11.浸蝕

第63話 11-1.


「……最後に、襲撃の巻添えとなり、不幸中の幸いにも一命を取りとめられた、フェルナンド・クラーク英国陸軍王室師団近衛擲弾兵連隊軍曹、デイリーエクスプレス社トム・チャップマン記者の1日も早いご回復をお祈り申し上げます」

 ストロボ瞬く中、マクラガンがステートメントを発表し終えた。

 司会役の広報部員が、マクラガンと入替りに立ち上がる。

「えー、それでは質問に移りたいと思います。尚、統合幕僚本部長はこの後の予定もあり、15分を限度とさせて頂きますのでご承知置き下さい」

 涼子はマクラガンの隣りで、司会やマスコミの声を聞きながら、考えていた。

 これで4人目の犯人が確保された。コリンズの話によれば、渡英してきた犯人グループは5人、在英支援者がプロなら後1回、在英シンパだったとしても後2回、いや最大3回、か。

 けれど。

 涼子は2通の襲撃予告状を思い出す。

 どう考えても、フォックス派だとは思えないのだ、あの回りくどい、悪趣味な手口は。

 じゃあ、誰だと言うのか? 

 他の過激組織がフォックス派とは別に本部長を狙っている?

 それとも。

 涼子は、今朝のホテルでの、そして昼間のバッキンガム宮殿での、”純粋な悪意”しか感じられない”視線”と”声”を思い出し、思わず肩を震わせる。

 それと、この襲撃予告状は、関係があるのか?

 関係があるのだとしたら、狙いは?

 やはり、統幕本部長?

 それとも?

「1課長! 石動課長! 」

 考えたくない考えに、意思に反して手を伸ばそうとしたその刹那、隣に座ったマズアの呼ぶ声で涼子はふいに現実へ引き戻された。

「ふぇ? 」

 涼子は、ほっとしつつマズアの顔を見る。

 助かった。

 いや。

 後から思い返して、自分はこの時、結論を掴むべきだったのだと、涼子は唇を噛む。

 だが、この刹那、手を伸ばしたくない涼子は目の前の現実に感謝し、そして伸ばした手を遠慮なく引っ込めた。

「1課長、デイリー・テレグラフからの質問です! 」

 マズアは、焦点の合わない虚ろな涼子の表情に驚きつつも、必死でフォローする。

 涼子は慌てて表情を引き締めて質問者の顔を探す。

 普段なら鬼の首をとったかの様に一斉に攻めたてるであろうマスコミは、しかし、先程涼子の活躍を目の当たりにしたせいか、騒ぎもせずにもう一度質問を繰り返した。

「ですから、今回のマクラガン閣下の訪英自体がごり押しではなかったのか、とお尋ねしているんです」

 涼子は数度深呼吸をした後、普段の『怜悧な外交官』の仮面を被る。

 それは、自分を守るため、そして自分の背後にいていつも自分を守ってくれているUNDASN3,500万将兵を守るため、いつしか覚えた『武器』のひとつだった。

「UNDASNとしては、第一次ミクニー戦役以来、停戦期間、第二次戦役と終始対ミクニー戦での英国国民の勇敢なる活躍と英国政府の全面支援に常に助けられており、最大級の敬意を払っている次第であり、それ故、今回の英国国王戴冠の儀は、心よりの祝意を表明していることは皆様ご存じの通りです。そして光栄なことに英国王室及び英国政府のご招待を受けました上は、これに応じるのは当然のことで、よって最高司令官たる国連事務総長、統合幕僚本部長統合司令長官を始めとして在本星の最高幹部が揃って、純粋にチャールズ15世陛下の御即位への奉祝として参加させていただいた次第です。もちろん、今回の襲撃も決して予想していた訳ではなく、奉祝ムードに水を差すようなテロリズムに対する怒りを覚えております。ですが、思い返すとこの事件の存在自体、全地球的な規模での対ミクニー戦完遂の意思統一、態勢強化への盛り上がりが反体制反地球親ミクニーの危険団体を追い詰めたが為に突発した事件であるとも言え、追い詰められたテロリスト達が、既に崩壊の危機を目前にして自滅的行為を発作的に行なっているとみるべきだと考えます。勿論、巻添えとなった方達、及び被害を被った英国政府、公共、民間各施設には多大なご迷惑をお掛けした事は充分認識しておりますし、その為の補償等に関しても既に統合幕僚本部総務局を中心にして前向きに検討に着手しております。また、最後になりましたが、テロ根絶に懸ける英国政府の全面的なご尽力にも最大級の感謝を表明するものであることを付け加えさせて頂きます」

 普段通りの自分を上手く演じられたかどうか、喋り終わってからふと不安になったが、100名近い記者団の沈黙と忙しなく光るカメラのストロボで、涼子は上手くいったものと納得する事にした。

 後はBBCやザ・サン等数人の記者が細かな質問を投げ、マズアとマクラガンがそれぞれ簡単なコメントを返したところで、予定時間は終了となった。

「それでは、これで記者会見を終了させて頂きます。皆様、有難うございました」

 UNDASN側の出席者が全員起立して脱帽敬礼を行う中、記者達はなんとなく気勢を殺がれた感じを漂わせながら三々五々と会見場を出て行った。

 涼子は記者達が全員退室したのを見計らってマクラガンに対して労をねぎらい、それからマズアを呼んだ。

「マズア、ご苦労様。……それで、コリンズから連絡は? 」

「いや、特にありませんが、何か? 」

 残念そうな表情が出たのか、声を顰めたマズアの反問に、涼子は慌てて顔の前で手を振る。

「あ、いや、たいしたことじゃないの。……なんか、さっき、言い掛けてたように思ったから」

 もしコリンズがいたのなら、相談したかったのだ。

 相談したからと言ってすぐに解決するなどとは思っていない。それでも、一人で抱えているよりは、コリンズのような専門家に聞いてもらえるだけで、少しは楽になりそうに思えたのだ。

 一瞬、それならマズアに聞いてもらおうか、そんな考えが頭を過ったけれど、慌ててその考えを打ち消した。

 実直な年上の部下は、今日まで涼子と二人三脚を組んで、今回の『ロンドン・ウィーク』を成功させるべく苦労を共にしてきたし、そして今も苦労をかけている。

 それに加えて、昨夜からの連続襲撃事件でヨレヨレになった涼子が普段の力を出せずにいるところを、文句も言わずに黙ってカバーし続けてくれているのだ。

 そんな彼に、これ以上心配の種を植え付けるべきではない。

 マズアは、涼子の無理矢理の微笑を見て安心したのだろうか、すぐに表情を緩めた。

「実はコリンズが妙に心配してましてね。フォックス派が本部長襲撃を諦めて随員無差別襲撃に出るんじゃないかって心配していました。念の為、随員は全員、常時ハンドガンを携帯したほうが良いだろう、と」

 仕方ない、というよりも、個人的な不安しか根拠がないような情報で~しかもそれは漠然とした予感でしかないのだ~、今も必死に捜査を進めているコリンズの手を煩わすのは、涼子には申し訳なく思えた。

 そしてそれ以上に、コリンズが、何も言わずとも自分のことを心配してくれているのだ、そう考えただけで嬉しくて、これ以上我侭を言うべきではないと思った。

「うん、了解。それじゃ、武官事務所から主要メンバーの銃携帯許可の申請をお願いするわ。……あ、それと、今の会見、写真撮影した? 」

「ええ、すぐに武官事務所でデータ解析させます。済み次第、警務部ルートと情報部ルートで調査させます」

 マズアは答えながら、壁の時計を見上げて言葉を継いだ。

「ああ、そろそろお向かいの国防省に、グローリアスからの迎えのバートルが到着している頃ですね」

「そうね。万が一を考えて、到着を確認してから移動するようにしましょう。それに、外はまだ、記者さん達で騒々しそうだし。マズア、案内と、それと国防省へのSP先乗りの指示、頼むわ」

「イエス、マム」

 ああ、そうだ。

 さっき、記者会見前に思いついたアイディアを聞いてもらおうと、涼子は立ち去ろうとするマズアを呼び止めようとして、反射的に口を噤んだ。

 そのままマズアが部屋を出て行くを見送って、涼子はドサ、と手近のパイプ椅子に腰を下ろした。

 話すと、きっとマズアは反対するだろう。

 あんなに心配してくれている彼のことだ、今以上に心配をかけてしまう事は充分に理解しているつもりだし、それでも実行しようとしている自分はきっと嫌な上官になってしまう。

 けれど、涼子の中では、それは『やらなければいけないこと』だ。嫌われようが疎まれようが、やらなければならないことならば、断固として、やる。

 反対意見を論破できる自信も正当性もあると思うし、何より自分は軍人で、このミッション遂行部隊における最高位階級保持者であり、命令権も持っている。もとより軍隊とは、命令のみで動くべきであり、そこに『お願い』や『依頼』といった不明瞭な行動基準など、割り込む隙間などない筈なのだ。

 だけど。

 あれほど親身になって心配してくれている彼等に対してそんな真似をしたくはなかったし、諄々と説き伏せて同意を得るだけの精神力が、何より今の自分にはなさそうに思えた。

「なんか……、疲れちゃったな」

 それはそうだろう、と涼子は我が身を振り返って思う。

 ここ数ヶ月の仕事量だけ見ても、一日20時間勤務、しかもロンドンとヒューストンに両足を踏ん張って、欧州各国を中心に、時にはニューヨークまで。出張回数は50回を超え、その間、ロンドンのホテルはホールドしていたものの、睡眠の殆どが武官事務所の宿泊室か交通機関の中での仮眠だけという、大昔のジャパニーズ・ビジネスマン伝説を彷彿とさせる状態だったのだ。

 加えて昨晩はヒースロー空港での銃撃戦で九死に一生を得、数時間の睡眠だけで迎えた今日は、朝から戴冠式、パレード、晩餐会という一連の即位関連儀式と細かい現場レベル協議まで含めると両手の指で足りぬほどの外交会談をこなした上に、4件のテロ。

 そしてその全ては、涼子の意向に関係なく、4件が4件とも涼子の目の前で起き、その全てを涼子が体を張って阻止してきた。

 その上、だ。

 弱り目に祟り目とは、この事か。

 ひょっとして自分自身が、フォックス派テログループとはまた別の”誰か”から狙われているかも知れないという、確証こそないけれど、実はじんわり、じりじりと精神にダメージを与える、そこはかとない不安まで加わって。

「ふぅ」

 疲れないわけ、ない、か。

「もう、歳だもんね」

 自虐的な冗談を呟いても、苦笑を浮かべる元気すら残っていない。

 目を閉じて座っていると、会見中の暗い思いが蘇ってくる。

 追い払おうとしても、追い払えない。

 あの、ホテルでの視線、宮殿内での声。

 自分は既に、あの『視線』と『声』に絡め捕られていて、そしてこのまま無限の暗闇の底なし沼に引き摺り込まれてしまうのではないか?

 そんな胸が悪くなるような想像が、脳裏から離れない。

 怖い。

「誰か……」

 今は唯、無性に誰かに傍にいて欲しかった。

 傍にいて、泥沼へ引き摺り込まれそうな自分の手を、しっかりと誰かに握って引き留めていて欲しかった。

 いや。

 誰か、なんて、誰でもいい訳じゃない。

 手を握り、手を握られて、これからも歩いていこうと共に約束を交わした、そのひと。

 艦長。

 思わず瞼を強く閉じ、背中を丸めて両手で自分の身体を抱き締める。

 このまま一人でいると、『あの声』、『あの視線』の主が、一歩一歩、ゆっくりと、けれど確実に自分に近付いてきて、今にもトン、トン、と肩を叩くのではないか?

 けっして振り向いてはいけない、なにがあっても振り向かないと強く念じていても、まるで万力で頭を挟まれるようにして無理矢理振り向かされたその途端、『そいつ』は、ニタリと悪魔の様に笑って、二度と這い上がる事の出来ない暗闇へと涼子を突き落とし、そして涼子はそこで、死ぬ事も生きる事も出来ない、永遠の闇をさ迷わされる。

 今にも涼子を永遠の地獄へと案内する悪魔が、自分の肩を叩きそうな。

 そんな恐怖感に思わず、大きく身震いをしてしまう。

 と、その刹那、まさに。

 誰かが、涼子の肩を、トン、と叩いた。

「いやああああああっ! 」

 とても自分の声だと思えないほど人間離れした悲鳴を上げていた。

 逃げなきゃ。

 無駄かもしれないけれど、だけど逃げなきゃ。

 自身の体とは思えないくらい思い通りに動かぬ体を無理矢理に震わせて、涼子は漸く椅子から離れる。

 けれどそれは離れる、と言うより転げ落ちる、と言った方が遥かに正確な表現で、しかも着地した床からはどうやっても動くことができなかった。

 已む無く涼子は、その場に蹲り頭を抱えて、やがて来る恐怖を少しでも和らげようとした。

 身体が震える。

 まるで、自分が機械仕掛けの人形ではないかと思うほどに、大きく、そして物凄いスピードで。

 胸が詰まる。

 息が出来ない。

 死んじゃう。

 私、死んじゃう。

「おいっ? 石動! 石動! どうしたっ! しっかりしろ、涼子! 」

 涼子の耳に届いた声はしかし、これぽっちもおぞましいものではなく、どころか、今涼子が切実に思い焦がれ、追い求め、逢いたいと強く念じた、その人の声だった。

「……か……、んちょう? 」

 顔を僅かに起こし、恐る恐る目を開く。

 いつの間にか身体の震えは収まっていて、自分の意思通りに動かせるようになってた。

 ゆっくりと視界を左右に動かして見る。部屋はさっきまでと同じ、殺風景な記者会見場のままだ。

 会見の後片付けをしていた英国外務省職員や、リザや銀環、ヒギンズ等UNDASNの連中が、驚いた表情のまま手を止め、自分の方を見ている。

「……石動。どうした、大丈夫か? 」

 打って変わって彼には似合わぬ優しい声の問い掛けに、涼子は手をついて床に座ったまま、ゆっくりと肩越しに声の方を振り向く。

 そこには、涼子が今、一番求めてやまなかったたった一人、その彼が、心配そうな、そして優しい眼差しで涼子をみつめていた。

「艦長、……艦長? 」

 彼はゆっくり大きく、無言で頷く。少しだけ、への字に歪めた口も、記憶の中の彼のまんまで、愛惜しい。

 涼子の瞳から、大粒の涙がぽろっとこぼれた。

 嬉しかった。

 嬉しくて、嬉しくて、そして少し恐かった。

 一生分の奇跡を全て、この瞬間で使い切ってしまったようで。

”あ。マズい、駄目“

 涼子は慌てて立ち上がると、彼の腕を掴んで引っ張って歩き始めた。

「お、おい! なんだ、急に? 」

 涼子は彼の問いにも答えずに、ぐんぐん腕を引っ張ったまま会見場の出口を目指す。

 廊下に溢れているのでは、と恐れたマスコミ群はしかし、記事を送る為にそれぞれの記者クラブへ引き上げたらしく、閑散としていて涼子は胸を撫で下した。

 そのまま彼を廊下に引っ張り出して、それでも歩みを止めず、エレベータホールを通り越し、廊下の端にある階段の陰にまで連れ込んだ。

 涼子は、そこで漸くピタッと足を止めるとくるりと彼を振り向き、改めて足の先から頭の先まで彼をみつめた。

 助かったという安堵感は、まだ湧いてこない。

 それよりも、こんな奇跡が眼の前に降りてくること自体が、未だに信じられなかった。

 彼の頭の先から爪先まで、何度も、何度も、視線を往復させる。

 眼の前に立つ彼が本当に自分の求めている彼かどうかを、検分するつもりで。

 暫くして漸く、疑いが顔を潜めて、自分でも意識しないうちにぽろりと、言葉が転がり落ちた。

「ほんとに……。ほんとに、艦長だ」

 彼は苦笑い混じりで肯く。

「そうだ。悪いか? 」

 涼子はぶるんぶるんと顔を横に振る。

 小野寺は、チラ、と背後を振り返ると、すぐに視線を戻して、ボソボソと言い訳のように言った。

「本部長お迎えのバートルでついさっき、国防省に着いた。まあ、あれだけしつこく襲撃があった後だ、まずは安全確認だって事で、俺が外務省へ先乗りを仰せつかった、てのが表向きの理由だが」

 そこで一旦言葉を区切ると、彼はもう一度背後を見渡し、それから今度は涼子の顔を見ずに明後日の方向を向いて、ぽそっと呟いた。

「まあ、本当は、ひとめお前の無事な姿を見たくて、無理矢理バートルに乗り込んだんだけど、な」

 彼の言葉を聞いた途端、涙が堰を切った様に、止めど無く頬を伝い始めた。

 漸く、助かった、と心の底から思えた。

 感覚が消えていた四肢に、体温が、血流が、触覚が、全ての生きている証が戻ってきたように思えた。

 奇跡ってあるんだ、そう思った。

 思った瞬間、やっぱり全部使っちゃったような気がして、勿体無い、と感じ、自分の強欲さに、少しだけ呆れた。


「艦、長、ありがと。私……、私、恐かった……。死ん、じゃう、かとお、思った……」

 涼子はこの台詞を、涙声で、途中10回近く息継ぎをして漸く言い切ると、後はただ無言のままむしゃぶりつく様に抱きついてきた。

 小野寺は、震える薄い肩を抱き締める。

 妙に不自然にくぐもって聞こえる声に疑問を感じて、そっと涼子の顔を見ると、ハンカチを口に押し込んでいた。

 制服のUNDASN高級士官が泣いているところを見られたくなかったのだろう、嗚咽を殺す為自分自身で猿轡をはめて、そして彼の胸に顔を押しつける様にして泣いている。

 そんな健気さが眩しくて愛惜しい、その眩しさと愛しさが惹かれた要因のひとつなんだと改めて実感し、彼は美しいけれど華奢な涼子の身体を一層強く抱き締める。

 華奢な身体つきなのに、胸に当たる柔らかく、それでいて弾力のあるその部分が、いやにエロティックに感じられて、小野寺は自己嫌悪で密かに顔を歪めた。

「さあ、そろそろ泣きやめ」

 これ以上抱いていると今夜は寝不足になっちまうと、彼はなけなしの理性を一斉放出して、彼女の二の腕を掴んで無理矢理引き剥がす。

 掴んだ二の腕の柔らかさがまた、さっき以上にエロティックで、それほど俺は欲求不満だったかと彼は思わず首を傾げてしまった。

 涼子は未だ洟を啜り上げながらも、笑顔を浮かべて口から引っ張り出したべとべとのハンカチで目尻を拭った。

”あーあぁ”

 思わず酢を飲んだような表情を小野寺は浮かべてしまうが、涼子はそれに気付かずペコリと頭を下げて言った。

「艦長、ごめんなさい。驚かせちゃったね」

「まあ、それはもういいんだが」

 彼は涼子の前に立って苦笑いで答える。

「それより、さっきのお前のリアクションの方が驚いた。どうしたんだ? 」

 涼子は照れたようにエヘ、と笑い、ズズズと盛大に洟を啜り上げ噎せ返り、これまた盛大にケンケンケンと咳をした。

「あーもう、いいから落ち着け」

 涼子は泣き笑いで答える。

「えへへ……。ごめんなさい、さっきは、ちょっと疲れてウトウトしちゃって。また襲撃された夢をみちゃった」

 この華奢な、UNDASN3,500万将兵の中でもトップ10~ワースト、か? ~に入ろうかと言うくらい、軍人らしくないこの女性が、今日だけで4回、24時間で5回も暗殺犯と渡り合い、そして撃退して見せたのだ。

 疲れない訳はない、怖くなかった筈がないだろう。

 何故俺は、こいつの傍にいてやれなかったのかと、思っても仕方のない思いに耽っていると、涼子はそんな彼にお構いなく、ハンカチでビビーッ!と盛大に洟をかみ、ニコ、と大輪の薔薇のような笑顔を浮かべた。

 台無しだ、と思った。

 けれど、台無しでも構うものか。

 だって、大切な、愛しい彼女は、こうして生きて、息づいて、花にも負けぬ可憐な笑顔を俺に、俺だけに向けてくれているのだから。

「でも、もう大丈夫! 艦長が来てくれたもん、元気1000倍だよ! 」

 子供みたいなアピールに苦笑混じりの笑顔を浮かべ、涼子の頭をポンポンと撫でてやる。

「そいつは光栄だ。しかし、ほんとに心配したんだぞ」

 涼子はちょっと口を尖らせて訊ね返す。

「なんで? それって、私がUNDASN最弱だから? そうなんでしょ? 」

 涼子は、自己評価もきちんと理解できているようだ。

「勿論、それもある」

 コケる涼子を無視して、彼は言葉を継いだ。

「それもあるが、それよりも、コリンズからの艦隊司令部宛経過報告を読んで、あまりにしつこく周到な反復襲撃を知って、余計にな」

 小野寺はそう言うと、涼子の肩を抱いて、一緒に階段に腰を下ろした。

「で、どこ? 」

「え? どこって、何が? 」

 涼子の黒い瞳に戸惑いが浮かぶのを無視して、彼は涼子の顔を無遠慮に眺め、探していた”それ”を発見した。

「ああ、これかぁ……。痛むか? ひどいのか、傷」

 涼子はやっと怪我の事を尋ねられていたのだと判った様子で、自分の左頬を撫でながら、傷テープを貼った方を向けた。

「ううん、かすり傷。もう痛くないし、アンヌに見てもらったら、痕も残らないだろって」

 涼子は急に彼の顔を正面から見据えると、怒った表情を作って唇を尖らせた。

「それとも、もう傷モノになったから、昨夜の言葉は取り消したいって事? ねえ、艦長? 」

「馬鹿言うな! 」

 こうも涼子が直球勝負で攻めてくるとは思っておらず、小野寺は思わず怒鳴ってしまう。

「ぷっ! ……あははははっ! 冗談! ごめんなさい! それにしても艦長、すごい慌て様! あはははははは! 」

 子供のようにころころと笑い続ける涼子を睨み付けようとして、彼は自分もまた笑っている事に気付き、早々に当初目的を放棄する。

「まあ、それだけ笑えりゃ、もう大丈夫か」

 涼子は涙の浮かんだ目尻を指で拭いながら、笑顔を優しい微笑みに落ち着かせて、小さな声で言った。

「……でも。でも、ありがとう、心配してくれて」

 照れる。

 ヤバい。

 彼はニヤケそうになる顔を見られまいと、立ち上がり、そのまま照れ隠しのつもりで心の表層に浮かんだ言葉をそのまま投げ出した。

「それより、艦隊じゃ大評判だったぞ? 『あの』石動涼子が、テロリスト4人の近接攻撃を見事に防ぎ、その上制圧したなんて、それこそ奇跡……。ん? 」

 喋りながらチラ、と涼子に視線を投げた瞬間、気が付いた。

 涼子がその美しい眉を曇らせ、小首を傾げていることに。

 心なしか、顔色も悪く見える。

 どうしたと訊ねようとした矢先、涼子がポツリ、と掠れた声を上げた。

「私……、憶えて、ないの」

 彼はぎょっとして思わず涼子の前にしゃがみこみ、彼女の顔を覗き込む。

「憶えてない? ……襲撃された事を? 」

 涼子は右手で自分のこめかみを押さえて、まるでしつこい偏頭痛を我慢しているかの様な表情で、首を左右に振る。

「や、襲撃されたことは憶えてるの。犯人と闘った事も憶えてる……。でも……、なんて言うか……」

 涼子は顔を上げ、訴えかける様な瞳を彼に向けて、小さな声でいった。

「そう言う事実、を……、なんか、まるで他人事みたいに認識してるだけで……。自分の行動のように思えない。リアルな感覚っていうか、ディティールが全然思い出せないの」

 彼は涼子の哀しげな、そして不安そうな瞳を見つめて、思わず口から出掛かった言葉を慌てて飲み込んだ。

 それじゃあまるで。

 五十鈴の、サンフランシスコでの、アットホームの時と同じじゃないか。

 小野寺は、飲み込んだ言葉に代えて、涼子を抱き締める。

「きゃっ! か、艦長! 苦しいよ! どうしたの、一体? 」

 涼子の恥ずかしげな抗議の声を無視し、そして数秒前に脳裏を過った忌まわしい記憶をも無視しつつ、彼は強い口調で言った。

「いいんだ。そんな事、思い出せなくっても。……いいんだ、石動。……早く忘れちまえ」

 何度も何度も、涼子の耳元で繰り返す。

 そうすれば、本当に、きれいさっぱり忘れ去る事が出来るんだと、涼子に、そして自分自身に言い聞かせるように。

 叶うならば、この愛しい女性の頭の中を、この先訪れる筈の~自分が彼女に与えたいと考えている全ての~幸せだけで一杯にしてやりたい、真剣にそう願った。

 暫くは、腕の中でもがいていた涼子が、急に動きを止め、今度は自分の方からそっと腕を背中に回してきた。

「うん……。そうだね。そうするよ、艦長」

 涼子の潤んだ瞳は、本気で忘れたい、と叫んでいるように思えた。

 しかし、今度は自分の方が忘れられない状況に陥っている事に、小野寺は気付いていた。

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