第57話 10-3.


 武官室を出た涼子は、たまたま通りかかった武官事務所の女性艦士長を呼びとめた。

「あ、ねえ、貴女……、ええと、お名前、教えてくれる? 」

 しゃっちょこばって、直立不動で敬礼する彼女の姿を見て、涼子は悪いことしたかな、と慌ててしまう。

「あー、ごめんごめん、たいしたことじゃないのよ、そんな緊張しなくたって、ね? 」

 涼子はラフに答礼して、出来るだけ親しみを込めた笑顔を向けてやる。

「も、申し訳ありません、室長代行! じ、自分は駐英武官事務所総務係庶務班、柳清虹リャン・チャンニ艦士長であります」

 よくみると、髪をショートにした、なかなか可愛い、東洋系の顔立ちだ。背は涼子よりも高い。

 涼子は、これ以上不要な気遣いをさせないようにと、人差し指を口の前で立てて、彼女の肩をそっと抱きながら、耳元で囁いた。

「じゃあね、チャンニ。私、今から第3会議室へ行くから、貴女は私の着替えの入ったスーツケース探して、持って来てくれるかな? それと、チャンニはお腹空いてない? 」

 まだ20歳くらいなのだろう、チャンニと名乗った彼女は、涼子が羨ましくなる程に瑞々しい肌を上気させて、子供のようにウンウンと2回、首を縦に振った。

「そうだよねぇ、お腹減ったよね? 私もぺこぺこなの。だから、荷物持ってきてくれる時に、冷蔵庫漁ってさ、何か美味しそうなもの、見繕って貴女と私の二人分持ってきてくんない? 一緒に食べよ? あ、みんなには内緒だよ? 」

 漸くチャンニも緊張がほぐれたのか、少し微笑んで今度は1回だけ、こっくり頷いた。

 涼子は彼女に向かってウインクしてから言葉を継いだ。

「それともうひとつ、お願い。このオフィス内の貴女のお友達の中で、ガーターベルト持ってる子いない? いたら一組、借りてきて? もしなかったら、ガムテープでも良いんだけど」


「失礼しますっ! リャン艦士長入りますっ! 」

 チャンニがそう声を掛けて、第3会議室のドアを開くと、涼子は想像以上にリラックスした姿で、一人、居た。

 ブレザーを脱いでネクタイをはずし、会議用椅子にドスンと腰かけて、靴を脱いだ両足をお行儀悪く会議テーブルの上に放り出している。

「あ」

 思わず絶句してしまう。

 確かに行儀悪い姿だったが、その美しさに魅入られているのだ、ともう一人の冷静な自分がそう自己分析した。

 椅子の背凭れと会議テーブルの間に『差し渡された』涼子の肢体のなんと美しく、そして艶かしいことか。

 仰向けの状態でも殆ど形の崩れることのない、豊満で美しい胸の双丘は、上着を脱いだことで普段以上にその存在を存分にアピールしている。

 タイトスカートから伸びる、美しく優雅な曲線を描く、どこまでも長い脚は、まさに芸術品の域に達していると思った。

 なんて、綺麗な女性、なんだろう。

 自分でも然程豊富だと思えないボキャブラリを脳内で駆使しつつ、呆然と立ち尽くして美しい寝姿を堪能していたチャンニだったが、やがて上下逆さまになった涼子の顔がこちらを見ている事に気が付いた。

 上下逆さまでも、美人はやっぱり美人なんだ、と思った。

「ふぁ」

 涼子がなんともいえない声を発した次の瞬間、派手な音が室内に響いた。

 チャンニに見られていた事に気付いて慌てたのだろうか、立ち上がろうとした涼子が、見事に椅子ごと仰向けにひっくり返ってしまったのだ。

「イタッ! 」

「し、室長代行! 」

 抱えていた荷物を放り出し、チャンニが慌てて駆け寄って助け起こすと、涼子は頭をさすりながら目に涙をいっぱい溜めている。

「ふぇーん、いたいよー! コブできちゃったもん! 」

 子供の様な涼子の反応に、チャンニは思わず、故郷の瀋陽に残してきた幼い妹の顔を思い浮かべてしまった。

「はいはいはい、痛かった痛かった、ねえ? 泣いちゃだめですよ、おいしいサンドイッチ、持ってきましたよー」

 途端に涼子の顔がパッと綻ぶ。

「え、ほんと? サンドイッチ? わーい、食べよ食べよ! 」

 涼子はたちまち復活し、椅子にちょこんと座り両手を膝の上において、ニコニコしながらチャンニの顔を見ている。

 黒い瞳が、『ねえ、サンドイッチ早くぅ』と露骨におねだりしていた。


「あー、やっと一息ついたあ。あ、ごめんね、チャンニ。忙しかったんじゃないの? 」

 涼子が声をかけると、チャンニは嬉しそうに微笑んで答えた。

「あ、ロンドン・ウィークが本番に入っちゃうと私達、かえって全然暇なんですよ、室長代行。それよか、私、室長代行と御相伴できて光栄です」

「あはっ、いいのよ、そんなお世辞なんか」

 涼子が笑いながらそう言うと、チャンニは何故か、怒ったような表情を浮かべた。

「お、お、お世辞なんかじゃないですっ! わ、私、ほんとに……、その、えと」

 すぐに顔を真っ赤にして俯いてしまったチャンニの様子が気の毒に思えて、涼子は話題転換するつもりで勢いよく立ち上がった。

「うんうん、判ったわ、ごめんね、チャンニ。ふふっ、女もね、三十過ぎるとなかなか素直になれないものなのよ」

 冗談口調でそう言うと、チャンニは一瞬驚いた表情を浮かべ、次に涼子の機嫌を損ねてない事が判って、明るい表情に戻った。

「嘘だ、室長代行、全っ然30歳過ぎアラサーになんか見えないですよー。そうだな、20代前半には充分見えます」

「うふふっ、嘘でも嬉しいわ」

 実際嬉しかったし、それにチャンニのご機嫌も戻ったようだ。

「さて、そろそろ零種ゼロに着替えるから、手伝ってくれる? 」

「アイマム」

 チャンニは元気よく返事して、勢い良く立ち上がった。

 だが、涼子が衣装ケースを開けて、中にセットされた零種軍装を開陳した途端、チャンニの手が止まった。

「ん? どうしたの? 」

 涼子が不審に思って傍らのチャンニを振り返ると、彼女はあんぐり口を開いて、手に持った零種軍装を穴が開くほどみつめている。

「これが零種軍装ドレスゼロですか……。室長代行がこれ、着られるんですよね……、きゃっ! 」

 前半は溜息混じりに呟いて、後半は興奮気味のチャンニの言葉を、涼子は苦笑交じりで聞きながら着替えていく。

「まあ、確かに零種は豪華そうに見えるんだけどね……。なんか、重いし、動き難いし、歩き辛いし、それに何より私、こんなの似合わないし、あんまり、好きじゃないのー。あ、チャンニ、それ取って、ここ、背中からこう回して……。うん、ありがと」

 とにかく、ただの服とは思えないほど、着方が難しいのだ、この零種軍装というやつは。これを誰の手も借りず単独スタンドアロンで着用できる人物は、無条件に尊敬できる人物だと涼子は常日頃より考えている。

 涼子は口の中でぶつぶつと考案したデザイナーに呪詛の言葉を吐きながら、チャンニのアシストで着替えていく。

「よし、と。これで完成……、ん? 」

 最後に絹の白手袋を嵌めて、ポン、と手を打ったところで、涼子は異様に熱い視線を感じてそちらを振り向いた。

 チャンニが、顔を真っ赤にして、両眼を異様なほどにキラキラ輝かせながら、こちらを見ていた。

「な、なに? どうしたの? 」

 涼子が問い掛けても、チャンニはまるで何かに憑かれた様に黙って突っ立ったままだったが、暫くして、一言だけ、呟いた。

「室長代行……。素敵です」

 真っ向直球のチャンニの言葉に、涼子は思わず顔を赤らめてしまった。

「そ、そんなことないよ? わ、私、こ、こんなスカートとかキラキラした服とか、に、にあ、似合わないんだから」

 けれどチャンニは、首をぶるんぶるん激しく横に振る。

「そ、そんな事ない! 室長代行、眼が潰れそうなくらい綺麗、素敵ですっ! なんか、うっとりしちゃうっていうか、うらやましいって言うか……、その……、そう! ヴィーナスみたい! 」

「ヴィ、ヴィーナスって……」

 いくらなんでもその例えは、と涼子が額に縦線を下ろすと、チャンニも我に返ったように、先程よりは余裕のある口調で言葉を継いだ。

「私……、ずっと前から、室長代行に憧れてたんです」

 チャンニは一旦言葉を区切ると、恥ずかしそうに微笑を浮かべた。

「子供の時から宇宙に出てみたくって、でもまあ、頭悪いから幹部学校は無理だったんですけど、防衛学校に合格した時はホント嬉しかった……。だけど、やっぱり、憧れのイメージと実際は違いますよね。結局、任官したものの、どうすれば良いのか、解んなくなっちゃって」

 チャンニの寂しげな微笑に涼子は思わず、自分の幹部学校入学当初の頃を思い出してしまう。

「でも、そんなある日、室長代行の存在を知ったんです。いえ、お会いした訳じゃなくって……。私、前配置は外幕軍務局軍務部1課なんです。そこで室長代行の、鳥海艦長や土佐艦長、翔鶴艦長時代のお話とか、一杯聞きました。勿論、国際部になってからはそれはもう毎日のように室長代行のお話が耳に入ります。……それで私、いつの頃からか、室長代行のことを、『理想のUNDASNオフィサ』だなって……」

 そこでチャンニは、ハッと口を開いて、一層顔を真っ赤にして慌てて腰を折った。

「あっ、あっ、も、申し訳ありませんっ! 室長代行と私とじゃ、所詮土台が違うのに、馬鹿みたい……。だけど周囲のみんなは、室長代行の事、『おねえさま』とか『涼子様』なんて、外見の美しさのことばっかり言ってるけど」

 チャンニは思い決したように、顔を上げ、真っ直ぐに涼子に黒い瞳を向けた。

「だけど私は、いつかは室長代行のように、素敵な幹部になりたい、そう思ってます」

 思わず、微笑んでしまっていた。

 素直に、嬉しかった。

 やっぱり私は、幸せだ、そう思った。

 涼子は、ゆっくりとチャンニに近付き、そっと抱き締めた。

「そう……。そうなの。ありがとね、チャンニ」

 腕の中で、チャンニの身体がピクッ、と跳ねた。

 構わずに涼子は言葉を継ぐ。

「あのね? 私は確かに幹部学校へ入ったけど、一号生徒時代の席次ハンモックナンバーはお尻から数えた方が早かったの。座学や実技シミュレーションはともかく、体技系は教官に『運動神経が限りなくゼロに近い』なんて言われたくらい」

 うそ、とチャンニのくぐもった声が聞こえてくる。

 でも、本当なのよ?

「それで、任官後も全然自分に自信が持てなくて……。萎縮して、失敗して、自己嫌悪してもっと萎縮して、また失敗。見事な負のスパイラルに陥っちゃって、ね。もう辞めちゃおうか、いや、それ以前に無理矢理予備役編入か……。ううん、それよりもっと前に、自分のドジで死んじゃうかも、って」

 ああ。

 艦長?

 ほんと、私って、メンドクサイ部下だったね?

「だけど、卒配先で私も『理想のUNDASNオフィサ』に出会ったのが切欠で、頑張らなきゃ、って思ったの。まあ、今でも私、ドジでマヌケで、周囲に迷惑ばっかりかけてるんだけど、その人は『どんな配置でも一所懸命』って言葉通り、私の数少ない良いところを中心に伸ばして、育ててくれたの。そのお陰で、この歳になって漸く、見掛けだけでも一人前のオフィサとして人前に出られるようになったのよ? 」

 涼子はチャンニから身体を離し、ニコッと微笑みかけて続けた。

「だからね、チャンニ。貴女みたいに、外見だけじゃなくて、そう言ってくれる人が一人でもいると、私、とっても嬉しいの。私の『理想のオフィサ』にも、恩返しできた様な気がするの。……そうね、貴女、素直で良い子だし、頭も良さそうだから、きっと、立派なUNDASNオフィサになれるわ。だからこれからも一緒に頑張ろう、ね? いつか一緒に仕事しよっ」

 チャンニは、眼に一杯涙を浮かべて、しかし嬉しそうに微笑んで、さっと敬礼した。

「イエスマム! 光栄であります! 」

 涼子も微笑んで答礼する。

 二人、みつめあっているうちになんだか可笑しくなって、クスクスと笑いあった。

 どちらともなく、ふぅっ、と吐息を吐いた後、涼子はさっきのチャンニの言葉の中で、少しだけ引っ掛かっていることを尋ねることにした。

「ねえ、チャンニ? さっきの話の中で、みんな、ビジュアルの事ばっかり、って言ってたでしょう? ……その、『みんな』って、誰? 」

 チャンニは不思議そうに小首を傾げて、素直に答える。

「え? ……みんなって、部内の若い女の子や、私のシャバの友達も」

「シャバ……、部外のお友達? 一般人のお友達ってことなんだよね? なんで私のこと、知ってるのかしら? それも女性? 」

「いえ、女友達も男性の知り合いも、です……。だって室長代行、よくTVや新聞に出てますもん。UNDASN部内はもちろん、シャバにも、室長代行のファンクラブが沢山あるんだって、聞きました」

「あぁ……」

 涼子はやっと合点がいったとばかりに、大きく頷いた。

 昨日、手元に届いた大量のチョコ、何故その半数がシャバからだったのか。

 シャバへ出る度に感じていた衆人環視感、そして今日、バッキンガム宮殿で飛ばされた悪意ある質問の意味。

 言われてみれば確かに自分は、一佐という階級に比して、他の課長職や艦長職にある同僚よりもマスコミへの露出は遥かに多いと言えるだろう。

 しかし。

”それにしても、バッキンガム宮殿でプレスリクエストに入るほどなのかしら? ”

 涼子が首を捻っていると、チャンニが再び顔を赤くして、言った。

「だけど、今の室長代行のお姿見ていると、みんなが課長にビジュアルで憧れるのも判る様な、気がします」

 涼子も釣られて顔を赤くして答えた。

「あ、ありがと! そ、それはそれで女性としては嬉しいわ」

 そして、いかにもワザとらしく、壁掛け時計を見て言った。

「あら、もうこんな時間! そろそろいかなくちゃ! 」

 と、チャンニが急に思い出した様な声を上げた。

「あ、そうだ、室長代行! 同僚からガーターベルト借りて来ましたけど……。使わないんですか? 」

「あ、そうそう! 忘れてた! ありがと、貸して」

 涼子はガーターベルトを受け取ると、巻きスカートのスリットから脚を出して、少しお行儀悪いけど、と思いながら右足をテーブルの上へ載せる。

 ガーターベルトを脛のすぐ上に嵌め、そこへホルスターから抜き取ったCzを挟み込んだ。左足も同様にし、そこへは予備マグ3個を挟みこむ。

 その姿を見ていたチャンニも、昨夜来の本部長襲撃事件を思い出したようで、さすがに表情を引き締めた。

「銃ですか……。護衛も兼ねるんですね? 」

 涼子はスカートの乱れを直しながら頷いた。

「そうなの。こんな事になるって判っていたら、デリンジャーでも借りてくるんだったな」

 特にCzを挟んだ右脚がキツかった。

 ひょっとして、脚、太くなっちゃったかしら?

 一瞬そんな事を考えて涼子は慌てて否定する。

 大丈夫よ、ハンドガンをホールドしてるんだもの、キツく感じて当然よ。

 私は標準、細くはないけど太くもない、標準、標準、標準、標準……。

 標準、標準と知らず知らずのうちに呪文のように口の中でブツブツ唱えていた涼子だったが、電話のベルで我に返った。

「はい、いらっしゃいます。……は、……は。アイマム、お伝えします」

 受話器を戻しながら、チャンニが振り返った。

「A副官からでした。迎えの車、後10分で到着予定とのことです」

 涼子は、ポーチの中にハンカチやら化粧道具などを詰め込んで、チャンニに向き直った。

「ありがとね、チャンニ。助かったわ」

 チャンニはじっと涼子の顔をみつめたまま、敬礼した。

「室長代行、ご無事で」

 涼子も彼女の心中を察して、答礼しながら答える。

「そうね、ありがとう。だけど」

 あまり真面目でないほうが良いか、涼子はそう考えて、ペロッと舌をだして小声で言った。

「そう簡単には死なないわよ。憎まれっ子世に憚る、っていうでしょ? 」

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