第64話 11-2.


 もう一度化粧を直し、小野寺と二人して控え室に戻ると、マズアと話し始めた彼をそのままにして、涼子はヒギンズを手招きで部屋の隅に呼び寄せた。

「な、なんです、1課長」

 妙に警戒しながら近寄ってきたヒギンズに向けて、唇の前で人差し指を立てて見せ、涼子は周囲を見渡す。

 小野寺とマズア、それに部屋へ戻った時の視線が妙に刺々しかったリザと銀環は、たぶん国防省へのマクラガンの移動手段について検討しているのだろう、涼子達に注意を払っている様子はなかった。

 これ幸いと涼子は、ヒギンズに向き直った。

「お願い、聞いてくれる? 」

「え? 」

 ヒギンズの顔が赤いように思えたが、涼子は取り敢えず無視して話を進める。

「花束、買ってきて。あ、もちろん私の自腹」

「花束? 何するんです? 」

 怪訝そうなヒギンズに、涼子は計画を打ち明けた。

「ダルタン……、あの昨夜ヒースローで負傷したSPの、一番の重傷者。バッキンガムの負傷した衛兵、それとさっき巻添えで怪我した記者。三人とも、テムズ河向こうの聖ジェームズ病院に入院してるんでしょう? 」

 涼子の目的に早々に気付いたのか、ヒギンズは慌てて止めにかかってきた。

「駄目、ダメですよ、1課長! 見舞いなんて! こんな状況で出歩いちゃいけません! 」

「ちゃんとSPにも同行してもらうから」

「いいえ、駄目です! それに武官や貴女の副官もどうせ許可しません! 」

 涼子は小さく溜息を吐く。

「なんで私が貴方にお願いしてると思う? 」

 ヒギンズが不服そうに答える。

「……自分なら押し切れるかも、ってことですか? 」

「違うもん、そんな失礼なこと考えてません」

 ほんとは考えてるけど、と涼子は内心でヒギンズに頭を下げる。

「皆に心配かけたくないの。それだけ」

「それにしても、なんで今夜、見舞いに行く必要が」

 未だ戦意旺盛に見えるヒギンズに、涼子は、今度は本当に必要だと思っている理由を正直に話した。

「さっきの記者会見の雰囲気。特に英国のマスコミは、UNDASNをペルソナノングラータ、迷惑極まりない困った来賓だって思ってるわ」

 ヒギンズも、それには素直に頷いた。

「英国マスコミのヒステリックさ、特にタブロイド紙をはじめとするイエロー・ジャーナリズムの陰険さは、貴方もよく知っているでしょう? 今回の一連のこの事件、確かに英国政府に貸しをたんまり押し付けたし、英国以外の全世界にUNDASNの粘り腰をアピールする事も出来た。だけど、英国世論だけは今のところ私達には批判的だわ」

 英国は米国、日本、ロシアと並んで、未だにUN内での発言力は強い。

 そしてその英国政府は、今回の度重なるテロ事件の未然防止に失敗し、戴冠式後には政界は大揺れになるだろう。

 いずれにせよ現政権の寿命は見えた、倒れたその後誕生する政権が現与党なのか、それとも政権交代なのか、何れにせよ、英国政府、特に議会は英国世論の波風を慎重に読まずにはいられないだろうし、英国世論を逆撫でするような政策は、当分選択できなくなるとみなければならない。

 つまり。

「今、親王室ムードが最高潮である英国世論を我々は敵に回すわけには行かない、その為には、多少あざとくったって、即日被害者の見舞いに行けば、ある程度世論の緩和を図ることが出来る」

 かも知れない、と心の中で付け加えた。

「さっきの記者会見でのステートメント。本部長は無理でも、私が即日お見舞いに行けば、言葉だけ、口先だけの社交辞令とは世間も取らないでしょう? 」

 正論だけに、ヒギンズはそのまま押し黙ってしまった。

 もうひと押し、と涼子は言葉を被せた。

「私、これから本部長をお向かいまで見送って、また戻ってくるから。それまでに手配、お願い」

「皆には、内緒……、ですね? 」

 うんと頷き返すと、ヒギンズは苦笑を浮かべて溜息を吐いた。

「病院までは、武官事務所のローバーで移動、SPは2名!これが条件です」

了解アイ! ありがとう、ヒギンズ! 」

 涼子がそう言った瞬間、リザの声が飛んできた。

「室長代行。恐れ入ります、そろそろ、本部長のお見送りの時間です」

「はーい! 」

 返事しながら、やっぱりリザったら機嫌悪い、なんでだろ、と不思議に思った。


 結局、横断歩道を渡って真向かいにある外務省と国防省の間、たった30m程を、マクラガンは車で移動することになった。

 涼子達見送りのメンバーは、徒歩で国防省に向かったが、それでもマクラガンよりも3分も早く目的地に到着できた。

 外務省ビルの向かい側、ホワイトホールに位置する国防省ビルは1957年建設の相当古い8階建て一部9階建ての重厚荘厳な美しい建築物だが、今夜、その中庭に、直接地球防衛第2艦隊IC2旗艦、空母F011グローリアスから飛来した艦載VTOL、V107バートル-200”しらさぎ”がエンジンをアイドリングにして駐機していた。

「アテンション! 統合幕僚本部長統合司令長官、出発されます! 」

 号令を受けてタラップを上がろうとしていたマクラガンが、途中で足を止め、振り返って涼子に言った。

「石動君。やはり今日はグローリアスで泊まらんかね? 」

 涼子はチラ、と小野寺を見、すぐにマクラガンへ視線を戻した。

「ご心配、ありがとうございます。ですが、大丈夫です。それに、明日はチャールズ国王のお迎えもありますので、ロンドン市内の方が便利ですから」

 マクラガンは苦笑を浮かべ、そのままタラップを上がり機内に消えた。

 秘書や副官、SP数名が後に続き、最後に小野寺がタラップを駆け上がると、V107のエンジン音が徐々に唸りを上げ始める。

 轟音に混じってエンジンの排気熱の篭った風が人々を巻き、涼子が思わず目を瞑った刹那、誰かが自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。

 それはホテルや宮殿内で掛けられた視線や声とは違う、懐かしい、心が蕩けそうになるような、声。

 ゆっくりと瞼を開くと、閉まりかけたスライドハッチが再び開き、彼が上半身を覗かせていた。

「艦長? 」

 涼子の驚いた顔を見ながら彼は、エンジン音に負けない、戦場で鍛えた良く通る声で言った。

「石動! 常に銃だけは手放すな! 」

 彼の無骨な、だけどストレートな心に触れて、涼子は嬉しくなって笑顔を浮かべる。

「アイアイ、キャプテン! 」

 彼がヤレヤレといった表情で頷いた途端、エンジン音は急速に高くなり、グランドクルーが信号灯をグルグル振り回す。

 それを合図に地上に残る全員は、敬礼を解き、急ぎ足で機体に背を向け、待機所へ引き返し始めた。

 涼子だけは、彼から視線を外す事が出来ないまま、ゆっくりと後退さる。

 フワ、とV107のメインギアが地上を離れた、その刹那。

 やはり涼子をみつめ続けていた彼が、徐に右腕を伸ばした。

「え? 」

 思わず足を止めた涼子に向けて、彼の右腕が更に迫る。

 彼は、ハッチに左手を掛け、身を乗り出して涼子の腰に右手を回して引き寄せた。

「か、艦長」

 胸に抱き寄せられた刹那、涼子の脚がス、と静かに宙へ浮いた。

 V107はゆっくり、じわじわと上昇を続けていて、涼子はそれにつれて彼に抱かれたまま浮き上がり、やぱり彼は涼子を離そうとしない。

 いったい、どうしたと言うのだろう?

 そして私は、どうすればいいのかな?

 戸惑いながら、彼の胸から顔を上げた、刹那。

 涼子は、彼の口が”りょ・う・こ”と動くのを見た。

 滅多に見せない、けれど見ると心から温かくなる笑顔を浮かべていた。

「あ」

 彼の顔が、ゆっくりと迫ってくる。

 予感がして、瞼を閉じた、次の瞬間。

 唇に点った、ほのかな温もり。

 啄ばむような、キス。

「おやすみの、キスだ」

 耳を劈くエンジン音の中、彼の甘い声が、不思議とクリアに耳朶を擽った。

 瞼を開き、ほぅ、と吐息を零した刹那。

 涼子は、そっと地面へ下ろされた。

「あぁ」

 思わず指で、未だリアルな感触が残る唇を触った途端、ポロ、と涙が一滴、瞳から零れ落ち、すぐに熱い風に吹き飛ばされていった。

 次の瞬間、彼がス、と10m程離れていった。

 思わず離れていく彼に手を差し伸べる。

 差し伸べてから、彼の乗るVTOLが水平移動したのだと漸く気付いて、手を引っ込めた。

 本来ならば、都心のしかも建物に囲まれた場所での離陸の際は、VTOLは地上の人々を排気熱で焼かぬよう、安全距離の200mまでは垂直上昇するのが規程だ。

 既定外のマニューバをしたことで、涼子は機長がコクピットのバックミラーで二人のキスを見ていたことに気付き、思わず赤面する。

 赤面しながら、さすが空母艦載機の機長だと感心して、コクピットに顔を向けると、バックミラーの中で、暗視ゴーグルノクトビジョンをかけた機長が笑っていた。

 涼子は咄嗟に、片手でバックミラーに拝む手付きをし、直ぐにハッチを見上げる。

が、彼は一瞬の隙に機内に姿を消しており、ハッチは既に閉まっていた。

 照れ臭いのだと気付いて、思わず笑ってしまった。


 リザが待機所へ辿り付き、振り返ってV107を再び見た時、機は既に地上50m程の高さにあり、さらに上昇しつつあった。

 そして涼子は退避せぬままの位置で、リザ達に背中を向けながら、風で煽られないように両足を踏ん張って、ゆっくり上昇していくVTOLを見上げていた。

「? 」

 丁度、満月が中天近くに上がり、機体は月の中心近くでシルエットになっている。

 涼子の後姿もまた、シルエットになっていたが、強風に髪とロングスカートがたなびくその影は、シルエットとは言え、充分過ぎる程美しく、そしてシルエットだからこそ幻想的だった。

 それはまるで、月からの使者が地上へ降り立った様にも見えた。

 風で煽られたスカートのスリットから伸びた長く美しい曲線を描く二本の脚が、白日の下でみるそれよりも遥かに艶めかしく、そしてエロティックだ。

 いつまでもその姿を見ていたかったけれど、リザは、視線を外し、涼子に背を向ける。

 彼女が見上げているのが、VTOLに乗っている何人もの人々の中、たった一人だけだと言うことが判っていたから。

 堰き止めようとして堰を切って溢れる哀しみの滴を、せめて彼女にだけは見られたくはなかったから。


 涼子達が再び外務省ビルに戻ると、ヒギンズがそっと涼子に耳打ちした。

「1課長、花束3つ、武官事務所の5号車に積んでおきました。それと、SP2名が車内で待機しています」

 涼子は笑顔でヒギンズに囁き返す。

「ありがとう、ごめんなさいね、ヘンなこと頼んじゃって」

 ヒギンズはしかし、難しい顔をしたままだ。

「でも、本当に大丈夫ですか? やっぱり危険じゃないですかね? 」

「大丈夫でしょ? ここまでは公式行事で予定の行動、その気になれば私達の行動なんて誰にだって調べられたけれど、今からは私の突発的な、予定外行動だもの。本部長だってもう、手の届かないところへ移動しちゃったんだし」

 脅迫状が脳裏を過ぎる。

 本当に、そう?

 そう、思ってる?

 貴女、自分を安心させたいだけじゃない?

 思わず、大丈夫じゃない、そう答えそうになったけれど、寸でのところで言葉を飲み込んだ。

 多少危険だろうと、これはUNDASN統幕政務局国際部の一員として、やらなければならないことだ。

 これまで自分はそうして、愛する、優しい上官を今まで危機に晒してきたじゃないか。

 自分の番だからと、逃げることなんて出来やしない。

「うん。大丈夫。大丈夫よ」

「だといいんですが」

 言葉を継ぎかけて、マズアが近付いてくるのを見たヒギンズは、そのまま涼子の傍から離れていった。

「1課長。内務省のキンケード審議官からメールが入ってます。先方、かなりパニックに陥ってますね」

 涼子は苦笑を浮かべて答えた。

「そりゃそうでしょうね。スコットランドヤードは勿論、内務省特別警戒プロジェクトは面目丸潰れだもの。ヒースロー襲撃事件は別として、その他の襲撃は全て王室、政府施設内で起きたんだから。即位式典が一通り終わった後、英国政界は大揺れになるわよ。引責辞任の嵐、なんてものじゃ済まないかもしれない。秋の庶民院選挙じゃ政権交代もあり得るわよ」

 マズアも頷きながら答える。

「そうですな。まあ、今回のロンドン・ウィークで殆ど財布が空っぽになった我々は、以前よりもジョーカーやらハートのエースが豊富になる訳ですが」

「その賞味期限もこの夏まで、かもね。ようやくUNDASN寄りになって来てくれたブラウン政権が転んじゃうようなことがあったら、次は与党幹事長のバックス卿が首班。与野党逆転なら、シャドウ・キャビネット首班のローリー民主労働党代表。どっちにしても、再び財布を空にするくらいの出費を覚悟しなきゃ」

 言いながら涼子は、パンパン、と手を鳴らして室内にいる人々に向かって声を上げた。

「さあ、今日の予定は全て終了。みんな、お疲れ様でした。明日もイベントてんこ盛りだから、今日はとっとと引き上げましょう」

 涼子が言い終えて最後に一つ、ポンと掌を合わせると、副官二人が小走りに寄ってきた。

 手を鳴らして寄ってくるなんて、まるで池の鯉ね、と涼子がクスリと笑みを洩らしていると、リザが口を開いた。

「コルシチョフ国際部長は、既に秘書官とご一緒に、引き上げられました」

「そう、ありがとう」

 涼子は、リザと銀環の顔を交互に見ながら言った。

「悪いんだけど、ヒューストンの装備部に連絡して、明後日のバッキンガム宮殿までに間に合えばいいから、零種軍装ドレス・ゼロを届けるように手配してくれない? 」

「あー」

 銀環が涼子の足元を見ながら渋い表情を浮かべる。

「血ですもんね。落ちそうにないな、勿体無い」

「落ちても、ちょっと気持ち悪いかも」

零種ゼロ、高いのに」

 涼子も釣られて、自然と表情が渋くなる。1ヶ月分近くの給料が吹っ飛ぶのだ。

「アイアイサ。手配しておきます。……それじゃ室長代行、そろそろ参りましょうか」

「あ、二人とも今日はもう宿舎に戻ってくれていいわよ」

 涼子の言葉に、二人とも面白いくらい予想通りの反応を返してきた。

「駄目です」

「ホテルまでお送りします」

 涼子は申し訳なさそうな表情を浮かべて、用意していた言葉を口にする。

「大丈夫よ、二人とも。私、SP2名と一緒に武官事務所5号車でホテルに帰るから。貴女達はUNビルの宿泊室でしょう? 疲れてるんだし、明日も早いんだから今日はもう、駐英武官や補佐官達と一緒に帰りなさい、ね? 明日の朝……、えと、0630時マルロクサンマルだったっけ? 迎えに来てくれるだけでいいわ」

「でも」

 更に言い募ろうとするリザを遮り、涼子は隣のマズアに顔を向けた。

「大丈夫よ、SP付きだし、銃も持ってるし。マズア、この娘達と一緒に、貴方も戻って。昨日は徹夜だったんでしょ? 」

「いや、1課長、しかし」

 マズアの抗議の言葉を、涼子は一番使いたくない、しかし一番手っ取り早くて効果の高い方法で遮った。

命令オーダー

 脊髄反射だ。三人は途端に姿勢を正す。

 但し三人が三人とも、その目に不満と不安の色を滲ませているが。

 ごめんなさいと心の中で謝りながら、涼子は自己嫌悪と後悔で、表情が曇るのを抑えられなかった。

「了解しました。ですが1課長」

 マズアは厳かな表情と口調で、釘を刺してきた。

「帰りに寄り道など、けっしてなさいませんように」

 子供扱いされたみたいで、涼子は思わず唇を突き出した。


 ロンドン市街は、夜になっても、警戒中の警察車両のパトランプや投光器で真昼のような明るさだった。

 ダウニング街を中心とする英国政府官庁街ホワイトホールを抜け、ウエストミンスター寺院、国会議事堂のビッグベンの横を通り抜けて、テムズ川を渡ったところにあるロンドンでも古い歴史を誇る聖ジョーンズ病院に車を回すよう、涼子は運転しているSPに命じた。

 病院の歴史そのままの、19世紀に建設された旧館の背後には28階建ての新病棟が聳えているのだが、正面玄関は依然として旧館であり、たまたま、涼子の見舞う相手3名も旧館の病棟に入っている事は事前に判っている。

 目論見通り、玄関前やロビーにはBBCをはじめとする英国主要マスコミが屯しており、涼子のコメントをとるとすぐに記事を送り始めた。明日の報道が好転するといいんだけれど、と思いながら涼子は同行のSPを振り向いた。

「じゃあ、ラマノフ陸士長は、ええと、先に近衛兵さんの病室、その後記者さんの病室へ行って様子を見てきて。トァン・スー二曹。貴女は私と一緒にダルタン二尉の病室へ行きましょう」

 ダルタンの病室は、近衛兵の病室のワンフロア階下にある。

 エレベータにラマノフを残し、涼子達は5階で降りて、警官が警備に立つ病室へ向かった。

「はい、どうぞ」

 ノックをすると、インド出身のダルタンの聞き取りやすいキングス・イングリッシュが響いてきた。

 ダルタンに限らず、警務部9課のSP達とは部外での重要イベントの度にお世話になる事が多く、だから涼子も大抵のSPとは顔馴染みだ。

 その中でもクラシック音楽鑑賞が趣味だと言うダルタンとは、統幕中央音楽隊の定期公演で顔を合わせて話が合うと判って以来、特に親しいSPの一人に涼子の中では位置付けられていた。

 だから、今夜の多少強引過ぎる行動の理由の少しは、彼の容態が心配だったから、というのも含まれているのだった。

「ダルタン! 」

 元気そうな声を聞いて涼子は思わず、ドアを開きながら大声で名を呼ぶ。

 ベッドの上で上半身を起こそうとしていたダルタンは、最初こそ呆気に取られていたものの、見る見る満面に笑みを称えて言った。

「欧州室長代行! まさか来て頂けるとは! 」

 涼子は、えへへへへと笑いながらさっと花束を差し出す。

「もう、ほんとに心配したんだからっ! どう? 大丈夫? 痛くない? 」

 涼子はそう言って花束を差し出す。

「はいっ! お花だよ……、ってここ、花瓶ないの? 」

 だだっ広い個室を見渡すが、ないものはない。

 それはそうだろう、ダルタンは謂わば旅先で倒れたのだから。

「これでいいか。いいよね? 」

 涼子が部屋の隅にある洗面台の下でみつけた雑巾が縁にかけられたバケツを取り上げたのを見て、ダルタンは額に縦線を垂らし、トァンはこめかみを指で押さえる。

「い、1課長、私がナースステーションから花瓶でも借りてまいります」

「そお? 悪いわね、二曹」

 涼子は慌てて部屋を出て行ったトァンを訝しみながら見送った後、再び笑顔を浮かべてダルタンの、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「で、ダルタン、どお? まだ痛む? 」

「ありがとうございます、もう大丈夫ですよ。医者の話じゃ、弾は腎臓の脇を掠めて背中へ抜けてるって事で、内蔵に損傷もなく、2週間程で退院できるだろうって。職場への完全復帰も、リハビリ1ヶ月含めて2ヶ月以内でオーケーだそうですよ」

「ボディアーマー、着てたんでしょ? 」

「丁度斜めに着弾した様で、ジッパーを破壊して貫通したみたいです。運が悪いと言えばそうなんですが、ジッパーに当たったお蔭で速度が殺されて、さほど筋肉や内臓の損傷もなく、ギリギリ貫通、ってことで不幸中の幸い、ってところです」

「そう……。でも、ほんとに良かったわ。心配したのよ」

 笑顔で怪我の状態を話している彼の顔を見るうち、涼子は思わず涙を零してしまう。

「あ、やだ、私……。ごめん、ごめんね」

 ダルタンは点滴の繋がった右手をシーツから出して、涼子の手に置く。

「泣かないで下さい、室長代行。これが自分たちの任務なんですから」

 涼子はダルタンの手を握り返し、小さく叫ぶ。

「駄目っ! そんなこと言っちゃ! 」

 ダルタンの驚く顔を見ながら涼子は、彼の手を強く握り締める。

「任務とか仕事とか、関係ないわ。死んじゃ駄目。私の周りの人たち、ううん、私が知らない人たちでも、死んじゃ駄目なの! 」

 ダルタンは暫くの間、ぼんやりと涼子を見ていたが、やがて顔を心持ち赤くして、微笑んで頷いた。

「判りました、ありがとうございます。……そして、同じ言葉をお返ししますよ。室長代行も死なないで下さい。その為に自分は、自分達は頑張っているんです」

 涼子は再び流れ出す涙を、今度は止めようともせず、頷いて見せた。

 言葉が出てこなかった。

 ああ、どれほど自分の周囲の人々は、こんなに優しく、気遣ってくれるのだろう。

「でも室長代行。今日だって大変だったらしいじゃないですか? ついさっきも襲撃されたんでしょ? 巻添え食った新聞記者だか、運び込まれたって、さっきまでこの部屋にいた同僚から聞きましたよ。今はそっちの病室へ行ってますけど」

「あ、そうだった! 」

 ダルタンの言葉で涼子はもうひとつの、本来の用件を思い出して立ち上がった。

「私、近衛兵さんの病室と、巻き添えの記者さんの病室、行ってくるわね。取り敢えず、お見舞いだけはきちんと早いうちにしておかないと」

 涼子はドアを開いたところで振り返る。

「終わったらまた来るわ。それまで、ちゃんと寝てないと駄目なんだからね? 」

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