9.襲撃
第47話 9-1.
「姫、おはようございます。ごゆっくりやすまれましたか? 」
女官長の声に、暫くマヤは何も答えず瞼を閉じてじっとしていたが、おもむろに上半身を起こして、抜けるような笑顔を見せて大きな声で答えた。
「おはよう、ばあや! 今日は良い天気のようね」
ばあやと呼ばれた女官長は、いつもは寝起きが悪いマヤに梃子摺らされっぱなしなのだが、異例とも言えるハイテンションに驚愕の表情を隠そうともしなかった。
老眼鏡の奥でしばたいていた瞳が彼女の驚きを表している。
だが、それも直ぐに、優しい微笑みに変わった。
「まあまあ、姫、今日はことほどにご機嫌でいらっしゃいますこと、ホホホ……。それほどに今日の戴冠式がお楽しみでございますか? 」
彼女が都合の良いほうに勘違いしてくれたことに、マヤはそのまま乗っかることにする。
「ん……、まあね。それよりばあや、私お腹が減って仕方ないの。朝食は? 」
「まあ、姫。それでお目覚めがいつもよりも……。はい、すぐに支度させますので、暫くお待ち下さいませ」
笑いながら部屋を出ていくばあやを見送りながら、マヤは気合いを入れてベッドから降り立ち、窓にかかったカーテンを勢い良く開け放った。
ロンドンの冬の空は、普段と違いどこまでも高く、青く澄み渡っている。
まさに、戴冠式に相応しい日和だ。
「よし! 今日からが勝負よ! 戴冠式やパレードは無理としても……。そう! 宮殿での晩餐会が最初のチャンスだわ。ダメでも、涼子様のホテルだってちゃんと判ってるし」
一晩眠って、結局はいつもの自己中心的な結論に落ち着いてしまった自分に、少しばかりの自己嫌悪を抱いてはいるけれど。
でも、もう、心は決壊寸前だ。
愛しい女性を、4年ぶりにこの肉眼で視認したのだから。
こうなったら、甘えて、甘えて、甘えまくる。
その上で、もしも涼子が哀しみ、傷ついたら。
己の全てを、人生を賭けても、一生かけて涼子を癒して見せるから。
だから。
「涼子様……。マヤに、マヤにもう一度、チャンスを……」
マヤはぐっと拳を握り締め、空を仰いだ。
「室長代行、おはようございます」
ドアを開けて、涼子は小首を傾けた。
「おはよう、リザ。……だけど、なんで
ロンドン滞在中、ホテルの部屋まで迎えに来るのは、先任副官のリザの仕事だ。
銀環とは、出来る限りシャバでは一緒に行動しなくても済む様、そう指示している筈。
「おはようございます、室長代行。昨夜はちゃんと睡眠を取られましたか? 」
銀環はしかし、普段と変わらぬ幼さの残る笑顔を浮かべて立っている。隣に立つリザの方が、気まずそうだ。
「うん、おはよう、銀環。お蔭様でゆっくり眠れたよー。いい夢も見たし、ね」
思わず涼子は笑ってしまう。
今日まで、何度となく、数え切れないほど、彼の夢を見た。
楽しい、切ない、哀しい、怖い、苦しくなる、様々な。
だけど、昨夜の夢は、今まで見たどの夢とも違う。
昨日の彼との間に流れた心と心の交わりが、別れ際に彼が触れた髪が、手が、そして唇が、喜びに打ち震える魂が、見させてくれた夢。
今日から夢ではなくなる、現実への期待と歓喜が見させてくれた夢。
「室長代行? 」
「ふぇ? 」
リザの遠慮がちな声に涼子は現実に引き戻される。
「な、なにかな? 」
リザは少し硬い声で答えた。
「お仕度はお済みですか? 」
「あ、ああ、うん。出来てる」
涼子は踵を返して、テーブルの上の制帽とアタッシュを持ち上げた。
「本日は晩餐会までは第一種甲軍装、晩餐会では零種となっていますが」
涼子は自分が今着ている
「うん。肩章と
「アイマム。では参りましょう」
そう言って踵を返し、ドアの前に立っていたSP2名を促して歩き始めたリザが怒っているように思えて、涼子は銀環に囁いた。
「ねえねえ、銀環。リザ、怒ってる? 」
銀環は一瞬、呆れたような表情を浮かべ、すぐに苦笑に切り替えた。
「アイマム。ちなみに、私も怒ってます」
「え? な、なんで? ちゃんと、車の中でも仕事したよ? 私」
「それは当たり前です」
「むぅ」
唇を尖らせた途端、廊下の向こうでリザの声がした。
「室長代行? 」
「はぁーい! 」
銀環はひとつ、小さく溜息を吐いて、手をエレベーターホールの方へ差し伸べた。
「嘘ですよ、室長代行。自分も先任も怒ってません。さあ」
やっぱり怒ってるなと思いつつもその理由に思い至らぬまま、涼子が歩き始めると、後ろでボソリと呟く銀環の声がした。
「もう……。ニブチン」
一層、判らなくなった。
「昨夜は何も変わったことはなかったか? 」
エレベーターホールでリザはSPに質問を投げ掛けた。
「は。特に何事もなく」
身長2mはあろうかという男性一曹が答える。
「不審な人物とか? 」
「いえ、1課長が部屋に入られてからは、ホテル従業員が延べ5名、部屋の前を通過しただけで、これと言って」
二曹の女性SPの答えに、リザは小さく吐息を吐いた。
「
「ごめんね、リザ」
涼子が現れてすぐに、エレベーター到着のベルが鳴る。
男性SPがドアの前に立ち塞がり、女性SPが涼子の前に立つ。
ドアが開き、たまたま無人だったケージ内を男性SPと一緒に安全確認をして、リザは振り返った。
「クリアです。どうぞ」
「大袈裟ねぇ」
涼子は苦笑を浮かべてケージ内に身を入れた。
「昨日までは普通だったのに、今朝は急にどうしたの? 」
リザは、極力涼子の方を見ないように、ドアの上の階数表示板に視線を集中させる。
「昨夜のようなことがあったばかりですから」
瞳を見てしまうと、とても嘘を吐き通せなくなるから。
「もう、今夜から必要ないよ、私」
拗ねた様な声が可愛らしくて、思わず頬が緩む。
「しかし」
「めーれー、だもん」
”鼻血、出そう”
思わず掌で鼻と口を押さえ、リザはしかし心を鬼にする。
「いけません。失礼ながらその命令は受領致しかねます。軍務部長命令ですから」
「ふぇ? 」
そうなのふーん艦長がねぇそっかそーなんだとブツブツ口の中で呟く涼子の声が嬉しそうで、思わずリザは耳を塞ぎたくなった。
と、その刹那。
甘い香りが鼻をつき、耳朶を擽るアルトの懐かしい囁きにハッと我に返った。
「ねえ、なんで銀環を連れてきたの? 危ないから駄目だって言ったじゃない」
思わず声のする方を振り返ると、そこには桜色のふっくらとした、まるでデザートの果物のような瑞々しい唇を不服そうに突き出している涼子の顔があった。
真っ赤になっているであろう顔を見られないように、リザは視線を慌てて涼子から外し、ドア正面に立っている銀環に聞こえないよう小声で答えた。
「室長代行のお気持ちは嬉しいのですが、B副官も昨夜の事件に心を痛めております。察してやって下さい」
むぅ、と不満げに呻く声に続いて、溜息交じりの返事があった。
「うん。判った。でも、リザ? 銀環もちゃんと気をつけてあげてね? あ、もちろん貴女も気をつけるのよ? 」
ありがとうございますと答えようとした途端にロビー到着を告げる電子音が鳴って、リザは無言で頷くだけに留める。
SPの安全確認の後、涼子をケージから出して、リザは彼女のキラキラと輝く黒髪を見つめて胸のうちで呟いた。
”こんなに素敵なひとを……、私……”
守ってみせる、と続けたかったのか、誰にも渡したくしない、と続けたかったのか。
自分でも判らなくなった。
男性SPと一緒に先にケージから降りて安全確認を行った後、銀環は背伸びしてエントランスの方を見渡したが、車寄せにはUNDASNの旗をたてたローバー4WDが停車しているだけで、事務所から一緒に来たヒギンズの姿が見えない。
”フロントの方かな? ”
奥にあるフロントを見ようとした瞬間、早朝五時半と言うのにまるでラッシュ時のメトロのように混雑していて騒々しかったロビーが、急に静まり返った。
原因は直ぐに判った。
エレベーターホールから、女性SPに先導され、リザを付き随えた涼子が登場したせいだ。
それは、SPに護衛されたUNDASNの高級軍人がものものしく登場したから、というよりも、その高級軍人が絶世の美女であり、しかもその美女こそが、アンダーグラウンド、イエロージャーナリズムを中心にして、今や全世界の流行の最先端である『キャプテン・リョーコ・イスルギ』本人である、その事実の方が重要なポイントである事は、昨夜小野寺から詳細を聞かされた銀環には即座に理解できた。
「こうして見ると、今まで……」
どれだけ無防備だったのかと、今更ながら空恐ろしくなる。
しかも、もっと恐ろしい事実は。
このロビー内にいる数百名の中で、涼子だけがその事実を、全く理解していないことだった。
「銀環ー」
涼子が大輪の薔薇が開いたような鮮やかな笑顔で、能天気に手を振っていることでもよく判る。
”もう! 涼子様、ホントにニブチン! ”
そのこの世のものとは思えぬほど艶やかな笑顔が、どれほどの人々を魅了し、それに比例してどんどん危険度を高めているのかが判っていないのか、とイライラしながら、銀環は早足で涼子達に近寄った。
「申し訳ありません、室長代行。スタックヒル補佐官の姿が見えませんでしたもので」
「ん? ヒギンズも一緒だったの? 」
小首を傾げる上官の愛らしい姿にクラクラしながらも、銀環は答えた。
「は。警備体制の変更の件と、本
「ふーん。SP、応援呼んだの」
「は。昨夜、マズア武官がスコットランドヤードと緊急打ち合わせをした結果、後2個分隊程を投入する事になったと聞き及んでおります」
背後からリザが補足する。
「そうね。……ダルタンとか、負傷者も出たしね」
涼子は独り言のように呟いて、ふんふんと首を縦に振っていたが、やがて銀環に顔をそっと近付けてきた。
「わっ、わっ! な、なななんですかっ? 」
「やだ銀環ったら失礼ねー」
一旦顔を離してむぅ、と唇を突き出して見せ、涼子は再び顔を耳元へ寄せた。
「ねえ、なんか変な雰囲気だと思わない? 」
いくら涼子が『ニブチン』だとは言え、周囲の人々の遠慮ない視線の集中砲火には流石に耐え切れなかったようだ。
ここは小野寺の言葉通り、銀環はすっとぼけることにした。
「そうですね……。きっと、ロンドン市内の高級ホテルでUNDASN士官を見るのが、珍しいんじゃないですか? 」
「そっかな……。昨日まではあんまり気にならなかったんだけどな……」
ぐ、と言葉に詰まっていると、リザが助け舟を出してくれた。
「昨日までは、室長代行の出勤時刻にロビーにこれほど宿泊客が多くいることはありませんでしたから」
「そっ、そうですよ! さすが戴冠式当日、みんな、パレード見物の場所取りで早起きなんですねぇ、うん! 」
リザの言葉に慌てて乗っかった銀環の表情を涼子は暫くじっと見ていたが、やがて不審げな表情はそのままに、口をゆっくりと開いた。
”わ! こ、こんな時だけ勘が鋭い! ”
どうしようと思った刹那、違う方向から2隻目の助け舟が現れた。
「おはようございます、1課長」
ヒギンズがフロントの方から戻って来て、敬礼していた。
「あ、ヒギンズ、おはよー。早くからご苦労様ね」
涼子は、まるで頭痛を感じて額を手で押さえるような、ラフな艦隊式答礼をひょいとして、ニコッと微笑んだ。
”ほっ”
助かった、と銀環が内心で胸を撫で下ろしていると、ヒギンズがフロントを振り返りながらぼやきはじめた。
「いや、困りました。ロンドン市内のホテルでダブルブッキングが多発しているらしくって、こっちが確保しておいたセイフティゾーンを兼ねた予備客室まで一般宿泊客を入れちまってるみたいなんですよ。その上警備体制の変更や増員でもう……」
「まあ、そうよねえ。各ホテルは稼ぎ時だし、こんな全世界レベルでの奉祝イベントも久し振りだから、観光客も多いだろうし」
涼子は苦笑を浮かべてヒギンズの肩をポンポンと叩いた。
「ごめんね、ヒギンズ。私が昨晩、あんまり役に立たなかったからね」
「と、とんでもありません! 」
ヒギンズは焦った様子で両手を顔の前で振り回す。
「ロンドン・ウィークの実施体制をここまで引っ張ってこられたのは1課長、貴女なんですから。それに較べたらこの程度は苦労でもなんでもありません」
涼子は鈴の鳴る様な声でコロコロと笑う。
「そんな誉めてもなんにも出ないわよ、ヒギンズ」
「いや、別にそんなつもりなんて」
照れたように顔を赤くして頭を掻いているヒギンズを見て、銀環は密かに溜息を吐く。
”ああ、ここにも涼子様ファンが一人……”
「あ、じ、自分はもう少しホテル側との打ち合わせがありますので、室長代行は先に事務所へお入り下さい。自分は後からタクシーで戻りますから」
ヒギンズはそう言うと、赤い顔のまま敬礼し、涼子の答礼を待つのももどかしそうに小走りでフロントへと戻っていった。
”補佐官って案外、純情なんだな……”
ヒギンズの赤い顔と慌て振り、それと銀環自身がこれまで持っていたパイロットのイメージ~ヒギンズは戦闘機乗りだったそうだ、どうもファイターパイロットというのは、銀環には一匹狼の遊び人で宵越しの銭は持たない、というイメージが強かった~が上手く合致せずに、ぼんやりと人混みに紛れて行くドレスブルーの後姿を見送っていると、リザの声が聞こえた。
「では、参りましょう、室長代行」
「うん。じゃ、行こっか」
子供のようにこくんと頷いて涼子は踵を返した。
銀環も涼子の背後について歩き出す。
と、数歩も行かずに、涼子の脚がピタッ、と止まった。
「! 」
同時に、喉の奥から搾り出されたような、声にならない悲鳴が聞こえたように思った。
「し」
室長代行? と声をかけようとした瞬間、涼子がいきなり振り向いた。
「え」
蒼白な、とはこういう顔を言うのだろうか、と銀環は思った。
普段から、白くて肌理細やかな、美しい陶磁器のような肌だとは思っていたが、今の涼子の白さは、全く異質のものだ、そう思って恐怖した。
銀河を詰め込んだような黒く大きな煌く瞳は、不安げにゆらゆらと揺れていて、そこに映っているのは自分の顔の筈なのに、涼子は今自分を見ていない事は瞭然だった。
長い睫が小刻みに震えているな、とぼんやりそう思い、すぐに涼子の身体全体が揺れているのだと気づいた時には、銀環の両手は彼女の儚ささえ感じさせる薄い肩を掴んでいた。
「どうされました、室長代行? 」
先を歩いていたリザが、異変に気付き、これまた蒼白な表情を浮かべて駆け戻って来る。
「誰? ……誰かな? 」
掠れる声でそう言った涼子の第一声は意味が判らなかったけれど、不安げに、恐ろしげに周囲を見回しながら続けた言葉で、漸く銀環は、涼子の恐怖の対象が判った気がした。
「さっきの……、ロビー中の数百の好奇の視線とは違う。……身体を嘗め回すような、肌にまとわりつくような、悪意しか感じられないような、異質な視線が……」
思わずゾクッと鳥肌が立った。
銀環は涼子の肩を掴んだ手を放さずに、素早く周囲に視線を投げる。
慌てて顔を逸らすもの。
お構いなく注視し続けるもの。
何が起きたのかと連れ合いと低い声で無責任な会話を交わすもの。
反応は様々だったが、その誰もが涼子の恐怖の対象ではないように思えた。
いきなり身体に軽い衝撃を覚える。
驚いて見ると、涼子が両腕を銀環の首に巻きつけて、顔を肩に押し付けてきた。
「怖いよ……。ヤだよ……。まるで、裸にされて道の真ん中に放り出されたみたいだ……」
湿った声が耳に届き、銀環は両腕を涼子の背中に回す。
「大丈夫、大丈夫です。涼子様、私が付いてます」
胸に感じる、涼子の柔らかで豊かな双丘が激しく上下している。
「心の底に沈めておいた何かを……、無理矢理引きずり出そうとしているみたいな……、凶暴な、無神経でいやらしい……」
「室長代行、大丈夫です。自分も、B副官も付いてます。さあ、お車へ」
リザが、涼子の耳元で、強い口調で言う。
「死んじゃう……。涼子、死んじゃう……」
「大丈夫! さあ、室長代行」
銀環は涼子の身体を抱えるようにして、歩き始める。
リザとSPも手伝い、ローバーのリアシートへ涼子の身体を投げ込むようして乗せ、銀環は叫んだ。
「陸士長、出せ! 早く! 」
走り出してすぐ、涼子は少しだけ血の気の戻った顔に、弱々しい笑みを浮かべて、両脇のリザと銀環に言った。
「ごめんね。大丈夫。もう、大丈夫だから」
「お疲れなんですよ、室長代行」
「そうね。そうだね。……うん。きっとそうだ。朝ご飯食べたら、きっと大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるような涼子の声を聞きながら、銀環はそっと振り返って遠ざかるホテルを見る。
気のせいなんかじゃ、ない。
涼子を抱えて車に急ぐうちに、銀環にも感じられた。
涼子をここまで恐怖させる視線が、ずっと追って来ていることを。
車が発進した瞬間ですら、その『闇からの視線』は、露骨にニヤリと悪意を煮固めたような笑みを添えて、じっとこちらを見ていたことを。
恐怖は、伝染する。
自分とて、これまで何年も実施部隊で戦いに身を投じてきた、だから、それは銀環にとっては己を納得させ易い理屈だ。
だから今も感じるこの感覚は、涼子の正体不明の恐怖が伝染しただけなのかも知れない。
けれど。
けれど銀環には、けっしてそれが単なる錯覚ではないことが、そして何れはそれが涼子に手を伸ばしてくるだろうことは、避け難い規定事項のように感じられてならなかった。
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