第60話 10-6.


 バッキンガム宮殿の晩餐会会場、ステートダイニングルームの正面には、新しい大英帝国の国王、チャールズ15世を始めロイヤルファミリー、ブラウン首相と内閣閣僚が並び、その前に直角に15列のテーブルが設えられ、各国国家元首や英国の貴族、招待客等がずらりと並んでいた。

 真ん中のテーブルには、マクドナルド国連事務総長を始めとする、国連本部・防衛機構幹部にマクラガンを始めとするUNDASN幹部と、オーストラリアやニュージーランド等イギリス連邦各国、アメリカ・日本・ロシア等大国首脳の席になっていて、謂わば『特等席』とも言えるこの列に席を確保する事が出来たのも、全ては涼子を初めとする国際部の手柄に違いない、とマクラガンは密かに満足していた。

 さすがに各国のエグゼクティブ達だけあって、人数の割りには会場内は静かだったが、それでも相当な、しかし上品なざわめきが、場内を埋めている。

 そんな中、マクラガンの耳に涼子の呟くような声が届いた。

「あー、お腹空いたぁ」

 早速、ハッティエンが涼子に説教をする声が聞こえるのも、UNDASN部内ではいつも通りの光景だ。

「欧州室長代行、場を弁えんか」

「だって」

 涼子の拗ねたような、怒ったような声が跳ね返る。

「今日一番のメイン・イベントですよ? 豪華なフル・コース・ディナー、英国王室が欧州料理界、いや世界の料理界に誇る鉄人シェフ、サー・ウィンストン・ローリーが腕を振るったそれはもう、きっと頬っぺたが落ちちゃうくらい美味しい料理のオンパレードに違いないんですもの! 」

「ヤケに詳しいな、石動君」

 横からボールドウィンが割り込んでいる。

 ハッティエンとボールドウィンを見ていると、孫を取り合う父方母方、二人の祖父を見ているようだとマクラガンは思わず微笑んでしまう。

”……まぁ、石動君は私達夫婦の娘なんだがね”

 きっと妻ならそう言うだろうと考えて、微笑みを苦笑に切り替えたところで、不意に先程の『襲撃予告状』の件が気になった。

 どうも、おかしい。

 涼子が言う通り、今は『UNDASN統幕本部長襲撃』にターゲットを絞って態勢を整える案は、戦術的にも戦略的にも正しい選択だと、思う。

 だから、問題はそこではなかった。

 ボールドウィンとマズアの様子が、引っ掛かる。

 そしてそのことに、どうやらハッティエンも気付いている様子だ。

”ボールドウィンとマズアは、何か隠しているのではないだろうか? ”

 そしてその『何か』とは、きっと涼子に関係がある。

 そしてその何かが、途轍もなく『涼子にとって危険な何か』であるような気がしてならない。

 もしもそうだとすると、涼子の採った対策と方針は、間違っている。

”あれは、フォックス派には関係ない誰かが作ったもので、そしてその誰かのターゲットはきっと私ではなく”

 涼子なのではないか?

 マクラガンは思わず、涼子に顔を向ける。

「室長代行がそんなに食通だとは思いませんでした」

「その割には料理は苦手だと聞いたが? 」

「まぁ、失礼な! 料理は愛情なんですっ! 」

「愛情と言っても案外アブノーマルなのかもしれんな」

「きゃあ! セクハラだもん! 」

 まるで給食を待つ小学校の教室張りの騒々しさだったが、その明るい雰囲気が却ってマクラガンの気持ちを暗くする。

 いったい、涼子になにがあったのか?

 涼子を廻って、いったい何が起きているのか?

 そして、その未だ見えない『誰か』もしくは『何か』は、いったい涼子をどうしようとしているのか?

 次第に暗い方向へと潜行し始めたマクラガンの意識を、国王臨席を知らせる華やかなファンファーレが現実に引き戻した。


 ファンファーレとともにロイヤルファミリーや英国政府首脳、そして最後に新英国国王チャールズ15世が入場し、厳かに、そして華やかに晩餐会はその幕を開けた。

 英国ブラウン首相のスピーチ、そしてチャールズ15世のスピーチに続いて、イギリス連邦を代表してオーストラリアのマイルズ首相の祝辞、シュタインEU大統領の祝辞、マクドナルド国連事務総長の祝辞の後は、UNDASN統合幕僚本部長統合司令長官、マクラガンの祝辞だ。

 この祝辞ひとつとっても、UNDASNの制服組トップをここに立たせるために、果てしない時間と労力を涼子達が注ぎ込んだ結果なのだ。

 涼子は、立ち上がり演壇へと進むマクラガンの後を、スポットライトから離れたところを目立たぬように追って、会場隅、演壇の後方壁際にそっと立つ。

 彼のスピーチ原稿の最終添削を行なったのは涼子であり、普段なら涼子はスピーチ内容に結構注意を払っているのだが、今回は襲撃に気を取られてそれどころではなかった。

 バッキンガム宮殿内で銃による狙撃は考え難いとはいうものの、拍手とともにマクラガンが演壇を降りるまでの5分間が、まるで一時間のようにも感じられ、何事もなく終了して席に戻った時にはクタクタに疲れてしまっていた。

 次々に運ばれる豪華な食事にも殆ど手をつけない涼子を見て、隣りでマズアが少し心配そうに声をかける。

「室長代行、召し上がられないので? あんなに楽しみにしてらっしゃったのに」

 マズアには、遠慮なく疲れた顔を見せられる。

「うん……。まぁ、そうなんだけど、ね? なんだか疲れちゃって」

「私は暫くの間は大丈夫だから、外の空気でも吸ってくるか? 」

 会話が耳に届いたのか、マクラガンが声を掛けてくれた。

「そうした方がいい、当分は私やハッティエン局長もいるから」

 ボールドウィンにも奨められ、涼子は暫く思案した後、思い切って彼らの好意に甘える事にして席を立った。

「ああ、肩凝った……。やっぱり、緊張してたのかな」

 ホールを出たものの、かと言って行くところもない。

 控え室を覗いても、リザと銀環、アンヌ達随員の姿はなかった。そう言えば、随行員には別室で食事が出ると聞いた覚えがある。

 私もそっちの方が良かったな、と考えながら、ぼんやりと涼子はあてもなく歩き始めた。

 宮殿の長い廊下は10cmのピンヒールが半分以上沈んでしまいそうな毛足の長い絨毯がしきつめられており、警備の兵士や侍従が大勢行き交っているものの、殆ど無音という不思議な空間だ。

 柱と柱の間には、大きな絵や彫刻等がスパン毎に並べられており、まるで美術館の様にも感じられる。途中に設けられている応接セットでは、晩餐会出席者や、出席者の随員達で殆ど埋まっており、 煙草の煙が立ち込めていた。そう言えば、この辺りは平年の一般公開~服喪期間、一般公開は中止されていた~でも立ち入ることは出来ないエリアだったか。

「こんな時、煙草が吸えたら、少しは落ち着くのかな」

 涼子は20世紀後半に始まった全世界的な嫌煙運動を生き延びて、未だに寡黙ながら活発なアピールをしている様にも見える愛煙家を眺めながら歩く。

 涼子自身、二尉の頃、厳しい勤務の合間にタバコを吸ってみた事があったのだが、身体が合わないのか、3ヶ月もしないうちに自然とやめてしまった事があった。

「WHOも頑張ってるのに、ねえ」

 涼子はふと、小野寺がかなりのヘビースモーカーだった事を思い出した。

 初めて出会った、卒配先の五十鈴時代でも、彼は結構な本数を吸っていた筈だ。

 艦橋配置時は勿論、艦内主要施設は全て禁煙なのだが、休憩室や艦長室等で、彼は多分1日40本近く吸っていた様に思える。

 嫌煙運動華やかなりし20世紀終末から21世紀前半の煙草のように、中毒性や健康を害する成分はもちろん現在はなくなってはいるのだが、それでも煙を吸い、吐く、と言う『基本的なスタイル』が変わった訳ではなく、周囲への配慮と自身の(少しだが)健康という点から、24世紀の現在でも白眼視は続いている。

 彼も、何を思ったのかは知らないが、一時期、かなり量を減らしたとも聞いていたのだが、統幕配置でデスクワークが増えて、比例してタバコの量も再び増えだした様だ。

「禁煙! 申し渡したら、艦長どんな顔するだろう? えへへへ」

 涼子自身は煙草と体質が合わなかったものの、別に横で吸われてもあまり苦にならないタイプだったし、マナーさえ守っていれば嫌煙権など主張しないのだが、さて、自分の恋人~そう考えて涼子は一人で頬を赤らめる~が煙草を吸うと言う事実は、考えるとあまり好ましい事態ではない様にも思えてくる。

「少し減煙……、で手を打とうかしら? 」

 気付くと、お手洗いの前だった。

 さっきの『襲撃予告状』の件が尾を引いているのか、一瞬、その場で立ち竦んでしまったが、よく見るとトイレの内装は先程とは天と地ほども違う豪華さだ。

「控え室付近と、ホール付近じゃ、トイレの造りも違うのね」

 そんな事を呟きながら中へ入ると、偶然だろうがトイレの中はタバコの煙がたゆたっている。

見ると、個室の扉が1つ使用中になっており、そこから今も煙が流れ出していた。

”やだ……。バッキンガム宮殿でも高校生並にトイレタバコなの? アメリカの国会では上院議員や下院議員がトイレで隠れタバコしてるって言うけど”

 涼子は少し驚きつつも、静かに向い側の個室に入る。

 おそらく、晩餐会の席上、嫌煙権を主張されて、已む無く篭っているのだろう。

 24世紀の今でも、公の場所での喫煙は大幅に制限されているのは勿論なのだが、何故か、シャバでは女性の喫煙者が白眼視されているのが実態だった。

 別に女性が煙草吸ってもいいじゃないとも思うし、UNDASNでは少なくとも男性喫煙者より5%程女性喫煙者は多いから、余計シャバの慣習が涼子には腹立たしく感じられ、それだけに向いの個室で紫煙の香りを楽しんでいる女性に、涼子は少なからず同情した。

 涼子が用を足し終えて外へ出ても、まだ向いの個室からは煙が静かに流れ出ている。

「よっぽど我慢してたのかしら? チェーン・スモーキングって奴ね」

 涼子が苦笑しながらトイレから出て、そろそろ戻ろうかと歩き始めると、意外な人物が視界に飛び込んできた。

 ついさっき、零種軍装の着替えを手伝ってくれた駐英武官事務所の庶務係、リャン・チャンニ艦士長がアタッシェケースを大事そうに抱えて、緊張した足取りでこちらに向かって歩いてきたのだ。

「あらチャンニ、どうしたの? 」

 顔を上げたチャンニの表情が、声の主が涼子だと判った途端、緊張からみるみる笑顔に変わっていく。

「1課長! ご苦労様です! 」

 駆け寄ってきて笑顔のまま敬礼するチャンニに、涼子は答礼しながら、彼女が手に持ったアタッシュに視線を向けた。

「あなたこそ一体どうし……、ああ、そうか、例の封筒取りに来てくれたのね? 」

 駐英武官事務所に取りに来る様リザに伝言を頼んでいたが、どういう経緯か、チャンニが任務を仰せつかったらしい。

「はい、武官補佐官に命じられまして。今からスコットランドヤードにいらっしゃるコリンズ二佐へ届けに行きます」

 そこでチャンニは、笑顔を引っ込めて言葉を継いだ。

「だけど、迷っちゃったらしくて……。気付いたら、なんだか凄く豪華なところに来ちゃってて」

「ああ、関係者用のエントランスに行きたかったのね? それならたぶん、反対に歩いちゃったんじゃないかしら」

 笑いながらそう言って、涼子は少しだけこの幼さの残る可愛らしい部下をからかってみた。

「ご苦労様ね。だけどあなたのさっきの表情、凄かったわよ? まるで、今から敵艦隊へ突入! みたいな」

 チャンニは真っ赤な顔をして俯く。

「班長に、『大事な証拠物件だから、慎重に運搬せよ! 』って言われて、つい緊張しちゃって」

「ウフフフ、大袈裟ね。そりゃ、途中でなくされちゃ困るけど、それ程重要な書類でもなし。チャンニの顔つきだったら、返って狙われちゃうわよ」

 チャンニも頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる。

「申し訳ありません。なんか、こんな重要な仕事、初めてだったもので」

 刹那。

 チャンニの視線が、ふと涼子の顔を通り越してその背後に移動した。

 愛らしい瞳が、心持ち細められ、みるみる険しくなっていく。

「ど、どうしたの? 」

 チャンニの表情の激変に驚きながら、涼子が彼女の視線を追って振り返ろうとした時、チャンニが無声音で鋭く言った。

「振り返っちゃ駄目です! 」

 涼子は辛うじて動きを止め、チャンニに視線を向けたまま、やはり無声音で問い返す。

「誰か後ろにいるの? 」

 チャンニは微かに首を縦に振る。

「トイレの入り口の影から、誰かがこちらの様子を窺ってます」

 涼子は無言で頷いて、チャンニの肩を抱き、少し離れた応接セットへ伴う。

 トイレを背にして、晩餐会場の方を向いて二人並んで座り、囁いた。

「どんなひと? 」

「茶色い巻き毛の、30歳前後の白人女性です。メイドさんの格好をしてますね。トイレから顔を出して、私達が立ち話しているのに気付いて、すぐに顔を引っ込め……、あ、出てきた! 」

 チャンニの言葉に頷きながら、涼子はさっきまで自分がいたトイレ内部の様子を思い出す。

 トイレの使用中だった個室は、あの隠れ煙草のひとつだけ。

 その人物が出てきたと考えて良かろう。

 しかも、チャンニは『メイドさんの格好』と言った。

 このトイレは、内部の造作が違う事からも来賓用だ、使用人がこのトイレを使用する事は常識的に考えてもない筈。ましてやトイレでの隠れ喫煙などもってのほかだ。

 怪しい、と断定しても良いだろう。

 視界の隅に人影が現れた。

 姿を見せたのはチャンニの言った通りの女性で、彼女は早足で、涼子達の横を通り過ぎ、背を向けて遠ざかっていく。このまま真っ直ぐいけば、晩餐会の会場だ。

 涼子は、女の背中から視線を外さないまま、チャンニに小声で指示を出した。

「チャンニ、あなた、あの女を追い越して、宴会場入り口の警備に通報、入ろうとしたら拘束させて! ……いい? ゆっくり慌てず追い越すのよ」

 そしてチャンニに視線を移し、微笑んでみせた。

「私と約束しよ? ……絶対、危険なことをしちゃ駄目」

 チャンニは決意を表情に浮かべゆっくりと頷く。

「よし。じゃ、私は女の後を追うわ」

 涼子はそっと、チャンニの背中を押す。

 足早にメイドの後を追うチャンニの姿を、口の中でゆっくり5つまで数えてから、涼子も歩き始めた。

 歩きながら、スカートのスリットに手を入れて、Czを抜き取りセイフティを外してトリガーに指をかけたまま上着の懐へ隠す。

 微かに鼻をつくガンオイルの匂いが、妙に懐かしく感じられた。

 前方を行くチャンニの足取りは落ち着いて見える。

 それでいて意外と歩速は早く、追いついたと思ったら、感心するほどの自然さで、チャンニはメイドを追い越した。

 『証拠物件』を運んでいる姿よりは自然に見えるな、とチラ、と思った刹那。

 メイドの右手が、スカートのポケットに入れられた。

”気付かれたっ? ”

 涼子は咄嗟に銃を抜き出して駆け寄ろうとすると、一瞬早く、メイドは1m程前方のチャンニに後から掴みかかった。

「チャンニ! 」

「動くなッ! 」

 涼子とメイドの声が、交錯した。

 涼子は両手で銃を構え、振り返った女の眉間に照準をつける。

 メイドは、チャンニを後から羽交い絞めにして、喉元にナイフを突き付けている。

 背中を伝う冷たい汗が、気持ち悪かった。

「そのを放しなさい! 」

 メイドの唇がニヤ、と釣り上がり、刃渡り20cmほどのアーミーナイフの柄を握る指が白くなる。

「そっちこそ、銃を捨てろ! この女が死んでも良いのかっ? 」

 チャンニのレポート通り、白人の30才前後に見える、気の強そうな大柄な女だ。

 身体つきは涼子の1.5倍はあるだろう。涼子よりも背が高いチャンニと比べても身長も頭ひとつ程高く、体格も倍以上はありそうだ。

 ここは、我慢。

 そう考えて、口は噤んだまま、集中して視線はメイドの眉間から離さない。

「早く銃をす、捨てろ! ほんとに殺すぞ! 」

 気迫で勝ったのか、メイドの口調が少しだけ速くなり、語尾が震えた。

 しかし、この後どうする?

 気迫で勝ったからと言って、メイドが素直に降参するとは思えないし、それにこれ以上対峙が長引くと、却って緊張と興奮から、本当に人質を傷付けかねない。

 と、その時涼子は、羽交い絞めにされてナイフをつき付けられているチャンニが、余裕たっぷりにウインクを寄越しているのに気が付いた。

「! 」

 涼子はそのサインに”何か”を感じて、咄嗟に数歩前へ出る。

「き、聞こえなかったのっ? こ、殺すぞ、ほんとに! 」

 メイドは驚愕の表情を浮かべたまま、チャンニを引き摺るようにして数歩後退して叫ぶ。

 彼女の声には、明確な恐怖の色が混じっていた。

 逆に、ナイフを突き付けられているチャンニの表情は変わらない。

 どころかチャンニは、涼子が前に一歩出た事で、自分の意図が伝わったと判ったのか、再びウインクを送ってきた。

 涼子は、腹を括った。

 ここは、チャンニを信用して勝負に出よう。

 微かに顎を引いて、涼子はもう一歩、前に出た。

 彼女の叫びは、先程よりも恐怖が色濃く、そして少しの怯えも混じり始めているように聞こえた。

「動くなと言っただろうが! 人質、殺すぞ! 」

 涼子は銃の構えを崩さずに、低い声で答えた。

「構わないわ」

 メイドは一瞬呆然とし、そして次に間抜けな声を上げた。

「え? 」

「その代わり、貴方も殺す。二人とも死ぬか、二人とも助かるか、どっちがいい? 」

「なっ? 」

 刹那、チャンニが動いた。

「はっ! 」

 低く短い気合いと共に、チャンニの左手の裏拳が見事に女の顔の中心にめり込んだ。

 ボグッと鼻の骨が折れる音がする。

 チャンニの右手は、舞うように華麗に、風のように静かに素早く、メイドのナイフを持った右手に襲い掛かる。

 涼子が動きをトレースできたのは、そこまでだった。

 次に二人の動きが止まったときには、メイドは毛足の長い豪華な絨毯の上で仰向けに倒れていて、チャンニが左手を振り上げていた。

 チャンニは右手をメイドの手から放さずに、左手で手刀をお見舞いしてナイフを叩き落とす。

「室長代行! 」

 チャンニの声で涼子は漸く我に帰り、慌てて二人に駆け寄った。

 押さえつけられたメイドも、我が身に何が起きたのか、把握できていないのであろう。

 鼻血を流しながら、呆然とした表情で、宮殿の高い天井を見上げて寝転がっているメイドの横にしゃがみこみ、涼子は眉間にマズルを押し当てた。

「観念なさい」

 そう言い捨てて、ナイフを拾い上げ立ち上がると、廊下の向こうから警備の近衛兵や警官が駆けてくるのが見えた。

「特別職国際公務員免責特権を行使します。UNDASN関係者へのテロ未遂犯です。UNDASNは貴国との間に締結された関連条約及び関係プロトコールに基き、第一次捜査権を保持しています。現在、スコットランドヤードに我が軍務局将校が待機していますので、連行し、引き渡して下さい。……こちらにいる、UNDASN駐英武官事務所リャン・チャンニ艦士長が同行します」

 そこまで言って涼子は、傍らで立つチャンニの小柄な身体に抱きついた。

「し、室長代行? 」

 チャンニの驚いた声を聞いて、一瞬、急に抱きついたりして悪かったかしら、と思ったが、そうでもしないと立っていられないほどに、チャンニが愛惜しくて仕方なかった。

「チャンニ! ごめん、ごめんね! 大丈夫だった? ケガなかった? ごめんなさい!危ない真似させて! ひ、酷い事言っちゃって! 」

 涙が零れて格好悪いと思ったけれど、止めようとしても止まらない。

 ただ、ただ、チャンニが無事だった事が嬉しく、神に感謝したい気持ちで一杯だったし、それ以上に、部下の命を危険に曝すような真似をしてしまった自分が、許せなかった。

 チャンニのお姉さんぶった優しげな声が、涼子の耳朶を擽る。

「大丈夫、私は大丈夫ですよ、室長代行。だからもう、泣かないで。ほら、大丈夫ですよ、だから泣かないで」

 そう歌うように繰り返し囁きながら、背中をトン、トン、と叩く。

 母に抱かれているような錯覚に、一瞬陥った。

「室長代行、本当に大丈夫ですから。……私の父が国許で拳法の道場やってまして、だからこう見えて、結構強いんです。マーシャルアーツは教官資格もってるんですよ? 」

 涼子は漸くチャンニから身体を離し、それでも、鼻をグジュグジュ言わせながら、Czを持った手の甲で涙を拭う。

 見っとも無い、と思った。

 思った瞬間、眼の前のチャンニが、薄っすらと頬を染めて、クスクス笑った。

「うふふふ、室長代行ったら。ほんと、泣き虫だったんですね。……でも、私、嬉しい! 」

 きっと今の自分は、目の前の部下よりも顔が赤いだろうと思った。

「やだわ、この娘ったら! ……でも、ほんとに心配したのよ? 」

「よく判ってますよ、室長代行。だから私も、落ち着いて対処できたんです」

 涼子はもう一度涙を手で拭って、漸く微笑を浮かべる事に成功した。

「とにかく、ありがとうね、チャンニ。お礼はまた改めて、ゆっくりとさせてもらうわ」

 チャンニも明るい笑顔で敬礼する。

「光栄であります! それではリャン艦士長、テロ未遂犯の連行に只今より同行いたします! 」

 拘束具に詰め込まれて担ぎ出される女と、同行するチャンニを見送りながら、涼子は自分が空腹を感じていることに気付いた。

 安心した途端これか、と涼子は一人、顔を赤らめた。

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