第46話 8-5.


「うっふふーん」

 シャワーを終えて、いつものパジャマ~パリの日本人街で買ったお気に入りのマンボウさん柄のパジャマだ、もう7年は着続けている~に着替えた涼子は、鼻歌交じりにベッドへ倒れこんだ。

「艦長……」

 ホテルの素っ気無い天井に、小野寺の顔が浮かぶ。

「大好き……、だよ」

 声に出した途端、シャワーで火照ったのとはまた別の、熱い何かが身体中に拡がっていくのを感じる。

 言霊って……、あるんだね。

 しみじみ、思う。この溢れ出す熱い何かは、きっと彼への愛、なのだろう、と。

 見守っている、守ってやるからと背中を彼に押され、恐々と踏み出した一歩は、やっぱり痛くて、怖くて。

 それでも、震える身体を自分で抱き締め、きっと艦長が見ていてくれる、そのうちきっと艦長の隣に並ぶことが出来る、それだけを信じ、留まらず歩き続けて。

 伸ばした手は、時には届かないようにも思えて涙した夜もあったけれど、しかし。

 遂に、今夜。

 精一杯、伸ばし続けた手は、彼の手を、心を掴んだ。

 いや、彼が手を差し伸べてくれたのだ。

 震える私の手に。

 こんなに嬉しいことはない。

 溢れる想いが届かないなら、この熱い気持ちは一体、何処へ行くのだろうと、唇を噛み締めながら天を呪った日もあったけれど。

 そんな、我侭で嗚咽を堪えるしか能のなかった唇を、彼は自分の唇でそっと、癒してくれたのだ。

 よく頑張った、とでも言うように。

 無意識のうちに、指で自分の唇を触っていた。

 すると、柔らかい感触が、彼の好きな煙草の匂いとともに不意に甦ってきて、涼子は嬉しさと恥ずかしさの余り、シーツを引っ張って顔を隠す。

「ふにゃぁ……。うふっ。えへ。にゃぁああぁ」

 もし第三者がいれば、ただのカワイソウなオバチャンに見えるだろうなと自分で自分に呆れながらも、涼子は緩む頬になんとか気合を入れようとして、シーツの上からぱんぱんと顔を叩いた。

「……い、痛いよぉ」

 いい加減なところでやめておけばよかった、と自分の馬鹿さ加減を責めながらも、きっと今も私、ゆるゆるのだらしない顔してるんだろうなぁと、涼子はシーツを捲り、上半身を起こした。

「寝よ」

 早く寝て、いい夢みるんだ。もちろん艦長の夢。

 涼子はブツブツ呟きながら、サイドボードに置いたアタッシュを開いて、小さなフォトフレームを取り出す。

 中には、三尉任官時の配置そつはい、つまり彼と出逢った軽巡五十鈴の後部上甲板で彼と撮った、たった一枚のツーショット写真。

 まだ二十歳はたちにもなっていない、自分でも若々しいと思える自分と、既に二佐で艦長だった口をへの字にした彼が、そこにいた。

 無愛想を絵に描いたような彼から、好きだといってもらえる日が来るとは、確かに望んではいたけれど、まさか本当に夢が叶う日が来るとは。

「おやすみなさい、艦長」

 涼子は呟くと、唇をそっと写真に寄せる。

 この写真を手に入れてから、それはずっと今まで続く、涼子の就寝前の習慣だった。

 前線と幕僚部を往き来する忙しない身で、出来るだけ家財道具は少なくしてきた涼子だったが、この彼との写真と両親と撮った中学入学式の写真、それと孤児になった涼子を引き取ってくれた伯母と 従姉の写真だけは、常に持ち歩いてきた。

「お父さん、お母さん。……私、恋人、出来ちゃったよ? ……伯母さんも、お姉ちゃんも聞いて? いいでしょう? 素敵なひとなんだよ? 」

 涼子は枕元に、これもまたいつも通り三つのフォトフレームを立てた。

「おやすみなさい」

 灯りを消そうとして伸ばした手が、ふと、止まる。

「そうだ! 」

 涼子は一度は閉じたアタッシュを開き、中から封筒を取り出した。

 小野寺に貰った、コンサートのチケット。

「枕の下に敷いて寝よっと」

 きっと、いい夢を見られるだろうから。

 きっと、今夜からは淋しくて枕を濡らすこともないだろうから。

 きっと、きっと、明日からは。

 幸せなことしか、私の人生にはないのだろうから。

「おやすみなさい、艦長」

 涼子はもう一度、呟くと、今度こそ部屋の灯りを落とした。


「やれやれ」

 小野寺は、シャワーを浴びて備品のジャージを寝巻き代わりに着て、ベッドに腰掛けて煙草に火をつけ、呟いた。

 予定ではサザンプトンの艦隊へ戻るつもりだったのだが、デコイとして出発する前に、B副官ともども武官事務所8階の宿泊施設の利用を申し込んでおいたのは正解だった。

 予想以上に疲れていた。

 普段でも寝付きはいい方だと自分でも思っていたが、今夜はベッドに倒れ込んだ瞬間に意識がなくなると思っていた。

 が、眠れそうにはなかった。

 やはり。

 ”不惑”と世間では呼ばれる年代となり、一回りも若い女性にこれほど惑わされてしまうとは、まさに不覚。

 ……いや、嘘だ。

 年甲斐もなく、という言葉が色褪せるほどに俺は、ヒューストンで再会した涼子に、身体中の血が沸騰してしまうほど高まる感情を覚えてしまった。

 何が切欠だったか、未だに判らない。

「判らなくても、当然、か……」

 苦笑が、口に咥えっ放しで虚しく燃え尽きようとしていた煙草の灰を膝へ落とす。

 この一事だけとっても、良く判る。

 涼子に心を奪われているのだ。

 心を奪われてしまったから、何一つ、己を納得させ得るだけの”理屈”を考え出すことが出来ないのだ。

「ザマァねえな……」

 今夜は苦笑いの大安売りだ、とやっぱり苦笑を浮かべ、フィルターを焼くのみの吸殻を灰皿に投げ込み、新しい一本に火を吸い付ける。

 いや、それはともかく、だ。

 眠れない理由は、他にある。

 涼子が、狙われている。

 小野寺は、のっそりと立ち上がって、部屋の隅の小型冷蔵庫から缶ビール~バス・ブリュワリーだった、あまり好みの味ではないが、仕方ない~を一本取り出し、プルトップを開く。

 犯人は果たして、本気なのか? 

 本気なら、一体どうやって涼子を手に入れる?

 手に入れた後、何を彼女にさせるつもりなのか? 

 インターネット上の世界で、涼子にどんな真似をさせるつもりか? 

「ふぅっ! 」

 冷静になって考えれば、不可能に近い、と思う。

 涼子はと言えば、その階級は高級幹部とはいえ、代将である一等艦佐に過ぎない。

 だが、彼女は職掌柄、常に最高クラスの警戒態勢が敷かれているUNDASNトップ、統合幕僚本部長の身近に位置している。

 24時間フルタイムではないが、例え別々に行動する事があったとしても、彼女の行く先々はやはり、英国政府を筆頭に、変わらず最高レベルの警戒網の中にある各国政府や国際機関の中枢部なのだ。

 素人に、おいそれと手が出せるような環境にはない。

「だが、情報部が動いている」

 一瞬、脳裏を中年の冴えない風貌の、しかし腕っこきの情報部エージェントのスカル・フェイスの姿が過ぎる。

「と、言うことは」

 マズアとコリンズに見せられたサイトが、不気味な、ひとつの可能性を提示している。

「内部情報の漏洩スロッパー

 UNDASN部内に、涼子をストーキングしている人間がいる。『ここ』は既に、エネミー・ラインの向こう側だと言うのだ。

 刹那、鼻に異臭を感じる。

「……クソッ」

 また、無駄に煙草をフィルターまで焼いてしまっていた。

 灰皿に投げ込み、部屋に入って3本目に火をつけた途端、涼子の言葉を思い出した。

『艦長、タバコ吸い過ぎ! いくら、昔と違って習慣性や発ガン性がないって言っても、煙草臭いもん! 』

「まあ、そう言うな」

 思い切り肺の奥まで煙を吸い込んで、小野寺はビールを一口飲む。

 だが、この件に関しては正式に情報部が動いている事だし、さっき、それこそ四六時中涼子と行動を共にする2名の副官にも状況を伝えたことで、半ば自分の手を離れていることも理解している。第一、本件は公式には小野寺は『知らない』事になっているのだから。

 歯痒いことではあるけれど。

 歯痒いけれど、自分が涼子と行動を共に出来る場面は、このロンドン・ウィークの期間中でも限られている。

 今回自分がロンドンにいる理由は、ロンドン・ウィーク2日目、つまり明後日の観艦式の為だ。

 軍務部長を務める自分の管下が、観艦式訓練作戦の主管部門である、それだけ。

 だから、公式の場で涼子と自分が同じ空間に存在できるのは、2日目の観艦式とその後のアットホーム、そして観艦式関係者が”お零れに預かる”3日目のバッキンガム宮殿での王室主催の舞踏会だけ。

 後は、プライヴェートで予定している、最終日、全てのイベントが終わった後の初デート。

「馬鹿か、俺は」

 吐き捨てるように呟き、残ったビールを一気に呷る。

 いい歳をして、みっともない。

 中学生や高校生じゃあるまいし。

 カラになったアルミ缶をゴミ箱に投げ入れ、残った煙草をヤケになったみたいにプカプカ吸って灰皿で捻り潰し、小野寺はベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「だが、まあ……」

 楽しみには違いないんだから、困ったもんだ。

 部屋の灯りを落として、瞼を閉じる。

 涼子にはSPも付けてある。本人は何事か、と思って嫌がってはいるだろうが~自分が守るという意識が強い涼子には、その裏返しで誰かが自分を守る為に盾になる、という行為を極端に嫌う傾向がある~。

 だから、心配しても仕方ない。

 心配には違いないが、殊この”事件”に関しては、それぞれの担当者を信用し信頼して任せるしか手がないのだ。それは長い軍人生活でよく理解できるし、自分を一番納得させ易い理由でもある。

「だから、眠れない一番の原因は……」

 再び瞼を開くと、つい数時間前の、ヒースローでの涼子の姿が、暗い天井に映し出された。

『私が殺しちゃうもん』

『あはは……、うふ、うふふふふ……。死んじゃえ。みんな、死んじゃえ』

『次はアンタ? 』

『頭……、痛いよぅ』

 普段の煌きを消し去った、洞のような瞳で、笑う涼子。

 夜の闇の中、まるで夢のように浮かび上がる白い頬に一筋残る鮮血の跡が、まるで奇怪な呪術を執行中に振り返った魔女のようで。

 凄絶な美しい笑顔を貼り付けたまま、いとも簡単にサブマシンガンのトリガーを、楽しそうに引き絞った涼子の姿が、浮かび上がる。

「そうだ」

 初めて涼子と出逢った五十鈴の、サンフランシスコ港で開かれたアットホームでの、あの”事件”と同じだ。

「……涼子」

 暗闇の中、小野寺はベッドの上で上半身を起こす。

 嘗ての涼子の主治医、五十鈴の艦医だったサマンサに連絡を取るべきか。

 彼女は今ではすっかり最前線から身を引いて、フロリダ州ケープケネディの医療本部で研究生活を送っている。

 咄嗟にロンドンとケープケネディの時差を計算し、ついで、あの頃のサマンサと自分の関係、現在の涼子と自分の関係を思い、そんな涼子のことをサマンサに相談しようとしている自分の身勝手さに思い至って、小野寺は再びベッドに身体を横たえた。

「まあ、とにもかくにも」

 ここで一人思い悩んだって仕方ない、それですら自業自得、いつまでも小僧の自分が悪いんだと通り一遍の責め句を自分に投げかけた。

「また明日、だ」

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