第88話 14-3.


 背中やお腹の辺りが破れて裾や袖も貧乏臭く解れた、ボロボロの無印良品製マルーンカラーのトレーナー、それに購入後10年の経年劣化を順当に辿ってきたLeeのストレートジーンズは、天然のクラッシュ・ジーンズだ。

 それらを上回る購入後12年を経過した、コンバースの~買った時は~白いハイカットバッシュ、こちらはオーナーの趣味で靴紐だけは蛍光グリーンが鮮やかで、それが靴の汚さを余計に目立たせる。

 そしてこれだけは穴の開いていない、寒い冬のロンドン対策の切り札、遠赤の白いハイソックスと、翔鶴艦長時代から愛用の黒いオフィサー・ジャンパー~何せ宇宙の最前線での実用モノだ、保温断熱防破片防刃仕様、本気のミリタリ・スペック製品だもの~、裏地は勿論エマージェンシー・オレンジ。

 大きなボストンバッグに入っているカジュアルは、数枚のヒートテック仕様のTシャツとキャミソール、軍支給の保温防水仕様のストッキングに、UNDASN女性将兵御用達(人気はないけれど)の黒とグレーのソルジャーブラにスパッツ、これだけ~二組だけ持って来た、何の愛想もない白の上下セットの下着は、零種軍装用としてとっておきだ~。

「あー、しもたなぁ。こないな事になるんやったら、もうちょいマシな私服、詰めとくんやった」

 涼子は、ドレスブルーのままカーペットに直接おばあちゃん座りでへたり込み、天井を仰いで、生まれ故郷の関西弁を口に上した。

 関西弁は、長い一人暮らしの中で沁みついた独り言のスタンダード、涼子にとっては自然な言葉デフォルトだ。

”そう言えば、艦長”

 彼も関西出身の筈だが、ついぞこれまで彼の御国訛りを聞いた事がない。

 思えば彼の無愛想な表情と、関西弁は対極にありそうに思えて、涼子はクスッと笑ってしまった。

「……笑うてる場合やないわ」

 涼子は再び困惑の表情を浮かべて、ボストンバッグを見下ろした。

「いくらなんでも、こらマヤ殿下の前どころか、グロブナーハウスのロビーすら入れて貰えれへん」

 創業から600年、終始一貫五つ星の正真正銘の超高級ホテルだ。下手をすると真夏のクールビズ期間でもネクタイ、ブレザー着用を求められそうである。

 涼子はドレスブルーの内ポケットから財布を引っ張り出し、中身を確認する。

「現金、少な……。頼りはこれだけ、か」

 公務員とは言え、誰もが憧れる花形職業、UNDASNの高級兵科将校だから、カードは取り敢えずアメックス・プラチナ・カードである~将官に昇るとブラックカードに自動的に引き上げられる~。

 但し、残高はカードの格には見合っていない。

「屋台中心のショッピングになりそうやから、カードはNG。キャッシュおろしとかなあかんなぁ」

 来月のホワイトデーのお返しギフトもあるし、と再び盛大に溜息を零し、涼子は立ち上がってのろのろと着替え始めた。

「うーん……。化粧は面倒やしもうええわっ! 」

 ヒップアップ・ホルスターを腰に装着、Czをガポッと挿して~予備弾倉は今夜は不要だろう、1個小隊ほども警護がいるんだから~、翔鶴ジャンパーを羽織り、ポケットに携帯端末を捻じ込みながらふと、思い付いた。

 今日は、超VIPとの『会談』だ。

 少しでもリスクを減らす為には、自分がUNDASNの石動涼子であることを、眩ますことも必要だろう。

 ささっ、と慣れた手つきでブラシを操り、伸びた髪で漸く最近出来るようになったポニーテールにまとめる。ちょっと、短め、チョンマゲみたいで可愛いと思っている。

 リボンはないから、髪ゴムの上からレースのハンカチをくるくると巻き付けて、尻ポケットに財布を捻じ込み部屋を出た。

 お出迎えは、オフィスからここまで護衛エスコートして来てくれた、警務部の若い女性SP二人の黄色い歓声だった。

「きゃー! 素敵っ! 」

「室長代行、可愛い! 制服姿しか見た事なかったけど、カジュアルもキュート! 」

「ポニーテールがもう凶悪なくらい似合ってます! 」

「ほんと、唯でさえ二十代にしか見えないのに、こんな格好したら、もう誰が見たって高校生だわっ! 」

「少年課の刑事に補導されますよ! 」

「こらこら、そこの高校生! 今日は平日だろう、学校はどーした、なーんてね! 」

「反則ギリギリだわ」

「いーえ、反則です! それ以前に、遵法コンプライアンス精神が皆無です! 」

 際限なく続く二人の賛辞に、涼子の胸の内は大惨事になりつつあった。


 マヤ殿下の御前云々のその前に、いくらなんでもこの格好じゃ五つ星超高級ホテルのロビーに入れないと涼子は、SP二人を連れてホテル内にあるショッピングモールへ足を運んだ。

「あらら」

 シャッターは軒並み下りていて、廊下は薄暗い。

「閉店しちゃってるね」

「仕方ありませんよ、室長代行。昨日から即位記念週間ですもん」

「クリスマスやニューイヤーには地下鉄が止まるお国柄ですからねえ」

 SP二人も途方に暮れた様子だったが、一人がツツと小走りに前に出た。

「どうしたの? 」

 涼子の問い掛けに、彼女は大きな声を上げて前方を指差し、振り向いた。

「室長代行、あそこ、開いてる! なんか、ヤングカジュアル向けのブティックっぽいですよ! 」

 確かに廊下の一番奥の店は、シャッターも開いていて、ショー・ウィンドウには灯りも入っている。

 が、ヤング・カジュアルの一言が涼子の脚を止めた。

 反射的に、左腕のオメガ・スピードマスターに目を落とす。

”でも、時間がない”

 選択肢も他にない。

 覚悟を決めて涼子は頷いた。

「私、行ってくる。悪いけど貴女達、ここで待ってて」

 二人の抗議の声を心を鬼にして無視し、涼子は店の扉を押した。

 カウベル風のドアベルの音が、妙に心に響いた。


 30分後、店を出た涼子を出迎えたのは、さっき以上のSP達の黄色い歓声だった。

「か、可愛い! 室長代行……、いいえ、涼子様と呼ばせてください! 」

「素敵、素敵過ぎます! 凶悪、いや凶暴っす! 殺す気マンマンですねっ? 」

 涼子は、思わず顔を真っ赤にして俯いてしまう。

”そりゃ、可愛いよね。……服は”

 ふかふかのカシミアのセーターは、裾から襟へ、深い藍色から淡いパープルへと美しいグラデーションを描いている。

 スカートは、優しいスカーレットの生地にスタンダードな黒と深緑のタータンチェックがシックな膝丈巻きスカート、袷を止めている大きな金色のピンの端、ちょこんととまっているてんとう虫が可愛くて、密かにお気に入りだ。

 黒い厚手のタイツに明るいブラウンのハーフ・ブーツは、革が柔らかくて履き心地が優しい。

 ポシェットにはキルトで出来た大きな向日葵が一輪咲いていて~中身は携帯端末にハンカチとサイフを詰め込んだらもう、パンパンだったが~、それを肩から斜に掛けて前に垂らす。

 チャコール・グレーのダブルのジャケットは丈が長め。

 防寒着は、オーソドックスだけど手触りの優しいウール100%のブラウンのダッフルコート。

 お蔭で、腰に装着したヒップアップ・ホルスターも、Czのコンシールド能力の高さと相俟って、殆ど目立たない。

 両手で持っている、それまで着ていた服やら靴やらを入れた紙袋はご愛嬌だったが、それも彼女SP達に引っ手繰られた。

 店内に入った途端、自分のテリトリー外であることを瞬時に悟った涼子が、思考停止の末選択権を放棄して運命のダイスをマヌカンに預けた結果が、これだ。

 コーディネートのコンセプトは『ちょっぴり背伸びしたいハイティーンが、春を目前に”オトナ可愛いOL”を気取ってみたカンジ? 』なんですよとマヌカンがドヤ顔で説明するのを聞いて、本気で腰が抜けそうになったことは、永遠の秘密。

 涼子は唯ひたすら、SP達の黄色い歓声を遣り過ごす為、顔を伏せ続けた。


 欧州室に配置されてから、会談や外交儀礼で何度かグロブナー・ハウスを訪れたことがある。

 その時と較べて今夜は何故か、座り心地の良い筈のロビーのソファが、落ち着かなく思われた。

 ロビーをそっと見回して、漸くその原因に気付いた。

 伝統と格式で三昼夜ほど煮込んだようなホテルマンに代表される、シックなロビーの雰囲気と、今の涼子のファッションが微妙にアンバランスなのだ。

”以前ここを訪れた時は、ドレス・ブルーだったもんなぁ”

 考えてみれば、制服と言うのは冠婚葬祭とシチュエーションを選ばず臨場オン・ステージ可能な、魔法のアイテムだなぁ、としみじみ思う。軍服に限らず、学生時代のセーラー服だって思い返せばそうだった。

 吐息を零しながら、ロビーの隅に鎮座している、それこそ創業以来そこにあって時を刻み続けているかのような大きな黒光りする振り子式の柱時計を見上げると、約束の時間にはまだ15分ある。

 まぁ、警備の警察官はともかくとして、ドアボーイやベルデスクも入場を止めなかったのだから、ドレスコードには抵触していないのだろうけれど。

 やっぱり若作り過ぎたのかな、と憂鬱の吐息を吐きつつ、そっとロビーでたむろする人々に目をやる。

「あ」

 数メートル離れたソファで、涼子は知った顔をみつけた。

 新聞で顔を隠しているが、あれはコリンズだ。

 その隣で立ち上がって黒い瞳をキラキラと煌かせている、ピンクのワンピースをお洒落に纏ったブルネットの女性は銀環で、その口を抑えて苦笑を浮かべている中腰の、光沢のある紺色のドレスブラウスにシックなグレーのツーピースがキマッているキャリアウーマン風のブロンドはリザ、そして彼女の口を押さえているゴツい手は、新聞の影から伸びている。

 なにやってんのかしらあの三人コントのつもりかしら、と涼子は一気に緊張感が緩み、苦笑を浮かべて手を小さく振ってやると、ブルネットとブロンドの頬が朱に染まった。

 肩から力が抜けて視界が広がると、その周囲にも見知った顔のダークスーツの男女が全部で12人。

 全員警務部のSP達で、それぞれがそれぞれの遣り方で、笑顔を苦労して抑えているように思えた。

 いい仲間だなぁ、としみじみ思う。

 私がどんな可笑しな格好でいても、ちゃんと石動涼子という一個人だけをみつめて、温かく微笑んでくれているのだと思うと、思わず瞳が潤んできた。

 だとしたら。

 ここまで送ってくれたSP達の誉め殺し攻撃も、恥ずかしがってばかりいないで、ちゃんと受け止めれば良かったのかも知れない。

 涼子は、とす、とソファの背凭れに身を預けて、考えた。

 いつか、この服で、艦長とデートしたいな。

 可愛いと誉めてくれれば、嬉しい。

 だけど。

 素直に誉めてくれそうには、思えなかった。


 マヤは、散々着ていく服装に迷った挙句、一番動きやすくてしかも、普段涼子に見て貰えないような衣装を着て行く事にした。

 即ち、一昨日涼子をヒースローで『出迎え』る為に、ホテルを脱出した時の、ハイネックセーターにジーパン、スニーカー、上には革ジャケットを羽織る。

 但し、一昨日とは違って、黒のセーターと明るいブラウンの革ジャケットに合わせて、紅色のモヘアのマフラー、その他、イヤリング、ネックレスやらブレスレットやらと、そこはきっちりとオシャレなアクセサリー類も装備した。

「姫、石動殿をお待たせするとは感心いたしませんな」

 部屋から出てきたマヤを見て、侍従長がポケットから取り出した懐中時計の盤面を指差しながら声をかけてきた。

「ほんと! もうこんな時間! ……じゃあ、じい、行って来ます! 」

 侍従長は、今回はマヤに護衛をつけている他、UNDASN側からも予定の倍、12名SPをつけるとコリンズ二佐と名乗る警備責任者から連絡を貰っているせいもあるのだろう、随分とご機嫌だ。

「それでは姫、お気をつけていってらっしゃいませ。……何卒、石動殿にもよしなに」

「じいは、ロビーへ出て、涼子様にご挨拶しなくてもいいの? 」

 少し悪戯心を起こして訊ねたマヤに、侍従長は余裕の微笑みを浮かべて首を横に振った。

「はっはっはっ。姫もお人が悪うございますな。……この歳になると、美しい野バラは摘まずに眺めるのが一番と、思える様になるものです」

 口ではそう言っているけれど、じいの事だ、照れ隠しとマヤに対する優しい気遣い、どちらもあるのだろう。

 マヤはそれ以上追及することを止め、微笑みを浮かべて、無言でドアの外へでた。

「涼子様、今日はどんなファッションなのかしら? 」

 エレベータを使わず、そっと階段で降りて影から覗いてやろう、とマヤは考えた。

 階段を2段跳びで軽やかに降りながら思う。

”制服以外の涼子様って、4年前のニューヨークのお部屋着~実は、外出着でもあったと知ったのは、ずっと後のことだ~を見ただけだもの、すっごい楽しみだわ! ……年齢から考えると、そうね。キャリアウーマン風のスーツ。スリットが深く入ったタイトスカートなんかお似合いになりそうだけど、動きやすい格好、とか仰ってたからパンツスーツかも知れないわ。ああ、それとも、大人っぽいワンピースかしら? ……いえ、案外、カジュアルっぽいパンツルックに皮ジャンかなんかの大人の行動派女性スタイル? ……ああ! 早くお姿を拝見したい! ”

 妄想が過ぎたのか、階段の途中で蹴躓いてしまう。転びこそしなかったけれど、少しだけ反省した。

”私ったら、はしたない”

 しかし、マヤは今夜に限ってそんな自分を許すことにした。

 なにせ、逢えない4年間、たった数枚の写真と涼子からの手紙だけを頼りに、再会のシーンをあれこれ今迄思い描いてきたのだから。

「やっと1階! ~日本やアメリカ風で言うと2階だ~ここからロビーまでは、そっと降りないと気付かれてしまうわ」

 マヤは数度深呼吸をして逸る気持ちを無理矢理押さえ込んでから、そっと階段を、今度は一段づつ踏みしめる様に降りる。

 ロビーへ出る階段正面は、カウンターの横だ。

 最後の数段は姿勢を低くして、カウンターの影からロビーを見渡せる位置を確保した。

 カウンター内にいた、伝統と格式を織り込んだような背広を着込んだマネージャーがマヤに気付き、思わず声を掛けようと口を開いたが、マヤが人差し指を口に当てると、すぐに頷き、そっぽを向いた。

 小国とは言えグロブナーを定宿とする国の皇女だ、顔くらい当然知っているのだろう。さすがのホスピタリティである。

 ほっと安堵の吐息を吐いて、マヤはゆっくりとロビーを見渡す。

 普段より人が多いなと思ってよく見ると、10名ほどは自国の随員、近衛連隊の護衛官達だった。

”という事は、残りはUNDASNのSPの方々ね”

 いや、今はそれどころではない、とマヤは我に帰る。

 涼子は何処にいるのだろう?

 ソファを遠いところから順番に眺めるが、見当たらない。

”あれ? ……いない”

 何度も見直す。

 端から順に。

「いない……。涼子様、いない」

 思わず声が出る。

 反射的に時計を見ると、約束の時間を既に10分程過ぎていた。

「どうしたのかな。いらっしゃらないわ」

 約束の時間に遅れて、怒って帰ってしまったのだろうか。

 それとも、急な仕事が入り、キャンセルになったのか。

 涙が溢れそうになった。

 思わず、立ち上がり、ロビーへ足を踏み出した。

 刹那。

 背後から、懐かしい、そして眠気を催すほどに安心感を誘う、鈴を鳴らしたような声が背後から聞こえた。

「どなたかお探しでいらっしゃいますか? マヤ殿下」

”このお声! ”

 一瞬のフリーズの後、瞳に溜まった涙が瞬間的に蒸発し、それを切欠にリブートしたマヤが微笑みを浮かべて振り向いた途端。

 再び、フリーズした。

 立っていたのは、やはり涼子だった。

 だが、涼子のファッションは、マヤが4年をかけて育て上げたイメージを完膚なきまでに破壊しつくしていた。

「え? ……ほんと? 」

 マヤは普段なら考えられない程、素直に思った事を唇から音に変える。

 可愛かった。

 本当にこれが涼子か、とマヤは目を擦りたくなった。

 が、手が動かない。

 それほど、マヤの目に映る涼子は、想像を絶する可愛らしさだった。

 この方は本当に、今日の昼間軍服を身に纏ったあの凛々しい涼子様なの?

 あ、ひょっとして、涼子様の娘さんかも知れない。

 いや、それはさすがに失礼だ。

 ああ、じゃあ、涼子様の妹?

 ええ? クローンなのかしら?

 混乱しつつも、マヤは夢見心地の浮遊感を楽しんでいた。

 それほどに涼子は、年下の女学生のように無邪気で、可愛く、それでいて神々しいほどに美しかった。

 可愛いのに美人なんて、ずるい。

 真剣に、そう思った。

「本当なの? 」

 涼子はマヤの口から出た言葉の意味が解らなかったようで、しかし、不躾に尋ね返す事も出来ないのだろう、微笑みを浮かべたまま、小首を少しだけ傾げて見せた。

 後ろ手に組んだ手と、可愛らしく小首を傾げたポーズが、まるでファンタジーの世界から抜け出してきた妖精の様で、目を凝らすと、背中に羽根が見えそうだった。

 マヤの視界にソフトフォーカス。

妖精フェアリーって……、いるんだ」

 今度こそ涼子は、思わずだろう、声を出した。

「は? ……あの? 」

 涼子の声は、マヤの耳に、これは現実であると主張するように響く。

 だが、マヤの開いた唇から洩れた声は、夢の中でしか言えないような、台詞だった。

「私……。恋した人に、もう一度恋しちゃった、みたい」

 一瞬涼子の可愛い唇が、無音でパクパクと開閉する。

 それを見てマヤは一気に現実世界へと帰還した。

「りょ、涼子様! 可愛いーっ! マヤは、これほど驚いた事はございません! 」

 視界の隅に、カウンターの中の老紳士がチラ、と振り向く姿が見えたが、気にならなかった。

 気付くと、涼子の首っ玉に両手でしがみついていた。

「で、殿下! 」

 涼子の柔らかな胸の感触をいつまでも味わっていたいと思いながらも、マヤは涼子の声に顔を上げる。

 見上げた涼子の顔は、多少引き攣ったような笑顔だった。

「どうかしましたの、涼子様? 」

 涼子は困ったように、微笑んで、囁くように言った。

「い、いえ、いえ。何でも、何でもございませんわ、殿下。……それより、お待たせしましたでしょうか? 」

 涼子の泳ぐ視線に気付き、さすがにマヤも自分の取った行動に恥じ入る。

 オホン、と小さく咳払いして涼子から離れたマヤは、頬を少し赤くしてエヘヘと照れ笑いを浮かべた。

「ごめんなさい、涼子様。こちらこそ、お待たせしてしまいまして」

 涼子もやっと普段に戻ったマヤに安心する。

「いいえ、こちらこそ。殿下、驚かせてしまいました様で、申し訳ございませんでした。そうそう、本日の昼間はわざわざ」

 外交官としての正式な挨拶口上をし始めた涼子を、マヤは慌ててさえぎる。

「駄目、涼子様! 今夜はそんな堅苦しい挨拶は抜き! ね? いいでしょう? 」

 涼子も、今度こそ柔らかな笑みを浮かべて頷いた。

「……そうですわね、なんたってお忍びですもの、ね? 殿下、今夜はよろしくお願いしますわ」

 涼子はそう言って頭を下げた後、視線をマヤの頭の先から爪先まで往復させた。

「それにしても殿下、やっぱりこのようなアクティブなファッション、良くお似合いになりますわねぇ。やっぱり、お若いから、かしら? 」

 そしてチラッと自分の服に目を落とした涼子は、苦笑を浮かべた。

「実は私、この服、さっきホテルで買ったんですのよ。でも、お店が殆ど閉まっちゃってて……。ほんと、すいません。持ってきた私服はみっともないのばっかだったもので」

 マヤは思い切り首を横に振る。

「とんでもありませんわ、涼子様。凄くお可愛くて、こんな事私が言うと怒られちゃうかもしれませんけど、ひょっとしたら、私の方が年上に見えるんじゃないでしょうか? 」

「あははは! とうとうバレちゃいましたわね」

 涼子は、それこそ可愛らしい小学生の女の子が、悪戯しているのを見つかった時のように、ペロ、と舌を出して笑って見せた。

「私、中身は幼稚ですから。気品ある殿下の方がお姉さまに見えても当然ですわね! 」

 違う、と思った。

 もし、涼子の言うとおりそう見えたとしても、それは、幼稚なのではなくて、彼女の魂の持つ輝きがそう見せているのだ、と。

 が、上手く言葉に出来ず、思わず口を噤んでしまう。

 そんなマヤの態度を敏感に感じ取ったのか、涼子はカラリと明るい笑顔を見せて、芝居がかった大袈裟な身振りで両手を広げて見せた。

「さあ、殿下。ご準備がよろしければそろそろ出発しましょうか? 今夜は、カーニバル……? 違う、でもまあいいか、カーニバルですわ! 」

 そんな優しい貴女が、本気で大好きです。

 口には出来ない想いを込めて、マヤはせめてもと力強く頷き返した。

「ええ、参りましょう! 『ぱあっと、遊びに』! 」

 銀河を詰め込んだような煌く涼子の黒い瞳に映る自分の姿が、幸せそうで、嬉しかった。

「アハッ! いいですわね! ぱあっと! 」

 そう言って笑う涼子の笑顔は、侍従長の言う通り、美しく咲き誇る大輪の薔薇のようだった。

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