第66話 11-4.


「は。……は。仰る通りです。……いえ、室長代行は未だ目を覚ましておられません。……はい。……そうですね、たぶん職員の更衣ロッカーから。……え? ……ああ、はい。ここにおられます。……あ、コリンズ二佐は未だスコットランド・ヤードで。……あ、はい。……了解しましたアイアイサー。アウト」

 サザンプトンに繋留中の空母グローリアス内、IC2司令部との通信を終え、リザはベッドに横たわり静かな寝息を立てている涼子の顔を見、すぐに病室の隅で女性SPから事情聴取しているマズアの方へ視線を向ける。

 銀環が耳元で囁いた。

「ヤバいっすよ、先任。駐英武官、かなりトサカに来てるみたい」

 リザは黙って頷き、そっとマズア達の方へ近付いた。

 銀環の指摘通り、普段は大人しい駐英武官は、かなりの興奮状態だった。

 マズアの車に同乗したリザと銀環がUNビルに帰着し、ドアを開いて降り立った瞬間、マズアのアタッシュの中で携帯端末が非常警報をがなりたてたのだった。

 トァンからの第一報だった。

 再び車に乗ってホワイトホール目指して走り始めて3分、クリスマス島の警戒監視衛星団第二管制センター経由で英国上空の警戒衛星が捉えた病院屋上の画像を車内のAFLディスプレイでモニタして顔色を失くしながら聖ジョーンズ病院現着、それと同時に犯人重傷で確保、人質生存で救出の報。第一報から15分後のことだ。

 屋上まで駆け上がると、そこには白衣を血に染めて呻く看護師姿の不気味な男と、トァンに寄り掛かって眠り続ける涼子の姿があった。

 テロリストは緊急手術で、ついさっき、手術成功、入院2ヶ月との報せがあった。

 涼子は救命センターの空きベッドに運び込まれて、左頬に軽い打撲、両手首に軽い擦過傷がありますが、その他異常は認められません、ショックで気を失っているだけですねとの医者の診断に胸を撫で下ろしたのが30分前だ。

 それ以来ずっと、マズアは、怒り続けている。

 心配の余り、無事が判って余計に、可愛さ余って憎さ百倍、と言うところだろう。

”気持ちは判るけれど”

 そう思った瞬間、ついにマズアが切れた。

「貴様それでも警護要員かっ! 軽率すぎる、1課長になにかあったらどうやって責任を取るつもりだっ! 」

 怒鳴り声が部屋中に響き、マズアの右手がさっと顔の高さまで上がった。

「先任! 」

 銀環の叫びを聞くまでもなく、拙い、そう思った。

 手を上げられた女性SPは、覚悟したのか、きつく目を瞑り、身構えている。大人しく殴られるつもりなのだろう。

 19世紀や20世紀前半の軍隊とは違い、もちろんUNDASNは体罰禁止の軍隊である。

 下士官兵同士の間では、未だに陰湿な、一方的な階級間闘争があることは聞いてはいるし、それが事実だった場合には、容疑者は問答無用でUNDASN部内刑法違反で即座に統一軍事法廷送り。ましてや幹部から下士官兵への体罰ともなれば立派なスキャンダルだ。実際、過去に何度も刑事事件になっている。

 だから、今はマズアを止めなければならなかった。

 と、その時。

 リザの背後から、懐かしい~別れてから1時間ほどなのに、もう何年も会っていないように思えた~涼子の声が響いた。

「待って、マズア、お願いだから落ち着いて! 」

「涼子様!」

 銀環と見事にハモッてしまったのが、少しリザには気に入らなかったが、とにもかくにも二人で慌ててベッドへ駆け寄る。

「室長代行、大丈夫ですか? 」

「うん、大丈夫。ごめん、心配掛けて」

 涼子は泣き笑いの表情を浮かべ、リザと銀環に交互に視線を送る。

「ありがとね。ほんと、ごめんなさいね」

 涼子は言いながらベッドから降りようとし、押し留めようとする銀環を、彼女にしては珍しく強引に制して、ゆっくり床に下り立った。

「1課長……」

 一旦振り上げた手を下ろし、マズアが呆然と呟く。

 マズアは、涼子の頭の先から足の先まで視線を数往復させて、漸く安心したのか、深い溜息を吐いた。

”……グッドタイミングだったわ”

 リザもまた、密かに安堵の溜息を吐いた、その途端。

 突然マズアは表情を変えた。

 普段の謹厳実直な容貌からは想像も出来ない、怒りの表情を露わにして大声で怒鳴ったのだ。

「1課長! 貴女も軽率過ぎます! 自分お一人の身体じゃないんですよ! ましてや、こんな危険な状況でフラフラと出歩いて! 」

 涼子がビク、と身体を震わせ、歩き始めていた脚を止める。

「……失礼しました、申し訳ありません」

 マズアが、声を落とし、頭を下げた。

 再び顔を上げたマズアは、哀しそうな表情を浮かべていた。

「しかし、1課長。お願いします。もう勘弁してください。こんな思い、自分はもう、こりごりです」

「マズア」

 涼子は掠れた声で呟くと、ぴょこんと頭を下げた。

 まるで小学生が、先生に怒られて謝っているみたいだった。

 ゆっくり顔を上げた涼子の、普段は銀河を圧縮したようなキラキラと煌く黒い大きな瞳は、今は一杯に湛えた涙の滴で、それでもやっぱりキラキラと輝いていた。

「ごめんなさい! マズア。……ううん、リザも銀環も、トァンもラマノフも、それに心配してくれた皆、みんな、本当にごめんなさい! 」

 どれほど民主的になろうと、人権尊重の意識が隅々まで行き渡ろうと、UNDASNとて軍隊であり、軍隊である限り、階級差は絶対なのだ。

 そして、この狭い病室にいる多くの人々の中で、一番階級が高いのは、涼子なのである。

 一等艦佐、代将、アドミラル待遇。

 そのアドミラルが、まるで子供のように、目に一杯涙を溜めながら、頭を下げているのである。

 驚いた。

 そして驚き以上に、抱き締めたいほど、可愛らしかった。

 小学生の妹が出来たみたいで、可愛かった。

「わ、判りました、1課長。判りましたからやめて下さい。困ります、我々が困りますから! 」

 おろおろするマズアの姿が、やっぱり、好きな子を泣かせてしまった餓鬼大将のように見えて、少しだけ、リザには可愛く見えた。


「ゲシュタルト……、崩壊? 」

 思わず、耳に届いた聞き慣れぬ単語を、小野寺は鸚鵡返しに呟いた。

「うん。心理学的にはね、そう言うのよ。ゲシュタルト崩壊」

 小野寺がそのまま口を噤むと、彼女は機嫌良さそうに続けて解説をしてくれた。

「元々は高次脳機能障害のひとつではないか、って20世紀半ばにファウストってひとが症例報告したのよね。統覚型視覚失認として、大脳左半球の紡錘状回や海馬傍回後部の病変で発症することが多いのよ。でも、病理学的に問題がなくとも発症することもあって、そちらは認知心理学分野で研究されているの。今ざっと聞いた限りだと、そっちの可能性が高いかも。あぁ、あんた日本人だから良く判ると思うけれど、同じ漢字の羅列をじっと凝視し続けていると、漢字一文字を構成する部品……、ええと、偏とかつくりがバラバラになって、違う文字に見えたり、変な模様に見えたり、って経験ない?  ……それが心理学では自我、アイデンティティの崩壊、って意味で使われるわけ。全体性を持ったまとまりのある構造、即ちドイツ語の”ゲシュタルト”が、崩壊する。これまでの人生や、それで構築されてきた人格を本人が認識できずに、全然バラバラの壊れた人格になっちゃう、ってことね。簡単に言うと」

 全然簡単じゃないが、薄っすらと判った気になり、小野寺は漸く言葉を発した。

「記憶がなくなるのも、そのゲシュタルト崩壊のせいか? 」

 暫く受話器が沈黙する。

 自分の専門に対してはピュアなストイックさを見せる彼女らしい、そんな事をぼんやり考えていたら、それこそ彼女らしい、ハキハキとした口調で答えが返ってきた。

「それは多分違うわね。ゲシュタルト崩壊とは別ものよ。崩壊中の事象については、まあ、精神がパニック状態でしょうから記憶は混乱するだろうけれど、あんたが言う、即ち記憶喪失的な症状は、ないわね」

「その、ええと……、なんたら崩壊ってのは、ちょいと置いておいて、その記憶喪失って奴なんだが、それに罹ると人間ってのは、ご都合主義よろしく、忘れたい事だけ忘れられるもんか? 」

 クスクス、と彼女の無邪気な笑い声が受話器から洩れてくる。

「統幕軍務部長ドノに精神病理学の講義をするのもヘンなものね」

 ああ、コイツ俺をからかって楽しんでやがる、と彼は自然と表情が渋くなるのを止められない。

 昔から彼女は、そうだった。

「いいから、早く教えろよ、サム」

「あらあら、ごきげんナナメね、軍務部長ドノ? 悪いけど私、今のあんたの精神状態の方が興味あるかも」

 電話の向こうは、大西洋を挟んだ北米大陸、ケープケネディにある医療本部で、相手は臨床医学研究センター精神・神経科研究室長のサマンサ・ワイズマン三等艦将である。

 彼よりひとつ歳上だが独身の金髪碧眼のアイルランド系アメリカ人で、清楚な見た目とは裏腹に、”切裂きサマンササム・ザ・リッパー”の二つ名で有名な医学博士だ。

 UNDASNに籍を置く全ての医学者は、最低2年の実施部隊での軍医経験があり、もちろんサマンサも例外では無い。

 もともとは精神神経科を専攻していたのだが、戦場心理と戦闘疲弊症やPTSD、その後遺症を研究テーマに選び、研究の為と称して若い頃から最前線を10年間も渡り歩き、前線の将兵からは”名軍医”と高い評価を勝ち得ていた。

 その反面、手術好きで、何でも思いきりよくズバズバ切りまくり、”サマンサ軍医ドクター・サムは風邪でも手術”と揶揄される程で、小野寺に言わせれば、まるで軍医になるために医者を志したような、となる。

 しかし、一佐に昇って前線勤務が少なくなってからこっち、徐々にサマンサは臨床から研究室へと活動をシフトさせていき、最近では医療本部で研究一筋、ノーベル医学賞にも過去三度、何れも人類の脳の研究で候補に上がっている。

”あのサムがなぁ”

 そんなことをぼんやり考えていると、サマンサが受話器の向こうで言葉を継いだ。

「話を戻すと、さっきあんたが言った事は、まあ半分正解ってことになるわね」

 口調が、講義調になっていた。

「人間の脳は基本的に自己防衛本能を持っている。ヤな事はすっぱり忘れちまって、その分、楽しかった想い出を勝手に再構築して、その空白を埋める。トラウマが深ければ深いほど、そのシステムは効率的に働くわ。解離性健忘、とか呼ばれる」

 一息ついて、サマンサはやや、慎重な言葉使いになる。

「あんたの話を聞く限りでは……。ふむ、軽い発作的なゲシュタルト崩壊とその自己防衛本能の複合症状コンプレックスの様ね」

 サマンサは一瞬言葉を区切り、付け足した。

「ひょっとすると、解離性同一性障害……、いわゆる多重人格が記憶障害に関係しているかも」

 多重人格という単語に、小野寺はひやりとする。

「このまま放っといても、いいものか? 」

 また、暫く沈黙が訪れる。

「それは判らない。情報が少なすぎる。……でも」

「でも? でも、なんだ? 」

 サマンサの口調に引っ掛かりを感じ、思わず口調がきつくなった。

「でも、これが度々続く様じゃ、徐々に心はボロボロになっていく。最後には、廃人同様になるかも、ね」

 彼女にかかれば、全く身も蓋もない。

 慣れてはいるものの、やはり良い気はしない。

 その時、受話器の向こうでサマンサが息を飲む気配がした。

 数瞬の後、全く彼女に似合わない、少し上ずった調子の声が受話器に流れる。

「ちょっと待って。あんた今ロンドンだって? ……チャールズ15世の戴冠式? 」

 まったく、勘の良さまで昔のままだ。

「思い出したみたいだな、サム? 」

 今度こそ本当に、サマンサと長いつきあいになる彼も滅多に聞いた事のない、哀しげな溜息が受話器を通して響いてきた。

「うん。あの時の三尉、ね? ……リョウコ、……イスルギ」

「そうだ、石動涼子の事だ」

「……ええと、軽巡……、そう、五十鈴の時だったっけ? 」

「さすがに記憶力は良い、ノーベル賞候補だけのことはある」

 重くなりつつある空気を嫌って冗談ぽく返したが、案の定サマンサは乗ってこなかった。

「あの時の……、あの土砂降りの空の下、道に迷った子猫みたいに頼りなげだったあのが……、いまや統幕政務局国際部のエース、な訳か」

 受話器のこちらと向こうで、殆ど同時に溜息が洩れた。

 こんなところだけ妙に以心伝心だ、と彼は少しだけ物悲しい気分になった。


 サマンサは、卒業航海を終えて三等艦尉任官後初めて軽巡五十鈴に配置されてきた時の涼子を思い浮かべながら言った。

「そう言えば、あんた。あの頃、あのンこと、よく庇って、根気よく指導してたわね」

「……ん。そう言えばあの時、君に彼女のプロファイリングをさせろと迫られて困ったもんだ」

「でも、そう言いながらでも結局、あんたはさせてくれたじゃない」

 今度は彼が受話器の向こうで暫く沈黙する番だった。

 寡黙な彼との二人きりの時間が、どれほど貴重で愛しい時間なのか、あの頃判っていなかった自分を、サマンサはタイムマシンで過去に戻って怒鳴りつけてやりたくなった。

 が、それも束の間、彼がややあって口を開く。

「結局、俺一人ではどうしようもなかったからな」

「でも、あんたから貰った人事ファイルを見て驚いた。その後、彼女に催眠療法を試して……。あの娘の心の底の泥沼を見て、もっと驚いた」

 あの時彼女は、たった1回『軽く』催眠療法を施しただけなのに、その翌日から1週間入院しなければならないほど心も身体も参ってしまったのだ。

 涼子の話をネタにして、自分が彼との久し振りの会話に酔っていることに、サマンサはふと、気付く。

 思い出話をこれ以上続けても、自分が辛くなるばかりだ、サマンサは唇を噛み、徐に冷静な口調に戻した。

「で、何があったの? ここまでの話はあくまでも10年以上前の事。その後、そして今、彼女に何があったのか、教えなさい。ことによっては、あの娘のことだもの、ゲシュタルト崩壊だって心理学的な要因ではなく、大脳系の病変の可能性だってあるんだから」

 その時、サマンサの耳に、彼の部屋で鳴る緊急呼び出しのブザーの音を聞いた。

 思わず、舌打ちしてしまう。

 あの頃は、自分が一身に受けていた彼の全てを緊急呼び出しに奪い去られたように思えて、同じように急患だ患者の容態急変だとしょっちゅう緊急呼び出しを受けていた自分のことなど遥か高みの棚に祭り上げて腹を立てていた。

 今の自分なら、どうだろう?

 今なら、そんな全てをひっくるめて、彼のことを。

「サム、すまん。また後で連絡する」

 彼の緊迫した声が、サマンサの後悔とも妄想ともつかぬ思いを現実へ引き戻す。

 溜息混じりの返事をする自分が、わざとらしくて嫌になった。

「アイ。……でも時差も考えてよね」

「善処するよ」

 サマンサは通信~と言っても、外線一般回線だが~を終了しようとして、今まで口にしなかった事を思い切って訊ねてみた。

「ちょっと待って! 」

 今なら、聞けそうな気がした。

「ん? 」

 静かに1回、深呼吸。

「……あんた、ひょっとして、今、あの娘と」

 そこまで言っておきながら、サマンサは予想される幾つかの答えの中のひとつを聞くことを怖れて、口篭ってしまう。

 そんなサマンサの躊躇いを置き去りにして、彼は、一瞬の間を置いた後に、静かに呟いた。

「……ん。まあ、そんなところだ。じゃ」

「……ん」

 サムは受話器をゆっくりと戻し、そのままの姿勢で、ポソ、と言葉を落とす。

「……やっぱり、か」

 ああ、自分は。

 遅かったんだな、と。

 サマンサは、そのままの姿勢で、少しだけ、泣いた。

 そんなこと、とっくの昔に判ってたんだ。

 彼と、別れた瞬間から。

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