12.秘密

第68話 12-1.


 簡単な医者の診察を受け、念のため一晩入院するように勧めてくるのを振り切って、予定通り負傷した記者と近衛兵を見舞い、ダルタンの部屋にもう一度顔を出して~案の定、彼にも酷く怒られた~病院を出たのは、日付が変わる直前だった。

 マズアは先にオフィスへ戻ったとリザに聞いて、涼子は迎えの車のリアシートで肩を落とした。

「マズア、まだ怒ってるのかな? 先に帰っちゃうなんて」

 怒られるどころか、愛想を尽かされても仕方ない程のことをしてしまった、その自覚はあるだけに、余計に堪えた。

 銀環が助手席から振り返って、救いの手を差し伸べてくれた。

「ノー・サー、緊急で会議があるからと仰ってました」

「会議? 」

 直属上官である涼子が知らない会議。

”なんだろう? ”

 マズアの性格からして、なにかしらの報告はあるだろうにと小首を傾げると、横からリザが口を添えた。

「室長代行の事件があって、言い忘れられたんじゃないですか? 」

「……私、顔に出てた? 」

 リザは微笑んで頷いた。

「とにかく、武官が室長代行に本気で腹を立てるなんて、あり得ませんわ」

 それならそれで、やっぱりマズアには申し訳ないことをした、と涼子はそのまま口を閉ざし、窓の外を流れる真夜中のロンドン市街に視線を向ける。

 たいへんな1日だったと、改めて思う。

 よく考えると、ヒースローの襲撃から、まだ24時間しか経っていないのだ。

 ヒースロー銃撃、ウエストミンスター寺院での守衛と近衛兵の襲撃、バッキンガム宮殿内でのメイドの襲撃、英国外務省でのカメラマンの襲撃、そしてついさっき起こった聖ジョーンズ病院でのナースの襲撃。

 実に4時間に1回、命を狙われた~自分が狙われたかどうかは別として~ことになる。

 その中でも特に気になったのが、先程の、病院屋上での事件だった。

 別に、最新の記憶だから、と言う訳ではない。

 あの時感じた、強烈なデジャヴの正体。

 けれど、あれは本当に”デジャヴ”なのだろうか?

 あのリアリティ。

 ひょっとして、いつかどこかで……、本当に自分が体験した事ではないのか?

 男に暴力で屈服させられる。

 そんな目に、昔、遭った?

 記憶がない。

 けれど、あの時感じた恐怖は、リアルだ。

 もちろん、現実にそういう目に合わされ掛けたのだ、リアルで当然といえば当然だ。

 けれど。

 何度も怖い目に合わされた事があるような気がしたのは、何故?

 ふいに、マヤの笑顔が思い出された。

”なんでマヤ殿下、なの? こんな時に”

 頭を振ってマヤの顔を打ち消すと、今度は育ててくれた伯母や伯父、従姉の顔が浮かぶ。

 一瞬涼子は、懐かしさが胸にこみあげてきて、窓ガラスに映る自分の顔が泣きそうに膨らんでいる事に気付く。

”そう言えば、おばさんやおねえちゃん、長い間、会ってないな。元気かな、二人とも。これが落ち着いたら手紙でも”

 そこまで考えて首を捻る。

 最後に手紙を出したのはいつだったろうか?

 年賀状は出した。

 ……筈よ、ね?

 ……え?

 急に視界がぼやける。

 あ、泣いちゃったかな、と指を目尻に当てるが、不思議と涙は零れていない。

 あれ?

 突然、頭の隅で、疼くような、何かが蠢くような感覚を覚えて、目を押さえていた指が無意識のうちにこめかみへと移動する。

 最後に、伯母や従姉に手紙を出したのは、いつ?

 やっぱり、年賀状?

 じゃあ、今年の干支は?

 だいたい、最後に彼女達と会ったのはいつだ?

 日本に帰国したのは?

 何処で会った?

 何を話した?

 そもそもどんな顔をしていたのだろう、私の伯母と従姉は?

 部屋には、写真を飾っているはず、なのに何故、思い出せない?

”落ち着け、落ち着いて、涼子”

 おまじないを唱えるように、深呼吸しながら、心の中で何度も呟く。

 大丈夫、落ち着けばちゃんと思い出せる。

 無理矢理、自分にそう思い込ませて、自分を納得させる。

 実は全然納得できていない癖に、そう思うだけで少し頭痛が楽になった。

 楽になった途端、涼子は不思議な感覚に襲われる。

”でも、どうして? なんで今、おばさんやおじさん、おねえちゃんなの? ”

 再び頭が疼き始める。考えれば考える程、頭が割れるように痛む。

 しかし、もう少し頑張れば、何もかも……、そう全てが溢れ出す様に、記憶が蘇りそうな気がした。

 それは確かな感触だった。

 だが同時に、それを思い出してしまえば、全てが破滅へと急速に突き進んでいきそうな、そんな暗い予感も、やっぱり確かな感触として感じていた。

 どうしよう。

 どうすればいいの?

 私、いったいどうなっちゃったの?

 私、いったいどうなっちゃうの?

 頭が爆発しそうだった。

 霞む視界に、小野寺の顔が浮かんだ。

”艦長……”

 彼が、普段通りのぶっきらぼうな口調で、言った。

『大丈夫だ。俺が傍にいる』

 その言葉だけで、生きていける、と思った。

 思った瞬間、ふ、と頭痛が嘘みたいに消え去り、同時に視界がクリアになった。

「室長代行、到着しました」

 リザの、気遣うような声が聞こえ、窓ガラスに映る彼の顔は、いつの間にか、リザの顔に変わっていた。

 我に帰って外を見ると、車は既に、武官事務所の地下駐車場に到着していた。


「室長代行! 」

 直前まで、まったくそんなつもりはなかった。

 しかし、涼子が武官室のドアを開いて顔を覗かせたのを見た途端、コリンズは思わず立ち上がり、大声をあげていた。

「本当に心配したんですよ! どういうおつもりですか、いったい! 」

 そこまで一気に言って漸く我に帰り、声を落として頭を下げた。

「あんまり無茶せんで下さい! この通りです。……どうか頼みます! 」

 みっともない、自分の草臥れた靴の爪先をみつめながら、情けなく思った。

 諜報部門のエージェントとしてはもちろん、一回り近くも年下の上官に、こんなにもいいように心を掻き乱されている自分はなんと馬鹿なのかと呆れてしまう。

 はぁっ! と溜息を吐き、ゆっくり頭を上げて、驚いた。

 涼子が、美しい顔を歪めて、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。

「し、室長代行? 」

「コリンズ、ごめんなさい! 心配させるつもりじゃなかったんだけど、ほんと、ほんとにごめんね! 」

 大粒の涙はすぐに滝へと変わり、涼子は、コリンズに駆け寄って首っ玉に抱きついた。

「私が悪かったの! だからコリンズ、許して! 」

 自分が女神と仰ぐ涼子に突然抱きつかれたコリンズは、その金壷眼を精一杯大きく見開いた。

 泣きじゃくりながら、ごめんなさいごめんなさいと繰り返す涼子の背中に思わず両手を回しかける。

 しかし、微かに涼子の黒髪に指先が触れた途端、まるで彼女の身体を透明のシールドが覆っているかのように、ピタリと手が動かなくなった。

”これ以上、みっともない姿を曝す訳にゃあ、いかんじゃないか。なあ、俺? ”

 口の中で、ひとつ、ふたつ、みっつと数をとおまで数え、さっきからマネキンみたいに同じ位置で停止している自分の両腕をゆっくりと動かし、首に巻きついている涼子の細い腕をそっと、壊さぬように、細心の注意を払い、掴む。

 力を入れず、ゆっくりと腕の重みだけで涼子の腕を首から分離させ、やれやれと口の中で呟いてポケットからハンカチを引っ張り出して涼子に差し出した。

 差し出してから、よかった今日コンビニで買ったばかりだと安堵する。

「判りました。自分の方こそ申し訳ありませんでした。ですから、ほら、もう泣かないで。万年二佐をこれ以上困らせないで下さい」

 涼子は頬を真っ赤に染めながら、しゃくりあげているのか頷いているのか、しきりに首をこくんこくんと振りながら、おずおずと彼の差し出したハンカチを受け取り、不器用そうな手つきでぐしょぐしょになった顔を拭き、最後にチン、と洟をかんだ。

「ハンカチ、ごめんね? ちゃんと、洗って返すから」

 いや構わんですよ安物ですどうぞ捨てちまって下さいと口の中でもごもご言いながら、コリンズは涼子に背中を向けた。

 これ以上彼女の顔を見ていたら、今度こそ、決定的な醜態を曝してしまいそうだった。

 たまたま向いた方向にコーヒーサーバーをみつけ、コリンズは足早に近寄ってマグカップを手に取る。

「ロンドンって街はまったく、ロクな豆がないですな。……それでもよければ、水分補給、どうです? 」

 チラ、と振り返ると、涼子が目を真っ赤にして、儚げな微笑を浮かべて頷いていたので、ほっとしながらコーヒーサーバーを傾けた。


「しかし、新記録でしょう。24時間で6件も襲撃があるというのは」

 やけに多弁なコリンズを見ながら、きっと照れているんだろうなと、涼子はぼんやりと考える。

「どうです。ご当地ロンドンにいることですし、ギネスでも申請してみますか? 」

「やだもう、やめてよ、コリンズ」

 苦笑を浮かべながら涼子は、彼が応接テーブルに置いてくれたマグを持ち上げた。

 はっはっはっ、と日曜日のご機嫌なお父さんみたいに笑うコリンズの顔を見ながら、懐かしいような、眩しいような感覚を覚え、涼子は思わず眼を逸らしてしまった。

「冗談です。申し訳ありませんでした、室長代行」

 コリンズは涼子の向かい側のソファに腰を下ろしながらズズッとコーヒーを啜って言葉を継いだ。

「いや、慣れない冗談を言うもんじゃありませんな」

「ううん、ありがと。お陰で、肩の力が漸く抜けたわ」

 涼子もコリンズに倣って、ズズッ、と音を立ててコーヒーを飲んでみた。

 普段より美味しく感じたのは、気のせいだろうか?

 そんな事を考えていると、コリンズがいきなり、話題の強引な軌道修正を行った。

「しかし、襲撃は少なくとも後1回はある。そう覚悟しておいて下さい」

 驚いてコリンズの顔を見る。

 さっきとは打って変わって、何の表情も読み取れない彼に、涼子は『プロフェッショナル』を感じ取った。

「在英フォックス派シンパ? 」

 コリンズは唇の端だけで笑って見せる。

「昨夜もご説明した通りです。ですから」

「……だから、『少なくとも』なのね」

 コリンズは、涼子の方に身を乗り出して、囁くように言った。

「くれぐれも、室長代行、銃だけは常時携帯して下さい」

「38号議案をプレスリリースするまでは? 」

 コリンズは少しだけ首を傾げた。

「聖ジョーンズ病院の例を見れば、マクラガン統幕本部長が離英したとしても、です」

 涼子はゆっくりと頷き、気を取り直すように口調を変えた。

「で、先の4人の取り調べ状況は? なんか吐いた? ”お喋り薬”、使ったんでしょ? 」

 コリンズも身体をソファに預けながら、口調を少し緩めた。

「ええ、情報企画課の専門官が到着しましたので、1時間ほど前に投与しました。残念ながらと言うか、当然ながらと言うか、効果は今のところ誰にも現れていません」

 涼子はマグの中のコーヒーを一気に呷ると、立ち上がった。

「ここまで来たんだもの。残りの襲撃と、お喋りが始まるのと、大して変わんないかも知れないわね」

 マズアも立ち上がりながら言う。

「仰るとおりです。しかし、後何回、が判るだけでも気の持ちようが違うのでは? 」

「あははは、それはそうね」

 コリンズは武官のデスクに置いてあったメモ用紙を取り上げた。

「今夜はここにお泊りと聞きました。武官よりこの部屋をお使い頂くようにと」

「あ、マズアが手配してくれたんだね。ありがと」

 メモを受け取って、涼子はなんとなくコリンズの顔を見る。

 遠目で判るほど、無精髭が伸びていた。

「コリンズはどうするの? また、スコットランドヤードへ戻るの? 駄目よ、ちゃんと睡眠とって、一日の疲れはその日のうちに解消しないと」

 ありがとうございますとコリンズは笑顔を見せる。

「いや、実は少し仮眠させてもらうつもりで、部屋を武官に用意してもらったんですよ。お喋り薬が効き始めるまであっちに用事はないし、5人目も入院中ですしね」

 そこまで言って、コリンズは今更のように室内をキョロキョロし始めた。

「そう言えばマズアの奴、どこへ行ったんだ? 」

 涼子はマグカップをシンクへと運びながら、答えた。

「ああ、なんか、緊急の会議だとかって聞いたわよ」

「この時間から? 何の会議です? 」

 さあ、知らないと答えて振り向くと、コリンズは腕組みをして天井を見上げていた。

「どうしたの? 」

 コリンズは暫くそのままの姿勢でじっとしていたが、やがて腕組みを解いた。

「いや、何でもありません。気の回し過ぎだな、こりゃ」

「疲れてるのよ、きっと」

 少なくとも彼を疲れさせている原因の一端は自分なのだ、そんな自分が言う台詞じゃないな、と涼子は自己嫌悪を感じながらドアを開いた。

「今日は本当にごめんなさい、そして、ありがとう。だから、早く眠って、少しでも疲れを取って? ね? 」

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