第48話 9-2.


 車が武官事務所へ着く頃には、涼子の気分も漸く落ち着いていた。

 リザと銀環が、今日の予定をまるで口頭試問のように事細かく確認し続けてくれたお陰だ。

”ありがと。リザ、銀環”

 副官二人の優しい気遣いが、今の涼子には涙が出るほど嬉しく感じられた。

 まあ、けれど彼女等の行為は、今日という日を考えてみれば自身の不調に関わらず必要な行為であることには違いないのだけれど。

 実際、ロンドン・ウィーク初日の今日は、実は一番ハードでタイトなスケジュールが組まれている日でもある。

 早朝から、統幕本部長の英国首相官邸への表敬訪問に随行するのを手始めに、英国関係では正午からの戴冠式参列、ウエストミンスター寺院からバッキンガム宮殿へのロイヤルファミリーのパレード、夜の晩餐会が主な行事だが、この合間を縫って、戴冠式に参列する各国首脳との奉祝外交会談が山盛りなのだ。

 戴冠式だけで帰国する各国首脳も多く、その為外交会談はいきなり初日である今日がピークとなっている。

 もちろん全ての会談に統幕本部長が出席する訳ではなく、政務局長や国際部長、国際条約部長等部局長クラスで済む会談もあるのだが、欧州室長兼任の涼子は、欧州各国との会談は勿論、基本的には今回のホスト国が英国であるという事で、英国担当課長として全ての会談にタッチせざるを得ない。

 スケジュールの関係でどうしても物理的に無理な会談は、駐英武官のマズア二佐や同行している同じ欧州室のEU担当、11課長や国際条約部の3課長に応援は頼んであるものの、涼子としては大忙しの一日となるのは間違いない。

 涼子は臨時の欧州室長室に入って、両肩に階級章のついた肩章を装着して第一種軍装を甲軍装にレベルアップさせると、ホテルから持ってきた紙包みを抱えて、武官室の扉をコンコンコンとノックした。

 返事がないので涼子がそのまま扉を開いて室内を覗くと、マズアが眠そうな顔でどこかと電話していた。

 通話しながら起立し脱帽敬礼するマズアは、普段の彼らしくもなく無精髭は伸び放題、シャツの襟も脂汚れでうっすらと黒ずんでいる。

 武官デスク前のソファでは、電話の声などお構いなし、情報部のコリンズが大鼾でいぎたなく爆睡中であった。

「そう、うん……マックス総監には既にご了承頂いている……。うむ……、よろしく頼む、では」

 受話器を置くとマズアはフーッと長い吐息を零し、弱々しく涼子に微笑んだ。

「おはよう、マズア……。警備体制のやりくりでしょ? ご苦労様。悪いわね、私が役に立たなかったから……」

 マズアは改めて敬礼しながら答えた。

「おはようございます、課長。どうぞ、気にせんで下さい、任務ですから。課長こそ、昨夜のヒースローの一件もあってお疲れでしょう」

マズアは情報部の”腕利き”に顔を向けて苦笑する。

「コイツもついさっき戻ってきて、ソファに座った途端、このざまです」

 その間も、コリンズの鼾は規則的に部屋に鳴り響いている。

「で、警備体制の再配置は間に合った? さっきホテルで武官補佐官と出会ったけれど」

「ええ。取り敢えず、スコットランドヤードの警備部長経由でロンドン市警や近郊の地方都市警察へ総監名で応援要請を出してもらいました。今日明日の48時間、MAX700名のロンドン市内警備への増援投入が、90分後より開始予定です。各都市からの増員輸送は、昨夜の内にボールドウィン軍務局長から直接、ガトーウィックの第2輸送航空団へ命令を出して頂いて、2個輸送飛行隊HCH42Cチヌーク32機を回してもらいました」

 涼子は少し驚いた風に訊ね返す。

「え? じゃ、チヌークで直接ロンドン市内にヘリボーンするの? 少し派手じゃない? 」

「ま、ちょっと内務省とは揉めましたが、止むを得ず、で押し切りました。ああ、それと、コリンズが1001要撃航空隊の守備中隊と非番のパイロット、それに艦政本部に手を回してサザンプトン造艦基地の守備中隊を警急呼集して、こちらはもう配置につかせています」

 涼子は声を落とし、少し眉を曇らせて訊く。

「ねえ、マズア……。それってまさか……」

「御心配なく。全員スーツにハンドガン携帯にさせました。ま、中にはスーツ持ってない奴もいて、そいつらはカジュアルですが……」

 涼子はホッと胸を撫で下ろした。

「さすがマズア。ツボは心得てるわね。助かったわ」

 オランダ出身の謹厳実直を絵に描いたようなマズアは、少し照れた様にはにかんだ。

「それと、コリンズ二佐が手を回して、MI5とSASに話をつけてくれました。マンパワーでは少ないですが、そっちはカウンターテロのスペシャリストですから」

 確かに、心強い味方だ。だけれど、と涼子は吐息を零した。

「そっちはそっちで大助かりなんだけど、事後が大変そうねぇ。英国外交は5世紀前から転んでもタダでは起きないから」

 マズアも少し表情を曇らせて同意する。

「何らかの見返りは期待されているでしょうね。……実はさっき、エイブラム環境省事務次官から電話がありました」

「早いわね。夜間発着訓練の無期限停止と滑走路拡張に伴う移転補償交渉でのバーターか。あれは確か、今日の午後」

 マズアは端末をたたいて予定表を呼び出し読み上げる。

「ええ、パレード終了直後の1500時ヒトゴーマルマルから1530時ヒトゴーサンマルまで事務レベル協議、内務省総合庁舎2号館、条約3課のデシヨ課長が出られますな……。その間1課長は外相官邸で国際部長と条約部長のお伴です」

「それは外せないわね……。とにかく、ボスコフ条約部長とデシヨ3課長には私が事前に話します。出来たらマズア、悪いけどエイブラム次官に電話1本入れといて。私、今から統幕本部長のお伴で首相官邸ナンバーテンに表敬訪問なの。会談と記者会見終了後10分ほどナンバーテンでお会いしたいって」

「イエス、マム」

 マズアが環境省へ電話を始めたのをシオに、涼子はソファに身を任せて、なんとなく向かい側にいるコリンズの寝顔を眺めた。

「ふーん……」

 コリンズって、ほんとに腕っこきのエージェントなのかしら? 

 エージェントってば、つまりはスパイって事よね? 

 ……スパイって、こんなに大鼾かいて寝るものかしら? 案外、狸寝入りで私達の話きいてるのかも? 

 涼子はそっと立ち上がり、コリンズの隣りに移動して腰を下ろし、手を鼻や口の前にかざす。

 呼吸、鼾のリズム、テンポは一定を保ち、これっぽっちの乱れもない。

「ほんとに寝てるっぽいけど……」

 逆に、疑わしくなった。

 自然と手が持ち上がる。

 長い眉毛が、おじいちゃんみたいで可笑しかった。

 おじいちゃんみたなスパイ、ってなんとなく可愛い。

 そう思ってクスリと笑った次の瞬間には、無意識のうちに持ち上げた手が、眉毛に向かって一直線に近付きつつあった。

 指がむずむずする。

 耐えられなかった。

 ああ、でも。

 やっぱ駄目、と思った瞬間には、けれど涼子の指は眉毛をつまみ、ピッ! と引っ張っていた。

 今まで調子よくランニングを続けていた鼾に急制動がかかり、コリンズは「うごっ? 」という奇妙な声を上げて、目を開いた。


 泥のような眠り、とはこう言うことを言うのだろう、とコリンズは、その割には耳に届く涼子とマズアの会話を聞きながら、まどろみに身を任せていた。

 全然眠れてないじゃないか、と自分の鼾をBGMに、もう後5分だけ、と浅い眠りをむさぼる。

 今更飛び起きて、涼子に起き抜けの顔を見られたくない、というのが本音であることは、実は理解していた。

 と、突然、顔面に小さな刺激を感じた。

”なんだ? ”

 うっすら瞼を開けるとそこには、頬をほんのり染めて、悪戯がばれた小学生の様な幼い微笑みをたたえた涼子が、いた。

 自分の目の前、ほんの10cmほどのところに、まるで捥ぎたてのさくらんぼのようなふっくらと瑞々しい唇が輝いている。

「どわあっ! 」

 コリンズは、腕利きエージェントにあるまじき取り乱し方をしながら飛び起きて、私服であることも忘れて直立不動の姿勢で敬礼した。

「し、失礼いたしましたあっ! 」

 涼子はクスクス笑いながら、ラフに答礼する。

「ごめーん、コリンズ。あんまり見事な眉毛だったもんだから、つい。思わず引っ張っちゃった、えへ! 」

 そう言って、涼子は自分で自分の手をペチ、と叩いている。

 マズアが大笑いしているのを、コリンズは横目で睨みながら、ぐいっと手の甲で額の寝汗を拭って、おおきな吐息を吐く。

「室長代行、驚かせんでくださいよ、ああ、こんなに慌てて飛び起きたのは幹部学校の一号生徒ン時以来だ」

「あはははは、ごめんごめん」

 コロコロと子供のように笑う涼子の黒髪が室内に漸く差し込んできた冬の儚い朝陽で煌くのを見て、コリンズは一瞬、まだ自分は夢から醒めていないのではないか、と疑ってしまった。

「さ、二人ともこっちいらっしゃい! きっと徹夜だろうって思ったからさ、サンドイッチ、ホテルで作ってもらったの! 」

 涼子はソファに置いた紙袋の中身を取り出しテーブルの上に並べた。

「こりゃあ! ……1課長、ありがとうございます! 」

「いやあ、これは一番のご馳走ですよ! 遠慮なく頂きます! 」

 ソファに腰を下ろしたマズアが、言葉通り遠慮せずサンドイッチに手を伸ばすのを見て、コリンズは意味もなく不機嫌になってしまい、伸ばしかけた手が止まってしまう。

 と、その途端、マズアのデスクの電話が鳴った。

 立ちあがろうとするマズアを手で押さえて、涼子がさっとデスクへ走って受話器を上げた。

「はい、武官室……。ああ、私。……うん。……うん。……了解だよー」

 涼子は受話器を置いて帽子と荷物を左手に、右手にサンドイッチを三切れほど持って、2人を振り返り言った。

「本部長がもう出発するって言うから、私、もう行くね? ナンバーテン到着前に、マズア、携帯端末に連絡する。じゃね! 」

 起立して敬礼する暇もなく、涼子は軍人にあるまじき事に手をバイバイと振りながら部屋を出て行った。

 唖然と涼子を見送っていた2人は、どちらともなく顔を見合わせ、黙ってサンドイッチの残りを食べ始めた。

 涼子がいるうちに一口でも食べておけば、もっと美味い朝食になっただろうに、と、コリンズはまるで子供のような後悔を胸に抱き、途端にパサパサで味気なく感じられるようになったサンドイッチを咀嚼する。

「しかし、不思議な女性だな」

 誰に言うともなく呟いたマズアの言葉に、コリンズは深く大きく頷き、冷めた紅茶で口の中のものを胃へ流し込んでから、口を開いた。

「なあ、アーネスト……。目が醒めた時、室長代行が……、あの女性ひとがいたんだよ。こう、10cm程の至近距離に、だ。その時の気持ちが、貴様に理解できるか? 」

 マズアは、一瞬フリーズしたように咀嚼を中断し、無言で見つめ返してきた。

 蒼い目が、先を続けろと促しているように感じた。

「俺はな……。情報部に勤務してこのかた……。そりゃあ、汚れ仕事も沢山したさ。最近でこそ、現場に出てヤバイ目にあう事も少なくなったが、1日として、その”心地よい目覚め”って奴を、味わった事がなかった。……寝首をかかれるんじゃないか、気付けば拘束されてるんじゃないか、枕元に刺客がいないか。……なんて、ね」

 そして、ゆっくりと視線を手に持ったサンドイッチに据えて、呟いた。

「しかし、今朝は違った。……目を覚ますと『女神』が立ってるんだ。まだ夢を見てるんじゃないか、そう思った」

 目の前で微笑む女神は、まるで今日からの自分を祝福してくれているかのように、優しく、みつめてくれていた。

 さすがにその感慨をそのまま言葉にするのはどうにも照れ臭く、コリンズは、結論だけを漸く口にする。

「俺は……。俺はたぶん、今日の目覚めの景色を、死ぬまで忘れない、と思う」

 言うだけ言って、コリンズは手に持ったサンドイッチにかぶりつく。

 さっきよりも美味く感じた。

 マズアが無言のまま、次のサンドイッチに手を伸ばしているのが、有難かった。


 武官室を出た涼子は、通り掛かった艦士長に声をかけた。

「あ、本部長達はどこ? 」

「統幕本部長でしたら、第2会議室にいらっしゃいます」

「他には誰がいるの? 」

「軍務局長、政務局長、国際部長と、後副官の方々とご一緒に」

「ふーん……」

 そんな情報はどうでもいい~失礼だけど~。

 涼子は少し声を落として遠慮がちに訊ねる。

「ねね、艦隊の連中は? 軍務部長もまだいる? 」

「つい先程、軍務部長と副官は艦隊サザンプトンへ帰られました。0900時マルキューマルマルより最後のブリーフィングがあるから、とか」

”ちぇ、艦長、もう行っちゃったのか……。てことは、明日の観艦式まで逢えないのね”

 爪の先程度の期待だったが、裏切られたショックは予想以上に大きかった。

 もちろん、昨夜から数時間を経た今朝、1分でも、1秒でも長く寄り添っていたいという思いは嘘ではないし、初めて出逢ってから今日まで、何年も逢えない日が続いた期間だって何度もある。

 その都度、苦しかったけれど何とか自分を誤魔化して、ギリギリのところでやり過ごす術さえ獲得してきた筈なのだ。

 だが、一度知ってしまった蜜の味は、知ってしまったからこそ簡単に忘れられなくなるもので、だからと言って知らなければ良かったなどと罰当たりな考えを持つ事など微塵もなく、しかし、耐え難い寂寥感に身を苛まれるのも仕方のないこと、自分の我侭であることも頭では理解することが出来ている筈だった。

 だが。

 今朝、ホテルのロビーで感じた、あの破滅を予感させる恐怖感が、覚悟していた以上に気分を落ち込ませているのだ、涼子にはそう感じられた。

 誰かは判らない、その視線の主が放つ邪悪さに対する恐怖はもちろんあったが、それよりも、涼子は自分の心の奥底に潜む、一生知りたくない『何か』が、無理矢理白日の下に曝されそうな気がして、そしてそれを自覚した~思い出さされる、と言い直した方がより適切だろうか? ~途端、自分は二度と陽の当たる場所へ浮上することも出来ず、死よりも残酷な地獄へと引き摺り込まれる、そんな恐怖感がじわじわと身体を、心を犯していき、ついには石動涼子という存在自体が消え去ってしまいそうな。

 涼子はだから、彼にいてもらいたかった。

 今、彼の顔を見る事さえできれば、どれほど、気分が軽くなることだろう。

「あー、ダメダメッ! こんなんじゃ、艦長に怒られちゃう! 私がもっとしっかりしないと! 」

 涼子はペチッ! と両手で自分の頬を叩いて気合いを入れ直し、いつの間にか辿り着いていた第2会議室のドアをノックした。


 UNDASNの旗を立てたロールスロイスを先頭に、ジャガーやローバーの車列がスコットランドヤードのパトカーや白バイに先導されてウエストミンスター橋を渡って行く。

 昔は、このテムズ河沿いに、大きな観覧車やオリンピックメイン会場が建っていたらしいが、今は高層ビル群が無機的なシルエットを朝日に輝かせているだけで、そんな事は想像もできない。

橋のむこう、左手に国会議事堂のビッグ・ベンがその存在を主張している。右手には、外務省、その裏がダウニング街10番地、いわゆる”ナンバーテン”と呼ばれる首相官邸だ。

 ホワイトホールと呼ばれるこの官庁街には、パトカーや装甲車が駐車しており、特に警備は厳重だった。

”事前に襲撃が判っているっていうのも、違う意味で疲れるわね……”

 統幕本部長付後任秘書官で、UNから出向して三等艦佐の階級を与えられているミリア・メイリーは、車内で打ち合わせ中の涼子とマクラガンの会話を聞きながら、視線を窓の外に移し、そっと小さく吐息を零した。

 統幕本部長が『シャバ』へ出掛ける事は然程多くはない。が、反UN、UNDASN陣営からはトップクラスの賞金首とされている我が上官の外出は、常に神経が焼き切れるかと思う程の緊張を強いられる。ましてや今回は事前に犯行計画が明らかになっている上、昨夜のような襲撃が実際あったばかりだ。自分の命も含めて不安が募り、遂に昨夜は一睡も出来なかった。

 その点、この道中は、午後のパレードのルートにもあたっており、既に警官隊が交通規制や警備を始めている為、少しは安心できる。

 本当ならば、駐英武官事務所からキャビネット・オフィスまでは車で10分とかからない。それ以前に、ウエストミンスター橋を渡る必要もない。どちらもテムズ河の”こちら側”だ。

 それを、少しでもリスク・ヘッジしよう、その為には既に警備配置完了済のパレード予定ルートを通るのが一番と主張し、実行したのは目の前に座る涼子だった。

 メイリーは涼子の顔くらいそれは知っているが、あまり会話を交わしたことはない。

 ただ、上官であるマクラガンが、普段は無口な癖に、たまに口を開くと涼子の話題が比較的多い事には、以前から気付いていた。

”確かに物凄い美人だし、頭も切れそう、なんだけど……”

 なにがそんなに気に入っているのかしら、まさかビジュアルなんてミーハーな理由じゃないだろうし、などと不思議の念に捕らわれつつ、メイリーは視線を涼子の端正な顔に移した。

 ハッティエン政務局長と小声で打合せをしていた涼子が、可愛らしい笑顔をマクラガンに向けた。

「では、統幕本部長。ブラウン首相との会談、記者会見の後は、コルシチョフ国際部長と御一緒に、キャビネットオフィス向いの外務省で中国の斉首相と0830時マルハチサンマルから0850時マルハチゴーマルまで、航本の推進機研究設備のハルビン地区誘致交渉へ御出席下さい。内容についてはコルシチョフ部長が把握されております」

 マクラガンは鷹揚にゆったりと頷いて聞いている。

 傍から見ていると、『ほんとに解ってんの? 』と首を捻りたくなるのだが、彼に限ってその手のミスはこれまで皆無であり、その意味からもメイリー達秘書官、副官から、彼は歓迎されていたし、それは他のオフィサーからも同様らしかった。

「申し訳ありませんが、私の方はエイブラム環境省事務次官とのミーティングがブレイクしましたので、そちらは代わりにマズア駐英武官がお伴致します。あ、ハッティエン政務局長は環境省でキャラハン環境大臣とサザンプトン造艦基地周辺地区整備事業補助プロトコルの調印式をお願いします。こちらは0930時マルキューサンマルからですので私が先行案件終了次第追いかけます。先程お話したバーター取引を持ち出される可能性もありますが、その際は私が参りますまで話を進展させませんように」

 ハッティエンは自分の携帯端末画面に視線を落としながら、涼子の話にふんふんと首肯していた。

 あの『ファイティング・ブル』が、とメイリーは内心驚く。

 ハッティエンの猛将ぶりを表わす二つ名は、メイリーのような出向者~実際はシビリアンだ~でさえ知るところで、幕僚勤務になってからもその性質は変わらず、部下の報告に一点でも辻褄の合わないところを発見すれば、たちどころに噛み付き、相手を撃沈してしまうと恐れられている、所謂”うるさ型”なのだが、しかし涼子の前では、まるで別人格の様におとなしくなる、とは専らの評判で、彼女は今、まさにその噂が真実である事を目の当たりにしたのだ。

 今、代将アドミラルとはいえ所詮一佐でしかない課長の口から”私が行くまで余計なことを話すな”という、正当な理由があるにせよ、失礼な言葉を吐かれた『ブルドッグ』が、イヤな顔ひとつ見せず「了解アイ」と答えているのが、メイリーには信じられない光景だった。

 と、次の瞬間、メイリーはそれ以上に『衝撃的で信じられない』光景を見て愕然とした。

「ふむ」

 一旦言葉を区切った涼子が、チラとハッティエンの表情を見る。

 刹那、涼子は俯き加減のハッティエンの顔を下から覗き込む様にして顔を近付けたのだ。

「局長、ほんとにほんとですね? 約束ですよ! 」

 口調はどうあれ、まるで母親が子供を叱りつける様な光景だった。

”なっ、なんて怖ろしいことをっ、1課長! ”

 メイリーは思わず怒鳴りそうになるのを寸でのところで堪え、両手で口を覆う。

が、メイリーの予想~ブルドッグの堪忍袋が破裂して、涼子に怒鳴り返す~は、大きく裏切られた。

 厳しい表情のブルドッグが、なんと、笑ったのだ。

 そして、小指を1本だけ立てて、涼子に突き出した。

「わかっとる、くどいぞ石動! なんなら、指切り、するか? 」

涼子は、子供のような澄んだ、極上の笑顔を見せて、政務局長の手を押し返した。

「はいはい、わかりました! 指切りしても局長、すぐに破るし、全然お詫びのご馳走もしてくんないんだもん、もう良いです! 」

 そう言って、プッと膨れてみせる涼子の表情を、同乗している統幕本部長や軍務局長までが、笑いながら眺めている。

 ボールドウィンなどはこうも言った。

「なんだフリードリヒ、貴様駄目だよ、ちゃんとご馳走してやらんと。私は彼女からご馳走できないなら針千本呑めと迫られて、結局インターコンチネンタルのメインダイニングでフルコースのディナーをご馳走したぞ」

 マクラガンも、普段執務室ではけっして見せないような、柔らかい笑顔を浮かべ、ゆったりとした口調で混ぜ返す。

「石動君、日本も世界に冠たる経済技術大国なんだから、そろそろそんな野蛮な風習はやめんといかんぞ」

涼子は思わず指を伸ばしてしまいそうになるツヤツヤの唇を突き出して見せる。

「まあ、本部長まで! あれは美しい日本の伝統なの! ……ほらほら、軍務局長もいつまでも笑ってないで! 次はほら、ボールドウィン局長の番ですよ! 」

 涼子は矛先をボールドウィンに向けた。

 車内に響く笑い声を聞きながら、メイリーは考えていた。

”確かに仕事は出来る。政務畑の至宝とまで言われるのは良く解るわ。国連事務総長もお気に入りだと言うし。……だけど”

 本当の涼子の魅力は、そんな表面的な能力の問題じゃないんだ、そう思った。

 彼女の中に、無垢な幼児みたいな純粋さと無邪気さが、カミソリのような切れ味の理性と知性、成熟した女性が持つ懐深い優しさと気遣いと言った『大人の職業人』らしさと、絶妙なバランスで自然に共存しているのだ、そう、まるで奇跡のように。

 涼子と面識のない人が聞くとまるで、多重人格かと勘違いしてしまいそうな、ごった煮みたいな人間性が、常に周囲の人々を驚かせ、楽しませ、そして知らないうちに虜にしてしまう。

 知らぬうちに表情が和らぎ、まるで母親が子供を見るような優しい視線を送るようになっていることにメイリーが気付いたのは、首相官邸ナンバーテンに到着後、別の車で先に到着していた同僚の軍務局長付秘書官に「どうしたの? なにか楽しいことでもあったの? 」と耳打ちされてからだった。

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