第89話 14-4.


 グロブナーハウスから少し歩いたブロックの交差点にある階段を、涼子はマヤの手を引いて地下に降り、チューブと呼ばれるロンドン地下鉄に乗る。セントラル・ラインのマーブル・アーチ駅だ。

 ホテルの向かい側がハイドパークということもあり、夜間に地上を歩く人々はまばらだったが、ホームに滑り込んできた列車は意外と乗車率が高く、涼子とマヤは並んでドア付近のポールに掴まって立つことになった。

 涼子がさっと周囲に視線を配ると、後から付いてきていたUNDASNとイブーキのSP達約20名は半数が同じ車両に乗り、残りは前後の車両に乗った様子だ。涼子達と同じドアから乗り込んだ6名は、さりげなく涼子達を囲むようにして吊革に掴った。コリンズや副官達は隣の車両らしい。

 続いて、乗客達に視線を向ける。

 幸い、イブーキ王国次期元首マヤ殿下とは気づかれてはいない様子で、乗客達はそれぞれ連れ合いと歓談したり読書したりうつらうつらと舟を漕いでいたりと、二人に注意を向ける者はいなかった。

 涼子は安心して、珍しそうに通路天井のディスプレイに映るCMを見上げていたマヤに話しかけた。

「さて、殿下。ピカデリーサーカスは二つ目の駅ですから、暫くのご辛抱ですわよ」

 マヤはにこりと奇麗な笑顔で頷いたが、すぐに笑みを消し去り、言い難そうに口を数度開閉させた後、そっと耳元に顔を寄せてきた。

「あの、涼子様? ……よろしければ、今宵だけでも、殿下って呼ばないで頂けませんか? 」

 そこまで言うと、突然マヤは瞳を輝かせて言葉を継いだ。

「そうだ! 私達は、今夜は姉妹! 涼子様、私は涼子様を”お姉さま”って呼びます。だから、涼子様も私を妹だと思って、”マヤ”って呼び捨てにして? 」

 ね? いいでしょう? と上目遣いで小首を傾げるマヤの姿は、同性ながら思わずクラ、と来てしまう程、あまりに可憐で。

 あぁこれは勝てないわね、と涼子は思いながらも、取り敢えず一旦は辞去して見せた。

「ですけれど、それでは余りに失礼な」

 急に肩を落とし、目を伏せたマヤを見て、思わず涼子は、慌ててマヤの肩を叩く。

「ああぁあ、わ、判りまし……、いえ、判ったわ、マヤ! 今夜は私達は姉妹。ね? それでいいのよね、マヤ? 」

 再びマヤが瞳を煌かせて涼子をみつめる。

「ありがとう、お姉さま! 」

 思わず、さっきの表情は演技だったのかと疑ってしまうほどに、それは見事な復活リブートだった。

「ねえ、お姉さま、腕、組んでも良い? 」

 それは最早違う姉妹なのでは、と涼子はさっきとは別の意味で眩暈を感じてしまうが、何とか立ち直る。

 どうやら、今夜は開き直るしかなさそうだ。

 色々な意味で。

「え、ええ、いいわよマヤ。ほんっとに甘えん坊ね、マヤは」

 確かに、どちらが姉に見えるかは別として、二人とも黒髪で東洋人の姉妹と名乗っても問題はないように思えた。

 マヤが腕を絡めた瞬間、周囲から~乗客ではない、SP達からだ~瞬間的に集まった殺気のようなものは、気のせいだということにする。

 その時、電車が揺れた。

 大した揺れではなかったが、少しふらついたマヤの身体が、涼子の腰にこつんと軽く当たった。

「あら、大丈夫、マヤ? 」

「うん……。お姉さま、これ、なあに? 」

 マヤの手が腰に触れたのを見て、涼子はにこりと微笑んだ。

「え? ……ああ、これね? 」

 涼子はマヤにくるっと背を向けて、ペロッとジャケットの裾を捲くり上げてお尻を突き出して見せた。

 少し失礼だけれど、姉妹だもの、いいよね。

「お、お姉さま、銃? 」

 刹那、車両内の空気が一気に10度ほど、冷えたような気がした。

 涼子は慌ててジャケットを下ろし、マヤに向き直ってエヘヘと笑って見せる。

 が、時既に遅し。

 やってしまったものは仕方ない。

「殿下……、じゃなかった、マヤをしっかり守らないと、と思ったの」

 最初は乗客同様退いてしまった様子のマヤだったが~それでも腕は離さなかった~、涼子の言葉が終らぬうちに一層強く腕にしがみついてきた。

「ん? どしたの、マヤ」

 涼子の問いかけに、マヤは微笑んで無言で首を横に振り瞼を閉じる。

 やっぱりシャバの人間には銃なんて恐いわよね、と涼子は短く反省を済ませた途端、頭の隅に鈍痛を覚える。

『マヤをしっかり守らないと』

 自分がついさっき口走った言葉が、棘となって頭に刺さっている気がした。

 デジャヴだろう。

 昔、これと似たような台詞を、誰かに、いや、マヤに言った覚えが、不意に胸の内に湧き上がってきたのだ。

 錯覚に違いない、と自分で否定する。

 何せ、マヤとの接触は、4年前の国連本部で公務で挨拶を交わし、その後空白期間を挟んでつい先日再会~と言っても自分は4年前の接触すら忘れていたのだ~した、その程度である、たぶん。

 それとも、やっぱり別の誰かとの会話だったろうか。

 それにしたって、自分が、他の誰かにそんな言葉を投げるシチュエーションなんて、あっただろうか?

 車窓に映る自分の眉根に皺が寄っているのに気付き、涼子は我に帰って慌てて口を開いた。

「あ、次の駅、ピカデリーサーカスね。エロス像のところに流しの記念写真屋がいるから、記念写真撮ってもらいましょう。その後、中華街をブラブラして、レスタースクウェアに来てる筈の移動遊園地で遊ぼうか? 」

 表情の切替には成功したようだった。マヤはほっとしたように笑顔を浮かべた。

「お姉さま、随分ロンドンに詳しいのね」

 涼子はウフフと微笑む。

「これでも私、国際部欧州室1課、英国担当よ? ロンドンなんてもう、100回くらい来てるもの」

 マヤは上目遣いで涼子を見上げる。

「ふーん……。100回も? それってお姉さま、まさかデートでじゃないでしょうねぇ? お姉さま、モテそうだから」

「やだもう、マヤったら。そんな訳ないじゃない、仕事よ、仕事! 」

 ふと、小野寺の顔を思い出した。

 今日までは、確かにこの街は『仕事』の思い出しかなかった。

 でも、今、この瞬間からは違うのだ。

 そう考えると、ロンドンの冬も少しだけ暖かいように思えた。

 ドアが開くと、チューブの各駅ではお馴染みのクラシック音楽が流れてきた。いつも聞き流す音楽が、今日は何故だか、心に沁みるような気がした。


 地上に出るとまさにお祭り騒ぎ。ここは、本当にグロブナー付近と同じ都市か、と疑いたくなる程、大勢の人出で賑わっていた。

 ギリシャ神話の英雄エロスの像が建つ広場を中心に、主に日本企業のネオンサインが普段でも賑やかなこの辺り、今夜は露店やイベントの照明が加わり、真昼のような明るさだった。

 マヤは思わず、大声をあげてしまった。

「うわーっ! 凄く賑やかね、お姉さま」

「あっちがロンドン・パビリオン、そっちがクライテリオン・シアターよ」

「ライトアップされてる! 写真でしか見たことなかったけれど、実物はイメージが違うのね」

「新国王即位で、さすがにこの辺りはお祭りムード一色ね。まあ、ここは観光客やロンドンっ子達の待ち合わせのメッカだから、普段から人が多いんだけど、今日はやっぱり特別ね」

 来慣れていると言っていた涼子も、驚いている様子だ。

「あ、ほらマヤ、記念写真撮ろう! 」

「あ、あ、あ、あ、お姉さま、待って! 」

 腕を引っ張られながら、マヤは『あったかも知れない未来』に想いを馳せる。

 本当に涼子が姉だったら、きっと、宮殿内での暮らしは、もっと楽しい日々になっていたかも知れない。

 ああ、いや、駄目よ、駄目。

 本当に涼子が姉だったら、それは確かに楽しかったかも知れない。

 けれど、それでは意味がない。

 だって、涼子は他人だから良いのじゃないか。

 他人だからこそ、私は涼子に”恋”できるんじゃないか。

「おっちゃん、撮って! 1ショットいくら? 」

 先程まで、マヤには流暢にドイツ語を喋っていた涼子は、写真屋のオヤジに見事なコクニィで話しかけた。

「あいよ、1枚100ユーロだ、お嬢さん」

「じゃあ、2枚焼いて100ユーロね! 」

 早速値切りにかかる涼子の姿に、マヤはニューヨーク留学中、一緒に買い物に出た学友達が気軽に行っていた値切り交渉を思い出した。

 ああ、もしも、4年前。

 涼子が転属にならなければ。

 あの、ビッグアップル・シティで、こんな風にショッピングを楽しんだ、煌めくような思い出を持てたかもしれない。

 けれど、ともマヤは思う。

 それならば、今日、この日は、あっただろうか?

 これほどに、涼子は自分の宝物になっただろうか?

 詮無い想像には違いない。

 今は、この瞬間だけを楽しめば良いのだろう。

 それは、判っている。

 判っては、いるのだ。

 判ってはいるのだけれど、それじゃあ、今この瞬間を思い切り楽しんで、その先は? 

 自分は、自分と涼子は、どうなる?

 サザンプトンで、優しく自分を抱き締めてくれた須崎と名乗る美しい大佐の囁きが、哀しげな、切なげな言葉が、想いが、胸に刺さる。

「ダメダメ! 貧乏写真屋相手に、そんな酷い事するもんじゃねえよ、お嬢さん」

 写真屋の驚いたような大声に、マヤは我に返った。

「いいじゃない、今日は稼ぎ放題なんでしょ? それにほら、おっちゃん。こんな別嬪二人を撮れるなんて、滅多にないわよ? こりゃラッキーってものよ! 」

 マヤは横で聞いていて恥ずかしくなるような事を、涼子は平気で言っている。

「180だ! 」

「じゃあ120! 」

 写真屋は涼子とマヤを交互に値踏みする様に見て、ニヤッと笑って言った。

「しゃあねえなあ。じゃあ、120ユーロ! その代わり、お届けはしねえから、受け取りに来てくれよ」

「どれ位で出来るの? 」

「1時間かな」

「じゃあ、特急で30分! オーケー? 」

 オヤジはやれやれとでも言いたげに、苦笑を浮かべて肩を竦めて見せた。

「やったね! 」

 ニコリと笑ってウィンクして見せた涼子の表情に、マヤは、想う。

 楽しい。

 私、楽しんでる。

 だから。

 開き直りかもしれない、刹那主義かもしれないけれど。

 ここは、やっぱり。

 この瞬間を、楽しむべきなのだ。


 写真を撮り終えて、歩き出した涼子に、マヤは声を掛けた。

「すごい、お姉さま。値切るって、あんな風にするんだ。勉強になったわ」

 涼子は少し慌てたように、振り返って両手を顔の前でばたばたと回す。

「あー、駄目よ、駄目。マヤは本物のお姫様なんだから、私みたいな見っとも無い真似しちゃ駄目」

「はーい。……それで、こらからどうするの? 」

 涼子も再び笑顔を浮かべ、前方を指差した。

「そうね、ホラ、あそこ、『Mitsukoshi』って看板、あるでしょ? あの辺りから色々露店が出てるから冷やかしに行きましょ」

 色とりどりのテントが軒を重ね、その間を電纜が走り、雑多な人種、老若男女で大混雑の道路は、まるで真昼のようだ。

 マヤには、擦れ違う人々、皆が皆、笑顔を浮かべている様子を見て、きっと自分も同じように笑っているのだろうと思う。

 涼子様はどうだろうと、腕を組むその少し上を見ると、涼子の笑顔はたぶん、このピカデリーサーカスに集まっている何千何万の笑顔の中でも、間違いなく一等賞の笑顔に見えた。

「日本の縁日と言うよりは、陶器露店、って感じね。そう言えば、私の故郷にも、陶器祭ってあったな」

 別にリアクションを期待している風でもなく、涼子はそれでも上機嫌に喋っている。

 聞いているだけで、昔母から断片的に聞いた母の故郷、日本の風景が脳裏に広がり、そこで腕を組んで歩く自分と涼子がいた。

 恥ずかしい想像を振り払い、マヤは涼子と同じ方向に視線を向ける。

 『掘り出し物』と書かれた、そうは見えない中国陶磁器、20世紀後半に流行った流行のデザインの食器セットなど、安いものは”一山幾ら”、高いものになると『嘘! 』と叫びたくなるほどの、幅広い価格帯の商品が、どの店先にも山と積まれている。

「うわ、凄い! ほら、お姉さま、このオールドノリタケ、恐らく本物よ」

 シンプルなデザインだが、上品で、しかも使い易そうなティ・セットだ。

「へえ。オールド……、ヌリカベ? 」

 冗談かと思って涼子を見ると、困ったような笑顔を浮かべていた。

「ノリタケ、よ」

「ノリタケ。……つまり、お爺ちゃんの方のノリタケさんが作ったのね? 」

 今度はマヤが困った笑顔を浮かべる番だった。

「お爺ちゃん……、なのかな? 」

「ひいおじいちゃんかしら? 」

 二人して、暫くは小首を傾げって合っていたが、マヤの脳裏にアイディアが閃いた。

「お姉さま。これ、お揃いで買いましょうよ! 」

 今度こそ涼子は、美しい眉をハの字にした。

「あー……、ごめんなさい、マヤ。私、こんな職業でこんな生活だから、ワレモノは出来るだけ持たないようにしてるのよ」

 思わずマヤは口を噤む。

 すぐに脳裏に浮かんだのは、ニューヨークで一度だけ訪れた、涼子のアパート。

 そう言えば、確かに涼子の部屋は、本当に『ひとが暮らして』いるとは思えない程、がらんとしていた。

 可愛い服を着て、美しい笑顔が眩しいこの女性には、もうひとつの顔がある。

 地球上で暮らす人々が、暖かな空気の詰まった、様々な思い出に彩られたあれこれに囲まれた『暮らし』を楽しんでいると言うのに、この、誰よりも美しく優しく、そして儚げな女性は、それを守る為に、自分はたった数葉の写真だけを抱き締めて、アラスカの大雪原よりも寒々しく、空虚な空間で一人、『生きて』いた。

 そう、それはけっして『暮らす』にはなり得ないような『生を生きている』だけなのだ。

 思わず俯き、涙を堪えていると、涼子の慌てたような声が降って来た。

「あ、そうだ! ……ほら、マヤ? あそこにアクセサリーのお店が出てるでしょう? あそこで、可愛いの、お揃いで買いましょう」

 自分に腹を立てる。

 涼子に、こんな気を遣わせてしまう自分に、無性に腹が立つ。

 それでも、今は、涼子の折角の心遣いを無駄にしてはいけない。

 そう考えて、なんとか笑顔を浮かべ、マヤは頷いて見せた。

「うん、お姉さま。素敵なアイディアだわ、行きましょ! 」

 涼子の手を取って明るいテントに近付きながら、マヤは、ふと考えた。

 私は、この女性を、本当に幸せにできるのだろうか。

 お揃いのデザイン・リングを購入し、丁度時間だわと涼子に連れられてエロス像に戻って写真を受け取った。

 早速二人、出来上がった写真を覗き込み、マヤは思わず微笑んだ。

 マヤの腕に両手を絡めて、ぶら下がるような姿勢で、向日葵のような温かな笑顔を浮かべる涼子、その隣で頬を赤く染めながら小さくピースサインを出している、我が事ながら見慣れぬ幼い笑顔の、自分。

「あら、マヤ、可愛い」

 そう言って目を弓のように細める涼子の顔を見ているうちに、さっき感じた不安は、消えはしなかったけれど、確実に小さくなっていくのが感じられたから。

 こうして四つ切りの紙にプリントされた二人の姿が、どれだけ寒々しい部屋の中だろうと、これからの涼子の『暮らし』に一欠片の温もりを与える事が出来るのだから。

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