第53話 9-7.
銀環が中庭に降り立った後、涼子はカーテンの隙間からチラ、と室内の様子を伺う。
マズアが、場所柄を考えた低い声で、背の高い近衛兵と押し問答を繰り返していた。
涼子はサイドベンツから手を突っ込み、Czのセイフティをオフにする。
ダブルカーラムのハンドガンは得てしてグリップが太くなり、涼子のように手の小さい女性には扱い難いものだが、Czはシングルカーラム8発マグのSIGよりも、すっきり手に馴染む。
もちろん、小野寺のメインアームとお揃いだから、という理由のほうが大きいのだが。
「よし」
小声で喝を入れ、涼子はそっと、カーテンの隙間から室内に出て、歩き始めた。
チラ、と横目で見ると、涼子の指示通り部屋の奥にあるソファに、背中をドアの方に向けてマクラガン、ボールドウィン、ハッティエンが3人並んで座っている。
その並び方が、なんとなくテレビのホームドラマの食卓シーンを思い出させて、涼子は思わず頬が綻んでしまった。
”大家族なのに、誰もカメラのある側に座らない……、みたいな? ”
ソファの周囲には、さりげない配置ながら、実に上手にSPや副官がドアからの射線を塞ぐ形で立っていた。
これなら『最悪の事態』は想定から外しても問題なさそうに思えた。
だが、撃たせてはならない。
アドミラル達が無事でも、いくらそれが任務だとは言え、SP達が被害に遭っては、涼子にとっては意味がないのだ。
サイドベンツに差し込みっ放しの右手に、ぐっと力を入れて、涼子は足の運びを速める。
それで初めて、近衛兵とマズアを含む全員が、一斉に涼子へ視線を注いだ。
涼子は、マズアに素早くウインクを送る。
”マズア、ビンゴ! ”
マズアが微かに頷いたのを見て、涼子は初めて声を出した。
「どうかしたか、マズア二佐」
マズアはさっと身体をずらして敬礼した。
涼子は答礼しながら、巧みに近衛兵とマクラガン達が座るソファの射線の間に割り込み、近衛兵と対峙する。
正面に立って初めて、涼子は男が身長2mほどもあることに気付き、今更ながら恐怖感を感じた。
ここでひるんじゃ駄目だと涼子は、ぐっと胸を張り頭2つほども高いところにある男の顔を睨み付ける。
目深に被ったベアスキンで表情は捉え難かったが、それでも、少し驚いたように、ビクッと肩を震わせたのに気付いて、少しだけ肩の力が抜けた。
抜けた途端、すっと、自然に声が出た。
「自分は、UNDASN統合幕僚本部政務局国際部欧州室長代行、石動涼子一等艦佐。貴官の官姓名は? 」
大男はさっと敬礼して静かな声で言った。
「大英帝国陸軍王室師団近衛擲弾兵連隊第1大隊A中隊第2小隊、ジョナサン・マッケンジー軍曹であります」
近衛擲弾兵連隊といえば、通年王室警備に就く部隊で、普段ならバッキンガム宮殿やウィンザー城の警備に当たっている。
ウェストミンスター寺院を含むウエストミンスター宮殿は、実際には王室管理下にはない為、普段の警備担当はスコットランドヤードなのだが、この寺院が王室行事の主会場となる度に、彼等近衛連隊が出張派遣されてくる。
涼子は答礼せずに、サッと視線を足から頭まで往復させて『マッケンジー軍曹』を観察した。
肩に背負ったのは、冷たい光沢が恐ろしげな
そんな事をぼんやり考えていた涼子は、瞬間、僅かに動いたバヨネットの刃の煌きを見て、思わず息を飲んだ。
曇っていた。
油を拭き取ったようにも見える。
”人間を刺した後、拭き取ったんだ……! ”
涼子は確信すると同時に、再び恐怖を覚えた。
そして同時に、哀しみと怒りも。
恐怖感はさっきよりも大きくなったが、哀しみと怒りがそれを超えて、ガクガクと震えそうになる膝を、身体全体を、スッと、嘘のように落ち着かせてくれた。
「マッケンジー軍曹。貴官の身分証明及び認識票の検分を要求する」
一瞬、マッケンジーの視線が宙を泳ぐ。
すかさず涼子は、一歩詰め寄り、低い声で催促した。
「早くっ! 」
マッケンジーの帽子と額の間から、汗が一筋、ゆっくりと伝った。
そろそろ、頃合だろう。
空いている左手で、涼子の背後からじりじりと距離を詰めつつあったSPへ合図を送ろうとした。
刹那、銃のショルダースリングを握る彼の右手に、一瞬力が入った事に涼子は気付いた。
まずい、そう思った刹那、無意識のうちに涼子の身体は動いていた。
後で聞かされたところ、涼子のアクションは、マッケンジーが動き始めるのと殆ど同時だった、らしい。
その間の記憶が、涼子には、ない。
次に気付いたときは、涼子の肩にイシャポールの木製の被筒部が乗っていた。
マッケンジーの分厚い胸板が、眼の前5cm程で激しく上下している。知らぬうちに、相手の内懐に飛び込んでいたようだ。
この踏み込みのせいでマッケンジーは、着剣した小銃を射撃姿勢に構えようとして涼子に阻まれていた。右手は銃把を握り、指はトリガーにかかっているが、銃床を右腕付け根に固定出来ておらず、脇に挟んだ状態になっている。
銃口は床面から約15度、やや上を向いている。俯角を取って、ソファに座っている本部長を狙えないのだ~もっとも、彼に背を向けて座っている3人の内のどれがマクラガンなのかは、彼には判らなかっただろうが~。
涼子は左肩にライフルを担いだ格好で、左手を銃身に巻きつけて、自分の肩に”縛り付け”て意地でも照準を合わさせない様、奥歯を噛み締めて、踏ん張っていた。
右手はと言うと、マッケンジーの喉元に伸びており、その先に握られた黒いマット仕上げのCzは既に撃鉄が上がった状態で、マズルをぴったりと彼の顎にめり込ませていた。
二人とも、石の様に固まっていた。
マッケンジーの眉間を睨み付けている涼子の視界の隅で、時折キラ、キラと何かが光るのが見えた。
ゆっくりと眼球だけをそちらへ移動させると、ギラギラと光るバヨネットが小刻みに震えていた。
この銃剣で……、人を、刺したんだ。
次の瞬間、自分の心臓の鼓動がだんだんと大きく耳に響いてきた。
続いて加わったのは、自分の呼吸音。
そこで、気付いた。
周囲の音が消えたから。
だから、自分の体内の音だけが、こんなに大きく響くのだ。
刹那、足元がぐにゃりと歪むような、夢の中で歩いているような錯覚に捉われる。
ああ。
知っている。この感じ。
覚えがある。
続いて襲い掛かる、嘔吐感。
口の中にじわじわと湧いてくる苦い”何か”が不愉快で、思わず床に唾を吐きたくなってくる。
「気持ち……、悪い、よぅ……」
思わず、そう呟いていた。
霞む視界の中で、眼の前の近衛の赤い制服のあちこちに汗が滲み出したのだろう、暗い色のシミを作っているのを見て、涼子はついさっきまで感じていたのとは全く別種の『怒り』を憶えた。
コイツが、悪いんだ。
コイツがこんなことするから、私の気分が悪くなるんだ。
コイツが私を虐めるから、私がこんな酷い目に遭うんだ。
コイツさえいなければ。
スゥッ、と、自分の呼吸音も心臓の鼓動も、音という音が不意に消えた。
さっきからマッケンジーは、なんとか喰らいつく涼子を突き放そうと、銃をガタガタと上下左右に揺すり続けている。
それでもなかなか離れない涼子に、マッケンジーの緊張と苛立ちは頂点に達したようだった。
「どうしたっ! 撃てるもんなら撃って見ろっ! お前も道連れにしてやるっ! 」
彼の怒鳴り声に我に帰ったのか、涼子達を取り囲んでいたSPや副官達が、ザッと銃を構え直して、一歩、包囲を縮めたのが判った。
このままの状態が続けば、このテロリストは周囲で銃を構えているSP達に殺されるか、捕らえられるだろう。
それが、涼子には何故か悔しく感じられた。
悔しい理由なんてない筈なのに、と思いながら、涼子は無意識のうちに声を出していた。
「駄目だよー。コイツは涼子が殺すんだもん」
小さな、囁きだ。
当然、周囲からのリアクションはなく、ただ、見上げていた男の顔が恐怖に引き攣ったことで、少なくとも彼にだけは伝わった事は理解できた。
伝わったと判って、嬉しくなって、思わずニコッ、と微笑んだ。
途端に男の喉から「ひっ! 」という息を吸い込むような音が聞こえ、貧血を起こしたようにフラ、と巨体が後退さった。
身体が、自然と前に出た。
ドア横の壁に、彼の大きな背中がドシンとぶつかる音が響いた。
身体と身体が触れた、と思ったときには、眼の前にバヨネットの冷たい刃があった。
急激に零距離にまで詰め寄った為、涼子とマッケンジーの身体の間で、イシャポールは銃口を天井に向けて直立していた。
涼子の素早い動きをトレースするかのように、バヨネットが触れて削がれた黒髪が数本、踊るように舞うのが、妙に楽しげに見えた。
ライフルの銃身に絡み付いていた左手は、その持ち主も気付かぬうちに彼の被っていたベアスキンを毟り取っていた。
帽子を取ったことで初めてハッキリと見ることの出来たマッケンジーの顔が、恐怖に歪んでいたのを見て、涼子は思わず「うふふっ! 」と笑ってしまう。
再び彼の喉が、くぐもった悲鳴を上げた。
笑ったせいなのか、頬をなにか、滴が伝う感覚を覚え、擽ったさに涼子は思わず顔を振る。
口の端にまで流れてきたそれを、ペロ、と舐めると、血の味がした。
詰め寄った際に動いたバヨネットが、頬を切ったようだ。
鋭い刃物による傷は、痛みを感じない、というのは本当だな、と思った。
「た……、助け、て……」
掠れた声が耳に届いた。
マッケンジーの命乞いだと判った瞬間、涼子の口は、まるで誰かに操られているかのように、開く。
「駄目。殺しちゃう」
彼の目尻からボロボロッ! と涙が零れた。
「涼子に意地悪するひとは、涼子が殺しちゃう」
Czのトリガーにかかる、右手の指が白くなったのが見えた。自分の指の筈なのに、まるで他人の指みたいだった。
刹那、聞き覚えのある声が背中に突き刺さった。
「涼子様っ! 」
あぁ、この声は。
リザ、ね。
また、リザに心配かけちゃったな、そう思った瞬間、自分の左手が、まるで他人の手のように素早く動いた。
自分がどうしたいのか判らぬままに、けれど左手は舞うように動いて、彼の頭から毟り取ったベアスキン帽を、右手に持ったCzを隠すように撒きつけていた。
これでよし、と口の中で呟いて、右手の人差し指に力を入れた。何が”よし”なのか、判らなかったけれど。
判らなかったけれど、トリガーを立て続けに数回絞った。
ベアスキンの分厚い生地~文字通り、熊の毛皮製だ~でミュートされたCzの銃声は、妙に鈍いボスッという音を5回、室内に響かせた。
それが合図だったように、急激に周囲の世界に、色がつき、音が戻った。
最初に聞いた音は、黒い毛皮の間から零れ落ちた5個の
最初に見えた色は、鮮やかなほどのスカーレットと汗が滲んでまるで血の跡のような暗いブルーがまだらになった、アンバランスな彼の服の色。
マッケンジーの涙目が、くるっと裏返って白くなり、彼は壁に凭れたまま、ゆっくり、ずるずると妙にリアルさを欠いたスピードで崩れ落ちた。
彼の後頭部が押し付けられていた、アンティークな色合いの壁に、5ヶ所の着弾痕があり、そこから白い煙がゆらゆらと立ち上がっているのをぼんやりみつめているうちに、涼子は泣きたくなってきた。
知らぬうちに銃口をずらして発射していたことを、信じてもいない筈の神に感謝した。
ありがとうございます。
また、殺してしまうところでした。
今頃になって、切れたらしい頬がじんじんと痛みを訴え始め、涼子は思わず床にしゃがみこみそうになり、寸でのところで右足を一歩退いて、堪える。
退いた右足がピチャン、と水っぽい音を立てたのに驚き足下を見て、壁に凭れ足を投げ出しているマッケンジーの股間から広がった水溜りに気が付いた。
鉛が突っ込まれたように重い足を必死に動かし、湯気を立てる水溜りから逃れようと後退し続けて、何かに背中があたり、涼子は漸く足を止める。
振り返ると、マズアが蒼白の顔を引き攣らせて、無言でみつめていた。
その表情に思わず怯んでしまい、涼子は恐る恐る、ゆっくり首を巡らせる。
SP達や、副官、秘書官、ソファの向こうで立ち上がっているアドミラル達。
全員が、呆然とした表情を浮かべ、無言で涼子をみつめていた。
視線が痛く、冷たい。
まるで知らない人ばかりのようだ。
恐い、こわいよ。
駄目。
このままじゃ、駄目だ。
どうしよう、どうしようと口の中で呟きながら取り巻く人垣を眺め渡していると、リザと眼が合った。
リザの瞳だけが、皆とは違った。
不安そうな、哀しそうな、だけど懐かしくてほっとするような。
そうだ、さっき声をかけてくれたのもこの
ああ、この娘にだけは嫌われたくない。
なにか、何か言い訳しないと。
「えと、あの」
口篭りながら呟いた言葉に、最初に反応したのはコルシチョフだった。
「何しとる! 犯人を取り押さえろ! 」
怒鳴り声に我に帰ったSP達が、わっとマッケンジーに飛び掛り、見る間に彼の赤い軍服はダークスーツに覆い隠される。
助かった、やっぱりさっきの皆の視線は錯覚だったんだ。
吐息を落としながらそっと胸を撫で下ろした途端、涼子は思い出した。
涼子が思い出した事を、リザが先んじて言葉にしてくれた。
「外に、中庭の林の中に重傷者1名! 救急車を手配、中庭に出て負傷者救助を! 」
秘書官のメイリーが部屋の隅の電話に飛びつき、マッケンジーを取り囲むSPのうち何人かが踵を返し、窓から外へ飛び出していく。
「室長代行、頬に血が」
マズアに言われて、涼子は手の甲で頬を拭い、微笑んで見せた。
「大丈夫、掠り傷」
そこまで言って、まだ銃を持ったままであることに気付き、セイフティをオンにしてホルスターへ戻す。
そして、自分が失敗を仕出かしてしまった事を思い出した。
「ごめんね、駐英武官。世界遺産、傷つけちゃった」
呆れたような表情を浮かべた年上の部下にペコリと頭を下げた途端、自分の名を呼ばれた。
「石動君」
声の方を見ると、マクラガンがこちらを見ていた。
「あ、本部長、お怪我は? 」
マクラガンは返事をせずに、真っ直ぐ涼子に近付いて、傍に来て初めて口を開いた。
「大丈夫だ」
静かにそう言って、涼子の肩に手を置いた。
「ありがとう。二度ならず、三度も命を助けてもらうとは思わなかった。それにしても、よく耐えたな。大丈夫かね? 」
マクラガンに言われて、涼子は、今頃恐怖が蘇ってきた。
子供の様に頷くだけで精一杯だった。
マクラガンは頷き返しながら、少し声を落として言葉を継いだ。
「しかしな、石動君。……さっきも言ったが、あんまり無茶な真似をしてくれるな。君を見ていると、それだけで寿命が縮まってしまう。君の命は、君だけのものじゃないんだ」
マクラガンの手は自然と涼子の頬に伸びて、血が乾きかけている傷口を、慈しむ様に撫でさすっていた。
「ほ……、本部長……」
片手だけで涼子の顔を覆い隠せてしまいそうな大きな、皺だらけで微かに煙草の甘い匂いがする、掌。
大きな、温かい温もりを感じた途端、ぽろぽろと涙が頬へ零れ落ちる。
遠い昔、父母と近所の公園へサンドイッチを持って遊びに行った帰り、家族3人夕焼けに染められ、手を繋ぎ、歌を歌いながら帰ったあの日。
マクラガンの手が頬に触れた刹那、湧き上がるように脳裏に溢れかえる、優しく懐かしい、けれど帰らぬ日々が、魔法のように恐怖感を駆逐していくのが、快感にさえ思えた。
嬉しかった。
幸せだった。
こんなにも、無条件で無制限の、気配りを、気遣いを、心配を、優しさを、溢れるような愛を、惜しみなく注いでくれる人が、自分の周囲には、こんなにもたくさんいるという、信じられないような事実があること。
泣き続けてるだけじゃ駄目だ、何か、何か言わないと。
「ご……、めん、なさい」
焦った挙句、混乱する頭の中の数々の言葉の中から、ポロン、と零れ出た、まるで子供みたいな言葉。
しかし、言った途端に、その言葉が今、自分を慈しんでくれている人々へ手向けるには、一番しっくりする言葉であるように思えた。
「ごめんなさい、私……。みんなに、いっぱい心配かけちゃって」
マクラガンはふふん、と軽く笑うと、手を頬から肩にずらして涼子を手近の椅子に座らせた。
「いいんだ。むしろ、その言葉は、私ではない誰かに言った方が良いだろう」
マクラガンが涼子の言葉を待たず身体をずらすと、入れ替わりにリザと銀環の泣きそうに膨らんだ顔が見えた。
ああ、そうだ。この娘達はいつも、私を助けてくれる。
「ごめんね、リザ、銀環」
揃って泣き笑いの表情をうかべた二人が何故だか可笑しくて、漸く涼子も笑顔を浮かべることが出来た。
「そして、ありがとう」
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