第56話 10-2.


 ロールスロイスのリアシートに、マクラガンに続いて乗り込んだハッティエンは、最後に乗ってきて自分達の向かいに座った涼子が、早速アタッシュケースから携帯端末を取り出し、オーストラリア首相との会談に備えた資料のプレビューを始めたのを見て、密かに吐息を落とした。

 まったく、この勤勉さには感心すると思いながら、ぼんやりと涼子の様子を観察していたハッティエンだったが、やがて、聞き慣れない、外国語の歌が耳に届くのに気付いた。

「はーるーはなーのみー、のー、かーぜー、のさむさよー……」

 涼子が携帯端末のフィルム・キーボード上で軽快に指を躍らせながら、鼻歌を口ずさんでいるのだと判った途端、隣に座るマクラガンが言葉を発した。

「石動君、なんだか懐かしいメロディだが……、日本語だね? どういった歌詞だね? 」

 涼子はどうやら無意識のうちに鼻歌をくちずさんでいた様子で、言われて初めて気付いたらしく、小声で「あ、申し訳ありません」と謝り、端末の操作を切りの良いところまでやり切ると、優しげな笑みを浮かべた。

「日本に昔から伝わる唱歌……、だったと思います。タイトルは、ええと……。あ、そう。日本語原題が『早春賦』、『ODE ON EARLY SPRING』ですね。歌詞の概要は、カレンダー上は春だけど、それも暦だけで、まだ風は冬のように冷たい、とかなんとか……」

 マクラガンは口の中で涼子の言った歌詞を呟いていたが、再び微笑んで口を開いた。

「いかにも、四季が美しい日本らしい詩だな」

 ハッティエンも涼子、マクラガンの静かな笑みに誘われて、思わず口を挟んでしまう。

「君のお気に入りかね? 」

 涼子は少し淋しげな笑顔を見せて、伏し目勝ちに答えた。

「母が……、戦死した母が、子供の頃よく歌ってくれたんですよ」

 しまった、と思ったが遅かった。

 黙り込むよりはマシかと考え、ハッティエンはひとつ頷くと会話を続けることにする。

「確か、父上と一緒の輸送艦で移動中、ミクニーに撃沈されたんだったな……。君はまだ子供だったんだろう? 」

 涼子は顔を上げ、懐かしさを瞳に浮かべて視線を宙にさ迷わせながら、こくんと頷いた。

「両親とも科学本部に在籍していた専科将校でした。父はいつだって研究研究で普段は殆ど顔を合わせなかったし、母も研究が立てこんだ時はやっぱり帰りが遅いんですけど、私が淋しがってるの、知ってたんでしょうね。時折、家に電話をかけてくれて、電話口でぐずってる私にこの歌を聞かせてくれました。私は憶えてないんですけど、この歌じゃないと泣き止まなかったらしくって。それで、自然と憶えちゃって」

 黙って聞いていたマクラガンが、窓の外に視線を移して、ゆったりとした口調で話し始めた。

「石動夫妻……、君のご両親には、生前お会いした事がある。仲の良いご夫婦だったな」

 涼子が驚いた顔でマクラガンをみつめ返した。

 マクラガンの視線はしかし、依然として窓の外にある。

「あれは、私が……。そう、艦政本部艦本の造艦局長時代かな。電磁砲や誘導兵装に代わる艦船搭載の超長距離兵装のひとつの可能性として、大出力メーサー砲の開発を目指し、科学本部と協同プロジェクトを立ち上げた時だ。科学本部科本の物理学研究センターの惑星物理学研究室から父上、超強磁場研究室から母上が、夫婦揃ってメンバーとして来られた。二人とも、自分の研究に哲学と信念を持っておられたようで、しっかりした、立派な科学者だった。しかし、会議が終わって宿舎に引き上げられる時などは、御夫婦で手を繋いで歩いているところもお見かけしてね。その後、何回かお二人の研究室に其々お伺いした事があるが、どちらの机の上にも、幼い頃の君の写真が何枚も飾られていたのを、今、思い出した。勿論、御家族の写真もだ。一度、母上の研究室を訪れた際、母上は電話をされていたのだが、何処の誰と電話しているのか、綺麗な声で優しげな歌を歌っているのを聞いた事があるが……」

 マクラガンは再び涼子に視線を移して話しかけた。

「そうか……。今の歌が……、そうか」

「本部長、私……」

 涼子は瞳を潤ませながら、マクラガンを見つめて言った。

「私……、父や母から、そんな話聞いた事なかった……。またいつか、お聞かせ頂けませんか? 」

 ハッティェンは、マクラガンが優しい表情でゆっくり、何度も頷く姿を見ながら、ふと思った。

 既にマクラガンは、ボールドウィンが何やら後生大事に抱え込んでいるらしい『涼子に関する隠された秘密』の匂いを嗅ぎ当てているのではないか? 

 自分と同じように。


 コリンズは、ボールドウィン、マズアとともに、オーストラリア大使館から駐英武官事務所に戻ってきたマクラガン、ハッティエン、涼子達を出迎えた。

 晩餐会用の零種軍装への着替えと、暫しの休息の為に、アドミラル達を控え室に案内した後、コリンズは涼子とマズアを武官室へ伴い、ウエストミンスターでの襲撃犯2名の取調べ状況を報告することにした。

「スコットランドヤードのせいにするのもどうかと思いますが……。正直、捗々はかばかしくない状況です」

 マズアの顔には、焦りの表情が浮かんでいるが、涼子は微笑みながら紅茶のカップを傾けているだけだった。

「まず、残りの襲撃犯の人数と計画。これだけでも口を割らせたいんですが……」

 コリンズは、思い切って帰路考えていた『提案』を提示することにした。

「室長代行。あまり時間に猶予もない。許可して頂ければ、情報企画課の『自白剤おしゃべりシロップ』を使いたいのですが」

 涼子は、カップを置いてゆっくりと、言った。

医療本部医本の開発した、抗生チオぺンタールナトリウム、ね? 」

 コリンズは驚いて思わず顔を上げる。

 そんな専門的な言葉が、国際部の兵科将校である涼子の口から出てくるとは思わなかった。

 一般には知られていない、その証拠に隣のマズアはコリンズの表情と涼子の言葉に、ただ首を傾げているだけだった。

「仰る通りです、が……。一体、どこでそれを? 」

 涼子はニコ、と微笑んだ。

「確か、昨年9月の技術情報医療本部版に載ってたわよね? ……で、効果発現時間は? 」

「体質によりますが、最短3時間、最長7時間」

「使うとすれば、ロンドンに運んで使う訳? 」

「情報企画課ではこの抗生チオペンタールナトリウムの投与と同時に、所謂催眠術を補助的に使ったメソッドを採用していますので、やはりヒューストンでないと……」

 涼子は記憶を辿るように目を細めて独り言のように呟く。

「前頭葉と海馬に直接電極をセットして微弱電流を流す、イメージ増幅……、なんとか、だったっけ」

 今度はどうやら、驚きの表情を表さずに済んだが、実は内心、舌を巻いていた。

 専科ならともかく、兵科将校が自分の専門外の、特に技術的なメソドロジや情報にここまで詳しく、しかも即座に記憶から引き摺り出してくるなど、全く驚異と言っても良い。

「正式には擬似記憶イメージ投与型脳波活性措置、所謂『擬似イメージ投与機』ですな……」

 涼子はウン、と唸って暫く目を閉じて考えていたが、それも束の間、目を開くと即座に回答を出した。

「却下よ、コリンズ。ここで犯人をヒューストン、つまり英国外へ護送するとなると、また英国政府を刺激する……。これ以上、英国間交渉で譲歩したくないの」

 マズアが口を挟む。

「しかし1課長。統幕本部長の」

 そこまで言ってマズアは、唐突に口を噤んだ。

 噤まざるを得ないだろう、とコリンズはマズアに密かに同情する。

 涼子の表情と口調は先程変わらないが、その黒曜石にも似た美しい瞳だけが、彼女の選択が苦汁を飲んだ末である事を雄弁に物語っていたから。

「この際、大局的な価値判断が重要だわ。……マズアは気付いていると思うけれど、無理を通せばUNDASN基本条約第8章28条の2項、『UNDASNを対象とした犯罪の捜査権は事件発生国と50%対等フィフティフィフティ』を適用して護送できない事はない。だけど、その交渉と手続きには短くとも数時間かかるし、ましてやこの英国上げての奉祝ムードの中では、半日はかかる。手続き万端整って、護送に2時間。自白強要メソッドが最短時間で効果が発現したとしても、プラス3時間、よね? 」

 コリンズは黙って頷く。

「となると、どんなに上手く事を運んだとしても、犯人の自白が取れるまで12時間……。その頃には統幕本部長は、グローリアス艦上、つまり安全圏内。コストとマージンが釣り合わないわ」

 マズアはソファの背凭れに体重をかけ、溜息混じりに呟く。

「結局、今回は出遅れた……、って事ですか」

 涼子は、寂しげな笑顔を浮かべて頷いた。

「とにかくコリンズ、その抗生チオペンタールナトリウムだけの投与なら、ロンドンでも出来るわよね? 」

 コリンズは顔を上げて答える。

「え、ええ。それは可能ですが」

 涼子はソファから立ち上がり、決断を下した。

「効果は割り引かれるだろうけれど、今回はそこまでね。コリンズ、手配をお願い。とにかく最低でも2回、今日、明日中に襲撃がある事を前提にして警備体制を組むしかないわ。マズア」

「イエッサ」

「取り敢えず今夜の晩餐会なんだけど……。バッキンガム宮殿の警備は勿論厳重だろうけど、肝心の晩餐会場内の警備は? 」

「英国スコットランドヤードの私服SPが35名、後は制服姿の近衛歩兵連隊と近衛騎兵連隊が合わせて40名との報告を受けています」

 涼子は一瞬眉をしかめたが、直ぐに元の表情へ戻って言った。

「マズア、悪いんだけど、銃携帯のウチの警務部員4名の会場内控え室への立ち入り許可、私と貴方の会場内銃携帯の許可、大至急」

 そう言うと、涼子は急に優しい表情になって、ソファに座ったままのコリンズの肩をポンポン、と軽く叩き、耳に口を寄せて囁いた。

「ごめんね? 貴方の気持ちは良く判ってるつもりよ」

 コリンズは涼子の顔を見上げて思わず呟いた。

「1課長」

 涼子は、小首を傾げてニコリと微笑みかけると、次にマズアの方にも同じ表情で言った。

「さ、手続きが終わったら、食事でもとって休憩しましょう。晩餐会、その後のメキシコ大統領会談、全部終わって艦隊グローリアスからの迎えのVTOLに本部長達を乗せるまで、まだまだ頑張らないといけないんだから。……ね? 」

 そう言って涼子はよっしゃと掛け声を掛けて立ち上がり、バイバイと手を振りながら部屋のドアを開けて出て行った。

 コリンズと二人、暫し呆然とドアをみつめていると、10秒もしないうちに再びドアが開き、涼子が顔だけ室内に突き出した。

「そうそう。私、着替えて、化粧も直したいから、第3会議室借りるね。迎えが来るまで、誰も入っちゃ駄目だよー」

 明るくそう言うと、涼子は再びドアを閉めて出て行った。

 マズアは苦笑しながら、数度首を横に振ると、涼子に指示された手続きの為、英国内務省へ電話をかけ始めた。

 コリンズはなおも、涼子の去ったドアを穴が開くほどみつめていたが、やがて、涼子に倣ってよっしゃと日本語で掛け声をかけて立ち上がった。

 確かに、提案を却下されたことは不満だ。

 だが、それさえどうでもいいと思えるほどに、心は満たされていた。

 あの女性ひとが、ちゃんと理解してくれている、そう考えるだけで許せると思えるのだ。

 情報部という、UNDASNの、UNの裏の稼業を取り仕切る事実上の非公開組織に身を置くことの辛さは、殊、表舞台に立つ兵科将校には理解して貰えることは少ない。

 それを不満に思い、情報部のエージェントには兵科将校に対し反抗的な者も多く、また捻くれた感情を持つ者はそれ以上に多かったし、自分もまた、ベテラン故の諦観でそれを押さえ付けてはいたが、未だに胸の奥で燻っている事は否定しようのない事実だ。

 しかし。

 涼子は、涼子だけは少なくとも違う、それが判っただけでも、コリンズは満足だった。

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