第59話 10-5.


「ふぅっ! 歩き辛いったらないわ、このハイヒール。それに、このスカートも、用が足し難いったら……。デザイナーに1回これ着てトイレに行って御覧なさい、って言いたいわぁ」

 ぶつぶつ言いつつも用を足し終わった涼子は、鏡の前に立ち手を洗い、ポーチから化粧道具を出してメイク直しを始めた。

 実施部隊の配置は勿論、幕僚配置の時ですら殆どノーメイクで通している涼子だったが、さすがに零種軍装の時だけは出来るだけメイクするようにしていた。

 メイクすると、なんだか息苦しいし、後処理も大変なので、出来れば勘弁願いたいところなのだが、零種軍装の場合、服の華やかさで却って全体的にぼやけた印象になってしまうように思えて、いつも、少し濃い色の口紅とクールな感じのするブルーベースのアイシャドウの力を借りて表情にメリハリを出し、軍人らしい引き締まった感じになるよう心掛けている。

「……って、教科書に書いてあったのよね、これが」

 ハーグ赴任の時、つまり初めての国際三部門配置以来、ここに転属になる都度、涼子は幹部学校で必須科目になっている『国際儀礼』のフォーマル・メイキングのサブテキストを引っ張り出して復習している。

 何せ普段は化粧水程度しかつけないスッピン主義なものだから、ちょっと艦隊に出ているうちにメーキャップなどすぐに忘れてしまう。

「だけど、今日に限っては、違うんだ」

 今日のメイクは、いつもの『ジョブ』の一環というだけではない、石動涼子個人としての”意義”がある。

 零種軍装に合う様に、その為だけではなく、明後日の英国首相主催の音楽会と舞踏会、そしてその後に控える彼とのコンサートで、『自分を飾る』為の予行演習のつもりで、涼子は真剣に鏡に向き合ったつもりだ。

 涼子が、生涯で初めて、自分を美しいと感じて欲しい、自分を美しく飾りたい、そんな明確な意思の下に行われたメイクなのである。

 だから、今日のルージュはワインレッドのパール系。

 だから、アイシャドウはスパンコール入りの5色セットで、グリーンとシルバーから藍色のクールな感じに仕上げて、マスカラ付きの紺色と深緑の塗る付け睫毛。

 だから、アイラインは薄めで少し上げ気味に、眉も少し太めで上がり気味に描く。

 頬紅は、さっきアンヌがバンソウコウの上から上手に塗ってくれていたので、手を加えない事にした。

 最後に今のピアスはそのままにして、右の耳朶に銀のチェーンが肩までかかる大き目のイヤリングをつける。

 左頬の傷を目立ち難くする為に、髪を少し左へ流す様にまとめていたので、思案の末、イヤリングは右耳だけにした。

「さ! どーだ! 」

 涼子は鏡を前にポーズをつけて、身体を左右に捻ってみる。

 鏡の中の自分は、まるで自分ではないようで、暫くは得意げな微笑を浮かべていたが、不意に疲れたような表情になった。

「……判んないな」

 慣れないことはするものじゃない、明日でもアンヌにメイクを教えてもらおう、と考えて、踵を返し、数歩歩いたところで、ふと、立ち止まった。

 トイレの出口付近に、封筒が落ちていた。

「UNDASNの外部通信用の封筒? 」

 トイレに入った時は、確かにこんなものはなかった。

 首を捻りながら拾い上げてみると、封こそされていないが、中にはやはりUNDASNの公用便箋が一枚、四つに折り畳まれて入っていた。

「誰かの落し物かしら? 」

 今夜この宮殿を訪れているUNDASNメンバーは、マクラガン達男性陣は除いて、女性はリザ達や秘書官、SP達で合計8名、そのうちの誰かが落としたのかも知れない。

 ほんとに落し物だとしたら、情報セキュリティ規約ISMS違反だよね、などと考えながら便箋を開いて見ると、そこには新聞や週刊誌等の活字を切り貼りした文章が英語で書かれていた。

『いつまでも笑っていられない、もうすぐだ』

 頬が強張るのが判った。

 手が震えて、便箋を落としてしまい、拾い上げるのに三度も失敗してしまった。

 四度目に漸く拾い上げ、慌てて周囲を見渡すが、怪しげな人影は見えない。

 振り返ると、トイレの個室は全室、空き。涼子が個室に入っている間も、ドアの開閉音や水洗音は聞こえてこなかった。

 と、言う事は。

「誰かが私を尾行してきて……、これをここに置いたんだ」

 便箋を持つ手が震えているのは解っていたが、止める事が出来なかった。

”これは素直に受け止めれば第三の襲撃を予告している。だけど、本当にそうなのだろうか? ”

 何かが違う、と涼子は思った。

 フォックス派とは、何かが違う。フォックス派は、本気になったらこんな面倒な事はしない。

 面倒と言うより、この脅迫状には、”陰湿”な、純粋な”悪意”しか感じられない。

 狂信的な教理や哲学感に支配されているとは言え、フォックス派にはある種のインテリジェンス~ヒステリックと付け足した方が良いかも知れないが~が見え隠れしている、と涼子は思うし、警務部やICPOのプロファイリング・レポートにもそう書かれていた記憶がある。

 けれど、今、自分の手の中にあるこの『襲撃予告』には、ある種のフェティシズムと言おうか、マニアックさと言おうか、そんな気味の悪い偏りと邪悪さしか感じられない。

「そう。……そうなんだわ」

 この脅迫状からは、”一緒の臭い”がする。

 今朝、ホテルのロビーで感じた、あの身体に纏わりつく、暗闇の泥沼に引き摺り込もうとするような凶暴な力を感じさせる視線と、一緒だ。

 午後、同じくバッキンガム宮殿の控え室前で感じた、心に直接やすりをかけるような、耐え難い苦痛と切り捨てた筈の過去を同時に植えつける、悪魔の囁きの様な声と、一緒だ。

「ああ、駄目よ、ダメだめ! 」

 個人的に不快な事があったからと言って、全てをそれに結びつけるような短絡的で感情的な思いにジャッジを委ねる訳にはいかない。

 このシチュエーションは、涼子の考えが正解であろうが不正解であろうが関係なく、まずはUNDASNの軍人としては『統幕本部長襲撃』と結びつけた上でリスク・ヘッジを行うべき事項なのだ。

 恐怖感に駆逐されそうななけなしの理性は、幹部学校入学以来徹底的に叩き込まれ、今や第二の本能とも言うほどに染み付いた『デューティ』と『ジョブ』の概念で雁字搦めに縛り上げて漸く、保つ事が出来ているのだという事は、判っていた。

 それしか手がない、そう思い込もうと必死に胸の中で念じながら、涼子は鉛のように重いくせに、こんにゃくのようにふにゃふにゃと覚束ない足を、一歩、踏み出した。

 踏み出した途端、嘘のように、随分と気持ちが軽くなり、自分の単細胞さに苦笑した。


「また、お会いしましたわね」

 気持ちを切り替え、控室に戻ろうと歩き出した途端、急に声をかけられて、涼子は思わず「キャッ! 」と小さく叫んで、トイレの壁に張りついてしまった。

 数度深呼吸をして恐る恐る目を開けると、トイレの入り口に豪華なイブニングドレスを着て、頭には宝石の散りばめられたティアラを冠した、まさしく物語に登場する『プリンセス』そのものの女性が立っていた。

 ウエストミンスター寺院で私を見てたお姫様だ、彼女の顔を見て涼子はすぐに思い出した。

続いて自分の失態に気付き、顔を赤くした。

「も、申し訳ございませんでした。はしたない声を出してしまいました事をお許し下さい」

 涼子はそう言うと、腰を少し屈めてレディの礼を採りつつ、お姫様の顔をみる。

 相手は、涼子の非礼を咎める様子もなく、それどころか高貴な香りの漂う微笑を見せながら、涼子をじっとみつめ返していた。

「あ、私邪魔でございましたわね。どうぞ」

 自分がトイレの出口に突っ立ったままで通れなかったのだ、と涼子は判断し、壁際に身体を寄せながらそう言うと、何故か姫は目を閉じて首を横に振った。

「いえ、もう良いのです。……ああ、申し遅れました。私は、イブーキ王国国王、ゲンドー3世の娘、マヤ・ハプスブルク・ゲンドー・シュテルツェン2世と申します。爾後、よしなに」

 名乗られて涼子は、未だ自分は取り乱しているのだ、いけないいけない、落ち着け落ち着けと自分のざわめく心を宥め、意識してゆっくりと口を開く。

「これは重ね重ねのご無礼を。私の方こそ申し遅れました。私、国際連合防衛機構地球防衛軍宇宙艦隊統合幕僚本部政務局国際部欧州室長代行欧州1課長、石動涼子一等艦佐です。以後、お見知り置き下さいますよう」

 頭を下げながらチラ、と上目遣いに姫君の顔を見遣ると、一瞬、彼女の黒曜石のような美しい瞳に、哀しみと失望の影が差したように感じて、思わず涼子は首を傾げてしまう。

 だが、次の瞬間には優雅な微笑が暗い影を追いやって、マヤと名乗る姫は明るい口調で言った。

「それより、石動様? まだ開宴まで時間がございましょう? よろしければ、ほら、あの席で」

 マヤ姫は、白い手袋に包まれた嫋やかな指をツ、と上げた。

「暫く私のお喋りにおつきあい下さいません事? 」

 涼子は手に持った『襲撃予告』にチラ、と視線をやってから、そっと上着の内側、スカートの間にそれを仕舞う。

 気にはなるが仕方ない。

 あの警備過剰な控え室で何かが起こるとも思えない。

 それに、『初めまして』と挨拶したものの、知識としてはマヤ殿下のことを知らないわけではなかった。

 イブーキ王国と言えば涼子の欧州室管轄だし、ましてやマヤ殿下は病弱な父ゲンドー3世の名代、摂政殿下として、そして王位継承権第一位の次期国王として、国際舞台に度々登場している事はもちろん知っている。

 まあ、顔を知らなかったのは欧州室員として任務上のプライオリティの問題、なのだろう。

 と、そこで涼子は引っ掛かりを覚えた。

 自分は、職掌範囲内の重要人物は、全て顔を覚えている筈なのだけれど。

 写真と実物の印象が違う、等はよくある事だが、それでも相手に自己紹介されるまで完全に記憶のサーベイでヒットしないことなど、これまでに一度もなかった事だ。

 やだ、ボケちゃったのかしら? 

 とにかく、無碍に断る事は出来ないと、その申し出を謹んで承知し、涼子はマヤの手を取って手近な応接セットへ案内した。

 差し出した掌に乗せられた彼女の手が、きゅっと強く握られたときには、さすがに驚いてしまったが。

「石動様、ぐんと女っぽくなられましたわね? 」

 涼子は、光栄にございますと礼を述べた後、感じた疑問を口に出した。

「あの、マヤ殿下? ウエストミンスター・ホールでも私を見ていらっしゃいませんでしたでしょうか? ……それに先程『またお会いしましたわね』とも」

 マヤの瞳に、再び哀しみと失望の色が瞬間的に浮かんだが、彼女はすぐにそれを打ち消して明るく答えた。

「ええ、私4年ほど前に、石動様とお会いしていますのよ? ……確か、国連本部のパーティでしたかしら」

 少し天井に視線を向けて記憶を辿ったが、どうやら思い出せそうになかった。

「そうでしたか、それは失礼いたしました。欧州室長代行でありながら、上番以来未だ一度も貴国を訪問させて頂いておらず、誠に申し訳ない次第です」

 刹那、潤み始めたマヤの瞳に、涼子は微かな既視感を覚える。

 いつか、どこかで見て、心打たれた記憶があるのだ。

 この娘の、澄んだ美しい、けれどどことなく哀しさと諦観を漂わせた切なげな瞳を。

「いえ、お気になさらぬよう。我が国は国土も小さく、人口も少なく、国際経済力も無く、実は国連分担金も滞り勝ちなのです。UNやUNDASNの方々にとっても、取るに足らない小国でしょうから」

 慌てて否定しようして、涼子はマヤに目で抑えられて口を噤む。

「でも、涼子様、今はお仕事の話は抜きで、ね? 今宵は、本当にお会いできて嬉しいのです、私。涼子様とゆっくりお話がしてみたかったの……」

 涼子は、マヤが何時の間にか呼び方を”石動様”から”涼子様”に変えている事に気付いて、やや戸惑っていた。

”なんで? 4年前ってことは国連駐在武官当時の何かのパーティでご挨拶しただけなんだろうけど。……なんで私にこんな接近してくるのかしら? ”

 訝しいには違いないが、何故か、彼女が呼ぶ『涼子様』の言葉が、懐かしく、そして心地良く感じられた。

 涼子のそんな心中には一向構わず、マヤはいかにも楽しい遊びを思いついた、と言わんばかりに少し小声で涼子に言った。

「ねえ、涼子様? 如何かしら、非公式ですけれど、この晩餐会が終わった後、私の部屋へお出で下さいませんこと? 私、グロヴナーハウスに滞在しておりますのよ。ですから、お疲れでしょうけど、お立ち寄り下さいません? こんな機会、滅多にありませんし、私、涼子様とお仕事抜きで、お話をしたいと4年前からずっと願っていましたの」

 さすがに涼子は、些か辟易しながら答える。

「申し訳ございません、殿下。折角の有り難い思し召しながら、私、この後メキシコ大統領との公式会議等が予定されておりまして。光栄ですが、ご辞退申し上げる他ございません」

 マヤは今度こそ、隠すことなくその表情を暗くして、沈んだ声で言った。

「……そう、ですか。……お仕事でしたら仕方ございませんわね」

 マヤの余りの落胆振りに、涼子は心の底からマヤに申し訳ないという後悔の念が膨らんでくるのを抑えられない。

 そして同時に、彼女の暗い表情を見せ付けられて、先程よりも強いデジャヴに捉われた。

 抗い難い運命と、常人には想像できぬほどの過酷な環境に挟まれ揉まれ、ほんの些細な希望である筈の青春の輝き、それすら奪い去られようとしながらも、必死に耐え、可能な限り運命に逆らい、それでいながら周囲の期待に応えよう、周囲を傷つけずにおこうともがき、苦しむ、そんな哀しみを滲ませた、けれど真っ直ぐに明日をみつめる揺るぎない瞳。

 それは涼子にとって、あくまでもデジャヴでしかなかった。

 デジャヴでしかなかったが、今目の前にいる殆ど初対面の娘の表情に、確かにそんな感情の動きを見てしまい、涼子は無性に手を差し伸べてあげたくなっていた。

 淋しいのだ、彼女は。

 心が、淋しくて仕方ないのだ。

 大勢の人々に囲まれながらも、癒されない孤独な心を日毎夜毎己の腕で抱き締めて、漸く朝を迎えまた一歩、明日へと歩き出す日々を。

 嘗ての涼子がそうして来た日々を、彼女もまた、辿り、歩み続けているのだ。

 眼前で肩を落として項垂れる少女が、まるであの日の自分を見ているような気がして。

 思わず、浮かび上がってきた言葉を、そのままポロ、と舌に乗せた。

「マヤ殿下は、ロンドンにいつまでご滞在の予定でいらっしゃいますか? 」

 マヤは不思議そうに涼子をみつめて答える。

「私ですか? 明々後日の朝、帰国するつもりですが」

 涼子はニコッと微笑むと、回りを見回して小声で言った。

「明日の、私共の特別観艦式には御臨席されますか? 」

「ええ、国連事務総長からご招待を頂いております。その後の空母艦上のパーティにも出席させていただく予定ですわ」

 この年頃の姫君が、そんな武張ったイベントに出るかどうかは賭けだったのだが、意外だった。

「では、その後のご予定は? 」

「いえ、その後は宿へ戻るだけです」

 ふむ、と涼子は一旦会話を中断して、考える。

 確かに今、UNDASNは緊急且つ重大な事件に巻き込まれていて、その対策に追われっ放しだ。

 そしてその事件は、テロと言う最悪、最凶の類のもので。

 つい今しがた、襲撃予告を受け取ったばかりでもあり、今日一杯は緊張を一瞬でも解く事など、とても出来ないだろう。

 そう。

 今日、一杯は。

 それでは、明日になれば、どうだろうか?

 今日予定されている全てのイベント、タスクを無事乗り切れば、テロリズムのターゲットたる統幕本部長統合司令長官は、VTOLでサザンプトン港旗艦バースに係留中の空母グローリアスへ帰る。

 そして明日は、終日艦内、38号議案にGoサインさえ出れば、そのまま特別機でヒューストンの統幕司令本部デザートフォートへ。

 つまりは、リスクのリミッターは今日を限りに右肩下がり。

 明日には、もうターゲットは安全圏内。その道中だって、NATOから奪取された盗品一覧を見る限り、VTOLや特別機を”撃墜”可能な対空火器等、テロリストは持っていない筈。

 結論。

 今日さえ乗り切れば、この奇妙な懐かしさと愛しさを感じさせる”初対面の姫君”が巻き添えになる確率は限りなくゼロに近くなる。

 よし。

涼子は思い切って提案してみることにした。

「それでは、明日の晩……、そうですわね、夜のピカデリーサーカスの移動遊園地等如何ですか? 勿論お忍びで」

 マヤの表情が、見る見るうちに生き返った。

「涼子様、ほんとっ? ほんとにほんと? 」

 マヤは既に興奮のせいか、頬を赤くして心なしか息まで少し荒くなっている。

 黒い瞳には涙が溢れんばかりに漲っているが、しかしその煌きは倍増しているように思えた。

 マヤの、あまりのリアクションの激しさに、涼子は一瞬後悔したが、もう後には退けなかった。

覚悟を決めて、涼子は微笑んでゆっくりと頷きかける。

「本職も明日の空母グローリアスの特別公開アットホームにホストとして出席いたします。それでは、お忍びの詳細はその席上にてご説明差し上げることで、よろしゅうございますか? 」

 マヤは今はもう、子供の様に首を何度も縦にふるだけだ。

 涼子はこれはさすがにヤバイと感じ、釘をさす事にして表情を引き締めて言った。

「但し、殿下。お忍びとは言っても、必ず貴国の侍従の方の許可を得て下さいます様に。そして、護衛の方も貴国でご準備下さい。これだけはきっと、お守り下さいましね? 」

 マヤは元気よく返事する。

「ええ、勿論ですわ、涼子様! 絶対に、涼子様にご迷惑をお掛けしないと、誓います! 」

 涼子は目を細めて優しく頷き返してやった。

「それでは、マヤ殿下。そろそろ時間ですわ、お戻り下さいませ」

 涼子は立ち上がり、マヤに手を差し伸べてエスコートしてやり、そのまま控えの間に戻った。

 イブーキ王国出席者の陣取るテーブルの近くで涼子が手を離そうとした、その刹那。

「ねえ、涼子様? 」

 マヤは涼子の手を強く握り締め、耳元で囁きかけた。

「私、待った甲斐がありました。今夜の事、そして明日の晩を、私はきっと一生忘れないでしょう」

 そう言うと、マヤの目から一筋の涙が頬を伝った。

 涼子はその涙に驚き、声を掛けようとする前に、マヤは大きく一度だけ頷くと、手を離し、踵を返して席へ戻っていった。

 自分が、大切ななにか~もしくは、決して振り返ってはならないなにか~を忘れているような気がして、涼子は暫くその場に立ち尽くしていた。


 ハッティエンは、涼子が席に戻るとすぐ、さっきから気になっていたことを小声で質問した。

「遅いと思ったら、石動君。あの方、イブーキ王国の王位継承権第1位、マヤ殿下とご一緒だったのかね? 」

 涼子は先程までのマヤに対する笑顔を消して、ハッティエン達を見回して小声で言った。

「ええ、お手洗いでお会いしまして……。って、ああ、そんなことより、これを」

 涼子が上着の内側から取り出してテーブルに置いた封筒を見た途端、ハッティエンは表情が歪むのを止められなかった。

 ちら、と他のメンバーを見ると、マクラガンやボールドウィン、マズアも皆一様に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 涼子の事情説明が進むにつれて、芽生えた不安は増大しつつ、しかしそれに比例してハッティエンの胸のうちは、奇妙な違和感も膨らみつつあった。

 ボールドウィンが腕を組み、天井の豪華なシャンデリアを見上げながら独り言のように呟いた。

「うむ。素直に取れば、本部長襲撃予告なんだろうが……。どうも引っ掛かるな」

 ハッティエンも全く同感だった。

「そう。フォックス派とは違う遣り口に思える」

 他人事の様にマクラガンが2人に質問する。

「それじゃあ、違う団体が狙っていると言うのかね、私を? 」

 ボールドウィンもハッティエン同様、口を閉ざす。

 どうやらそこも、ボールドウィンは自分と同じ考えらしいと悟り、さればさっきから沈黙を保ち続けているもう一人はどうだろうと、ハッティェンはマズアに視線を向けた。

「! 」

 マズアは幾分蒼褪めた顔で、じっと涼子の横顔をみつめていた。

”……石動を狙っていると考えているのか? ”

 確かにそれもあり得ない話ではないだろう。

 だが、さすがに唐突過ぎる感は否めない。

 それとも、そうかもしれないと思わせるような何かがあるのだろうか?

 マズアの顔から視線を何気なく外し、テーブルの上のワイングラスに手を伸ばそうとして、ハッティエンは気付いた。

 ボールドウィンも、いつの間にか視線を涼子に向けていた。

 マズア同様、顔色はどことなく悪くさえ思われる。

 やはり、なにかある。

 今日、ウェストミンスターで感じた、ボールドウィンの抱えている秘密、そしてそれに気付いているらしいマクラガンの態度。

 そして、この真面目なオランダ人の駐英武官もまた、ボールドウィンと同じ匂いを漂わせている。

 間違いない。

 何かが、隠されている。

 これは今夜辺りでも、この自称色男の口を割らせる必要がありそうだ、そう思って密かに吐息を吐いた途端、やはり不安そうな表情を浮かべてじっと『襲撃予告状』をみつめていた涼子が、掠れた声を上げた。

「ここで頭を捻っていても仕方ありません。取り敢えずこれはコリンズ二佐に任せるとして、まずは、既定通り本部長を狙っていると言う前提で行動するのが一番妥当かと思います」

 正論であり、誰も反論はない。いや、どこかが違うと思っていても、反論できないのだ。立場と起こり得る現象とプライオリティに雁字搦めにされて。

 ワイングラスをぐっと一気に呷り、ハッティエンは涼子が隣のテーブルからリザを呼ぶのをじっとみつめる。

”……だが、不安は残る”

「うん。武官事務所から誰か取りに寄越させて。コリンズ二佐がスコットランドヤードにいる筈だから、追い掛けて届けるようにって」

 そこへ、案内役侍従アシャーが、いかにも老人らしいその外見とは似合わぬ甲高い声で、宴の準備が整った事を告げた。

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