第62話 10-8.


 ラモス大統領とマクラガンの会談、プロトコール仮調印は、終始友好的な雰囲気のまま、予定通り終了した。

 本来ならラモス大統領とマクラガンの調印に関する簡単な記者会見が行われる筈だったが、先程の襲撃事件を言い訳にして、そちらはラモス大統領宿舎であるウェスティン・ロンドンで行うこととし、メキシコ側には名代としてマルソーロ米州3課長が同行する事になった。

 メキシコ政府一行を地下駐車場で見送った後、涼子は記者会見場へ戻る通路をマクラガンと並んで歩きながら、簡単なブリーフィングを行った。

「ふむ……。ふむ……。遺憾の意を示す程度で良いのかね? 」

 マクラガンは老眼鏡をかけて涼子の差し出す携帯端末のディスプレイに映る文面を読み下している。

「イエッサ。この件に関しては広報部のガイドラインに沿って頂けませんでしょうか? 上手く行けば英国側の警備負担増に対するバーター要求を跳ね返すクリティカル・ファクターとなりますので」

 マクラガンもさほど抵抗はせず、素直に自分の意見を撤回した。

「そうか……。うむ。その点は了解した」

 チンと古いエレベータ特有の貧乏臭い音が鳴ってケージが記者会見場のあるフロアに到着したことを知らせ、ゆっくりとドアが開いた。

 一斉に廊下に溢れたマスコミのストロボが瞬き、TV用のライトが点灯し、マイクが槍衾の様に突き出される。

 外務省ビルは22世紀末に内務省別館として建設された古いビルで、伝統と格式を重んじる英国政府らしい重厚且つゆとりのある立派な造りであり、建物内にしても部屋も廊下も何もかも広く大きく配置されており、それはエレベーターホールも例外ではないのだが、広い筈のそこは今、人また人で溢れていて、涼子は一瞬眩暈を覚えてしまう。

 会見場に割り当てられた会議室はエレベーターホールを曲がって5m程進んだところで、そこへ続く廊下は警備陣の封鎖により、同じフロアと思えないほどの静けさを保っていた。

 エレベーターホールに溢れるマスコミは、UNDASNのSPと英国側警備陣が、マクラガン達の進路両側にズラリと立ち並んで作った花道に沿って芋洗い状態になっている。

 バッキンガム宮殿のようにロングスカートを踏まれる心配はなさそうだと、涼子はスカートの裾をたくし上げる為に摘んでいた指を離した。

 口々に質問を浴びせ掛けるのをサラリと流しながら、SPを先頭にして涼子達は花道を歩き始めた。

「あ、そだ」

 マクラガンの真後ろを歩いていた涼子は、英国所在のUNDASN航空基地夜間発着訓練問題に関して水面下で交渉継続中につきプレスリリースはしない様に、と釘を刺し忘れた事をふと思い出した。

 会見場へ入る前に伝えなきゃ。耳打ちしようと隣へ並ぶ為に足を速めた、その途端。

 涼子の慣性に待ったをかけるような、軽い衝撃を覚えた。後続の誰か、もしくはマスコミに押された警備員に零種軍装のトレーンを踏まれたらしかった。

「キャッ! 」

 涼子は小さく叫び、前へつんのめってしまった。

 危うく転倒しそうになるところを、思わず前を歩くマクラガンの腕を掴んでしまう。

「おおっと」

 マクラガンも涼子に突然腕を掴まれ、姿勢を崩して数歩よろめく。途端にストロボが一斉に瞬いた。

 大失敗だ、マスコミの前で本部長に恥を掻かせてしまった。

「こ、これは本部長、失礼しました! 申し訳あり」

 ません、と続けた涼子の声を、「ぐわっ! 」という悲鳴が掻き消した。

 一瞬前までの耳を塞ぎたくなる程の騒々しさがまるで嘘だったみたいに、静寂が広いエレベーターホールを埋め尽くす。

 何事かと涼子は、マクラガンの腕を掴んだまま離さずに首を巡らせる。

 悲鳴の主と思われる男は、プレスの腕章をつけた皮のハーフコートを着た男で、カメラを掴んだまま血塗れの肩を押さえて膝から床へ崩れ落ちようとしていた。

 肩には、矢が突き刺さっていた。

 涼子の脳裏に、古い西部劇映画のワンシーンが不意に浮かんで、すぐに消え去った。

「……え? 」

 涼子が倒れたカメラマンの向かい側へゆっくりと首を振ると、そこには古風な大型のハンディカムを肩に担いで右眼をファインダに当てた、身長2m、体重は150kgを越えていそうな大男が立っていた。

 よく見ると、レンズがぱかんと鳩時計の扉のように開いている。

「カメラにボウガンを仕込んでた? 」

 自分が躓いてマクラガンを押したから偶々助かったのだなと、奇跡のような偶然に感謝した。

 そして、そのせいでカメラマンは被害に遭ったのだと思うと、申し訳なくて、そしてマクラガンの無事を喜んだ一瞬前の自分が大嫌いで、泣きそうになった。

 次の瞬間我に返り、涼子はマクラガンに覆い被さるようにして叫んでいた。

「テロ! 全員伏せて! 」

 涼子の声を合図に、事件発生前の騒々しさを上回る騒音が一瞬でホールを満たした。廊下に溢れた100名近い人々はパニックに陥る。

 SPや警官も逃げ惑う人々にもみくちゃにされ、まるでスラップスティックコメディのように、誰もが出鱈目に右往左往している。

「本部長、会見場へ! お早く! SP、早く援護カバーを! 」

 怒号や悲鳴が飛び交う中、マクラガンを抱えながら彼の耳元で叫ぶ涼子は、ドタバタ騒ぎを繰り広げる人々の中、唯一人呆然とカメラを担いだまま立ち尽くす男の姿を、常に視界の隅に捉えていた。

 早く、早く、今のうち、今のうちに安全圏へ。

 焦る涼子の想いとはうらはらに、全てが『動』に囚われている中、唯一『静』を纏っていた男がゆっくりと『動』へと移行した。

 即ち、肩に担いだカメラを投げ捨て、懐からナイフを抜き出してこちらへ一歩、足を踏み出したのだ。

「本部長、逃げて! 」

 涼子はマクラガンを男と反対側へドンッと突き飛ばして、男に正対した。

 ウェストミンスターやバッキンガムと違い、ここなら遠慮なく発砲できる、今更ながらそんな事を思い出し、ガーターベルトで太腿に保持したCzを抜こうと手をスカートのスリットに伸ばした。

「あ、あれ? あ、ちょ、や、ま」

 自分では冷静に行動していたつもりだったけれど、それは勘違いだったようだ。

 自分の着ている服なのに、スカートのスリットがどこなのか、判らない。ああもうとスカートを引き千切るつもりで無茶苦茶に手を動かして漸く握った銃も、今度は零種の豪華なリボンやフレアがからまってしまい、抜き出せない。

「うおおおっ! 」

 獣じみた叫び声に顔を上げると、ナイフを構えた男は、もう目の前にいた。

「きゃあっ! 」

 思わず目を強く瞑ってしまう。

 もう駄目っ、と思った瞬間、ドスン、と鈍いが大きな音がした。

「涼子様、逃げて! 」

 目を開けると、リザが男を羽交い絞めしていた。続いて銀環がタックルよろしく男の足にしがみつく。

「リザ、銀環! 」

「邪魔するなあっ! 」

 男は叫ぶと、手足を無茶苦茶に振り回す。

 2mを越す大男相手に、いくら軍人と言えども、体格で差のありすぎる銀環とリザは簡単に振り落とされてしまった。

 蹴飛ばされて足元を丸太のように転がる銀環を飛び越え、リザはそれでもナイフを掴んだ男の右腕に果敢に飛び掛った。

 こんなところでへたり込んでいる場合じゃない、と涼子はふらつく脚に力を込めて急いで立ち上がる。

「クソッタレッ! 」

 野獣のような叫び声に顔を上げると、二の腕を掴んだリザの手をめがけて、男はナイフを左手に持ち替えて刃を振り被っていた。

「駄目ぇっ! 」

 身体を捻ってリザに向き合った男は、今、背中を涼子に向けている。

 無意識のうちに身体が動いていた。

 涼子は不自然な姿勢になった男の膝関節の裏を、背後から思い切り蹴飛ばした。

「うおっ? 」

 狙い通り、男は膝が砕けて巨大な身体をガクンと傾けた。隙を突いてリザが男から距離をとったのが見えた。

「きゃあっ! 」

 狙いと違ったのは、男が涼子に向かって倒れてきた事。

 迫る巨体から逃れようと後退さるが、それこそスカートの裾を自分で踏みつけてしまい、その場で倒れてしまった。

「痛いっ! 」

 しこたま廊下で尾骶骨を打ち付けた涼子の上から、男の身体が覆い被さってくる。

「わあっ! 」

 両手で男を押し返そうとするが、確実に100kgを超えている巨体はびくともしない。

 男は見た目よりも身軽な動きでさっと身体を捻り、涼子の腹の上で綺麗なマウント・ポジションを取った。

 瞬間、男の体重がふっと軽くなる。

 暴れるうちに乱れて剥き出しになった太腿のCzに、指が届いた。今なら、抜ける。

 男は酷薄そうな笑みを口の端に浮かべて、ナイフを器用にクルッと逆手に持ち直すと「死ね! 」と叫んで手を振り上げた。

 ガンッ! という甲高い音が、高い天井に木霊して、同時に、再びの静寂が訪れた。

「ぐぅっ! 」

 男の苦渋の叫びに、風鈴のように涼しげな、薬莢ケースが床に落ちた音が被さる。

 グゥッと男の巨体が涼子の身体の上で伸び上がり、そのままスローモーションみたいにゆっくりと、横倒しに倒れた。

 マズルを男の左肩に押し付けて、そのまま発射した為、反動で吹き飛んだのだろう。

 助かった。

 肩で息をしながら上半身を起こすと、既に男の身体の上にはSPや警察官、20名近い人間が覆い被さって小山を形成しており、その山のふもとに、ナイフがポツン、と寂しそうに転がっていた。

 なんだか、いつか、どこかで見たような光景だな、とぼんやり思った。

「涼子様! 」

「お怪我は! 」

 振り向くと、駆け寄ってくるリザと銀環の泣き顔が視界に飛び込んできた。

「大丈夫、大丈夫、私は大丈夫。貴女達こそ怪我はない? 」

 涼子は廊下の天井を見上げながら問う。

 二人に両脇から抱きつかれて、勢いで再び床に寝転がってしまったけれど、今度は痛いとは感じなかった。

「はい、私達は大丈夫です」

「涼子様のお陰で助かりました」

 涼子は、胸に顔を押し付けて泣きじゃくる二人の副官の肩をポンポン、と叩く。

「二人とも、顔、見せなさい」

「え? 」

 リザと銀環が、殆ど同時に涙と洟でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。

 まるで迷子になって、迎えにやってきた母親を見上げるような、無防備な、幼ささえ感じさせる顔を眺めるうちに、涙がこみあげてきた。

「りょ、涼子様? 」

「どこか、お怪我でも? 」

 心配そうな二人に、涼子は泣きながら、それでも微笑を漸く浮かべて首を横に振る。

「違、うの。嬉しく、て」

 涼子は二人の頬に唇を寄せ、それから頭を抱きかかえてもう一度自分の胸に押し付ける。

「そうなの、嬉しいの。二人が私を助けてくれたことも、二人が無事だったことも」

 そう呟くように言ってから、涼子は我に帰った。

「そうだ! 」

 リザと銀環を跳ね除けるようにして上半身を起こし、辺りをきょろきょろと見回す。

「本部長! 本部長はっ? 」

「石動君。ここだ」

 声のする方に首を捻ると、マズアやヒギンズ、SP数名に両脇を固められたマクラガンが、会見場のドア付近で手を上げていた。

 副官達に助け起こされた涼子は、マクラガンに駆け寄った。

「本部長! お怪我は? 」

 マクラガンは涼子の爪先から頭の先まで、ゆっくりと点検するように視線を上下させ、それからニコ、と笑った。

「私は大丈夫だ……。君こそ大丈夫かね? 」

 再び視線を足元に落としたマクラガンが、驚いたような表情を浮かべる。

「1課長、血が! 」

 ヒギンズの声に涼子が下を向くと、スカートの裾が赤く血で染まっていた。

「あ、ああ」

 涼子は、スカートを手でたくし上げて見せる。

「犯人の血がついたみたい」

 涼子は笑いながらそう言った後、眉を曇らせた。

「どうしよう……。零種軍装この服、明後日も使うのに」


 記者会見は、予定より30分ほど遅らせて、会見場を別フロアに移して行うことになった。

 マズア達は危険だといって反対したのだが、涼子が強硬だったのだ。

「今、ここで会見をしないでどうすると言うんですか? 折角、4度にも渡る襲撃を持ち堪え、全世界に『けっして退かないUNDASN』をアピールできたと言うのに! 」

 結局、マクラガンが涼子の意見を支持して、記者会見は決行されることになった。

 涼子は混乱する現場の中、「なんか気持ち悪いし、血の匂いもするみたいだから、スカート、水洗いしてくる」と言って、妙に場違いなのんびりした足取りでトイレへ向かって行った。

 たくしあげたスカートの裾から覗く美しい脚が、普段ならば艶めかしく感じるだろうに、マクラガンには今はどことなく頼りなげにしか見えなかった。

「これで本日4回目、昨夜から通算で5回目か……。打ち止めにしてもらいたいもんですな」

 マズアが額の汗をハンカチで拭いながら溜息混じりに呟く。

 マクラガンは、新たに外務省から提供された控え室のソファに凭れて、さっきからずっと、あることについて考え続けていた。

「何が、石動君をあれほど……」

 声に出ていたらしく、マズアが聞きとがめた。

「1課長がどうかなさいましたか? 」

 マクラガンは我に帰り、首を横に振る。

「いや、何でもないんだ。気にせんでくれ」

 そう答えながらもマクラガンは、再び、昨夜からの涼子の行動を思い返す。

 外見は、ハリウッド・スターやミスコン優勝者も裸足で逃げ出すほどの、完璧とも言って良いくらいの、美女だ。

 そして、時折見せる、童女のような仕草、幼い子供のような笑顔。

 そうかと思うと、上官だろうが誰だろうがズケズケと遠慮なく意見する腕利きのキャリアウーマンであり、クールにテキパキと仕事をこなし、外交交渉でも粘り腰で決して退かない辣腕の外交官でもある。

 常に周囲の人間の、予想の斜め上を行く、様々な涼子をこれまで見てきた、筈だった。

 そんな涼子が、これまで一度たりとも見せたことのない、表情。

 それがマクラガンの心を昨夜からずっとざわめかせている。

 まるで悪魔のような、冷酷で残忍な涼子が、それだ。

 任務遂行の為に、一見冷徹な意見や決断を下すことはあっても、必ずその瞳の奥には、不安と後悔と自分への嫌悪感が覗いていたし、しかもそれを隠し切れない人間臭さがこれまでの涼子にはあって、それこそが彼女の人間的な魅力そのものだった、そう思う。

 だが、今回の訪英中に初めて見せた、あの襲撃犯人達に対する氷の視線はなんだ?

 平気で銃口を相手の口へ押し込み、その上で舌に上す、まるで殺しを楽しんでいるかのような台詞、そして、美しさ故にますます強調される酷薄な、悪魔のような微笑み。

 そうやって襲撃犯を制圧した後に訪れる、まるで道に迷って夕暮れの街をさ迷う子供が見せる様な、恐怖に満ちた瞳と涙、震える細い肩、その落差は一体?

 前線勤務、実施部隊にいた時でさえ、彼女はけっして『残忍で獰猛な闘いを戦う』『戦闘そのものを楽しんでいる』戦闘狂ウォー・モンガーのような士官ではなかったことは、勿論知っている。

 だとすると、ロンドンで立て続けに見せた、彼女の『悪魔のような姿』は、一体今迄、どこに潜んでいたと言うのか?

 ずっと、そのことがマクラガンの心の襞に引っ掛かって離れなかった。

 そして。

 今また、新たな小骨が引っ掛かった。

 つい先程の襲撃では、その残忍な笑みが、ついに姿を見せなかったことだ。

 襲撃事件の時系列順で言えば、1件目から4件目までと~4件目は報告を受けただけで自身は目撃はしていないのだが~、5件目と、なにが、どう、違うのだろうか?

「本部長……? 本部長! 」

 鈴の鳴るような声に、マクラガンは我に帰る。

 顔を向けると、いつトイレから戻ったのか、涼子が、今度はちゃんとスカートの裾を降ろして心配そうな表情を浮かべていた。

「ああ、石動君か。……すまんね、少し考え事をしとったもんで」

 涼子は返事をしないマクラガンを余程心配したのか、両手を胸の前で握り締めて、既に瞳が涙で潤んでいる。

「大丈夫、ほんとうに大丈夫だ。君こそ、大丈夫か? 疲れていないかね? 」

 涼子は漸く安心したのか、手袋をした手の甲で涙を拭い、少し鼻をグジュグジュ言わせて儚げな笑顔を浮かべた。

「私は大丈夫です。……えへへ、スカート洗うついでに、お化粧直しもしてきましたから」

 そう言ってから涼子は、表情を少しだけ引き締めた。

「そろそろ、本部長、お時間です」

 マクラガンも仕事の顔に戻って答える。

「うむ。行こう」

 涼子はにこりと頷いて立ち上がった。

「では、こちらへ。駐英武官、お願いね」

 マズアを先頭にして涼子、その後にマクラガンも続く。

 彼の目には、涼子のとても軍人とは思えない薄い肩が、未だにブルブルと小刻みに震えているのが良く解った。

 水洗いして薄いピンク色のまだらになった豪奢なスカートが、彼女の儚さを彩る花束のように見えて、それが妙に似合っているのが、なんだか腹立たしかった。

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