われて、涼子は俄かに恥ずかしさを覚えた。

 最近、少しキツくなったヒューストンの官舎の壁に架けてある防暑用の第二種軍装ドレス・ホワイトのスカートがチラッと、脳裏を過る。

 何か言い訳しなきゃ、と口を開いた途端、聞き慣れないしゃがれ声が背中から降って来た。

 向かい合っていたマヤの笑顔が一瞬にして消え去り、代わりに怯えが現れる。

「よお、ベッピンのねえちゃん達。ゴキゲンだねえ? 俺達ともっと楽しい事しない? 」

 涼子が振り向くと、見事なモヒカン、2m近い背丈の大男と、緑色の長髪が気色悪い1.5mほどの少年のような男、要するに街の不良が二人、下卑た表情を浮かべて立っていた。

「貴方達、何者? 何の用? 」

 言いながら涼子は、マヤを背中に隠す。

「あんた達姉妹かい? へぇ、こりゃ勇敢な妹さんだ」

 思わず涼子は、ケンケンケンッ! と咽てしまう。

「お、お姉さま! 」

 マヤのオロオロ声を背中に聞きながら、涼子は目尻に溜まった涙を拳で拭い、顔を上げた。

「失礼が過ぎるわよ、坊や達」

「坊やだぁ? 」

「笑わせるぜ、お嬢ちゃん」

 腹を抱えて笑っている姿が、また涼子の怒りを煽り立てる。

「私の方が年上なのに! 」

 言葉よりも先に手が動いていた。

 さんざん、SP達やハウス・マヌカンにハイティーン扱いされた鬱憤だろうか。

 一挙動で腰から抜き取ったCzのマズルをモヒカンの顎の下に突きつけて、左手はジャケットの内ポケットから英国政府発行の銃器携帯・発砲・殺傷許可証のカードを引き摺りだして緑髪の男の鼻先へ突きつけた。念の為、セイフティはONのまま、いつでもOFFに出来るよう、親指はかけて。

「さ、読んで御覧なさい! 」

「ひっ、ひい……」

 顔面蒼白にして、銃を突きつけられたモヒカンは素直に手を上げる。

「字、読めないのかしら? 」

 緑髪の男は、よろめくように数歩後退さり、やはり両手を上げて見せた。

「判った! すまねえ、判った! や、出来心だ、出来心。だから、銃をお、下ろしてくれ」

「何が判ったのかしら? 」

 言いながら、親指でセイフティを外す。

「英国政府発行の銃器携た」

「違います! 」

 涼子の一喝に、モヒカンがビクン! と揺れた。

 白く細い指の先、真珠のようにキラキラと輝く爪が、氏名欄の下、生年月日の記載された箇所を指していた。

「私の方が年上なんですっ! 」

「そこかよっ! 」

「そこが重要なのっ!」

「わ、判った! 」

 漸く納得して、涼子はハンマーをデコッキングし、セイフティをオンにしながら、ゆっくりと手を下ろした。

「判ればいいの。消えなさいな」

 見事な逃げっぷりで、すぐに人込みに紛れて見えなくなったチンピラ達の逃げた方向から、マヤの顔に視線を移す。

「大丈夫? マヤ」

 言ってからCzを握ったままだった事に気付き、涼子は慌てて両手を背中に回した。

「ま、まったく失礼よねー、大人をつかまえて妹とは、プンプンだわ! 」

 我乍ら芝居が下手だ、と思いつつチラ、とマヤを見た途端、彼女は体当たりのように抱きついてきた。

「お、お姉さま、ありがとう! 」

「あー、はいはい。恐かった? もう大丈夫よー」

 腰に両手を回しながら上目遣いで見上げたマヤの瞳には、しかし恐怖の翳は見えない。

「だけどお姉さま、かっこよかった! 素敵、惚れ直しちゃった」

 やはり興奮していたのだろう、顔に集まっていた熱と血が、嘘のようにスゥ、と退いていくのが判った。

「格好良く、なんてないのよ、マヤ? 」

 自分でも驚くほど、平坦な口調だった。

 実際、格好悪い、そう思った。

「私は銃を持っていない人間に、銃を持って立ち向かった。勝てて当然なの。だから、格好良くなんて、全然ないのよ」

「だけど」

 マヤの戸惑ったような表情を見て、涼子は口調を切り替える。

 これ以上、この、天使のように無垢で、だからこそ犯し難い力強さに溢れた少女を困らせてはいけない。

「さあ、嫌な事は忘れて、楽しみましょう! 」

 今度は自分からマヤの腕に、腕を絡める。

 足元に転がっている、食べかけの肉まんに、格好悪いなお前、と言われてるような気がした。


 4年前、国連本部のエントランスでの出来事が、まるで夢のように浮かんでは消える。

 涼子が何と言おうとも、あれから何年経とうとも、そして涼子が本当にあの日のことを忘れていたとしても。

 今夜の涼子も、変らず、マヤにとっては、マヤだけの騎士に違いなかった。

 だから、やっぱり涼子は格好良いのだ。

 そして、格好良くないと淋しげに首を横に振る涼子の潔さと優しさが、やはり格好良くて仕方ないのだ。

 中華街を歩きながら、そんなことをぼんやり考えていたマヤは、右腕に抵抗を感じて我に帰った。

 振り向くと、腕を絡めていた涼子が、空いた手でこめかみを押さえて、俯き、立ち竦んでいた。

「お姉さま? 」

 慌ててマヤは、涼子の顔を覗き込む。

「どうしたの? 大丈夫? 」

「大丈夫……。うん、ごめんね、マヤ、大丈夫」

 顔色は何処からどう見ても大丈夫には見えない。

「いいから、お姉さま」

 マヤは少し先に見えているオープンカフェ~実態は、飲茶屋台が数脚のテーブルと椅子を通りへ出しているだけだったが~に、涼子を引き摺る様にして連れ込み、椅子に座らせた。

 テーブルに両肘をついて頭を抱えたまま、涼子は呻くように声を出す。

「ご、ごめん……。ごめんなさいね」

 5分ほど、じっと塑像のようにして、苦痛に耐えていた様子だった涼子の蒼白の頬に、薄っすらと血の気が戻り始めて、マヤは、恐る恐る声を掛けた。

「お姉さま? 」

 こっくりと頷いて、ゆっくり顔を上げた涼子の白い額には、玉のような汗が光っている。

「ほんと、ごめんなさいね、マヤ。急に頭痛がしたもんだから」

 涼子は弱々しく微笑むと、通り掛かった店員に中国語でなにやらオーダーすると、ハンカチで額を拭いながら、掠れた声で言った。

「でも、もう大丈夫。落ち着いたから。ほんと、気にしないで」

 そう言われて素直に頷けないほど、涼子は憔悴しているように見えた。

 店員が持ってきた色の濃いお茶~後で聞いた、ウーロン茶という中国のお茶らしい~で懐から出した鎮痛剤を流し込んでいる姿が痛々しい。

「お姉さま、……疲れてらっしゃるのよ、きっと。相変わらずお忙しいんでしょう? 少しは、自分の健康を考えないと」

 涼子にお姉さまぶることが出来るのが、少し新鮮に思えた。

「そうね、ありがとう。もう歳だし、ね」

「歳なんて、そんな……」

 いったいこの美しい女性は、どれだけ自分の事を判っていないのかしらと呆れた想いに捉われた刹那、マヤは閃いた。

「そうだわ! お姉さま、一度休暇を取って、イブーキにバカンスに来られたらどうかしら? まあ、なんにもない田舎だけど、それだけに癒し効果は保証するわ。ネルフシュタインでのんびり過ごせば、リフレッシュ出来ると思うんだけど」

 マヤの言葉の途中で、涼子の表情がゆっくりと綻んでいくのが嬉しかった。

 どうやら本当に、頭痛は落ち着いたようだ。

 涼子は瞳を弓のように細めて、やがて瞼を閉じて静かに言葉を零した。

「そうね。のんびり、か……。ほんとに考えてみようかしら」

 優しげなその表情は、まるで一幅の名画のように心が洗われる。

 だが、マヤの心には、小さな棘が刺さっているような違和感が残る。

 涼子がネルフシュタインを訪れてくれたら、それは確かに素敵な事だ。

 だけど。

 その時、隣にいるのは、誰?

 写真の、あのひと?

 ヒースローで貴女を抱き上げた、あの殿方?

 もしもそうなら、私は一体、どうすれば良いのだろう?

「よし! マヤ、行こうか? 」

 涼子の声に、マヤは知らずに閉じていた瞼を開く。

「大丈夫? もう少し休んだ方が」

 顔を上げたマヤに、涼子は見事なほどに明るい笑顔とウインクを送り、答えた。

「大丈夫よ! それに、時間が勿体無いじゃない、ね? 『お楽しみはこれからだ! 』ですもんね! 」

 本当にこの女性は。

 マヤは心からの笑顔を浮かべて立ち上がった。

「うん、ほんと、そうよね! 『お楽しみはこれからだ! 』ですものね! 」

 差し出された腕に、マヤは己の腕を絡める。

 そうだ、自分はさっき開き直ったのではなかったか。

 刹那主義だと、笑う者は笑え。

 今、煌くようなこの瞬間が、私には何物にも換え難い宝石なのだ。


 中華街の中心部にある仏教寺院が見え始めた頃、涼子は先刻の頭痛も忘れるほどに気分も良くなり、マヤとの会話も弾んでいた。

「あははは! お姉さまったら可笑しい! 」

「本当だってば !その娘が言うの。『うそよ、トナカイって想像上の動物じゃないの? 』って」

「あははははは! その人可愛い! 」

「え、そりゃ確かに可愛いけれど、やっぱり限度ってものがあるじゃない、ねえ? 」

 会話の内容はくだらない世間話や噂話の類である。

 が、マヤのテンションは、天井知らずに上がり続けているように涼子には思えた。

 彼女の囲まれている環境に対して、ほんの少し想像力を働かせるだけで、簡単に判る。

 大勢の侍従や侍女に傅かれていても、自由気儘な馬鹿話、人目を気にせず声を上げて笑う事さえ、日に何度もないのだろう。

 だから、こんな時間はマヤにとっては貴重な時間には違いない。

 けれど。

”そろそろ、締めないと”

 涼子は、引き摺られて緩みかけている己にも気持ちの引き締めを強いる。

 ここは、マヤにとっては『アウェー』なのだ。

 確かにUNDASN側、イブーキ側、双方のSPが十重二十重に囲んで守ってくれてはいる。

 しかし、それこそ刹那主義に溺れて緩めっ放しでは、無責任に過ぎるというものだろう。

 そう思った刹那。

 マヤが明るい声を上げた。

「あっ、ほら! お姉さま、あそこにチャイニーズ・テンプルがあるわ、行ってみましょう! 」

「あ、ほらマヤ、危ない! 」

 腕をほどいて駆け出すマヤを、涼子が声をかけて追いかけようとした瞬間、何者かが目の前に立ちはだかった。

「え? 」

 見上げると、上品な仕立てのスーツを着こなした、30半ばに見えるなかなかの男前が涼子をみつめて微笑んでいた。

 身長180cm以上はあるその男の肩越しに、マヤが駆けて行く姿が見える。

「あの、ちょっと、すいません」

 涼子が呟いて男の脇をすり抜けようとすると、男も涼子の進行方向に身体をずらす。

「えと」

「美しいお嬢さん、こんばんは」

 ナンパだ、とすぐに判った。

 さっきのチンピラと違い、危険度は低い。

 だが、一人先を駆けるマヤのリスクはぐっと上がったことになる。

「あ、あの、すいません。急いでるんですけど」

 男は涼子の言葉にも全く動ぜず、微笑みを絶やさない。

「ああ、さっき駆けて行ったご友人……、ああ、お姉さまですね。姉思いの優しい妹さんだ。しかし、お姉さんももう子供ではないでしょう? 暫くの間は、この私とお付き合い願えませんか? 」

 言葉使いは丁寧だが、絶対狙った獲物は放さない、といった雰囲気が漂っている。

”ど、どうしよう”

 自分を妹と決め付けるその態度は腹立たしいが、しかしだからと言って、先程とは違い銃を抜くわけにはいかない。

 と、その時、一組のカップルが涼子達の脇を足早に通り抜けていった。

 女性の方が目立たないようサッと手を上げて、涼子に合図を送ってくる。

 どちらも顔見知り、警務部のSPだった。

 涼子が足止めを食ったのを知って、マヤをカバーする為に追い越したのだ。

 涼子はホッと肩の力を抜く。

 取り敢えず、マヤの安全は確保されそうだと判った途端、急に余裕が出来た。

「たいへん有難いんですけど、あの、私……、彼女の姉なんです」

 途端に男の目が見開かれる。

 マヤの駆けて行った方を慌てて振り向き、そしてまた涼子に視線を戻して、涼子の顔を穴が開くほど見つめる。

「あ、は、はは……。そ、そうでしたか……。えと、失礼ですけれどお嬢さん、おいくつです? 」

 男の笑い声が妙に虚ろだ。

 それを聞いて涼子もやっと、笑顔を浮かべる事ができた。

 怒ってはいたけれど。

「まあ! レディに年齢を聞くなんて失礼ではなくて? 貴方こそ、お幾つ? 」

「わ、私ですか? ……今年26才ですが」

 涼子は、何故か優越感が湧いてきて、胸を張った。

「私、もうすぐ31才」

 言ってから、勝ち誇った自分が馬鹿みたいに思えた。

「さ……、さんじゅーいちっ? 」

 大声で叫ばれては、流石の涼子も恥ずかしいやら腹立たしいやら、通行人も驚いて2人を見ている。

「や、やだ、もうっ! 」

 いたたまれず涼子は駆け出した。

 後を追ってくる気配のないナンパ男に、また、腹が立った。


 涼子が中国寺院の門の階段を駆け上がると、独特の香りがする線香の煙の向こう、極彩色の柱に凭れてマヤが立っている。

 数メートル離れて、さっきのUNDASNのSPカップルや、どうみても刑事にしか見えない、多分イブーキ王国側のSPが数名、きっちりとマヤをカバーしていた。

「あ、お姉さま! 」

 マヤの声を聞いた途端、涼子は安堵と腹立ちが同時に湧き上がり、厳しい口調で叱りつけてしまった。

「お姉さま、じゃない! マヤ! なんで勝手するの! どんなに心配したと思ってるの! 」

 マヤは一瞬呆然と涼子を見た後、直ぐに涼子が何故怒っているのかを感じ取った様だ。

 見る見る大きな瞳を潤ませ始める。

「あ、あの、私……。ご、ごめんなさい……」

 仕事でもこんな風に怒鳴った事などないし、それにマヤだって他人から怒鳴られた経験などきっと皆無だろう。

 ちょっと拙いかな、とチラリと思ったが、ええいかまうもんかと開き直った。

「もう、今夜は終わり、帰ります! 」

 クルッと踵を返した途端、涼子はマヤに背中からしがみつかれた。

「ああっ、ごめんなさい、ごめんなさい! もう、勝手な事しませんから、涼子様、お願い! 」

 暫く無視してやろうかしら、と思って振り向きもせずに無言のままいると、マヤの泣き声はますます大きくなってくる。さすがの涼子も閉口してしまった。

「判った、判りましたっ! 判ったからもう泣かないで、マヤ」

 マヤの泣き声がピタッととまる。

「ほんと? もう、帰るなんて、言わない? 」

「はいはい、マヤが勝手しないって約束したら、今回は許して上げます」

「約束する! 絶対、勝手しない! 」

 子供のようなマヤの答えに涼子は負けて、苦笑を浮かべ振り向いてやった。

「じゃあ、もう泣き止んで、ほら、お立ちなさい」

 涼子に優しく髪を撫でられて、マヤは子供の様に何度も首を縦に振る。

「ごめんなさいね、いきなり怒鳴って。でもね、マヤ。貴女は私にとってはかけがえのない大切な妹なのよ? だから、あんまり心配させないで」

 マヤは無言のまま、いっそう強くしがみつき、涼子の胸に顔を埋める。

「さあ、可愛いマヤ。機嫌を直して、あぁ、丁度いいわね、このお寺にお参りしていきましょう」

 こくこくと頷くマヤの背中を撫で擦ってやりながら、涼子は、ふと思った。

 さっき、銃を抜いたのも、こんな可愛い妹を守る為だったのなら、案外、格好悪くはないのかも知れない、と。

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