第52話 9-6.
ロンドンの2月、木々の葉は落ち所々に根雪の残る中庭は寂しい風景だが、それでもロンドン有数の観光スポットでもある古くて大きな寺院の庭は、常緑樹も豊富で灰色のロンドン市街に較べるとひと足早い春の気分に浸る事もできる。
リザは、レーションを2つも食べて~戴冠式前にも2つ、という事は都合4人前だ~満足げな表情を浮かべ、窓際に椅子を引き寄せ、ウエストミンスター宮殿の中庭をぼんやり眺めている涼子に、見惚れていた。
高い窓から射し込む弱々しい、だけどどことなく柔らかな冬の陽射しを浴びて、瞳を細め、微笑を湛えて外を眺めるその姿は、まるで印象派の巨匠が描いた肖像画のように美しい。
それがけっして、自分の”涼子様フィルター”を通した結果ではないことは、隣に座る銀環も、そして他の秘書官や副官連中、SP達までもが、まるで憑かれたように、だらしなく頬を緩めて涼子を眺めていることで判る。
”ま、全員が涼子様フィルター装着済みなのかも知れないけれど、ね”
思わず苦笑すると、隣で銀環が我に帰ったようにこちらを向いたのが判った。
「なんです、先任」
「なんでもないわよ」
「嘘。やだ、先任、思い出し笑いだ。スケベなんだから」
なに言ってるのよ今私は瞬間の芸術を心から堪能しているのよ邪魔しないで、そう反論しようとして、涼子の異変に気付いた。
眠そうな涼子の弓になった両目が、突然大きく開かれたからだ。
銀環も気付いたらしい。
「どうしたんでしょう? 」
「行ってみましょう」
リザは銀環を伴い、しかしゆっくりと涼子に近付く。
「どうされました、室長代行? 」
そっと声をかけると、涼子はじっと窓の外を見たまま、声を殺して答えた。
「今、そこの林の奥から……、近衛兵が出てきた」
「近衛兵が? 」
窓の外を見ても、既に姿は見えない。
涼子が『近衛兵』と断定するからには、バッキンガム宮殿の衛兵交替で有名な、赤い軍服にベアスキンと呼ばれる熊の毛の黒い帽子、
確かに不審だ。
ウエストミンスター宮殿と一口で言っても、その実態は宮殿だけではなく、先程戴冠式が執り行われた寺院や、ビッグベンで有名な国会議事堂までを含む広大な施設全体を指す。
よって、普段は王室管理下にはなく、警備はスコットランドヤードの担当なのだが、今回は戴冠式警備計画の下、王室警護担当である陸軍王室師団もその任に就いている。
王室師団の近衛連隊と言えば、バッキンガム宮殿を始めとして王室関連の施設の警衛全てを受け持つ、赤い服に
だが、今度の戴冠式関連行事に関しては、門や施設外周こそベアスキンだが施設内~一般市民から覗き難い場所も含めて~は通常野戦軍装の歩兵がツーマンセルで、それこそアサルトライフルを抱えて警備配置についていることは、リザとて良く承知している。
つまり宮殿内中庭に、赤服の近衛兵がいる事自体が、不審なのだ。
窓を開こうとした銀環の袖を、涼子がそっと引き、話しかけた。
一瞬、銀環が羨ましく思えた。
「気付かれちゃ駄目よ? そっと、ね? 」
銀環が緊張した表情で頷き、ゆっくりと窓を押し開けているのを眺めながら、涼子は隣に立つリザに囁いた。
「明らかに挙動不審、って感じだったわ。林から出てくると、周囲をパパッ、て見渡して、その後、ズボンや服をパンパンって、汚れを落とすみたいに叩いて、向こうへ歩いていったの」
コンパクトの鏡で慎重に左右を探っていた銀環が振り返って報告した。
「誰もいませんね」
「目撃された事に気付いた、とか? 」
リザの言葉に涼子は首を捻りながら答えた。
「この時間、太陽の光線は建物から林へ注いでる。つまり近衛兵からは私は逆光だったし、それにこの古い寺院特有の薄暗さで、室内は見難かったんじゃないかな。ま、こっちからもあの目深に被った帽子のお蔭で人相は確認できなかったんだけど」
「近衛兵なら、パレード出発時間が迫ってるのに、こんなところでウロウロしてませんよね? 」
パレード直衛は、ベアスキンではなく天辺にカラフルな房を靡かせた中世風デザインの鉄兜を被る近衛騎兵が務める事になっているとは言えど、威儀を正した新国王のパレード出発直前に、宮殿直衛を務める近衛兵が、こんな中庭をうろついているのが、そもそもおかしいのだ。
だとしたら。
「林の中に……、何があるのかしら? 」
リザの独り言が聞こえたのか、突然涼子は立ち上がり、室内を振り返った。
「駐英武官! それと誰でもいいわ、SP1名」
集まってきたマズアとSPに向けて、涼子は細くたおやかな人差し指を唇の前で立て、無声音で言った。
「思い過ごしならいいんだけど……、2人目の襲撃犯は近衛兵に化けてる可能性がある」
マズアが驚愕の表情を浮かべ、それでもやはり無声音で訊ね返した。
「何故、そう思われるんです? それに、もしそうなら、1課長、見分けがつきませんよ? 」
涼子はそれに答えずに重ねて質問した。
「もうそろそろ、集合時間だよね? マズア、案内が来るまでここで待機してろって指示だった? 」
マズアは黙って頷く。
リザはSPに指示を出した。
「他の控え室を、なんでもないフリを装って偵察してこい。案内役ってのは守衛か、近衛兵か」
足早に廊下へ出て行くSPの後姿を見送りながら、マズアが最初の質問を繰り返した。
「1課長、何故、そう思われたんです? 」
涼子は窓の外を見ながら答えた。
「さっき、その中庭の林の中から、挙動不審の近衛兵が一人、出てきたの」
マズアは、それだけで涼子の言葉に納得したらしく、口を噤んで窓の外へ視線を投げた。
と、そこへ偵察に出ていたSPが戻ってきて報告した。
「この廊下の奥にある英国政府の控え室には、ベアスキンかぶった近衛兵が迎えに来ていました。他の部屋も同様です。廊下は近衛兵だらけですから、もうすぐ、この部屋へも来るんじゃないですか? 」
涼子は、決意した様に頷き、早口で指示を出した。
「リザ。申し訳ないけれど、貴女、この窓から外へ出て林の中を偵察して来て。きっと、フォックス派が近衛兵に化けたって証拠があると思うの」
「証拠……、ですか? 」
思わず問い返すと、涼子はすぐに答えを返してきた。
「犯人も、裸でここへ来た訳じゃないでしょ? 着てきた服とか、服を剥がれた本物の近衛兵とか」
「あ」
リザが思わず声を出したのを納得の合図と受け取って、涼子は次にマズア達に顔を向ける。
「マズア達は、リザが証拠を掴んで戻って来るまでに迎えの近衛兵が来たら、時間稼ぎしてドア付近から一歩も中に入れないで。それと、本部長や両局長、アドミラル達を、そうね、あの部屋の隅のソファなら、入り口から死角っぽいわね、あそこへ急いで移って頂いて。それで、他の皆はドアとアドミラル達の射線上に何気なく並んで、邪魔するの」
一気にそこまで喋ると、涼子はリザと銀環に再び顔を向けた。
「私と銀環は、リザが戻ってくるまで、この窓際でカーテンに包まって隠れてましょう。証拠の有無に関わらず、リザが戻ったら、マズア、私がそっちへ行くから」
全員が緊張の表情を浮かべて無言で頷く。
「さ、急いで! 」
私も、涼子様と一緒にカーテンに包まってる方がいいな。
思わずそう言いかけて、リザは慌てて口を噤み、窓枠に手を掛けた。
何しろウエストミンスター寺院と来たら、11世紀初頭にエドワード懺悔王が建設したとされる世界遺産にも登録された古い建造物でもあり、いくら1階とは言え、窓から地面まで優に1.5mはある。
リザはドレスブルーのタイトスカートを表面の粗い石造りの外壁に引っ掛けないよう注意しながら、そっと地面へ降り立った。
昨夜小野寺から話を聞いて用意していた
先週降った雪がところどころ木の陰に残っていて、じめじめと不気味な柔らかさと冷たさがパンプスの底から足の裏に直に伝わって、思わず眉に皺が寄ってしまう。
室内から見るより木々の間隔は広く、意外と視界は利いたが、見える範囲には特に不審な点は発見できない。
そっと建物の方を振り返ると、涼子が窓から手を出して、指で右手の方を指していた。
涼子と銀環、二人は厚手のカーテンにくるまって、窓の縁にお尻を預けている。
室内からのカモフラージュのつもりだろう、ということは既に迎えが来ているのかも知れなかった。
「? 」
自分の胴回りほどの太さの
SIGを構え直し、足早に近寄って一気に幹の向こう側に回り込む。
「! 」
思わず声を上げそうになるのを寸でのところで堪え、銃をホルスターに戻す。
そこには、服を剥ぎ取られたのか、下着姿で腹から血を流している白人男性が倒れていた。
傍らにしゃがみ込み、そっと手の脈をとる。
弱いけれど、確かに脈動が指に伝わってきた。
どうやら、刃物で刺された様だ。首からかけた細い鎖の先をシャツからたぐりだすと、それは英国陸軍の
”やっぱり、近衛兵に化けてるんだ! ”
「しっかりしろっ! すぐに助けを呼ぶからなっ! 」
リザが声をかけても、男は返事もせず、瞼も開かない。
涼子が近衛兵を目撃したからざっと5分。
出血量から見て、まだ20分ほどは持つだろう。
リザは急いで涼子と銀環がいる窓辺へ駆け戻った。
口を開こうとすると、涼子が人差し指を唇に当て、無声音で言った。
「今、迎えの近衛兵が来てる。武官が時間稼ぎ中」
リザは無言で頷き返し、やはり無声音で報告した。
「外に刃物で刺された負傷者1名、首から英国陸軍の認識票を下げてます。テロリストはやはり、近衛兵に化けてます! 」
涼子はキュ、と形の良い唇を噛み締め、ゆっくりと頷き、傍らの銀環に言った。
「私、マズアの応援に行くわ。銀環、貴女中庭に下りてリザと一緒に負傷者の救助を」
「アイマム」
リザは窓から上半身を乗り出した銀環の脇に腕を差し込み、丁度小さな子に”高いたかい”をしてあげるような態勢で、そのUNDASN将兵の中では華奢な部類に属する身体をそっと地面へ下ろした。
窓から眺めている涼子が笑顔を浮かべていることに気付き、自分と銀環、二人がまるで涼子の娘みたいだと思えて、緊迫する状況だとは判っていながら、思わず笑みを返してしまった。
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