第71話 12-4.
小野寺が話し終えた後、暫くは誰もが、声もあげず、それどころか
そしてそれは、会議出席者全員を重苦しい雰囲気に叩き込んだ張本人である小野寺も、例外ではないようだった。
そんな彼の姿をスクリーンに認めて、サマンサは不意に寂しさを感じる。
次に、自分に腹を立て、そうよこれはあのバカを助けるためじゃないわ私が腹立ちを収める為に必要な儀式なの、とする必要もない言い訳を自分にしてから、ゆっくりと話し始めた。
「ここから先は、当時の主治医だった私がお話しましょう」
誰からも反応はなかったが、サマンサはそれを了承の印と受け取って言葉を継ぐ。
「私は、当時艦長だった軍務部長の許可を得て、まず彼女の心の闇……、トラウマを知ろうとしました。そして、医務室に運ばれて数時間後に覚醒した彼女に対し、まずは催眠療法による、閉ざされた記憶のリリースに挑みました」
サマンサはそこで言葉を区切り、用意していた自分の端末上で開いた診察記録のフォルダを、スクリーン上で自分が映っているウィンドウへ被せて表示した。
「詳細は、この画像に表示された内容をご覧頂ければ、ご理解頂けると思います」
これから話す内容で、『冷静な医学博士』の姿を見せ続ける自信はサマンサには到底なかったし、そしてそんな自分を、せめて小野寺だけには見られたくはなかった。
「私は、彼女が……。彼女がよくもまあ、これほどまでに回復したものだ、と心底驚きました。私の知る限り、一番微妙で繊細なこの思春期の頃、これほど決定的で衝撃的な傷……、身体精神両面でこれほど深い
声が震えそうになって、サマンサは思わず自分の掌で口を塞ぐ。
幸い、誰一人として、先を急かす者はいない。
落ち着け。
落ち着け。
私は、医者。
涼子は私にとって、嘗ての患者以上でも以下でもなく、そしてあの馬鹿だって同僚以上でも以下でもない。
そこまで考えて、最後は関係ないと気付き、一人赤面する。
「申し訳ありません。先を続けましょう。……結局、催眠療法の結果、彼女の症状……、いえ、病と言ってもいいでしょう、彼女のそれは、ご覧の通りの過去の体験が原因である事は掴めました。本来ならここで、私達医学者は、彼女に対して効果的な治療を施して行く必要があるのですが、結論から申し上げますと、それは出来ませんでした。通常、この種のトラウマに端を発する心の病は、催眠療法とカンファレンスを中心とした施療で、心のストレスの解消をじっくり続けて行く必要があります。しかし彼女は、未だ『施療』の段階にも達しない『検査』の段階で、既に表層心理、形而下記憶の表面にも浮かび上がってこない過去の体験の攪拌だけで、以後3日間に渡る心因性頭痛と発熱で意識混濁状態となり、入院が必要な状態になってしまったからです。これ以上彼女の傷を触るには、当時の戦闘艦艇医務室における設備の不足、臨床心理士やカウンセラーの不在、そして当時の私の知識やテクニックではとても無理でしたし、もっと端的に言えば、当時の精神神経医学界を見渡しても、彼女を救える人材などいなかった。自慢でも自信過剰でもなく、今、この瞬間でさえ、そんな医学者は世界中どこにもいません。私を含む数名以外は。そして、そんな私がはっきりと言えることは、入院加療を前提としてその治療期間は最低3年、最高10年以上は必要でしょう」
照れ隠しもあり、サマンサは少しだけ脱線を試みる。
そうでもしないと、これ以上話し続けるのが辛かった。
「人間の脳の働き、それは実に巧妙で精巧な働きを見せます。勿論、その働きの全てが、24世紀の今日、全て解明されている訳ではありません。言い換えれば、脳科学黎明期と言われる20世紀中盤から400年近くもかかって、未だに全容が解明出来ない程、複雑な機能、性能を持っている、とも言えます。例えば、この彼女の場合、思春期に受けた心の傷は、海馬の変形とシナプスの異常増殖による脳電気信号のオーバーロードを自動的に発動させる事によって……。簡単に言いますと、自動的に記憶を組み替え、思い出したくない出来事は『なかった』事にして、その間を自分に都合の良い、『嘘』の記憶に書き換える事によって、精神の打撃を回避しようとしているようです。これは、当時の脳断層撮影写真で証明されています。ですから、彼女が一連の襲撃を受ける都度、つまり『自分自身に危害を加えようとする異性』に対して、普段とは全く正反対の他虐的な、攻撃的な態度で接するのも、やはり防衛本能に基く行動であると言えます。一般的には、衝撃を受けた結果、一時的に心身喪失状態に陥る現象を『ゲシュタルト崩壊』と呼びますが、これはゲシュタルト崩壊に解離性同一性障害、いわゆる多重人格症状が加わった、心因性の
サマンサは、ふぅっ、とブレスを取って、先程よりは声を低めて言葉を継いだ。
「診断を下すには材料が少なすぎますが、それでも敢えて下すとすれば、形而上意思による脳海馬変形、シナプス回路の再形成等の複合症状を原因とする記憶障害発作が加わった、実に複雑なコンプレックスであると、私は思います」
全員が沈黙を保ったままだ。
医者としての説明責任は、彼等に対してはない筈だけれど、それでも話を続ける責任が今の自分にはある、そう思った。
「興味がおありでしたら、一度資料を入手して読んで見て下さい。DSM-Ⅸ、所謂『精神障害の診断と統計の手引き』に記載されている診断手順と治療メソッドが、彼女の場合にもそのまま適用可能だと私は考えていますが、それに従うと、まずは彼女の多重人格症状の治癒……、まあ簡単に言うと、本来の主人格の人格への統合が本来的には一番望ましい。けれど、人格統合で全ての症状を快癒させることが出来るのかと問われれば、それは判らないと答えるしかありませんし、実際、人格の統合だけをゴールと看做す施療方針は、現在でも危険であるとされ、可能ならばそれぞれ個々の人格を尊重しつつ、統合すらも”彼女達”の意思に沿うべき、とされています。たぶん、その治療だけでも数年を要するとは思いますが、それに成功したとしても、彼女がこの先、健康な精神状態を持って人生を歩んでいけるとは、私は、残念ながら思いません」
未だに続く沈黙が怖くて~サザンプトンの連中はいい、大の男が何人も揃っている、けれど私はケープケネディでたった一人なのだ! ~言葉を継いだ。
「五十鈴乗り組み当時、催眠療法の結果陥った意識不明状態の中、私は慌てながらも様々な検査をしました。その時、彼女の脳圧は恐ろしいほど高く、そして血液検査結果、その他の検査結果、全て脳腫瘍、又は偽性脳腫瘍と思われる結果が出ました。意識回復後、それは嘘の様に消えていましたけれど……。今なら判ります。彼女は忘れようとして、脳を改造し、そして本当に忘れたんです」
マクラガンが沈黙を破る。
「ワイズマン博士。質問なのだが、いいかね? 」
サマンサは、已む無く、資料画像を閉じて、自分の映像を映し出し返事をする。
目元が、流れたアイラインで滲んでいるのが、途轍もなく格好悪く思えた。
「実際、君は現在の彼女を直接診察したわけではないので、答えづらいとは思うが……。つまり彼女は、この一連の事件で症状が再発したと言う事かね? 」
マクラガンは少し居心地悪そうに、椅子の上で姿勢を直して質問を重ねた。
「これは、決して彼女の体験や症状を軽く見た発言ではないつもりなのだが、ね。……これは、その都度その都度、脳が発令する防衛命令であり、その危険が遠のくとまた、元の状態へ復帰できているように思えるのだが? 」
的確、且つ、いかにも頭の良い素人臭い質問である事に、サマンサは満足する。
防衛医大の学生にだって、これだけ筋の良いのはいない、とチラ、と思った。
「確かにそう見えるかも知れません。しかし、ほぼ24時間の内にこれだけの極限状況を体験し、その都度防衛しなければならない事態に立ち至る、と言う事は、通常ならば起こり得ない、という事をお忘れなく。先程ご説明しました通り、彼女の防衛本能は、後天的な脳組織の変化という、『物理的症状』を伴って行なわれているのです。勿論、先程の心理療法後の入院、と言う事例でも見られた通り、思い出すだけではなく、『追体験』まで迫られる訳ですから、そのストレスたるや到底計り知れない程の大きさでしょう。彼女と違いトラウマを持たない、一般の健康体の人間でも、PTSDになる可能性もあるほどです。……多分、本人は隠しているか、特別な症状とは考えていないでしょうが、事件の直後、他人格から戻った直後に、激しい頭痛や動悸、眩暈、吐き気などに襲われている事は、先程の駐英武官が提出した資料でも明白です」
サマンサは、ふっと短い溜息をつく。
「結論を申し上げましょう。この24時間の間に彼女に振りかかった様々な外因性ストレスの為、彼女の精神状態や身体条件は、急激に悪化しつつあります。このままのペースで事が続くと、彼女の心理的負担が物理的身体条件をオーバーする事はほぼ確実です。その結果、軽くて再起不能な心身喪失症、廃人に。最悪、ストレス性の急性脳腫瘍若しくは急性白血病、若しくは脳虚血発作や脳溢血、脳卒中と言った類の突然死が訪れるであろう事は、私の目から見て、70%以上の確率を持って訪れる筈です」
サマンサは喋り終えて暫くしてから、不意に軽い痛みを感じる。
気付くと、唇を噛み締めていた。
そんな自分に、少しだけ腹が立った。
「もう一度、先程駐英武官から報告があった時系列に沿った表をご覧ください。確実に彼女の行動はエスカレートしています。これは症状が進行している顕著な証拠であると言えます。特に、最後の病院屋上での事件、この影響度は重大と言えます。これは、見事に彼女のトラウマの原因の再現を強制的に迫ったものでしょう。これ以外の全ては、テロ犯人との対決と言う一面においては確かに共通性はあるのですが、SPの証言から類推すると、最後の事件だけは、明らかに彼女へ性的な意味での恐怖感を与えた筈です。これで、彼女のリミッターは外れる寸前になっていると思われます。もしも今後、具体的には一両日中に、一度でもこのような事件が起きれば」
言葉を区切る。
別にドラマティックな演出を気取ったつもりではなかった。
ただ、これから自分が吐こうとしている言葉の持つ残酷さに、彼女自身が怯んだだけなのだ。
「その時は、彼女の生命、これは生物学的な意味での生命も、人格を持った尊厳ある人間としての生命と言う意味からも、生命の危機に陥ると思われます」
画面に映る、思い思いのポーズで、しかし全員がやや伏し目勝ちに、考えに耽っている会議出席者を眺めながら、サマンサは諦めに近い境地に到る。
この場にいる全員が、取るべき立場は唯、ひとつしかない筈なのだ。軍人として。
石動涼子と言う、UNDASN部内の誰からも親しまれ、そして任務の上でも、最も将来を期待され、今この瞬間でも一番大切にすべき至宝ともいうべき存在。
いや、それ以前に、石動涼子という愛すべき個人を、こんな形で失いたくはないと、全員が考えているのだ。
しかし、軍人としての職業倫理に縛られている彼等に、それを正面切って口に出す事はできない。
今、第二次ミクニー戦役は、既に長期戦に入って永く、第一次戦役のような消耗戦の様相こそないものの、その戦況は漸く6:4で優勢にまで持ち込む事が出来たばかりだ。
そして実は、ここからが本当の勝負だと、国連及びUNDASNでは考えている。
太陽系内、地球に直接戦火が及ぶ事がなくなり、しかも戦局は優勢のうちに推移しているここ数十年。
国連の名の下に一度は結集した地球上の国家群だったが、戦争継続の為の戦費調達、主義主張、国家エゴが徐々に噴出し始め、第一段作戦の優勢勝ちが決定打となって、今、地球市民の間では、この果ても見えない惑星間戦争への厭戦気分が高まりつつある。
それはそうだろう、なにせ23世紀終末までに人類が営々と築き上げてきた高度な文明世界は緒戦の地球本星大爆撃による被害と、その後の継戦、侵略阻止の為の『国家総力戦』的な、あらゆる人と金と物資の総動員によって、いまや21世紀後半レベルまでその文明度は後退を余儀なくされて、尚且つそれを未だに市民達は受け入れざるを得ない状況なのだから。
未だに230以上にも分かれたままの国家群は、国民の意思を汲み取るべく動こうとするのは自然だし、何より、地球の盟主面をして強大な軍事力を背景に君臨するUNが邪魔で仕方ない、これが偽らざる本音である事も、誰もが理解している。
だからこそ、第二段作戦展開前に、今一度全国家の地球規模での団結を図る必要が出て来ていた。
でなければ地球は、ミクニーが今後少なくとも数世紀に渡って侵略の触手を動かせないほどのダメージを与えるまで戦い続ける事はできないのである。
その為の壮大なアピールがこの新英国国王即位に関する一連の行事なのだ。
勿論、これだけの各国首脳が一同に会する機会も滅多に無く、そこへ国連事務総長や国連防衛機構事務局長、UNDASN統合幕僚本部長統合司令長官が加わる機会など、今後10年間は望めない。
その為には、今、ホスト国英国の担当課長にして欧州室長代行でもある石動涼子の力は必要不可欠であり、そして、嘗ては国連担当であり国連本部駐在首席武官として全世界の首脳と国連主要スタッフの間で絶大な支持を獲得し、しかも今尚UNDASN随一の外交手腕を持つ彼女を、この期に及んでこの最重要任務から外す訳にはいかない。外せるわけがないのだ。
今後長期間に渡って能力発現を期待される彼女は、今この瞬間でもやはり、能力発現を期待されている事に変わりはないのである。
今年後半に予定されている第二段作戦にスムーズに着手する為には、この英国王即位関連行事は、例え、占領惑星一つをミクニーに奪い返されても、例え
惑星はもう一度奪取すれば良い。艦隊だって、どれだけ損害が出ようとも2年もあれば再編成できる。
しかし、この地球規模統一国家構想の第一段である、今回の英国王即位行事だけは外せない。
その為にも、リスク度が100%にならない限り、涼子を『最前線』から下げる訳にはいかない。
マクラガンはきっと、そう思っていることだろう。
兵科将校ではないサマンサにだって、それくらいのことは理解できる。
そして、溜息をついてこうも思うのだった。
石動涼子という、あの儚ささえ感じさせる美しい女性とは、いったい。
小説や映画ではあるまいし、一体地球上の何処に、地球の運命と天秤で量られる運命を持った女性がいるというのか。
ハッティエンが、涼子が自分の直属の部下である責任を感じたのか、普段にも増して重苦しい声で沈黙を破ったことで、サマンサは我に帰った。
「軍務部長とワイズマン博士の報告で、私は私なりに、石動君の直面している脅威を理解、したつもりだ。が、ここまでで、6回の襲撃、そして5人の犯人の現行犯逮捕と、ほぼ、脅威は排除された、とみて良いのではないか? フォックス派の現況や、今回の一連の襲撃手法からみても、襲撃は多くても後1回だろう? しかも、それも明日の本部長離英と共に終息する」
ボールドウィンが口を挟む。
「しかしフリードリヒ、それには第38号議案、マクラガン本部長離英を公表する事が前提だろう? 」
ハッティエンは、ボールドウィンの言葉に頷きながら続ける。
「無論、それが条件だ。だから、この第38号議案公表によって、第6の人物による襲撃、7回目の襲撃の有無に関わらず、石動君への脅威は自動的に去るのではないか、そう言っとるんだ」
ハッティエンの意見は、軍人として最も冷静な思考を経た、公正な判断だと、サマンサには思えた。
反吐が出るほど。
が、発言を終えて口を閉ざしたハッティエンの表情は、苦渋に満ちていた。まるで、口の中一杯に湧き上がった苦い唾を飲み下したみたいに。
そしてそれは、ボールドウィンの表情にしても同じだった。
それが意外なようで、しかしサマンサには抵抗なく、すっと胸に収まった。
と、そこでマクラガンが再び口を開いた。
「軍務局長、政務局長の意見はよく判った。……しかし、私には、あの2通の襲撃予告が気にかかるのだが」
それまで、無表情に座っていた、小野寺の表情が僅かに動いた。
「襲撃予告? 」
それまで、スクリーン上で静止画のように身動ぎもせずにいたマズアが、慌てた様に口を開く。
「ああ、申し訳ありません! 軍務部長、それにワイズマン三将にはお知らせしていませんでした。実は、バッキンガム宮殿で二度に渡って襲撃予告状が発見されました。何れも発見者は1課長、発見時の状況は」
マズアは簡潔に、発見時の状況、時間、文面、そしてそれらは情報部のコリンズの手で、プロファイリングに回されている事を説明した。
マズアの説明を聞く小野寺の表情が見る見る険しくなる。
それは自分だって同じなのだろう、考えながらサマンサは口を開く。
「駐英武官、その2通、イメージファイルにして今すぐ、こっちへ転送できる? 」
マズアの返事を待たず、サマンサは続けて会議メンバーに問うた。
「少し……、そうですね、5分……、いえ、3分ほど時間を頂けますか? その襲撃予告状を私もプロファイリングしてみたいのですが」
マクラガンが画面の中で頷いたのと殆ど同時に、マズアの画像が更に二分割され、コリンズから予め送付されていたらしい襲撃予告のイメージファイルが表示された。
サマンサが、自室の端末で参考文献を検索しながら、チラ、と小野寺の映像を見ると、彼の額に脂汗が滲んでいるのが見えた。
”こんなところだけ、敏感なんだから! 普段は鈍感なくせに! ”
彼の態度に腹を立て、そんな彼を簡単に引っ張り出す涼子に嫉妬を感じ、そしてそんなことを考えている自分が嫌になった。
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