第74話 12-7.


 武官事務所のゲストルームの一室で、コリンズが尿意を催して眼を醒ましたのは、午前3時を過ぎたころだ。

「うぅっ」

 頭やら腹やら尻やらそこら中、手当たり次第にボリボリ掻きまくりながらトイレへ立つ。

「歳かな、頻尿気味だな」

 それを考えれば、課長に諮詢された情報部第一線からのさりげない引退の持ちかけも、納得せざるを得ないのかも知れない。

 実際、情報部のハード且つダークな現場から完全に離れた訳ではないが、それでも第一線を遠ざかってから何年か経つ。直前に携わった任務にしても、新人でも任せられる程度の難易度だった。

 情報部に配属された同期や、左程任官時期が離れていない何人か~もちろん配属先が配属先だ、全員の顔と名前を知らされた訳ではないし、情報部員ではあっても秘密裏に他部門へ回った者もいるだろう、長期間アンダー・カバーに入っている者も、ゾンビー・ユニット・メンバーとしてシャバへ紛れていった者も当然いた筈だ~で、未だに現役エージェントでいるのはもう、自分を含めても片手で余る、そんな現状を再認識するまでもない。

 とっくに現役スパイとして世界中を飛び回る時期は過ぎた事も自覚していた。課長に気遣われるまでもなく、だ。

 しかし、かと言って今更実施部隊か? 後方勤務としても総務局や人事局で”椅子をケツで磨く”仕事をする自分の姿は想像すら出来ない。

 そう言やぁ、俺が制服を着て勤務した最後は、一体何年前だ?

 そう考えると、このまま情報部に残っても良いな、と結論を出してしまうのが、コリンズの最近の思考の”ある特定の”パターンだった。

 けれど、日常のふとした瞬間、もう自分は情報部に拘り続けても仕方がないんじゃないか、と思う瞬間があるのは否定できない。

 そんな中、出逢った、石動涼子と言う、不思議な魅力を持つ女性。

 彼女は、自分に、いったいどんな”明日”を見せてくれるのだろうか?

 任務のふとした合間、そんな想像をちらりとしただけで、年甲斐もなく、仕事柄に似合わず、思わず顔が緩む、心臓が跳ねる。

 もし誰かに問われたなら、今なら自分はなんの衒いもなく、涼子を崇拝していると言えてしまいそうで、我が事乍、少々怖くなる程だ。

 少なくとも今は、自分はこのまま情報部に残る道を選ぶだろう。

 その理由はもちろん彼女の存在で、そして結論こそ変わってはいないものの思考の経過が決定的に違っている。

 『残ってもいい』ではない。

 彼女があのように評価してくれるならば、あの笑顔で微笑んでくれるのならば、『残りたい』と思えるのだ。

「……それこそ馬鹿か、俺は」

 苦笑交じりで下らぬ思考を切り上げて、そのうち用を足し終え~やはり歳か、キレと勢いがイマイチ納得出来ぬ~、手を洗っている時だった。

 隣りの部屋から「きゃあああっ! やあっ! やめてっ! 」という女性の叫び声が聞こえてきたのは。

「1課長! 」

 コリンズはトイレから飛び出し、枕の下から『ヨーロッパの名ハンドガン』と呼ばれる愛用のSIG-P210、装弾数8+1~私服活動が基本のエージェントという立場を考えると、些かコンシールド能力に欠ける銃だとは判っているのだが、どうにも彼はこれ以外の銃を持つ気になれなかった~とスナップガン~施設兵装本部謹製のテンションレンチもワンセットになった優れモノだ、これが配備されて以来、針金の出番がなくなった~を抜き出すとセイフティを外す。

 そっと自室のドアを数センチ開き、これまた愛用のデンタルミラーをそっと廊下へ差し出す。

 廊下には誰もいない。

 クリア。だけれど。

 涼子の部屋の前にいる筈のSP2名の姿が見えない。

 まさか、SPがやられたのか? なら何故死体がない? 争った形跡すらない。いや、それ以前に物音ひとつ聞こえなかった。

 スリッパを脱ぎ、素早く、けれど静かに廊下へ出て、涼子の部屋へ近付き、ドアノブをそっと手で回してみる。

 鍵はかかったままだ。

 コリンズは目を閉じて、3回深呼吸をする。

 部屋のレイアウトは自分の部屋と大して変わらないだろうが、室内の状況は判らない。

 けれど、判らないからと言ってこのまま放置する事も出来ない。

「已むを得ん、か」

 口の中で呟いて、コリンズはスナップガンを鍵穴に押し当てて、躊躇なくトリガーを落とした。

 何度かカチカチやるうちに、ものの5秒ほどでロックの開く手応えを掴んだ。

”こんなところだけは未だに現場でも通用しやがる”

 思わず苦笑したのも束の間、コリンズは思い切ってドアをそっと5cm程開けてデンタルミラーを差し入れる。

 室内は真っ暗、何も見えないが、怪しい気配もないように思える。

「行くか」

 コリンズはミラーを引っ込め、代わりにハンドガンのマズルを室内に差し込んだ。

 上下左右とセオリー通りに警戒し、最後に肩でドアをそっと押し開きながら室内に低い姿勢で侵入する。

 やはり、荒らされた気配、賊の侵入した形跡はこれぽっちも感じられない。

 人の気配は、というと、それははっきりと感じ取る事ができた。但し、賊ではない。

 廊下の灯りで薄明るくなった室内、壁際のベッドでは、上半身を起こした涼子が枕を抱えてガタガタと震えていた。

「室長代行! ……石動室長代行! 」

 無声音で呼びかけるが涼子は答えない。

 コリンズは取り敢えず、トイレ、洗面室、浴室を順々に索敵、続いて窓のロックが全て閉じている事を確認し、机、通信機等家具類の下や影を確かめ、そして最後に、涼子がガタガタ震えているベッドの下を覗き込んで、室内に不審者がいない事を確信して漸く立ち上がり、左手で額の汗を横殴りに拭いながら「ふーっ! 」と大きく息をついた。

 そして、枕に顔を埋めてガタガタ震えている涼子に優しく声をかけた。

「室長代行。コリンズ二佐です。もう大丈夫ですよ、どうかしましたか? 」

 涼子は体の震えをピタッと止め、恐る恐る、といった感じで枕から顔を上げる。

 弱々しい廊下の光を灯した黒い大きな瞳は、今にも零れてしまいそうなくらいに潤み、そして不安げに揺れていた。

 コリンズはベッド脇のサイドボードのスタンドを点け、自分もベッド脇に置かれた椅子に腰掛ける。

「……コリンズです。どうしました? 」

 もう一度、さっきよりも小さな声で呼びかけると、涼子はコリンズにゆっくりと顔を向けた。

 全身汗まみれになっている。

 UNDASN支給のUNブルーのジャージは、ぐっしょりと汗を吸い込み色が変わってしまっている。

 黒髪も白い肌に汗で張りつき、そして汗の跡とははっきりと違いの判る、涙の跡も見てとれる。

 涼子は、コリンズを呆然とみつめていたが、やがて掠れる声で彼の名を呼んだ。

「コ……、リン、ズ? 」

 コリンズにとっては難しかったが、なんとかぎこちない笑顔を見せて、優しく頷きながら答える。

「イエスマム。コリンズ二等陸佐です。どうなさいました? 」

 その瞬間、涼子の眼から涙がボロボロッと零れて頬を伝った。

「ふぇえ! 」

 小さく叫ぶと涼子は、コリンズにむしゃぶりついた。

「室長代行! 」

 今度は自然に涼子の背中に手を回してやる事ができた。

 背中は大きく波打ち、時折しゃくりあげる声が聞こえてくる。

 涼子が泣いているのだという事実に気付くまで、彼は5秒程掛かった。

 5分ほどそのままコリンズの胸の中で泣き続けていた涼子は、漸く昂ぶった感情が落ち着いたのか、ゆっくりと顔をあげた。

「ごめんね、コリンズ。今何時? 」

0318時マルサンヒトハチです。貴女の叫び声が聞こえたので慌てて様子を見にきたんですが」

 涼子はシーツの裾で顔を拭っていたが、コリンズの答えを聞いてピタッと動きを止めた。

 そしてゆっくりとシーツをずらし、眼だけを外へ出してコリンズの顔を見る。

「叫んでた? ……私? ……なんて? 」

「『やめて』とかなんとか……。隣の、私の部屋まで聞こえましたよ? あぁそうだ、SPはどうしたんです? 」

 涼子はシーツから完全に顔を出し、コリンズの膝の上に手を置いて言った。

「コリンズ、ごめんなさい! SPの子達に、もういいから貴方達も寝なさいって帰したのは、私なの。だって、ここはUNDASN施設内だし、彼女達もトラブル続きで疲れてるだろうからって思って。だから、あの娘達を怒らないであげて、コリンズ」

 コリンズが不承不承頷くのを見て、涼子はジャージの袖で額の汗を拭いながら、溜息混じりに言った。

「そっか、そんなおっきな声で叫んでたのか……。ごめんね、ほんと。うなされちゃって、何だか、昼間の襲撃事件や、聖ジョーンズ病院の事件とか、ごっちゃになった夢を見ちゃって。あなたも疲れてるのに、ほんとにごめんなさい」

 コリンズは自分の膝の上におかれた涼子の手を、そっとシーツの中へ戻してやりながら、優しく答えてやる。

「いいんですよ、室長代行。そりゃ、うなされたっておかしくありませんよ、あれだけの目にあったんだから。疲れてもいらっしゃるだろうし。それに私がたまたまトイレに入った時だったんですよ。まあ、歳とると、トイレが近くなってね」

 最後のコリンズのおどけ方に涼子もやっとクスッと笑顔を見せる。

「まあ、コリンズったらアナクロね」

「それだって歳のせいです。……と、じゃあ」

 そう言って立ち上がるコリンズの腕を涼子がさっと押さえた。

「? 」

 コリンズが不審の目線を涼子に向けると、涼子は怯えた子猫の様に儚げな、そして懇願に近い視線を送って、彼の顔を見上げている。

「ほんと、ごめんね? そんでもって、ありがと」

 コリンズは黙って頷き、涼子に微笑みかける。

 今度は自然に笑顔を作る事ができた、と思う。

 そこでふと思い付いて、彼はズボンのポケットから木彫りのキツネのアクセサリーを取り出して、涼子に見せた。

「? 」

 小首を傾げてキツネをみつめる涼子に、コリンズは話しかける。

「こいつぁ、私のばあさんが彫ってくれたもんです。実は私、ナヴァホ・インディアンの血が1/4混ざってるんですよ、母がドイツ系とのハーフなんですが。祖母の一族の伝承だと、キツネは夢見を良くしてくれる動物らしい。迷信と思われるかもしれませんが、結構よく効きますよ、コイツは」

 そう言ってコリンズは、自分の腕を掴んでいる涼子の手を離して開かせ、キツネを握らせた。

「今晩、お貸しします」

「可愛い……」

 涼子は、暗い室内でもすぐ判るほどに、黒い瞳をきらきらさせて掌の中のキツネに魅入っている。

「コリンズ、いいの? 」

「ええ、私は夢さえ見ない、アナクロな中年ですからね」

 涼子は眼を細めてクスリと笑い、ゆっくりと唇を開く。

「あのね、日本でもね? キツネは『お稲荷様』って言って、位の高い神様なのよ? 」

 コリンズは涼子を見て頷く。

「オイナリサマ、ですか? ……そう言えば日本人とインディアンは、容貌が似てますもんねえ。なんかどっかで繋がっているんですかねぇ」

 ベッドの上から黙って彼を見上げていた涼子は、不意に微笑むと、黙ってベッドの上で膝立ちになった。

 どうしたのか驚いていると、涼子はそのまま、ゆっくりと顔を近づけてきて、コリンズの頬にそっと、唇を落とした。

「室長代行」

 呆然とみつめるコリンズに、涼子は頬を染め、優しく微笑みかけて言った。

「今のはお詫びと、お礼」

 ペロッと涼子は舌を出して照れ隠しをし、ポスンとベッドに尻を落とす。

「ほんとに嬉しかったよ、コリンズ。もう知ってると思うけど、私、弱虫で泣き虫で恐がりなの。だから、目を開いた時、コリンズがいてくれて、ほんとに安心した。やっぱり、コリンズはプロのスパイね」

 コリンズは涼子の言う『プロのスパイ』の意味が解らず、少し眉根に皺を寄せる。

「だってさ、スパイを知らない人達は、非情だとか色々、言うけどさ。……私、思うの、違うんじゃないかって。やっぱりスパイは観察眼と洞察力が一番重要でしょ? そんな人って絶対、人間通だもの。人間通の人って、絶対、心の底では人間が好きで、周囲の人達をいつも愛情を持って見てるって、私、思う。そんなプロ中のプロのコリンズが、来てくれたって。ほんとに私の事心配してくれて来てくれたんだって、凄く嬉しくって」

 だから、お礼なのよ?

 コリンズは黙って涼子の話を聴いていたが、やがて彼女から顔をそむけて、ボソッと言った。

「室長代行。スパイなんてそんな格好の良いモンじゃありません」

 俺は何を言ってるんだと、喋りながら思った。

 だが、止める事が出来なかった。

「腹の中で何を思っていようが、いつも気持ちは仕舞っとくんですよ、邪魔ですからね。だけど、時々仕舞った気持ちが一杯溜まって、溢れ出しそうになる時がある。それを上手に整理するのがプロだって、教えられたもんなんですが」

 コリンズは、再び、ベッドの上の涼子に視線を移した。

 可愛らしい女性だ、改めてそう思った。

「私は、この歳で、未だプロにはなれてないなって、今、はっきり判りました。……だけど、それでも良いんだ、って同時に判りましたよ。課長のお蔭です」

 そしてコリンズはさっと涼子を振り向いて笑顔をみせた。

「お礼を言いたいのは、私の方です、課長。ありがとうございました。……それでは、おやすみなさい。良い、夢を」

「良い夢を」

 コリンズは部屋を出てから暫く、その場に立ち尽くし、頬に残る涼子の余韻を味わう。

「私の幸運の女神は、やっぱり貴女だ……。精一杯、守らせて頂きますよ」

 コリンズは、今度こそ迷うことなく、生涯情報部一筋で行こう、と決めた。

「痛! 」

 自室へ入る時、裸足の爪先をドアの角にぶつけてしまった。

 スパイとしての再出発を飾るには、甚だ心細い門出では、あった。

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