第85話 13-9.
UNDASNの艦艇には、戦闘艦種支援艦種に関わらず、通常、右舷と左舷、両側に舷門があり、乗艦・退艦者用にデリックが下ろされる。
一般的には右舷は高級幹部や来賓、左舷は初級幹部と曹士や一般外来者が使用するものとなっているが、今回のグローリアスは桟橋へ接岸しており、左舷デリックが来賓用として開門している~本日限りで右舷側の舷門は観艦式参加艦隊の他艦からの来艦者用として初級幹部や下士官兵にも解放されていて、今は交通用の
グローリアス級の大型艦ともなると、最上甲板から喫水まで40m近い高低差があり、もちろんデリックはエスカレータ方式ではあるが、実際の舷門はそれより15mほど下層にあるE下甲板に設えてあった。
それでも桟橋まで25m、6階建てのビルほどもある吹き曝しのエスカレータになっているので、素人には充分すぎるほどの恐怖感を与えるのも確かであり、マヤの見送りも、舷門でのUNやUNDASN高官の挨拶の後、涼子と美香が地上の舷門脇に駐車しているロールスロイスまで付き従う事になった。
涼子の心配を余所に、美香は何も無礼を働く事もなく、澄ました顔をしてマヤの後を淡々と尾いて歩くのみだった。
「それでは、殿下。本日はご来臨頂き誠に有難うございました。再びのご来臨を、UNDASN将兵一同、お待ち申し上げる次第にございます」
来賓退艦を表す長三声の
「あ、あのっ! 涼子様」
「はい。あ、今夜の件でございますか? 」
「違う、違うのです」
マヤはじれったそうに小さく叫ぶと、チラ、と背後で澄ましている美香に視線を飛ばし、一層声を顰めた。
「あの、須崎……、様」
「はい。サラトガの艦長」
「あの方、涼子様とはどういった関係です? 」
一気にそう言ってから、マヤは少し慌てたように口篭る。
「あ、いえ、その、た、立ち入ったことをお尋ねしたのなら、あ、謝ります」
「いえ」
なにを気にしているのかは判らないが、別に涼子にとっては全然立ち入られた気にもならない。
「須崎は、私が卒配……、つまり
「い、悪戯? 」
マヤの勢いに涼子は引き気味になりながらも、答える。
「いえ、その、勝手にベッドに潜り込んできて抱きつかれたり、触られたり、寝てると油性ペンで額に肉って書かれたり、恥ずかしい写真を撮られたり」
「ぐっ! 」
マヤが喉が詰まったような妙な呻き声を発して、唇を噛むのを涼子は不思議に思いながらも、説明を続ける。
「でも、そんな悪戯好きな先輩ですが、本当に面倒見のいい、そして私のことを心から心配してくれて」
あの日、五十鈴のベッドで、涙を一杯に溜めながら怒ってくれた美香の顔が浮かぶ。
「本気で私を怒ってくれて、背中を押してくれたのは、先輩です。……私は、そのお蔭で」
「お蔭で? 」
マヤの呟くような言葉に、涼子は思わずこくんと頷く。
「今日までこうして、UNDASNで良い仲間に囲まれて暮らすことができた。そう、思ってます」
そして、溢れそうになる涙を堰き止めようと、アハッ、とひとつ笑って見せた。
「そう。美香先輩と、先程ご挨拶させて頂いた小野寺軍務部長。彼が、そのフネの艦長だったのですけれど、彼と、彼女がいなければ、私は今、こうして
マヤは真っ赤な顔をして、じっと涼子をみつめていたが、やがて、ふっ! と短い吐息を零すと、柔らかく微笑んで、掠れた声で言った。
「よく判りました。涼子様、ありがとうございました。ご無礼、ご容赦下さいませ。……では、また後ほど」
いったい、何がマヤの心に引っ掛かっているのか、思い付かないままに涼子は、踵を返した後姿に敬礼を送ろうとした。
その時。
「殿下、お待ちを」
美香だった。
振り返って強張った表情を浮かべるマヤに、美香は一歩歩み寄り、口を開いた。
「せ、先ぱ」
止めようとして、涼子は口を噤む。
それほど、美香の笑顔は静かで、そして美しかった。
それに気付いたのか、マヤも無言のまま美香の顔を眺めて立ち尽くしている。
「失礼ながら、ご心配は無用です、殿下」
美香は、チラ、と優しい眼差しを涼子に向けて、言葉を継いだ。
「涼子……、石動が今、何を想っていようと、何に心を惹かれていようと、石動は石動です」
一瞬、マヤが唇を噛み締める。
「だから、私達も、変わらず石動を愛せばよろしいのですわ、殿下」
みるみるマヤの黒い大きな瞳が、潤んで膨らんでいく。
「須崎、様」
変わらぬ涼しげな美香の笑顔が、刹那、切なそうに歪む。
「例え、石動の一番が私達ではなくとも、私達の一番が変わらず石動であること。それが大事なのです」
涼子は呆然と二人の様子を眺めつつも、ふと、思い当たる。
ひょっとして、この王女は……?
涼子の意識は、美香の続く言葉に引き戻された。
「いつも石動を一番に、自分の心の隣に置いておきさえすれば、この
堪え切れず両手で口を覆ったマヤに、美香は「失礼いたします、ご無礼ご容赦の程を」と小声で呟き、そっと近寄って抱き締めた。
「辛いですよね。切なくて、哀しいですよね。でも、石動は、涼子は、きっとそんな私達の傷ついた心を、優しく抱き締めてくれます。自分はきっと、それ以上に傷ついているだろうに」
チラ、と涼子に向けた美香の瞳もまた、涙を溜めていることに涼子は気付き、けれど何も言えず身体も動かず、唯々その場で立ち尽くすしかなかった。
「そんな涼子だから、もっと好きになってしまうんですよね」
マヤは、ふくよかな美香の胸の谷間から顔を少し上げて、湿った声で、言った。
「須崎様も、哀しい? 」
美香はこくんと頷き、二、三度、マヤのブルネットをサラサラと指で梳いた。
「でも、涼子と笑って話ができる瞬間が、須崎は大好きです。私の人生の、大切な宝物ですよ、殿下」
そしてゆっくりとマヤの身体を起こしてやると、蕩ける様な笑顔を浮かべた。
「殿下にも、そんな素敵な宝物が出来たのです。よろしゅうございましたわね? 」
「須崎様」
掠れた声で漸く言ったマヤの一言に、美香は頷いて見せてから、彼女を抱くようにしてリアシートへ座らせ、涼子の隣に並んで敬礼をしてみせた。
「ご健勝をお祈りいたします、殿下」
美香の言葉が合図だったように、ゆっくりとロールスロイスのドアが閉まり、車列が動き始めた。
桟橋の警備門を出て、車列の最後尾が角を曲がり見えなくなった瞬間、涼子は美香に抱きついた。
「先輩! 」
涙が溢れて仕方なかった。
「おお、なんね、この
美香がリズミカルに柔らかく叩く背中が温かい。
「ごめん、ごめんなさい! 私、私、馬鹿だった! 気付かなかった! 気付かないまま、マヤ殿下を、先輩を、わた」
胸の奥から込み上げる想いを堰き止める方法も判らぬままに、吐き出し続ける唇を、不意に、柔らかな何かが塞いだ。
鼻をつく甘い香り、口の中にゆっくりと広がる懐かしい、ミルク・ビスケットの優しい味覚。
思わず唇を指で撫でると、ほんのりと残る感触が、まるでこの瞬間が夢だったように思えてくる。
思わず見上げた美香の美しい顔は、ほんのりと頬が桜色に染まって、細めた眼が月のように淡く微笑んでいた。
「ええの。涼子はなあんも、悪うない。涼子は、そのまんまでええんやで? 」
「うえぇ」
今度こそ堪え切れず喉の奥から洩れる嗚咽を、今度は美香の柔らかな胸の双丘が優しく覆ってくれた。
「私は、私達は、そんな涼子が好きなんやけえ。そやから、涼子は笑ってて。私の為に。殿下の為に。涼子を好きな、みんなの為に、な? 」
遠い昔、泣きながら帰った我が家の玄関で、何も聞かずに優しく抱き締めてくれた母の匂いがした。
私の幸せって、ミルク・ビスケットの匂いなんだ。
ふと、想った。
「まったく、不思議な
眼下25mで、抱き合う二人の美女の姿を舷門側のガイドレールに凭れて眺めながら、マクドナルドは思わず口に出して呟く。
「ああ見えても、石動はもう30歳ですよ、事務総長閣下。須崎はそれよりもふたつみっつ上だったかな」
「そうだな、もう”娘”でもない、か……」
独り言へ律儀に答えを返してくれたマクラガンを振り返り、マクドナルドは苦笑を浮かべて右手を振ってみせる。
「だがね、トーマス。時々、私は彼女と話しいていると、幼稚園に通っていた頃の孫娘と話をしているような錯覚に囚われる事がある」
振って見せた右手の意味を正確に読み取って、マクラガンは副官達に先に行くよう目で促しながら、彼の隣へ歩み寄り、ガイドレールから地上を覗き込んだ。
「こうして眺めていると、まるで印象派の描いた水彩画のような風景のようだ」
独り言だろうが、彼と同じくリアクションをとった方が良いだろうか、とマクドナルドは一瞬思うが、黙っていることにした。
内心は全く、この古い親友と同意見だったけれど、彼にしては珍しく叙情的な言葉が妙に心に引っ掛かり、継がれるだろう言葉を待とうと思った。
「確かに、君の言う意味でも”不思議な娘”だと、私も思うよ、ジョージ」
予想通り言葉は継がれたけれど、その意味する内容は予想を半歩ほど外していたし、それに何より普段の彼とは違う微妙なニュアンスが感じられて、マクドナルドは身体ごとマクラガンに向き直った。
若い時から物腰が柔らかく、いつもゆったりとして、それでいてストレート。
普段の彼は、決して奥歯にもののはさまった様な物言いで他人に余計な気遣いなどさせはしない。
彼はそうだった筈だ、けれど今、旧友である自分へ見せる珍しい表情に煽られて、マクドナルドはつい、先を促してしまった。
「ほう? 他にも、不思議なところがあるようだな? トーマス」
マクラガンはマクドナルドの問いかけには応えず、そして涼子達を見据えたまま、低い声で言った。
「次の欧州室長は、須崎君もいいかも知れんな」
「トーマス、それは」
後一ヶ月もすれば、UNDASNも定期異動の季節だ。
涼子が地球に戻ってそろそろ一年。
欧州室長代行として、このまま無事にロンドン・ウィークを乗り切るであろう涼子が、再び最前線に戻るには頃合いかも知れない。
一抹の寂しさを感じながら、マクドナルドが再び視線を涼子に向けた刹那、今度こそ本当に予想外の言葉が耳に届いた。
「ジョージ。石動君のUN本部出向の件だが、受けようと思ってる」
驚いて振り返ると、マクラガンは既に自分の方を向いていた。
「本当かね? そ、そりゃあ……? 」
余りの意外な申し出に、年甲斐もなく喜びで顔を綻ばせたマクドナルドだったが、友人の表情に隠れた翳を敏感に読み取り、表情を引き締め、声を落とす。
「……言ってくれ、トーマス」
一瞬、虚ろに視線を泳がせたマクラガンの表情に、マクドナルドは自分の勘が当たっていた事を確信する。
「ジョージ」
マクラガンはしかし、すぐにいつもの悠揚とした表情を浮かべて、再び視線を涼子達に移した。
「石動君は……。石動君を出向させる目的は、そりゃあ、国連強化、国連防衛機構強化、ひいては国連による地球統一、対ミクニー戦継戦。色々と期待しているし、彼女の実力ならそれを夢ではなく現実のものに出来るだろうとも思ってはいる。だが、本当はそんな事じゃないんだよ。そんな、大それた事を考えての事じゃないんだ。今は詳しくは言えない。言えないが、敢えて言うとすれば」
マクドナルドは、思わず生唾を嚥下する。
何故か、聞いてはいけない、いや聞きたくないという感情が沸き起こる。
だが、友人は遠慮なく言葉を継いだ。
「……そう。一種の『病気療養』の為に」
「病気、療養? ……石動君が、か? 」
思わず声が大きくなってしまったマクドナルドを、マクラガンはチラ、と振り返って目で抑えた。
口を閉ざし、涼子達に視線をやる。
彼女が、病気、だと?
馬鹿な。
そんな、馬鹿な。
「まったく、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて、思わず神に文句を言ってしまいそうになる」
心を読んだように、マクラガンは吐き捨てるような口調で言う。
桟橋に小さく見える涼子は、何があったのかは判らないが、美香から身体を引き剥がして、照れたように微笑んでいた。
釣られた訳でもないだろうが、隣のマクラガンもガイドレールから身体を引き剥がし、マクドナルドに身体を向け、普段通りの口調に戻って続けた。
「出向の時期、期間、出向の任務や目的、勤務体系。その他条件や依頼事項については、ウチの医師と相談した上で、出来るだけ早く、君の手元へ届けるつもりだ。それまでは、石動君本人には、どうか内密に頼む」
無論、文句などあろう筈もない。
石動涼子の外交官としての力は、これからのUNの行く末を決めるには、喉から手が出るほどに欲しかったのだから。
しかし。
「それは無論だ。無論だが……、しかしトーマス」
マクラガンは、マクドナルドの言葉を遮る様にくるっと背中を向けた。
「今はこれ以上言えない。言ってしまうと、私は、これ以上冷静でいられる自信がないんだよ、ジョージ」
今まで見た事もないような、萎れたような旧友の後姿に、マクドナルドは問うべき質問を、投げ掛けたい言葉を飲み込んでしまうしかなかった。
「とにかく、くれぐれも、石動君を宜しく頼む、ジョージ。……これは、君にしか頼めん事なんだ」
マクラガンは数歩進んでふと立ち止まり、肩越しにチラと視線を飛ばして、まるで独り言のように呟いた。
「その意味では……、友人である君が、今、国連事務総長で本当に良かった」
そういうとマクラガンはゆっくりと歩み去り、やがて艦内の薄暗い気密扉の奥へ、待ち受けていた副官達と消えていった。
マクドナルドは、呆然としながら、再び桟橋へ顔を向ける。
美香にハンカチで顔を覆われた涼子が、チーン、と洟をかむ音が冬の高い空に響く。
見ている限り、涼子は、普段通りの、変わらぬ、愛らしい涼子のままだ。
今度の戴冠式関連行事では、国連外交をその華奢な身体で全て引き受けて余りある程の活躍を見せた涼子。
その活躍の裏には、軍人らしい度胸と冷静な判断力、そしてそれを支える体力勝負のハードワ-クがあったことは想像に難くない。
そんな彼女が、療養が必要な病人だとはとても思えなかった。
一体、どうしたと言うんだ? 彼女に何が起こっている?
妖精のように無垢で純粋で愛すべき彼女の身体を蝕む病魔とは、いったい何だ?
舷門のマクドナルドに気付いたのか、涼子がデリックから笑顔で手を振っている。
もう片方の手は、美香の手にしっかりと握られていて、その姿はまるで、散歩から帰ってきた娘と孫の姿と重なって、マクドナルドは思わず、目を細めてしまう。
それにしても、とマクドナルドは、涼子達に手を振り返しながらながら、思った。
よくよく考えて見れば、UNDASNという巨大な、しかも軍という特殊な組織の、3,500万人を越える将兵のトップに立つシックス・アンカーズ・フル・アドミラル、統合幕僚本部長統合司令長官が、統幕本部のエース幕僚とは言え、所詮、一介の大佐~たぶん、2万人以上はいるだろう~の為に心を砕き、それだけでなく苦しみ、神をも呪う、という事自体が、一種異常な出来事だった。
しかも、公務に関わる事ですらない、謂わば『単に病気』という、ただそれだけのことで。
”と、すると……。石動君の病気とは、まさか、死に至る程の?“
そこまで考えて、マクドナルドは自分の考えを否定すべく、激しく首を横に振る。
いや、違う。
待て、落ち着け。
もし、そうならば。
あの旧友なら、国連出向等という中途半端な方法を取らずに、もっと効果的な方法を、ストレートに使う筈だ。
なにしろ、UNDASNには医療本部を始めとして、防衛医科大学や付属病院等に、世界的に優秀な医学者が目白押しなのだから。
強制入院させるなりなんなりと、それこそ方法は山ほどある筈だった。
それを選択し得ない”病気療養”とは、いったい?
”まさか? ”
マクドナルドの脳裏に、ハーグ時代、妻が心配そうに語った言葉が甦った。
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