第84話 13-8.


「申し訳ございませんでした、殿下」

 リザを連れて小走りで駆けてくる涼子は、マヤの目にはまるで、門限に遅れた小学生のようで、思わず目を細めてうほどに微笑ましかった。

「とんでもございませんわ、涼子様。それより、お仕事の方は大丈夫ですの? 」

 涼子は後ろのリザを労わるように振り返って、無言ながらその口よりも雄弁に想いを表現している黒曜石にも似た煌く瞳で彼女を促し、殆ど同時に腰を下ろした。

「いえ、ご心配には及びませんわ、殿下。明日以降のスケジュールの確認でございましたので」

 ね、と言うようにリザと首を傾げ合う姿は、仲の良い姉妹のようで微笑ましく、しかもリザの方が姉に見えるのが不思議だ。

 少しだけ、リザを嫉ましく思ってしまう。

 リザは、そして暫く二人きりでお喋りに興じた銀環もそうだが、彼女達は少なくとも、毎日、愛しいひとの傍で、共有できる時間を持ち続ける事が出来るのだ。

 自分のように、脳裏にしっかり焼き付けた筈の愛する人の煌く笑顔が、日々薄れていく恐怖と戦い、知らぬうちにあやふやになっている輝く宝石のような記憶が、まるでやがて来る筈と信じている再会の可能性を削り取っているような、そんな痛みに震えつつ、それでも自分の身体を抱き締めながら毎日を遣り過ごす、切ない、孤独な戦いと、少なくとも彼女達は無縁なのだから。

 そこまで考えて、マヤは慌てて自分を叱り付ける。

 なんという、傲慢。

 自分は、気付いていた筈だった。

 自分が涼子様と呼ぶたびに、困ったような表情を浮かべ、俯き加減でそっと唇を噛み締めていた、ブロンドの美しい女性に。

 自分が涼子と笑い合うたびに、虚ろな視線を明後日の方に投げながら、困った笑顔を浮かべていた、ブルネットの可愛らしい女性に。

 彼女達も、愛する人の傍にいるからこその、哀しみがあるのかも知れない。

 彼女達からすれば、自分はいったいどのように映っているのだろうか?

「それと、もうひとつ」

 涼子の声が、沈思していたマヤを現実へ引き戻した。

「もうひとつ? 」

 慌てて口に上せた言葉は、何の意味もない鸚鵡返しだったことに、我乍らがっかりしてしまう。

 だが、そんなダウナー系の気分も、続く涼子の言葉で吹き飛んでしまった。

「今夜の、お忍びの件でございます、殿下」

「え? 本当ですか? 涼子様、嬉しい! 」

 声が裏返っているのには気付いていたが、それを抑えられなかった。

「はい、本当ですよ」

 涼子の笑顔が、まるで聖母マリアのように見えた。

 マヤは実は、心配していたのだ。

 昨夜のバッキンガム宮殿でのパーティで約束はしたものの、今日、涼子と再会してから一度もその話題に触れないし、もしもこちらから切り出して、あれは冗談でございますなどと言われたら、ましてや、昨日のテロリストからの波状攻撃の件も報道で知らされているのだ、そんな状況下、既定の予定といえどどうなるものか、判ったものではない。

 もしも今夜の予定が中止になったと言われたら。

 確実に、死ねる。そんなことまで考えた。

 何度も、何度も。

 刹那、喜んでいる自分の姿がリザと銀環には不愉快なのではないだろうか、と思ってチラ、とそちらを見ると、リザが銀環に耳打ちしていた。

 たぶん、事情を知っているらしいリザが、判っていない銀環に説明しているのだろう。

 少し、申し訳ない気がしたが、もう、昂ぶる喜びの感情は、隠す事も出来ず、そして隠すには遅すぎる。

 マヤは開き直ることにして、笑顔を隠さず浮かべて涼子に向けた。

「私はこの後部内での会議がございますれば、殿下とは別にロンドンへ戻ります。それが終わってから、ええと、1930時ヒトキューサンマルだから……、フタマル、あ、いえ、午後8時くらいは如何でしょう? 」

「ええ! 構いません! それで、どういたしましょう? 」

「殿下はどちらにご滞在を? 」

「グロブナーハウスに」

「ああ! それでしたら、私はヒルトンですので、歩いても5分とかかりませんわね。それでは、午後8時に石動がお宿へお迎えに参上いたします。ロビーまでお出まし下さいますか? 」

 夢かと、そっと手の甲を、自分の指でつねる。

 痛い。

 痛さに背中を押されて、口は軽やかに動く。

「ピカデリーサーカスには、車で? ああ、地下鉄でまいりましょう、涼子様。ううん、何を着て行こうかしら。涼子様はどのような服をお召しに? 」

 涼子は困ったような笑顔を浮かべる。

 はしゃぎすぎただろうか?

「ええと。……実は私、ロンドンには本当にみすぼらしい、部屋着しか持って参りませんでしたので……、ああ、いえ、もともと自宅にだって安物の古着ばかり、それも数えるほどしかないのですけれどね? ですが殿下、あの辺りも今夜は人出が多いでしょうし、あまり高級なお召し物はお勧めできません」

 人出が多いと言われてマヤは、大学生活を送ったニューヨークを思い出す。

「そうですわよね、判りました。うんとカジュアルに参りましょう。……ああ、楽しみだわ! 早く8時にならないかしら! 」

 自分の私服の話題以外はにこにこと微笑んでいた涼子の表情が、不意に引き締まった。

「あの、マヤ殿下? ……失礼ですが、石動とのお約束を覚えておいででしょうか? 警護の方は、大丈夫、ですわよね? 後で私共の警護責任者よりそちらの責任者の方へ連絡を入れさせて頂くつもりなのですが」

 もちろんだ。

 涼子に迷惑はかけられないし、昔のようにじいに心配はかけたくない。

「ええ、大丈夫ですわ! 侍従長にも話をしております」

 涼子はあからさまに安堵の表情を浮かべる。

「よかった。殿下もご存じの様に、今、UNDASN私共はテロ組織から狙われておりますでしょう? ああ、もちろんそちらの方は手当てがほぼ終わっておりまして、然程心配する必要もないのですが、けれど万が一、殿下にもしもの事があれば、とそれだけが心配で。私共からもSP6名を出すつもりでございますので、殿下の方も、護衛の方を、どうぞよろしくお願いいたします」


 暫くマズアやコリンズとフォックス派対策について話をしていた小野寺が、さてそろそろ涼子のところへ戻るか、と考え始めたところだった。

「艦長! 」

 小野寺が艦長職を退いて、つまり三等艦将に昇進してから、もう6年目だ。

 昔の部下の中には、久し振りに出会うとつい癖になっているだろう『艦長』と呼び掛ける者もいたが、それも3年程の間のことで、最近では滅多にいない。

 そんな中、未だに臆面もなく彼のことをそう呼ぶのは、二人。

 一人は、涼子。

 今、耳に届いた声は涼子ではない。女声にしては低くてハスキー、そして、純粋な雄としての本能を絹の手袋で優しく撫で擦るような、艶っぽい甘さがある。

 鈴の鳴るように優しげな、涼子の声でないのは確かだ。

”ってことは”

 振り向くと、目の前にあるのは、巨大なふたつの、風船だった。

 それにしては、やけに柔らかそうで、それでいて張りのある、そしてなにやら甘い香りのする風船だ。

「私のナニが風船なんね? 」

 声に出ていたようだ。

 反省しながら顔をゆっくりと上げていくと、にぃっ! と半円形に開いた口から覗く白い八重歯がきらりと光った。

「なんだ須崎か」

「なにが『須崎か』ね」

 呆れた口調でそう言った見事な美女は、腰まで届くほどの見事なストレートの黒髪を右手でバサ、と無造作に掻きあげると、小野寺の隣に座って威勢良く、すらりと長い、しかし途轍もなく肉感的な脚を組んで見せた。

 座った瞬間、胸の巨大な風船がバウン! という擬音付きで上下に揺れる。

「人の胸、風船扱いしといてからに、顔見た途端、なんだ須崎か、はないんやないん? 艦長? 」

 須崎美香。小野寺が五十鈴の艦長だった時の部下だ。

 ええと、あの時は確か……。

 そう。

 涼子と同室で、二尉だったか。

「えらくラフな格好でうろついてるんだな、サラトガ艦長は」

 英国を筆頭に、海外や国連関係の来賓が詰め掛けている今回の旗艦グローリアスのアットホームでは、ホスト役の士官以上は皆、第一種または第一種甲軍装を着用しているのだが、眼の前の須崎美香一等艦佐、グローリアスの僚艦でIC2の1FS二番艦であるF010サラトガの艦長は、第二乙軍装ワーキングカーキの上に、サラトガ・オフィサー・ジャンパーを羽織っただけの作業略装でいる。

「こんな日にドレスブルーなんざ着てたら、肩凝って仕方ないけぇ」

 さらっと言って、自然な仕草でテーブルに置いた小野寺の煙草の箱を取り上げて、一本抜き取り口に咥える。

「アットホームは、基本、乗組員が楽しむ場! でしょ? 艦長? 」

 別にドレスブルーでも思い切り楽しむ事もできそうなもんだ、と考えながら、チラリと涼子のテーブルに視線を送る。

「ま、ドレスブルーでも案外、楽しめるみたいじゃけど」

 美香は、小野寺の視線を追って振り返り、顔を戻してクス、と笑って見せた。

 笑うと、その妖艶な雰囲気~顔だけ捉えれば、ひょっとすると涼子以上の美人だろうな、と思うのだが、一言で言えば”ダイナマイト・ボディ”が美香を妖艶に仕立て上げているのだ~とは裏腹に、酷く幼い笑顔になった。

 口に咥えた煙草がミスマッチだ。

「返せ。煙草」

 美香は肩を竦めると、ポケットに仕舞いかけていた煙草の箱を黙ってテーブルに置く。

「元気でした? 艦長」

「まあ、な」

「相変わらず、無愛想じゃね」

 美香はくすくす笑いながら、煙をふっ、と吐き出す。

「そんなんで、よう涼子を落とせたもんやわ」

「お前」

 さすがにぎょっとして、美香を見ると、彼女は悪戯っ子のような笑顔を浮かべていた。

「まさか艦長が、あんな衆人環視の中で涼子と腕組んで歩くとは思わんかったで」

 見られていたらしい。

 というか、まあ、誰かに見られていても当然だと、小野寺は諦めの吐息を落とす。

 吐息とともに肩まで落ちた刹那。

「艦長」

 彼を艦長と呼ぶ、こちらは普段から聞き慣れたもう一人の声が、項垂れた小野寺に振ってきた。

「マヤ殿下がお戻りになるらしいので、私、舷門までお見送りきゃああっ! 」

 突然の悲鳴に驚いて顔を上げると、どんな技を使ったのか、涼子が美香の膝の上で抱き締められていた。

 顔が、巨大な胸に埋まっている。

 このまま放置しといたら、窒息死するんじゃないだろうか、とぼんやり考えた。

「美、美香先輩! く、苦しいよ! 」

 くぐもった涼子の声が響く。

「なんねぇ、涼子ぉ。あんた、私がサラ~F010と古いシップ・ナンバーを持つサラトガは、その流麗で美しいシップ・デザインもあって、UNDASN将兵からは『オールド・サラ』の愛称で親しまれていた~に乗っとうのん知っとって、挨拶にも来んとは、男が出来ると冷とうなるもんやねえ。ん? どうなん、涼子? 」

 五十鈴時代、美香にからかわれて悲鳴を上げていた涼子を、小野寺は懐かしく思い出す。

 それはいいが、離してやらんと、言い訳もできんだろう。

 いい加減にしといてやれ、死ぬぞ、と言おうとした矢先、別の誰かが美香への反抗の烽火を上げた。

「な、なんなんです、貴女はっ? りょ、涼子様をお放しなさいませ! 」

 声の方を見ると、マヤが両手を握り締め、顔を真っ赤にし、身体を怒りに震わせながら、涼子を抱きすくめている美香を睨みつけていた。

 マヤの後ろで、涼子の副官二人が顔を真っ青にして絶句している。

 さすがの美香も呆然として、暫くはぽかん、とした表情でマヤの怒り顔をみつめていたが~それでも涼子を抱き締めたままだった~、やがて、ゆっくりと小野寺を振り向いて、問うた。

「なんなんです? この

 知ってはいるが、自分から紹介するのもヘンな話だと、小野寺は肩を竦めて見せる。

 と、美香の腕の力が緩んだのか、ぷはっ! と深海から浮上してきた鯨のようなブレスを取りながら顔を上げた涼子は、美香とマヤをササッと見比べて、窒息寸前で真っ赤だった顔を一瞬で蒼に変化させた。

「せ、先輩! こちらは、イブーキ王国皇太女殿下にして現国王陛下の摂政殿下、マヤ・ハプスブルク・シュテルツェン・ゲンドー2世殿下にあらせられます! ど、どうか失礼のなきよう! 」

 美香は納得がいった、というようにうんうんと頷いてから涼子の身体を解放し、ゆっくり立ち上がって服装の乱れを直してから、綺麗な脱帽敬礼をして見せた。

「失礼致しました、殿下。お初にお目にかかります。自分は直接地球防衛第2艦隊第1航空戦隊所属、F010サラトガ艦長、須崎美香一等艦佐であります」

 コイツ、ワザとだ。殿下を挑発してやがる。

「統合幕僚本部軍務局軍務部長、小野寺太郎三等艦将です」

 小野寺が立ち上がり敬礼と共に自己紹介をすると、マズアやコリンズ達も倣って自己紹介を始めた。

 涼子はその間、真っ赤な顔のまま、服装の乱れを手早く直していたが、やがて場に沈黙が下りた時を見計らって、口を開いた。

「マヤ殿下、たいへん失礼致しました。侍従の方々もお待ちのようです由、いざ、参りましょう。石動がご案内差し上げます」

 自己紹介の間に、幾分落ち着きを取り戻した様子のマヤは、涼子の言葉に漸く微笑を浮かべて頷き、小野寺達を見渡した。

「私の方こそ先ほどは失礼致しました、お詫び申し上げます。それでは、これにて失礼致します。皆様のお蔭で、本日はたいへん興味深く、また、素晴らしい経験をさせて頂きました。お礼を申し上げます。……あ、皆様、お楽しみ中でありましょうから、お見送りは結構でございます」

 優雅にそう口上するとマヤは踵を返し、涼子の先導でアイランドの方へ向かい始めた。

 一同、敬礼で見送りながら、なんとなくホッとしていると、突然、ハスキーな声が上がった。

「自分もお見送りさせて頂きとう存じます」

 美香が一歩前に出て、ニヤ、と笑っていた。

 振り向いたマヤの微笑が、刹那、引き攣る。

 隣で涼子が、こちらは蒼褪めた表情で硬直していた。

 暫くの間マヤは、美香をじっと睨んでいたが、やがて、ふっ、と短い吐息を吐き、小声で言った。

「有難くお受けいたします、キャプテン」

「光栄です、殿下」

 一歩踏み出した美香に、小野寺は吐息交じりで囁いた。

「あんまり、煽るな」

 美香は悪戯小僧のようなヤンチャな笑みを浮かべた。

「艦長、ケツ持ちヨロシク! 」

 並の男なら一発KOであろうウィンクを飛ばしながら去っていく美香の美しい後姿を見ながら、小野寺はぼそ、と呟いた。

「正真正銘の女性からのウィンクで、ぞっとしたのはお前くらいのもんだ」

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