第65話 11-3.


 エレベーターホールの手前にあるナース・ステーションで、トァンが所在無さげに立っていると、花束を抱いた涼子が病室の方からトテトテと小走りでやってくる姿が見えた。

 豪華な零種に大きな花束を抱いた涼子の姿は、まるで幸せをいっぱいに両腕に抱えた花嫁のようにも見えた。

「あ、室長代行、どちらへ? 」

「被害者お二人の病室へ。花瓶、あった? 」

「はい、いま看護師さんが探してくれてるんですけど、なんか時間かかっちゃって……。あ、自分もご一緒します! 」

 トァンがカウンターから離れようとすると、涼子は笑顔でそれを押し留める。

「ああ、いいっていいって。確か、二人ともこの1フロア上なんだし、ラマノフも先行してるでしょ? それぐらい大丈夫よ。それよりトァン、ダルタンの傍にいてあげて? 私、すぐに戻るからさ」

「し、しかし、スタックヒル補佐官より、室長代行から目を離すな、と言われておりますので」

 トァンの抗議に、涼子は微苦笑を浮かべる。

「よっぽど私、頼りないって思われてるのね。まあ、確かに頼りないけど、でも5階と6階くらい、一人で往復できるわよ」

「でも」

 食い下がろうとするトァンの声と、ケージの到着を知らせる電子音が重なった。

「あ、丁度来た」

「室長代行、お待ちを」

 後を追おうとしたトァンの背後から、中年の看護師が顔を出して呼び止めた。

「ごめんなさいね、散々探しちゃったわ。花瓶あったわよ、これでいいかしら? 」

 トァンは反射的に背後を振り向く。

「え? あ、ちょ、ちょっと後で」

 言いながら再び振り向くと、涼子はニコニコ笑って既にケージの中で手を振っていた。

「あ、駄目です! 」

 トァンの制止の声は、今度はケージ内の先客らしい女性看護師~今時珍しい、ワンピース型のナース服だ~の声と重なる。

「閉まりますよ」

「あ、すいません、行ってください」

 涼子の返事が終わらないうちにドアが閉まり始めた。

「待っ」

 トァンは慌ててエレベータへ突進するが、あえなくドアは閉まってしまい、急いでボタンを叩くが、ランプは上昇を示している。

「ごめんなさい! 後で取りに来るから、置いといて! 」

 トァン・スーは看護師に言い捨てて、リノリウムの床を蹴った。

「非常階段は・・・・・・、あった! 」

「こらぁ! 院内を走っちゃ駄目ですっ! 」

 エレベータ脇の階段室に飛び込んだトァンの後を看護師の叱責が追い掛けてきたが、当然無視だ。

「涼子様ったら、お茶目なんだから」

 涼子のひまわりのように鮮やかな笑顔を思い出しながらステップは三段飛ばし。

 後であの親戚のおばちゃんみたいに陽気な看護師に怒られなければならないのかと考えると、ちょっとだけ憂鬱になった。


「心配してくれるのはありがたいけど……」

 後になって思うと、少し意地になっていたのかな、と涼子は思う。

 もしくは、数々の襲撃をかわして来た事で、天狗になっていたのかも、とも。

 密かに吐息を落としていると、チン、と言う安物臭い音と共に、エレベータが1フロア分上昇し、扉が開いた。

 涼子が背後にいる先客の看護師に軽く会釈して降りようとすると、突然、眼の前に大きな掌がヌッ、と現れた。

「! 」

 声を上げる間もなく、涼子は口と鼻を一度に塞がれてしまう。

 花束が床に落ちた。

 手を払い除けようとする間もなく、涼子は凶暴な力で後ろに引っ張られ、あっと言う間に羽交い絞めされていた。

 まるで磔にあったみたいに身動きがとれない。息もできない。

 誰か気付いて!

 助けて!

 後悔で胸が張り裂けそうになるが、Closeボタンのない病院のエレベーターはのんびり全開状態だと言うのに、誰も通らない、ナースステーションから顔も出ない。

 涙が滲む視界が、ゆっくりと狭まり始める。

 ドアが閉まるのを阻止しようと、なんとか動かす事の出来る右足を思い切り前に伸ばしたが、パンプスの先はドアに跳ね飛ばされてケージの外へ転がり出て、けれどセンサーはそれを感知しなかったようで、むなしくドアは閉まりケージは再び上昇を始めた。

 身体に、病院のエレベーター特有の軽い、緩やかなGを感じた瞬間、鼻と口を覆っていた掌の力が不意に緩まった。

「ぷはっ! 」

 思わず大きな呼吸をした途端、どん、と凶暴な力で涼子は弾き飛ばされてしまう。

「きゃあっ! 」

 壁にぶつかり、けれど拘束が外れたのは確かだと身体を捻る。

 最初に視界に飛び込んできたのは、看護師の白衣、胸の名札だった。

”おっきい! ”

 涼子の身長は約170cm、それが正対して胸の辺りということは身長2mを優に超える。

 その体格の持つパワーの大きさを想像して、涼子は思わず恐怖を覚え、ふらっと数歩、後退さろうとしてケージの隅に自分自身を追い込んでしまった事に気付いた。

 その途端、看護師の右手がさっと上がり、顔面めがけてパンチが襲いかかって来た。

「やぁっ! 」

 涼子は瞼を固く閉じ、反射的に両手を揃えて顔の前にかざす。

 掌がパシッ、と乾いた音をたてて、看護師のパンチを辛うじて受けとめた。

 あれ?

 思ったほど痛くない?

 なんでと不思議に思った次の瞬間、ガシャンという金属音が響き、手首の辺りにひんやりと冷たい感触を覚えた。

 はっと目を開けると、自分の両手首に手錠がはめられ、その向こうで看護師が『無精ヒゲ』の顔に不気味な笑みを浮かべ、H&K-P8のマズルを涼子の眉間に突きつけていた。

「……男? 」

 涼子の呟きに重なって鳴った電子音とともにケージのドアが開き、冷たく強い風が吹き込んできた。

 涼子は、背中に走った悪寒が、女性用制服を着た看護師が男だった事が原因なのか、単に吹き込んだ冬の風が原因なのか、よく判らなかった。

 チラ、と背後に視線を走らせると、そこは旧館屋上のようで、真っ黒な空を背景にはためく洗濯物の白いシーツが、妙に眩しく見えた。


 看護師制服で女装した男は、涼子の両手首を拘束している手錠の鎖を掴むと、乱暴に自分の胸へ引き寄せ、銃を背中に押し当て突き飛ばすようにして歩き始めた。

 屋上の塔屋にあるエレベーターホールから一歩外へ出ると、2月中旬のロンドンの夜風は身を切るほどの冷たさだ。

「い、痛い! 」

 大股で歩いている男の脛が、爪先が、容赦なく涼子の足を蹴り飛ばす。

 手錠の鎖が手首に食い込む痛みが、裸足の片足の切れるような冷たさを麻痺させる。

 涼子は必死で、地面に足を突っ張ってブレーキをかけようと試みるが、無駄な抵抗だった。

 寒さと痛み、それとこの先に待ち構えているだろう恐怖に震えながら、涼子はチラ、とスカートに隠れている自分の右足を見る。

 銃があるのに。

 ガーターベルトを調達してきてくれたチャンニの可愛らしい笑顔が脳裏に浮かんだ。

 それを皮切りに、トァン、ヒギンズ、マズア、リザ、銀環の怒った顔が、順番に脳裏に蘇える。

 後悔先に立たず、とはこのことだと、自分の迂闊さを呪った。

 ごめん、ごめんなさい。

 みんな、本当に、ごめんなさい。

 最後に小野寺が現れた。

 いつも通りの無表情だった彼が、物凄く彼らしくて、こんな状況だと言うのに不意に可笑しくなって笑いそうになった。

 そのせいだろうか。

 小野寺が、落ち着け、大丈夫だから、と言ってくれているような気がした。

 お陰で、妙に開き直った反抗精神が湧いてきて、涼子は身体を捻って男にぶつかるようにして歩みを無理矢理止めて怒鳴った。

「ちょ、ちょっと待って、待ちなさい! 痛い、痛いじゃないの! 」

 少し語尾が震えているのが、情けなかった。

 男は少しだけ驚いたような表情を浮かべた後、まるで虫けらを見下すような暗い光をその両目に浮かべて数歩、涼子から離れた。

 もちろん、手錠の鎖は掴んだままだったが。

「貴方、何者? ……フォックス派? 」

 間抜けな質問だと自分でも思ったが、相手もやっぱりそう思ったようだ。

「だったら、どうする? 」

 嬲る様な反問に、本気で腹が立った。

「そっちこそどうする気? 」

 男は、涼子の質問に答えず、低い声で再び質問を重ねてきた。

「この病院に来たのは、お前一人か? 同行者は? 」

 その問いこそが涼子の質問への答えだった。

「統幕本部長ならここにはいないわ! もう、サザンプトンの空母グローリアスへVTOLで戻られた、貴方達にはもう、彼を襲うことなんて出来ない! 」

 男は、そこで初めて、人間らしい表情を浮かべた。

 即ち、瞼を閉じて、ふっと短い溜息を落とすと、小さくフランス語で呟いたのだ。

 そうか、遅かった、と言う訳か。

「判ったなら、私を解放して投降なさい! 私はここへSP達と一緒に来たの。今頃彼等が私を捜索しているわ、この状況で発見されたら貴方、射殺されるわよ」

 一瞬射し込んだ光明を、しかし男は容赦なく、素早く握り潰した。

「射殺? 人質がいるのにか? 」

「残念だけど、私達は軍隊、私は軍人。警察じゃないの。人質ごと射殺するくらいなんともないのよ! 」

 声が震えて、ただの強がりと取られないだろうか? と心配したが、杞憂だったようだ。

 期待した方向とは逆だったが。

「神たるミクニーの御許へ逝けるのだ、殺されるのは別に怖くない」

 看護師の格好をした2mを越す大男、と言うだけでもかなり不気味なのに、その不気味さを一層際立たせるような下司な笑いを唇の端に浮かべて、男は喋り始めた。

「と言う事は貴様が、そうか、リョーコ・イスルギか」

 涼子はコクン、と無言で頷く。名乗るのは、何だか嫌だった。

「これから、貴様を殺す」

 男は、あっさりと、涼子に絶望を突き付けた。

「神敵マクラガンを殺すことが出来なかったのは無念だが、今回は諦めよう。なに、この先まだまだチャンスはあるだろう、俺が駄目でも同志達がやってくれるさ」

 思わず、お願い、助けて、と叫ぼうとする口をありったけの意思の力でどうにか飲み込んで、涼子は継戦意思だけは未だ捨てていない事を代わりにアピールする。

「私を殺したら、貴方だって殺されるのよ! 言ったでしょ、SP」

 最後までアピールする事は叶わなかった。

 気付くと頬に痺れるような、火傷したような熱さを覚えていた。

 頬を平手で打たれたのだと気付いた途端、足から力が抜けて倒れそうになった。

 次の瞬間手首に激しい痛みを感じた。

 倒れることも許されないようだった。鎖で身体を吊り下げられていた。

「言っただろう? 別に殺されること自体は恐ろしくもないと。まあ、マクラガンの命を取れなかったのは悔しくはあるが……」

 男はそこでいったん言葉を区切ると、涼子を嘗め回すような視線で見つめ回して、口調を下卑たそれに切り替えた。

「アンタ。そそるねぇ」

 全身に一気に鳥肌が立ったのは、決して冷たい外気のせいではないだろう。

「な、に……、言ってる、の? 」

 刹那、男に足を払われて、涼子は仰向けにコンクリートの床へ転がった。

 痛みよりもコンクリートの冷たさが辛いと思った。

 次の瞬間、まるでワープしてきたみたいに男の顔面が視界を覆った。

「神の御許へ送って貰う前に、現世の楽しみをもう一回味わうってのもいいかもなぁ? 」

 男は、今度こそはっきりそうと判る下卑た笑いを浮かべながら、暫くは涼子の身体を隅々まで舐めるような視線を送っていたが、やがて、一点で目の動きが止まる。

 倒された時に、ロングスカートのスリットが割れて付け根まで露わになった脚を見られているのだと判った。

「ほほう、銃を持ってるのか……。でも、これじゃあ使えないなあ」

 男は耳に障る笑い声を聞きながら、せめて、腿を、銃を隠そうともがくが、どうやっても動かない。

 男の脚が乗った足首が、今更ながら痛みを脳に伝えてきた。

「……やぁ」

 思わず唇から声が洩れた。

 視界がぐにゃぐにゃに歪み始める。

 涙のせいではないと、すぐに判った。

 気が遠くなりつつあるのだ。

 頭の隅で、疼くような痛みが産声を上げたのと同時に、強烈な既視感が蘇える。

 以前、こんなことがあったような気がする。

 今朝、ホテルで感じた、汚らわしいあの視線?

 宮殿内で記者質問を装った、あの声、あの視線?

 違う。

 悪寒を覚える、それは同じだけれど、何かが違う。

 この男じゃない。

 なんの確証もないが、それは確実に違うと思えた。

 同時に、この男も、別人ではあるが『当面の目的』は同じだということも、確実だと思えた。

「ぃやぁ……」

 思わず涙声が洩れる。

 みっともない、格好悪い、そう思った。

 思ったが、それでも構わない、とも同時に思った。

「お前も、楽しめ。終わったらすぐに殺してやる。ここは屋上、突き落としても良いし、射殺してやってもいい。ああ、お前の言う通り、SPに一緒に射殺してもらうってのオツかも知れねえなあ」

 男の持った銃が、ゆっくりと、動いている。

「お互い最後だ。楽しもうぜ? 」

 男の言葉に瞼を固く閉じた刹那。

「銃を捨てろ! 」

 甲高い女の声が聞こえた。

 頬を撫で回す生暖かくて気味の悪い吐息がさっと遠ざかり、暗い幕の張られた視界が、薄っすらと明るさを取り戻した。

 ゆっくりと瞼を開くと、男が上半身を起こして、どこかを驚いたような表情でみつめていた。


 階段を駈け上がり、1フロア上の階段室のドアを開けて6階の廊下に出たトァン・スー二等陸曹の目に飛び込んできたのは、廊下に転がった見覚えのあるハイヒールのバックベルト・パンプスだった。

 その周囲を赤いバラの花弁が数枚、ショウウィンドウのディスプレイ演出のように取り囲んでいるのが、一瞬綺麗だと思った。

「違う! 」

 我に返り、トァンはジャケットのサイドベンツに手を突っ込んで、使い慣れたハンドガン、ブローニングオートマティック12を腰から引き抜く。

 首を振り、廊下の両端を見渡すが人影は無い。

 ナースステーションのカウンターに駆け寄って首を突っ込み、奥の方で同僚同士談笑している看護師達に声をかけた。

「ついさっき、誰かこの廊下を通った? エレベータから誰か降りてきた? 」

 銃を見て怯えた表情の看護師たちは揃って首を横に振る。

 振り返り見上げると、涼子が乗った筈のエレベータのランプは「R」、屋上で停止している。

 トァンは大きく一度深呼吸をし、ゆっくり手を伸ばしてジャケット襟のボタンホールに付けたUNDASNアンカーマークの裏に仕込まれた小さなボタンを押す。

 これで、駐英武官事務所幹部と滞英中の全警務部員に非常警報エマージェンシーが流れた筈だ。

 今回、統幕本部長暗殺計画が明るみに出た時点から、英国政府の許可も得てロンドン上空に貼り付いている警戒監視衛星2基が、UNDASNのIDカードに埋め込まれたIC発信機の信号トレースと、この非常警報の発信位置トレースを作動させていることを、トァンは理解していた。

 トァンは一瞬、看護師達に言って警察を呼ぶように頼もうかと思ったが、思い止まった。

 もし本当に涼子がテロリストに拉致されているとしたら、サイレンを高らかに鳴らして接近するパトカーの群れは、却って危機を招く。

 トァンは階段室まで戻り、上層階を見上げた。

「屋上まで3フロア」

 はやる心と身体を必死に捻じ伏せ、セオリー通りに、足音を立てず、物陰から物陰へ、安全確認しつつ素早く移動する。勿論、その都度マズルを全方向に突き出す事も忘れない。

 1フロア分上がった時、耳に指し込んだイヤホンに切迫した声が飛び込んだ。

「駐英武官、マズア二等陸佐だ、現況レポート、送れ!」

 トァンは階段をゆっくり昇りながら、喉に手を当て、骨振動マイクを上からそっと押さえて無声音で応答した。

「統幕警務9課、トァン・スー二等陸曹です。現況、コード9828キューハチフタハチ990キューキューマル、ステータス・レッド。テロリストによる欧州室長代行拉致と推測されます。現在、聖ジョーンズ病院旧館屋上へ向かっています、送れ」

 イヤホンから息を飲む音が聞こえた。

了解した10-4。室長代行の安全を最優先に。手近の要員は全員応援に向かわせる。但し、ストーキングさせるから、到着次第連絡する」

 次の瞬間、感情を押し殺した命令口調の声が一転、心配を顕わにした声に変わった。

「二曹、頼んだぞ。あの女性を、石動1課長を死なせる訳にはいかん」

 トァンは相手に見える筈も無いが大きく頷き、静かに答えた。

「10-4。間も無くCAクライシス・エリア(対敵危険地域)にフェンスイン、オーバー」

トァンは大きく深呼吸して一気に1フロア分を駈け上がった。


 塔屋に出ると、エレベータのボタンを押す。

 壁に背をつけ、ゆっくりと開いたドアの中にミラーを差し込む。ケージの床には花束、乱雑に散らばったバラの赤い花弁が、まるで涼子の流した血のように見えて、胸が痛んだ。

 落ち着け、落ち着くのよ。

 大きく深呼吸を一回、骨振動マイクを押さえる。

指揮所オーバーヘッド、聖ジョーンズ病院、スー二曹。ブルズアイを旧館屋上と特定。繰り返す、ブルズアイは旧館屋上、送れ! 」

 言い終えてから、ブローニングをもう一度握り直し、さっと屋外へ走り出て、3m程先にある床から突き出た排気口に身を隠す。

 何処だ? 何処にいる?

 本当なら旧館に寄り添って立っている高層建築の新館の窓の灯りで明るく照らされているだろう旧館屋上はけれど、就寝時間を過ぎている為か、暗い。余りにも暗かった。

 どうしよう? 何か気配はないのか?

 焦るトァンの心に反応したのか、刹那、パン、と何かを打ったような音が耳に届いた。

 いた。

 トァンは無言のまま、腰を落とし、銃を持った手を進行方向に伸ばして、物陰から物陰へと伝いながら音の響いた方向を目指す。

 そろそろ屋上の中央付近だ。

 不審感がトァンの脳裏を過ぎった。

 こんなところで犯人は、人質を連れたまま何をしようとしているのだろうか?

 単純に逃げようとしているのならば。

「屋外非常階段から地上へ降りる気かしら? 」

 思わず呟いた瞬間、20m程先、フェンス手前10m程の排気口の手前、女性にしてはやけに背の高い看護師が手に何かを持って立っているのが視界に飛びこんできた。

「? 」

 目を凝らすと、その看護師が持っている手に持っている『物体』は、涼子の後姿だった。

 見る間に、看護師は足を掛けて涼子を仰向けに押し倒し、覆いかぶさる様にして二人はコンクリの床へ蹲った。

 チラリと見えた左手には、暗闇でもそれとすぐに判る黒光りする見慣れた物体が握られていた。

「銃だ! 」

 応援が来るまで待つべきか?

 刹那、トァンの理性がそう耳元で囁く。

 が、次の瞬間には、なけなしの彼女の理性は本能に見事にぶっ飛ばされていた。

 遠目から見ても判る。

 レズビアンなのかなんなのかは知らないが、あの銃を持った看護師が、涼子に迫っているその、理由。

 カッとした。

 眼の前が、瞬間的に真っ赤になった。

 ああ、私、怒ってる。

 SPになってから、これほど心に正直に、湧き上がる怒りを抑えずにいたことなんて初めてかもしれない。

 頭の片隅で冷静に自己分析しつつも、トァンはやっぱり怒りに身を任せて立ち上がり、ターレットスタンスでブローニングを構えて叫んでいた。

「銃を捨てろ! 涼子様から離れなさい! 」

 看護師は驚いた様に上半身を跳ね上げてこちらを向いた。


「銃を捨てろ! 涼子様から離れなさい! 」

 遠ざかり小さな点となって、もう数秒もすれば消えるだろうと思われた意識が急激に蘇えった。

 男は既に上半身を起こしていて、その拍子だろうか、床に縫い付けられたように動かなかった両足が軽くなっていた。

 殆ど無意識のうちに涼子は脚を蹴り出していた。裸足の爪先は男の下腹に見事に決まる。

「ぐっ! 」

 腹を蹴り上げられた男は、今度は伸び上がった上半身を、そのまま背中のほうへ傾がせた。

手錠を握られたままの涼子の上半身も、その動きにつられて自動的に起き上がる事が出来た。

「くっ! 」

 男は涼子を錘にして仰向けに倒れることは防いで、ハンドガンのマズルを数度、涼子と涼子の背後にいるのであろう声の主の間で彷徨わせた。

 逃げ出すチャンスの筈なのに、涼子はけれど動けない。

 意識は覚醒していたが、頭痛は一層酷く、目が霞み、呼吸が苦しい。

 ひょっとしたら泣いているのかも知れない、とふと思った。

 刹那、甲高い銃声が2回立て続けに暗い夜空に響いた。

「がっ! 」

 途端に男は、右手上腕部と左肩から血飛沫をあげ、苦悶の表情を浮かべて仰け反りながら、よろよろと数歩、後退さる。

 鎖から、男の手が離れた。

 反動で今度は涼子が床へ仰向けに転がりながら、それでも今度こそチャンスが巡ってきた、そう思った。

 ガーターベルトでホールドされた、右足太腿のCzへ両手錠のまま指を伸ばす。

 再び甲高い銃声が屋上を駆け巡り、木霊が返り始めた時。

 排莢されたカートリッジが床へ落ちた場違いに涼しげな音と、男の血に塗れたP8が落ちる音が重なった。

 2発の.45弾と1発の9m/mパラを、右腕、左肩と左手甲に受けて、男は膝から崩れ落ち、それまでで一番大きな音を立てて、コンクリートの上に仰向けに横たわった。

 スローモションのような不自然な緩やかさで倒れる男の姿を見るうちに、何故か、楽しくなってきた。

「うふふふっ! 」

 思わず笑い声が唇から洩れる。

 笑っちゃいけないのかしら、とチラ、と思いながらも、一度声を上げて箍が外れたのか、頭痛が嘘のように消え去って、代わりに楽しいと言う感情が胸一杯に広がった。

「うふ、あはは、あははは! 」

 笑いながら涼子は、立ち上がる。

「ねえ、知らなかった? 」

 男は苦しげに荒い呼吸を繰り返しながら、涼子を見上げる。

「涼子を苛める人はねえ。みんな、みーんな」

 思わず口ずさみたくなるような、楽しげなメロディだな、と思いながら涼子は言葉を継いだ。

「室長代行! 」

 聞き覚えのある声が、背後から近付いてきた。

 邪魔だな、と思った。

 とっとと足元で転がる男を片付けて、このはその後で。

 ……あれ?

 男なの?

 女じゃないのかな?

 ……ま、どっちでもいいや。

 涼子は再び男を見下ろした。

「涼子を苛めるひとは、みんな死んじゃうんだよ? 」

 男の口が、ぱかっ、と開く。

 驚いているんだろうなとは思ったが、その表情がなんとなく馬鹿みたいで、また笑い声が洩れた。

 笑いながら言った。

「だって、涼子がみんな、殺しちゃうもん」

 笑いながら、トリガーを引いた。

「ぎゃあっ! 」

 男の左足の太腿がビクン、と大きく跳ね上がり、同時に血飛沫が上がった。

「室長代行、駄目! 」

 五月蝿いな、と思う。

 そんなに慌てなくても、次には貴女の番なのに。

 そう思いながら、ゆっくりと背後を振り向いた。

「室長代行! 」

 しつちょうだいこう、の意味が判らなかったが、その、アジア系らしい黒のベリーショートの可愛らしい少女~少女? ~の顔を見た途端、涼子は驚いた。

 泣いている。

 私を苛めるひとが、なんで泣いてるの?

 思わず構えた銃を下ろし、小首を傾げてそう、問おうとする。

 問おうとした途端、その少女は泣きながら首っ玉にしがみついてきた。

 その勢いに涼子は、思わず数歩よろめいてしまう。

「涼子様、心配しましたよ! 無事で良かった! 」

 耳元で洟を啜り上げながら湿った声でそう囁いた少女を、涼子は無意識のうちに抱き返しながら、考えていた。

 涼子、って私の、名前。

 心配、無事、良かった。

 漸く、思い当たった。

 ああ、そうか。

 この娘は、私を、苛めない。

 私のことを泣きながらも心配してくれてるんだもん。

 いつの間にか止まっていた涙が、再び零れた。

 掴んだ筈の意識がまた、するりと、涙と一緒に零れて落ちていく。

 視界がぼんやりと霞み始めた。

 地面がプリンに化けたみたいに、ふるふると震えている。

 抜けていく全身の力を、もう掴まえておく気力もなく、涼子は欠片ほど残った意識で、漸く悟った。

 この少女は、私を苛めないんだ。

 きっと、おともだちなんだわ。だったら。

 だったら、もうこのまま、寝ちゃっても、いいんだよ、ね?

 涼子が最後に見た風景は、何故か、自分がゆっくりとトァンの身体に凭れ掛かりながら倒れようとしているシーンだった。

 幽霊になった、気がした。

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