第54話 9-8.
「あー……。ミズ・キャバリエ」
ソファへ戻ったマクラガンが声を掛けると、シャネル風の黒いスーツを身に纏った軍務局長後任秘書官が振り返って姿勢を正し、脱帽敬礼した。
「イエッサー」
「君は確か、欧州室長代行とプライベートでも仲が良かった……、と思ったんだが? 」
「イエッサー。私の娘とも彼女はお友達ですわ」
マクラガンはウンとひとつ頷き、ソファに座りながら低い声で言った。
「彼女はこれからパレードだ。頬に傷をつけたままというのもなんだ、助けてやってくれないかね」
アンヌ・キャバリエはニコ、と微笑んで頷くと、小声で「アイアイサー」と答えて自分のアタッシュを提げて涼子の方に歩み寄って行った。
「それと、ミス・メイリー。代わりの案内を寄越すよう、連絡してくれたまえ。ああ、ゆっくりでいい」
「イエッサー」
「それから、駐英武官。犯人の扱いの方は頼む」
「イエッサー」
マズアが拘束されたまま未だ失神している犯人の方へ行くのを横目で眺めていると、隣に座っていたハッティエンが、初めて声を出した。
「さて、人払いは済みましたぞ、本部長」
「なんだ、気付かれていたか」
マクラガンは一瞬、楽しそうに笑って、すぐに表情を引き締めた。
「これで二度目……、いや、昨晩からだと三度目か」
「全く、予想外の素早い反復攻撃ですな」
向かいのソファに移動したボールドウィンが、うんざりした口調で呟いた。
「コリンズ二佐の読み通りだ。結局、敵さんは
ボールドウィンもハッティエンに乗っかるようにぼやいてみせた。
「確かに一人一人の戦力指数は大したことはないが、こうも被せ気味でやってこられたんじゃ、肩の力を抜く間もない」
「まあ、それはいいとしよう。敵さんも、ヒースローで取り逃したんだ、今日しかないというつもりだろう」
マクラガンののんびりした口調に、ハッティエンは少し驚いた様子だ。
「では、なんです? 」
人払いの理由を聞きたいのだろう。
マクラガンは首を捻り、チラ、と涼子に視線を送る。
涼子の顔を覗きこんでいるアンヌがそれに気付き、微かに顎を引いてみせた。
「さっきの、襲撃……、いや、犯人と石動君の
ボールドウィンが感心したような、しかしどこか取ってつけたようなわざとらしい口調で言った。
「いや、見事でした。咄嗟に間合いを詰めて、ライフルの俯角を取らせないようにした点も、あの帽子で即席のサイレンサーを作った点も」
本物のサイレンサーは、銃声を小さくする。が、実際セミオートの銃に装着しても、確かに銃声は小さくなるが、メカの作動音が却って目立ち、本来目的の隠密性はさほどでもない。
だが、涼子の採った遣り方は、銃全体を覆う。銃声はもちろん、作動音までもカバーできる、見事なアイディアだった。
「場所柄、銃声が派手に響いていたら、今頃は我々の立場も微妙なものになっていただろうしな……。あの緊迫した状況で、あれほど正確な判断はなかなか下せるものでは」
「いや、まあ、それもいいとしようじゃないか、両局長」
マクラガンは無理矢理ハッティエンの台詞を中断させると、再び、声を低くした。
「あの銃を撃つ前の石動君の態度のことだ」
途端に二人は押し黙る。
「加えて、廊下で守衛がナイフで襲ってきた時。……ついでに、昨夜のヒースローで彼女がSMGを乱射した時の態度を追加してもいいぞ? 」
依然として黙ったままの”懐刀二振り”をみつめるマクラガンの脳裏に、涼子の言葉が蘇える。
『私を殺そうとしてる人はみんな……、死んじゃうんだよ? 』
『だって、私が殺しちゃうから』
『死んじゃえ。みんな、死んじゃえ』
『駄目。殺しちゃう』
どれも、直接耳にした、涼子の言葉だ。
全ては、自分の目の前で起こったことであり、自分の耳で聞いたのだ。
だから、違和感があり過ぎて、現実であるはずの記憶が、うまく消化されず記憶になり得ていない。
”そう。……まるで、悪夢のような”
「ああ、ええとその、本部長」
ボールドウィンが彼にしては珍しく苦しげに言葉を発したことで、マクラガンは我に帰り、思わず両手を降参のポーズのように挙げてしまった。
「すまんな、二人とも。忘れてくれ。……少し、疲れているのかも知れない」
あからさまにホッとした様子のボールドウィン、苦虫を噛み潰したような、そしてまた訝しげな表情でクラスメイトと自分の顔を交互にみつめるハッティエン。
二人が無言のまま頷いた事自体が、雄弁に物語っている。
どうやら、ボールドウィン、つまり軍務局は”何か”を知っていて、ハッティエン、政務局は
石動涼子に、”何か”が起きている。
もしそうならば、どうするべきか?
いや、そもそも、その”何か”とは、いったいなんだ?
少し一人で考えを整理してみたかった。
涼子の背中を見るうちに、彼女が泣いていることが一目で判った。
薄い肩が~とても軍人だとは思えない、しかも兵科将校だというのだから~間歇的に上下に揺れる。
その都度、いつも見惚れてしまう美しい黒髪に走る光の軌跡が、まるで生き物のように、踊る。
「涼子? 」
アンヌは背後から近寄り、涼子の肩に手を置いて、上半身を折って彼女の顔を覗き込んだ。
「あ、アンヌぅ……」
涼子は涙声で一言、彼女の名を呟くと、ずずっ、と洟を啜り上げる。
「泣き虫なのは相変わらずだね、涼子」
微笑んで見せて、アンヌは涼子の正面に回り、手近の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「さ、涼子。泣いてないで、その可愛らしいぷくぷくのほっぺを、こっちに向けて」
涼子は手の甲でごしごし眼を擦ると、むぅ、と唇を突き出した。
「子供扱いするもん」
あはははとアンヌは笑って、チラ、と後ろを振り返りながら言った。
「貴女の可愛い副官さん達が、笑ってるよ? 」
アンヌは、膝の上に置いたアタッシュから何やら色々取り出しながら、言葉を継ぐ。
「でも、恐かったでしょ? ……よく頑張ったわね。偉いわよ」
涼子は、その言葉を聞くと、恐怖を思い出したのか、ボロッと大粒の涙を一滴、頬へ零す。
「……うん」
元々UNの高級官僚として、防衛理事会の事務方を担当していた自分が、幼稚園入園前の娘の育児休暇を終えて職場復帰したは良いものの、すぐにUNDASN出向の辞令を貰い、右も左も判らない軍事行政組織へ恐る恐る出勤した途端、それまでの軍隊に抱くイメージを良いように破壊して見せてくれたのが、軍務局へしょっちゅう顔を出す涼子だった。
すぐに涼子の魅力に引き込まれ、休みの日が合えばヒューストン近郊の自宅へ招き、ショッピングを楽しんだり、すぐに懐いた娘と3人、遊園地へ遊びに行ったりするうちに、いつの間にか涼子はアンヌを『大好きだった親戚のお姉ちゃんみたい』と言って慕ってくれるようになったのだ。
「でも、もう泣きやもう、ね? みんなに涼子の笑顔を見せてあげようよ」
そう言ってアンヌは、涼子の涙を、ハンカチで優しく、丁寧に拭いてやる。
涼子が家に遊びに来ると、まるで娘の幼稚園の友達が遊びに来ているように思えてしまう。
「みんなはね、泣いてる貴女も好きだけど、普段の明るくって元気一杯な涼子の方が、もっと好きなんだよ? ……ほら、みんなが笑ってるぞ! 1課長の泣き虫、って」
だから、話し言葉も娘と会話する時と同じ口調になってしまうのよね、とアンヌは苦笑する。
「……ごめんね。もう、泣かない」
涼子はこっくり頷き、唇をきゅっと閉じてしゃくりあげながら答える。
アンヌは微笑みかけてゆっくり頭を撫でてやり、ポーチに入れてあった携帯ファーストエイド・キットの中の消毒液で頬の傷と血を拭ってやる。
鋭い剣が一瞬で皮膚を破ったからだろうか、負傷部位が顔ということもあるのだろう、血の多さの割りには傷口は小さかった。
「さ、こうして肌色のテープを貼って……、ちょっとドーラン塗っとこうね。……後、涼子、髪型変えても良い? こうして右側をアップにして左側でまとめてやれば見え難くなるから……」
アンヌはブラシとピンを手に持って立ち上がり、後ろに回る。
そう言えば以前、娘と涼子、二人並んで座っている背後から髪を梳き、三つ編みやシニョン、ポニーテールと遊んでいるうちに、二人ともそのまま眠ってしまったことを思い出した。
”今もまさか寝てるんじゃないだろうな”
ギャラリーのように二人並んで涼子をみつめている副官達の表情がゆるゆるになっているのを見て、そんな考えが浮かんだ。
その刹那。
思い詰めた様な、不安そうな声で、涼子が話しかけてきた。
「ね、アンヌ? この傷……。跡、残っちゃうかな? 」
アンヌは、涼子の言葉に何かを感じ取り、思わず手を止めた。
「涼子、貴女……? 」
そう言ってアンヌが肩越しに涼子の顔を覗き込むと、涼子は再び黒い瞳を潤ませて、アンヌの顔に視線を移し、涙声で重ねて言った。
「ねえ、残っちゃう? もし、もしも傷跡が残っちゃったら、私……、私……。どうしよう? 」
アンヌは暫くの間、涼子の揺れる黒い瞳をみつめた後、優しく微笑みかけてやり、その後、耳元に顔を近付けて、そっと囁いた。
「ね、涼子、貴女……。恋、してるのね? 」
アンヌの目の前の、可愛らしい耳朶がみるみるうちに桜色に染まる。
それを肯定の返事と受け取り、アンヌはそっと瞼を閉じて、胸の内で祈りを捧げる。
この女性がどうか、幸せになりますように。
この女性がどうか、再び笑顔を浮かべてくれますように。
そして、ゆっくりと瞼を開き、涼子の耳元で囁いた。
「大丈夫よ、こんな傷跡なんて、きれいさっぱり治っちゃうわ」
涼子はいきなり顔をアンヌの方へ向けて、真剣な眼差しで重ねて問いかける。
「ほんと? 残らない? 」
アンヌは目を閉じてゆっくり頷いてやる。
「ほんとよ、大丈夫。万が一、傷跡が残ったって、多分あなたのいいひとは、そんな事これっぽっちも気にしないわ」
涼子は、小首を傾げて尋ねる。
「そうかな? ……嫌いになったり、しないかな? 」
アンヌは一瞬、自分の娘と話している錯覚に囚われる。
「ええ、大丈夫。……だから、泣かないで。いつもみたいに可愛らしく笑ってなさいな」
アンヌは、長い睫に引っ掛かり、今にも零れそうになっている涙の滴を指で拭い取ってやり、微笑んでみせる。
涼子がコクンと頷いて微笑んだのを確認して、再びブラッシングに戻った。
もっと涼子の『天使の微笑み』を眺めていたかったけれど、副官二人の視線が痛くてしかたがなかったのだ。
ウエストミンスター寺院の正門を出たところでボールドウィンが左腕のオメガ・スピードマスターに視線を落とすと、予定時間よりも15分ほど遅いようだった。
が、沿道を埋めユニオン・ジャックやウィンザー朝の紋章の小旗を振る人々の笑顔を見ていると、どうやら戴冠式の前後に起きた『UNDASN統幕本部長暗殺未遂事件』は、未だマスコミ・リリースされていないように思えた。
この世紀の祝典で沸くロンドンを、なにも『一招待者に関する事件』で騒然とさせ水を注す必要性などどこにもない。
戴冠式の興奮が右肩下がりになりつつある頃合を見計らって、実は、とリリースしても良いし、ひょっとしたら、マスコミ出身のブラウン首相のことだ、『隠したい何か』とバーターして報道管制を敷いている可能性もあるだろう。
何れにせよ、出発前に涼子がコルシチョフとマズアに言っていたように、この襲撃事件を取引材料にして、これまでロンドン・ウィークの準備期間中に切った「ハートのエース」を取り戻すことが可能だろうし、それは結果的にはUNDASNにとっては充分すぎるほどの利益となる筈だった。
ボールドウィンはしかし、そのことよりも、涼子の外交官としての強かさを目の当たりにして、普段は見ることのない~もちろん、彼女の出した結果は常にペーパーで確認しているし、都度、その辣腕振りには舌を巻いていたのだが~涼子の”意外な一面”に新鮮な驚きを感じていた。
そして。
さっきの、近衛兵に化けたフォックス派の襲撃の時に見せた”別の、意外な一面”に対しても。
今、自分が身体を預けているのは、ロールスロイスのオープンカーで、対面シートになった後部座席、自分の斜め向かい、マクラガンの正面、ハッティエンの隣に座って、緊張気味の笑顔を浮かべている涼子を見ながら、さっき感じさせられた違和感が、時間が経つにつれて、どんどん膨らみつつあるのを感じていた。
ロンドンの澄みきった冬の高い青空に、新国王即位を祝する花火が何千と上がる。
パンパンと乾いた音が響き渡った途端、涼子がビクッ! と身体を強張らせ、両目をきつく閉じる姿は、膨らみ続ける違和感へのサステナとなった。
「なにを驚いてるんだ、石動君」
意地悪そうな笑みを浮かべたハッティエンの質問に、涼子は顔を真っ赤にしてブツブツと口の中で答えている。
「お、驚いてなんかないもん」
アハハハと楽しそうな笑い声を上げるマクラガンを横目に、ボールドウィンは密かに溜息を吐いた。
一瞬、銃撃かと身を硬くしたのかと思ったが、どうやら、本当に花火の音に驚いただけのようだったから。
”そう……。この、まるで幼子のような儚さすら感じさせる女性が軍人であること自体、異常なんだ”
その涼子の秘める異常さが、涼子自身を無意識のうちに『追い詰めた』のではないだろうかと、ふと、思う。
ただ、美人なだけなら、なにも涼子でなくても良いだろう。
人々は、そのアンバランスな~いや、アブノーマル、と言った方がより適切かもしれない~立ち位置にいながらも、自然体で魅力を振り撒く涼子に、だから惹かれるのだ。
そしてそれは、彼女の『自業自得』でありながら、けっして彼女のせいではない。
第一次ミクニー戦役勃発当初、全人類が餓死の恐怖に怯えていた時代の、小さな、しかし確実に悲劇と呼ばれるに相応しいエピソードを、ボールドウィンは思い出す。
動物園のキリンの話だ。
殺伐とした、明日さえ確実ではない、希望の見失われがちなあの時代、せめてもの癒しを求めて動物園を訪れた人々は、人間同様空腹に苦しむキリンの姿に憐みを感じて、せめて少しだけでも、と自分が一日の食事代わりに食べたミカンの皮を柵の中に投げ込んだ。
キリンが嬉しそうに、長い首を折ってそれを食べる姿に、他の人々もミカンの皮を投げ込んだ。
1ヶ月後、しかしキリンは、絶命する。
解剖すると、キリンの胃の中からは、消化しきれず石化とよんでも差し支えないほどにカチカチに固まった、大量のミカンの皮が発見され、それが死因と断定された。
皮を投げ入れた人々に、もちろん罪はなく、ましてや悪意などあろう筈はなかっただろう。
ただ、そこにあったのは、絶望の時代、僅かな癒しを心に与えてくれる愛らしい動物へのせめてもの感謝の気持ち、あの殺伐とした時代には珍しいほどの、純粋な善意。
それだけ。
人は、他の生き物を、愛らしいと思う純粋な心と善意だけで、殺す事ができるのだ。
『鉛筆一本でも凶器となり得る』
涼子が言った言葉が思い出され、ボールドウィンは思わず苦笑を洩らす。
鉛筆一本どころか、愛らしいものへの純粋な憧れだって凶器となり得るんだよ、石動君。
「あら、軍務局長? なにを笑ってらっしゃるんです? 」
胸の中で呟いた途端、涼子に呼び掛けられて、ボールドウィンはまさか心の中を覗かれたかと、飛び上がるほど驚いてしまった。
「いや、軍功抜群でゴールドスターを何度も貰ってる君の弱点を発見したかと思ってね」
「まあ、酷い、軍務局長! 別に、花火の音なんか怖くないのに! 」
可愛らしい唇を突き出して怒ってみせる涼子の嫋やかな姿に、ボールドウィンは表面上笑顔を見せながらも、内心では安堵の溜息を吐いていた。
いくら辣腕の外交官、相手の心を読み取っているのかと思ってしまうほどに勘の鋭い彼女とは言えど、まあ、テレパスではあるまいし。
つい、と視線を涼子から外す。
丁度、トラファルガー広場にかかる前の緩いカーブにかかったところで、前方に、パレードを先導する近衛騎兵や白バイ、パトカーの後を、十頭立ての新国王を乗せた華麗な馬車が往くのが見える。
その後を皇太后の馬車、皇太子達の乗る馬車、王族がのる馬車が続き、ロイヤルファミリーの華麗な馬車群の後は、ロールスロイスオープンカーに乗った英国政府首脳や国連首脳、そして今自分たちが乗るオープンカーと続いている。
なんとなくそのまま後続へ首を振ると、直後にはEU大統領達の車、その後には英連邦各国、そしてその他参列各国首脳と車列が続き、最後尾を見る事など叶う筈もない程の盛大なパレードだ。
”確かに、彼女の言う通り、このパレードの最中ほど安全な時間はないだろうな”
その証拠に、涼子を除く車中の”乗客”達は皆、一様にリラックスした笑顔を浮かべている。
涼子でさえ、出発時よりは緊張が解れてきたように見えた。
新国王の馬車がトラファルガー広場を通過したとき、広場に整列した近衛擲弾兵連隊の祝砲が21発~これぞ本物のロイヤルサリュート21だな、と彼は好きな酒のボトルを思い出した~、ロンドン市内に轟き渡った。
「きゃあっ! 」
途端に涼子が、今度こそそれとはっきり判る可愛らしい悲鳴をあげて、両耳を手で覆い、隣に座る彼女の上官の分厚い胸に顔を埋めた。
「あっはっはっは! やっぱり恐いんじゃないか、石動君」
こちらもある意味純粋な笑い声をあげてからかうマクラガンに釣られて、ボールドウィンも、今回ばかりは愛すべき部下の可愛い失態を遠慮なく笑わせてもらおう、そう考えて口を開いた、その途端。
沿道から一斉に、大量のストロボが閃くのに驚いた。
涼子の姿を撮影しているのだ、はっきりとそう理解できた途端、ボールドウィンは怒りと、そして怒り以上の理不尽さ~再び、キリンの話を思い浮かべた~に、開いた口は、空気を震わせることもなく虚しく閉じられた。
「おっと、こりゃ役得って奴だな。石動君がボディガードを買って出て、急遽我々と同乗すると決まったときは、どうなることかと思っていたが」
珍しくハッティエンが軽口を叩くのさえ、気に触って仕方ない。
「もう! ハッティエン局長、意地悪だもん! 」
恥ずかしさで顔を真っ赤に染めた涼子が、両の拳で彼の胸と言わず肩と言わず、ポカポカと殴り続けている。
また盛大に炊かれたストロボの閃光が、ボールドウィンの心に波をたてる。
”もう、やめろ。やめてくれ! ”
叫べるものなら、そう叫びたかった。
「おい、アレックス」
向かいに座るハッティエンの声に、ボールドウィンは我に帰る。
助かった、と思いながら顔を向けると、ハッティエンは怪訝そうな表情を浮かべていた。
「どうした、アレックス。顔面蒼白だぞ? 」
「あれ、ボールドウィン局長、ほんとだ、まさかお車に酔いました? 」
涼子が形の良い眉をハの字にして、心配そうな表情を浮かべている。
「あ、いや、まさか。石動君じゃあるまいし」
むぅ、と膨れる涼子から顔を逸らし、ハッティエンに向かって手を振った。
「いや、なんでもないさ、フリードリヒ。ちょっと考え事をしていたものでね」
マクラガンが、なんでもなさそうな口振りで、言った。
「軍務局長も、笑顔で沿道に手を振ってやればどうかね。考え事も気になるだろうが、今は横に置いておきたまえ」
ボールドウィンは思わず、隣を見る。
マクラガンは自分の言った台詞を実践していて、彼の表情は読めなかったが、ボールドウィンは確信した。
”……統幕本部長は、なにか気付いておられる”
次の瞬間、少しだけ気が楽になり、自然と頬が緩んだ。
「それも良いですが、本部長。私は、このブルドッグが愛想良く手を振るレアな姿を、眼に焼き付けておきたいですよ」
「相変わらず失礼な奴だな、貴様! 」
ハッティエンが苦笑を浮かべ、涼子が横でコロコロと腹を抱えて笑っている。
今度こそボールドウィンは、自然と笑う事ができた。
マクラガンは、はっきりそうと理解していなくても、何かを敏感に感じとっている。
それが判っただけで、随分と肩から力が抜けた。
”そうとも。こんな辛い事実を私だけで背負い込む必要はないんだ”
開き直りとも言える企みが、脳裏を過る。
”後で、ハッティエンにも打ち明けよう”
重い荷物も、二人で分けて持てば、少しは楽になる。
そして眼の前の猛将も、きっとその重い荷物が涼子のものだと知れば、渋々ながらでも嫌とは言うまい。
そうだ。
彼だって、涼子を気に入っていることは明白なのだ。
「そうか。なるほどね」
ボールドウィンは笑顔で沿道の人々に手を振りながら、今更ながら気付いた。
自分もまた涼子のファンであり、彼女が大切だからこそ、今まで辛かったのだ、と言うことに。
だから、能天気に笑顔で沿道に手を振る涼子に対しても、そしてそれを”激写”している沿道の人々に対しても。
もう、さっきほどは怒りを感じることはなかった。
「まあ、愉快、とは言い難いが、ね」
嫉妬と言うより、子離れできない馬鹿親と言う方が合ってるかな、ふと思い、苦笑を浮かべて首を横に振った。
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