第73話 12-6.


 マヤは、眠れぬ夜を過ごしていた。

「でも、ほんとにじいがあっさり許してくれて、よかった」

 グロブナーハウスのロイヤルスイートで、マヤはベッドの天蓋を見上げて、胸のなかで何度も繰り返し沸き起こる想いを口にする。

「あんまり、手応えがなさすぎて拍子抜けだったけど」

 侍従長も、もう歳なのかな、とふと思う。


 新国王主催の晩餐会が終わって、ホテルへ戻った後、マヤは思い切ってじいに明日の涼子とのピカデリーサーカスお忍び行の件を切り出したのだ。

「……でね、じい。と言う訳で……。ダメ? 」

 出来るだけ落ち着いて、いつもみたいな喧嘩だけにはならない様に。

 マヤにしてみれば最終兵器である『お願い口調』まで投入したのだが。

 けれど侍従長はといえば、マヤの話が終わった後も、腕組みをして眉根に皺を寄せ「うーん」と唸ったきり1分以上、黙ったままである。

 マヤは、自分の言葉が終わらないうちから怒鳴り返される、と予想していたのだが、彼の想像を絶するリアクションに返って心配になってきた。

「ねえ? ……じい? 」

 顔を覗き込む様に語りかけるが、動きはない。

 マヤは、これまでにこんな”不気味”な彼を見た事がなかった。お蔭で少々パニックに陥り、饒舌に拍車がかかる。

「ね、じい? だからね? 私、4年前にニューヨークで命を助けてもらったでしょ? けど、なんのお礼も出来ないままにあの方は最前線へ行っておしまいになるし、ね? 私、ずっと気になっていたの。でね? 今日、ウエストミンスターであの方のお姿をお見掛けした時に思いついて、だからバッキンガムの晩餐会の席で私からお誘いしたの。ね? 私からよ。涼子様、大層渋ってらしたわ。だけど私が強引に、重ねてお誘いしたの。でね」

 後半は、マヤの咄嗟の嘘だ。

 涼子から誘われて~例え、マヤの方から誘うつもりで、渡りにフネだったとしても~ふたつ返事でオーケーしたなどと本当の事を言えば、じいはますます許してくれないだろう、と思ったから。

 だが、マヤの饒舌はここで打ち切りになった。

「姫! いくらじいが耄碌したとは言え、そう何度も何度も同じ事を繰り返されずとも、一度聞けばちゃんと判っております! 」

 侍従長が腕組みを解いて、いきなり大きな声でマヤの言い訳を遮ったのだ。

 マヤは肩を竦めて口を閉ざし息をのむ。

”しまった! 怒らせちゃった! ”

 マヤは臍をかむ思いで口を噤み、大人しく彼の次のセリフを待ったが、漸く得られた答えは、マヤの想像を大きく裏切る言葉だった。

 良い意味で。

「いいでしょう。せいぜい羽根を伸ばしていらっしゃいませ! 」

 侍従長は、カラッと一声笑ってそう言ったのだ。

「……え? 」

 マヤは自分の耳を疑った。

 せいぜいマヌケな顔をしていただろうと、今になって思う。

「い、いま、なんて言ったの? 」

「おやおや、姫。じいの事よりも、ご自分の御心配をなさった方が良いのではございませんか? 」

 彼は、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「せいぜい楽しんでいらっしゃいませ、と申し上げたのです」

 驚きしかなかった胸の内に、みるみる嬉しさが染み出してきて、驚きを追い出し、空いたスペースを埋めるのは、あろう事か、疑い。

「ほんと? ……じい、ねえ、ほんとに、いいの? 」

「くどうございますぞ、姫」

 彼はそう言って立ち上がり、窓際に歩みより、後ろ手にロンドンの夜景を眺めながら言葉を継ぐ。

「じいは4年前のあの日々をよーく覚えております。石動殿が地球から旅立たれた日から1週間の姫のご憔悴ぶり。……二度とあの様な姫のお姿など、恐れながら拝見しとうはございません。そして、1週間後に届いた石動殿からの手紙。あれを姫のお部屋に届け参らせたのは、このじいでございます。その意味では、じいにしてみれば、石動殿には姫のお命を二度も助けられた様なものです」

 即位を祝する花火がどこかで打ち上げられているのだろう、音は聞こえないが時折、じいの顔が光る。

 マヤはその綺麗な瞳から大粒の涙を流しながら立ち上がり、そっとじいの背中に近付いて、その老人に抱きつき、顔を背中に埋めた。

「ありがとう……。そして、ごめんね。あの時は随分心配かけました」

 侍従長もそっと目尻を指で拭う。

「姫、もったいのうございます。さ、お放しなさいませ、そして涙をお拭きなされ」

 彼はそう言うと、マヤの方に向き直り、照れ隠しか、自分の涙をみられまいとしてか、大声で笑った。

「まあ、それに石動殿とご一緒なら、姫の安全も確かでしょうしな」

 そう言うと彼は、何故か少し首筋を赤らめて咳払いをした。

「今まで黙っておりましたが、なにを隠そうこのじい、石動殿のファン、ですからな」

 それを聞いてマヤはただでさえ大きな瞳を、もっと大きくして驚いた。

「ええっ! うそ、じい! 今までそんな事、私聞いた事ありませんでした! 」

 侍従長は姫から視線をはずして、少し声を落とす。

「いや、まあ、改まって言う程の事ではございませんし……。まあ、あの美しさといい、ドイツ語の発音の素晴らしさといい、そして新聞などで報道されているような、勇敢な軍人としても……。とにかく実物に一度会っておりますから、その身贔屓というかなんというか」

 だんだんしどろもどろになっていく彼の言い訳が可笑しくてたまらず、とうとう、マヤは吹き出してしまった。

「アハハッ! じ、じいったら、そんなに弁解しなくても良いではないですか、じいったら、ほんとにおかしい! 」

「姫、そうお笑いにならずとも」

 身体を折って笑いつづけるマヤを、不機嫌そうに眺めながら、じいはボソッと言った。

「それにしてもなんですな、世の中上手くいかぬものですな」

 姫は彼の言葉の最後にひっかかり、ふと訊ね返す。

「なに? どういう意味です、じい? 何が世の中上手くいかぬのです? 」

 侍従長は、しんみりした顔をして言った。

「もしも石動殿が男性でしたら、じいは姫のご結婚相手として、真っ先に推薦いたしますものを」

 マヤは途端に顔を首筋まで真っ赤にした。

「まあ! じいはなんと言う事をいうのです! ……マヤはまだ、結婚などいたしません! 」

 言いながら、マヤは密かに侍従長へ反論する。

 涼子様は、女だからいいんじゃない。

 けれど、そう考えると、少し悲しくなってきた。

”でも、じいの言う通り異性なら、こんなに悩まなくてすんだのかも知れない、な……”


 就寝前の侍従長との会話を思い出し、マヤは呟く。

「でも、ほんとに明日、楽しみだわ。しかも、涼子様から誘って頂けるなんて最高の展開よね! ああ、何着て行こうかしら? 涼子様はどんな格好でいらっしゃるのかな? 明日、機会を作って、打合せしなきゃ! 」

 寝返りを打って、こうも思う。

「だけど涼子様のあの態度……。ほんとうに私の事忘れてしまわれていたようだったわ。でも、そんな事ってあるのかしら? 」

 どう考えても、あの涼子の態度は、お芝居の様には見えなかった。

 心底、初対面の様にしか見えなかった。

 人間あれほど見事に、たった4年前の出来事を完全に忘れてしまう事ができるのだろうか。

 幾ら考えても、マヤには不可能にしか思えない。

 いや、出来る人間もいるのかも知れない、けれど涼子の性格を考えると、そんな芸当は彼女にはとてもできそうにない。

 彼女が一番苦手とする分野だとも思えるのだ。

 もちろん、人間なのだから、本当に失念していることだってあり得る。けれど、もしもそうだったとしても、話しているうちに何らかの記憶の欠片が浮上してくることのほうが多いだろう。

 ましてや彼女は外交に携わるエリートだ。出会った経緯を説明されてもまだ思い出せない、その様なことは、考えられない。

 結局、”普通の人間には出来ない”、”完全に記憶から抹消してしまう”事を、涼子がやり遂げた、そうとしか思えないのだ。

 よく考えれば、そんな人間離れしたワザを使う涼子の方が、いかにも涼子らしい。ふと、そんな考えを脳裏に浮かべて、マヤはベッドの中で一人苦笑を浮かべてしまった。

 それに、いつも最後までマヤを迷わせていた心配事項、マヤと再会した事で、過去の忌まわしい思い出まで引き摺り出してしまうのではないか、涼子を哀しみの淵へ突き落としてしまうのではないか、そんな心配も、結局は杞憂になってしまったのだから。

 哀しいけれど。

「いいわ、それでも。もう一度、ゼロから始めればいいんだもの。明日はその第一歩。マヤと涼子様の第2の記念日になるのよ」

 いつの間にか、瞼が重くなってきた。

 意識を手放す刹那、天井に現れたのは、涼子の優しい微笑だった。


 マズアは、サザンプトンとケープケネディとの多次元会議が終わった後、武官室に戻り、ソファに座り込んだまま、帰宅するでもなく、溜まった仕事を片付けるでもなく、半ば放心状態でいた。

「酷い、話だ」

 少なくとも1年近く直属上官と部下~勤務地は違うものの~という、言わば最も近しい間柄にいた彼から見ても、どう考えてもそんなトラウマを背負っている様な人物には見えなかった。

 彼は、二尉の時代に半年程、統幕人事局募集部に籍を置いていた事がある。

 募集1課、幹部候補募集担当の一員として、全世界の高校や大学、大学院等を回った事もあるが、その時に課長から『こいつは、よくもまあ、ノビノビと健やかに育ちやがったもんだ、よっぽど健全で爽やかな家族に育てられたんだろう、って思われるヤツを探してこい』と上官に言われた事を思い出していた。

 涼子が両親を中学生時代に亡くした事は知っていたが、暗い過去など指の先程も感じさせない、明るさと素直さが彼女にはあるように思えた。

 つまり、その当時の募集1課長の方針にぴったり適った人物ってのはこういう人物の事だろう、と自然と思うようになっていた程だった。

「そりゃあ、実施部隊配置の時に比べれば、かなりネコを被っていらっしゃるのだろうが……」

 幕僚配置の他の同キャリアの人物と比べても、そう言う意味ではかなり”異色の”幹部だったけれど、それでもこれっぽっちも翳など感じさせられた事もなかった。

 しかし、けれど。

「今回の一連の襲撃事件での1課長の対応を見ていると、確かに頷かざるを得ない……。あれは、まるで違う人格だった」

 今日まで、よく笑う、ドジでお茶目な、泣き虫な、クールな、有能な、タフでハードな、可愛らしい、美しい、様々な涼子を見てきたマズアだったが、ついぞこれまで『残酷な涼子』にお目にかかった事はない。

 どんな時でも、彼女の最後の一線は優しさと思いやりだった。

 軍人として、非情な決断を迫られる場面も多々あっただろうが、そんな時でも涼子は最後までそのふたつを捨てた事はなかった。少なくとも自分の知る限りはそうだった。

 時としてどうしても捨てきれず、軍人としての常識から考えれば予測できない行動に出る事もある涼子だからこそ、それ故に、司令部や上層部から”異色”と評されてきた筈なのだ。

 そんな、『幹部軍人にあるまじき行為』の最たるもの、”我が身を楯にして”を常に実践してきた涼子が、いくら直接的な危害を目の前で加えようとするテロリスト相手とは言え、あれほど酷い仕打ちをするとは。

 しかも、マズアの目からは、どうみても涼子は、その行為を”楽しんでいる”としか思えないのだ。

「だが、それも、あのワイズマン三将ハカセの話を聞いて初めて、納得出来るような気がする」

 それにしても、確かに酷い仕打ちだ。

 話の途中で何度、通信をOFFにしようかとスイッチに手をのばした事か。

 確かに思春期ど真ん中、中学生時代にあれ程の衝撃的な体験を強いられて、よくもあそこまで”回復”したものだ、と思う。

 いや、回復等と言う生易しいものではない。

 あれは”肉体強制改造”ではないか?

 どんなアクロバットだ、それは。

 けれど、まあその点だけは、確かに彼女らしいと言えば、言える。

 あまりに深刻過ぎる話題であり、苦笑するしかないではないか。

「くっ、くくく……」

 マズアは、自分でも気付かないうちに、声を出して笑い出していた。

 そして同時に泣いていた。

 涼子の為に。

「あの中年スパイがこの事を知ったら……。さぞ、哀しむことだろう」

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