第51話 9-5.
戴冠式は、古式ゆかしい荘重な雰囲気を湛えた聖堂で執り行われた。
その荘厳さと華やかさは、世界でもずば抜けた伝統と格式を誇る英国王室しか誇り得ないと、涼子はしみじみ想う。
しかも、王室における最重要行事であり慶事でもある、新国王戴冠式なのだ。
いくら外交関係担当で、過去数々の各国の伝統的な行事に参列してきた涼子と雖も、これほどの荘重な儀式に参加した経験はない。
こんな機会はたぶん一生に一度だろう、偶然とは言え参列できる資格階級を持っているのだから、目を皿のようにして見物してやろうと満々の意気込みで臨んだのだ。
が。
聖堂内の長椅子に座った途端、頭痛を感じ、思わず顔を顰めてしまった。
激しい、というより、頭の中心部に異物感を感じるような、鈍痛だった。
隣に座っていたコルシチョフが、不審そうにチラチラと視線を送ってきてくれるのは判っていたが、そちらに顔を向けることさえ億劫に思えるほどの不快感。
涼子は、唇を噛み締めてじっと耐えるしか術はないと抵抗を諦め、瞼を閉じて顔を伏せた。
と、俯いているうちに、だんだん意識がぼんやりし始めた。
やだ、どうしよう?
このまま倒れるのではないか、いや、倒れたら最後、二度と目を開く事ができないのではないか。
そんな恐怖感に襲われ、現実に必死でしがみついていた涼子だったが、やがて、身体中の力が抜けてきて、不快な頭痛に変わって現れたのは抗い難い眠気だった。
襲い来る睡魔に対し、徹底的抗戦を旗印に戦いを挑んでみたが、聞こえてきた聖歌に継戦能力をあっさり奪われて、気が付つけば、英国民からは『第二の国歌』と親しまれている、エルガー作曲『威風堂々第1番』のトリオに歌詞をつけた『希望と栄光の国』が英国陸軍近衛第1連隊軍楽隊によって演奏されており、新国王チャールズ15世が”アフリカの女王”と呼ばれる300カラット近いダイヤモンドを嵌め込んだ王冠を戴き、長いマントを引き摺って退場するところだった。
何故だか、頭痛は嘘のように消えてなくなっている。
ほっと安堵の溜息を零しながら、涼子はそっと周囲を見渡した。
参列者達は立ち上がって、王立歌劇場合唱団のコーラスに合わせ新国王と大英帝国の栄光を称える歌詞を口ずさむ。
涼子も慌てて立ち上がり、皆に倣った。
もちろん、口パクだ。
涼子の2列前では、マクドナルド国連事務総長と並んでマクラガンが起立し、大きな口を開けて真面目な表情で歌っているのが見えた。
マクドナルドは英連邦、マクラガンは英国出身と、どちらも新国王にはそれなりの感慨があるのは判るが、涼子は二人の姿を見て、思わずクスッ、と笑ってしまった。
聞こえたみたいで、1列前のハッティエンがチラっと振り向いて涼子を睨む。
涼子はペロッと舌を出して肩を竦め、真面目な顔をして歌い出す、振りをした。
歌詞なんか知らないし、自分が音痴であることは、知っている。
知っているとも、ああ。コーラス部に籍を置いたこともあるというのに。
あぅ。
情けない表情を浮かべていたのだろうか、ハッティエンは苦笑して又、前を向き直った。
見ていると、どうやらハッティエンも歌詞を知らないように見えた。
”そういえば、ハッティエン局長だって、音痴だったわよね”
くすくす笑いが止まらぬうちに、気付けば新国王の姿は何処にも見えなかった。ウエストミンスター寺院前に集まった国民に姿を披露する為、バルコニーへ上がってしまった様だった。
この後、戴冠式の参列者達は広場へ出て、国王の演説を聞く事になっているのだが、マクラガン達一行は警備上の問題もあってそのまま控え室に戻る事と事前に決めていた。
広場では特に序列席次が決まっているわけではなく、勿論野外と言うこともあって警備が困難だ。反面、参列者の誰が何処に、が周囲からは判別し辛く、他の式典と違って出席しているか否かがすぐには判らないこともあって、UNDASNの及び腰、と批判されるリスクも少ないとの判断からだった。
エントランスへと向かう人の波に逆らい、涼子は苦労してマクラガン達の側へ近寄る。
と、マクラガンと談笑していたマクドナルドが涼子に声をかけてきた。
「涼子ちゃん。君のボスは手強いよ」
出しぬけにそう言われて、涼子は意味が解らずポカンとした顔でマクドナルドの顔をみつめてしまう。
マクドナルドはそんな涼子の表情に構わず、傍らのマクラガンを見て、冗談っぽく笑いながら続けた。
「ジョージときたら、何度頼み込んでも涼子ちゃんの国連事務総長スーパーバイザー出向要請に
「え」
マクドナルドからは昔から何度となく誘われていたが、まさか、勧誘の魔の手(?)が制服組トップである統幕本部長にまで頼んでいるとは思ってもみなかった。
マクラガンは驚く涼子をチラと見やった後、とぼた口調で言ってのけた。
「さて、閣下。そんな話は初耳ですが……。まあ、いずれにせよ、この石動は私の大切なボディガードですからな。当分の間手放せませんぞ」
マクドナルドは大袈裟に驚いたフリをしながら言う。
「ほう、UNDASNの政務局国際部は、ボディガードも任務のうちかね? それじゃますます好都合だ、実は以前私も彼女に命」
マクドナルドの言いたい事を瞬時に察知して、涼子は両手を振り回して大声で台詞を遮った。
「わー! 閣下、だめっ! 駄目ですよぅ! 」
ハッティエンが聞き咎めて割り込んできた。
「ん? さっき大口を叩いたのはいったい誰だったかな? 欧州室長代行、どうなんだね? 」
ボールドウィンもクラスメイトに乗ってきた。
「それに気になる事を仰っていましたな、事務総長。欧州室長代行、君、以前何を仕出かしたんだ? 」
それはその、昔国連本部の正面エントランスで銃撃騒ぎがあってその時……。
そこで涼子は首を傾げる。
あれ?
あの事件って、結局誰が誰を襲おうとして起きたのかしら? 事務総長が直接のターゲットじゃなかったのは確かなんだけれど。
ええと。
思い出そうとして、不意にこめかみに微かな鈍い痛みを覚える。
「言葉に詰まったところを見ると、よほどの大事かな? 」
ボールドウィンのからかうような言葉に、涼子は我に返った。
「え! や、えと、それはその! あうぅ! 」
どちらにせよ済んだ事だ、それより今はこの厄介なご老体達をなんとか誤魔化さなければ。
慌てふためく涼子の姿を見て大笑いする一同の笑い声が、聖堂内の高いドームに木霊して、恥ずかしさも今やMAXだ。
涼子は一旦瞳を閉じて、呼吸を整える。こんな時こそ慌てず騒がず、毅然とした態度で対応しなければ、と腰に手を当て、どこかの母親のような口調を真似て、言った。
「さあさ、事務総長閣下! あちらでンバヨ官房長がお呼びですよ! ほらほら、行った行った! さあ、本部長も局長も、控え室に帰りますよ! 」
それでも笑いながら動き始めた幹部達を、涼子は溜息混じりで眺める。
いつでもこうなんだ、この人達は。
「もぅ。なんで、私の事ばっかりからかうかなあ、あのご老体達は」
それでも憎めないのだからこれはもう、半分以上自業自得と言えるかもしれないと、思わず苦笑が浮かぶ。
刹那、涼子は、ふと、視線を感じて笑顔を顰めた。
一瞬、今朝のホテルロビーでの出来事が脳裏を過ぎり、恐怖が再生されかかる。
けれどその感情は、すぐにUターンしていった。
違うのだ。
今朝、ホテルのロビーで感じた、あの気味の悪い視線とは違う。
真剣さを感じさせる、もしくは涼子を求めている。
根拠なんてないけれど、でも何処となく、そんな感じがして、涼子は視線の主を人混みの中に探す。
視線の主は、すぐに見つかった。
涼子達よりも、ずっと祭壇に近い前列~ということは国賓クラス、と言う事になる~で、慌しく移動する人々の中、身動ぎもせず、じっとこちらをみつめている、若い貴婦人の姿。
「……あれ? 」
どこかで見た覚えがある、と思った。
年配の男女が多い大聖堂の中で、その貴婦人は飛び抜けて若く、そして美しかった。
国賓クラスのエリアにいて、豪奢な
が、該当する人物はヒットしない。
深まる疑問と困惑に思わず首を捻った涼子を他所に、彼女は視線を逸らそうとはせず、しかもその視線の持つ力は、一向に弱まらない。
そしてそれが、涼子は何故か嫌ではなかった。
脳内検索を諦め、涼子は再び彼女を観察する。
物凄い、と言う形容が大袈裟にならないほどの、美人だ。
しかも、若い。
肌は抜けるように白い、髪は艶やかな黒、瞳も黒い。
日本人のようにも見えるが、違うと言われればそうかも、と納得してしまう。
一言で言えば、エキゾチック……、いえ、ミステリアス、かしら?
そうだ。
ミステリアスと言えば、外見より何より。
何故彼女は、さっきからずっと、自分に視線を送り続けているのだろうか?
懐かしそうな、哀しそうな、緊張しているような、切なそうな、そして私を求めるような、力と熱の籠った視線で。
どれくらい、みつめ合っていただろう。
突然、フロックコートに身を固めた、従者らしき老齢の男性が彼女に近寄り、耳元で何かを囁いた。
彼女は、涼子への視線を逸らさないまま、やがてスカートを両手でつまんで完璧なカーテシーをして見せて、ゆっくりとエントランスへと立ち去った。
その余りの可愛らしさに涼子は思わず微笑んでしまい、その後気付いて、慌てて脱帽敬礼を返したが、たぶん彼女は、見ぬまま去っただろう。
それほど鮮やかな、去り方だった。
「うーん。どうも私を知ってる様な……。誰だろ? 何か思い出せそうなんだけど」
刹那、コルシチョフが涼子の肩をポン、と横から叩いた。
「何してる、石動君。本部長はもう先にいかれたぞ、早くしたまえ! 」
「え? あ、はい! 申し訳ありません! 」
見ると、マクラガンは、ハッティエンやボールドウィン達と談笑しつつ、10mも前を歩いている。
涼子はコルシチョフについて足早に追いつきながら、もう一度、さっきの貴婦人が歩み去った方にそっと顔を向けた。
もう、人影もなかった。
”……いいや。忘れよう”
涼子は、彼女に親しみと懐かしさを覚えながらも、同時に、朝のホテルでの邪悪な視線を受け止めた時に感じた恐怖の視線の記憶まで同時に蘇えってきた事で気が滅入り始めていた。
だから、思い出せない”誰か”と一緒に忘れてしまおうと思い、そしてそう念じた。
普通、そう簡単に人の記憶は消せないものだ。
しかし涼子は、『忘れよう』と念じ、暫く仕事などに集中すれば、不思議と忘れられるのだということを、そういう『能力』が自分にはあるのだと言うことを、知らず知らずのうちに学んでいた。
何故そんな器用なことが出来るのか、涼子自身にも判らない。
けれど、その方法を知っていることが、自分にはとても幸運なことだと言うことだけは、はっきりと自覚していた。
戴冠式が終わってすぐ、マヤは立ち上がり、涼子が座る席の辺りを振り返った。
薄暗い大聖堂の中でも、涼子はすぐにみつけることが出来た。
まるで、そこだけがキラキラと光り輝いているように思えたのだ。天井のステンドグラスから射し込む陽光が、まるでスポットライトのように涼子へと降り注いでいるような。
暫くして涼子と、視線が合った。
しかし涼子の、煌く、小さな銀河のような黒い瞳には、遂に自分との再会を喜ぶ、懐かしむ、そんな光は現れず、ただただ、マヤは涼子にとってのその他大勢でしかなかった。
それでもマヤは、視線を外さず、涼子をみつめる。
いや、視線を逸らすことが出来なかったのだ。
ああ、涼子様!
ほんとに私の事、忘れてしまわれたの?
どうか思い出して、いえ思い出さなくてもいいわ、せめて、私に微笑んで。
胸に渦巻く想いのありったけを視線に込めたつもりだったが、涼子には遂に届かないまま、タイムアウトを迎えてしまった。
侍従長に急かされて、マヤは思い切って
それは、公式の場で、『一国の王族』と『単なる国際公務員』との間で交す事のできる、マヤにとっては最大限のパフォーマンスであった。
しかし、それに対する涼子の反応は、やはり、甚だ素っ気無いものだった。
勿論、その美貌とキャリアからは想像できない程、あどけない笑顔を見せてはくれたのだが、けれどそれは親しみを込めたものではなく、マヤが涼子にとってのその他大勢であることを確認させられただけだった。
悔しさ、哀しみと寂しさで、今にも溢れそうになる涙をマヤは、『王族の矜持』だけで辛うじて堪えつつ、侍従長に先導されてウエストミンスター寺院前の広場に進みながら、必死で自分を励ましていた。
とにかく、これで判った。
少なくとも、涼子は『今は未だ』、マヤを思い出してはいない。
それならそれで、まずは涼子と、もう一度『初対面』するだけだ。
チャンスはまだ、ある。
まずは、今夜の晩餐会。
マヤは暗くなりがちな表情を、嘗て涼子に誉められた『営業スマイル』に切り替えて、エントランスホールの石造りのアーチをくぐった。
マズアは、何事もなく無事に控え室に入室しようとしているマクラガンや涼子の背中を眺めながら、密かに安堵の吐息を零した。
涼子の副官、リザが起立して号令をかけた。
「アテンション! 統合幕僚本部長統合司令長官、戻られました! お疲れ様です! 」
室内に居た全員が姿勢を正し、敬礼する。
マクラガン達が答礼を解くのを待って、統幕本部長秘書官のメイリーが近寄り、後の予定を説明し始める。
「パレードは
マズアはその様子を横目で見ながら、ヒギンズに声をかけた。
「スタックヒル補佐官。Bグループのメンバーを引率して撤収してくれ。Aグループは自分が引率する」
そして涼子に視線を移すと、コリンズが彼女の傍に立っていた。
「1課長、よろしいですか? 駐英武官も少しだけ時間を」
コリンズの声に、マズアは涼子へと歩み寄った。
「さっきの犯人の件ね? もう英国側に引き渡したの? 」
「ええ。初動の取調べはスコットランドヤードで行う事になりました。警察任せにすると、口を割らすのに時間がかかりそうなんですが、この際、止むを得ません」
MI5やSASだともう少し効率の良い歌わせ方も見せてくれるのだが、とコリンズがボヤきを交えながら質問に答えた。
「仕方ないさ、ジャック。内務省特別警戒本部の決定だからな」
マズアはクラスメートを宥めながら、涼子をミーティングコーナーに座らせた。
「で? なにか聞き出せたことはある? 」
涼子が低い声で問う。
「ええ、この部屋に連れ帰ってすぐ、叩き起こして尋問しました。……しかし、少し時間が短すぎました。どうやら単独行動のようですね。身元は未だ判明していませんが、ここの守衛じゃない事は確かです。守衛長に確認させた所、守衛の1人が街のクリーニング店に制服を預けて未だ戻っていない事が判りました。どうやらクリーニング工場で盗難にあったようです」
涼子の表情も厳しさを増す。
「ヒースロー襲撃のインパクトを受けて、やっぱり今後は単独犯行で波状攻撃、ってのが基本のようね。……って言うか、犯人グループの人数は聞き出せなかったんだ? 」
「ええ。不特定、というパラメータの効果は、奴も弁えているようでして」
コリンズは表情を暗くして続けた。
「フォックス派であることは間違いないようです。口は割ってませんが、ポケットからフォックス・マルモンの写真が見つかりましたから」
そこでマズアは、涼子がさっきから落ち着きなく辺りをキョロキョロと見回していることに気付いた。
「どうされました、1課長? 」
涼子はそれに答えず、一点に視線を固定させると、まるで鼠を追い掛ける猫のように、パッと席を立ち、何かを抱えて戻ってきた。
ミーティングテーブルに置かれたのは、サンドイッチの入ったレーションと缶入りミルク・ティだった。
「1課長……。戴冠式前にサンドイッチ2人前食べてませんでした? 」
呆れてマズアが突っ込んでも、涼子は全く意に介さない。
「やだ美味しそう! 」
嬉しそうに包みを開ける姿は、まるでピクニックに来た幼稚園児のようだった。
「だってマズア、さっき私運動したでしょ? お腹減っちゃったんだもん。今日はこの先もまだまだ長いんだし、食べられる時に食べとくの! 艦隊マークの常識! 」
隣で普段は無愛想なスパイが可笑しそうに笑っているのが何故か苛立たしく感じられたが、そんなマズアの感情など無視してコリンズは説明を再開した。
「……取調べはそこでタイムアップでした。共同捜査に関して申し入れましたところ、先方も了承したので、これから自分がスコットランドヤードへ向かう予定です」
涼子はそこで、サッとレーションから顔を上げて尋ね返した。
「え? コリンズ、今からスコットランドヤードに行くの? 」
立ち上がりかけたコリンズが、不審げに眉を上げて問い返した。
「は。拙ずかったですか? 先方には私が行くまで取り調べを待てと言ったんですが」
「ううん、それはいいのよ」
涼子はにこりと笑顔を浮かべ、言葉を継いだ。
「それより、コリンズが出掛けるんだったら、貴方のレーション、余ってるんでしょ? 私食べるから頂戴! 」
思わず脱力するコリンズを見て、今度はマズアが大笑いする番だった。
ズッコケるスパイなんぞ、見たくてもそうそう見られるものじゃない。
”貴様の言う『目覚めの女神』がこれかね? ”
が、コリンズははっきりそうと判る笑みをスカルフェイスだった筈の顔に浮かべて、あろうことかレーションを涼子に渡していた。
負けた気がした。
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