第44話 8-3.


「三将。例のタクシーアンノウンが尾行してきます。50m後方」

 ロールスロイスを運転している若い黒人の陸士長がルームミラーを見ながら言った。

 小野寺は咥えた煙草にシガーライターで火を吸い付けながら、チラ、とリア・ウィンドウに視線を飛ばした。

「乗っている人物の顔は判るか? 」

 隣で涼子は、シートに両膝をついてリアウィンドウに被り付き状態だ。電車に乗った子供でも、昨今もう少しは行儀が良いだろう。

「はっ。ドライバーは禿げた50代後半の白人男性……、リアシートにも誰か乗っていますが……。顔や性別その他は少し暗くて……」

「そうか……、いや、いい。それより、逆尾行は? 」

 小野寺は、曇ったリア・ウィンドウを掌で拭おうとしている涼子の袖を引いて、目でちゃんと座ってろと叱りながら問い返す。

「はっ、そちらはアンノウンの後方150mに位置しています。私服警務部員が6名乗車……。今のところ、気付かれてはいない様です」

 不服そうに唇を突き出してシートに座りなおした涼子が、驚いたような声を上げた。

「私服6名? そんなに大勢で尾行してるの? 」

 陸士長は涼子の声につられたのか、少し笑いを交えながら答える。

「は。確かに多いですが、そのうち2名は、1課長をホテルで下ろした後、そのまま護衛で残るんですよ」

「あ、なーんだ、そっか。……でも、私護衛なんかいらないわよ」

 言葉の最後は、小野寺にはまるで、不貞腐れているようにも聞こえた。

「俺がマズアに頼んだんだ」

 嫌がるだろうとは思ったんだが。

 『R事件』のことをコリンズの口から直接聞かされた以上、小野寺としては放置はできなかった。

 もっとも、マズアは最初からその気だったようで、小野寺の申し出に「用意しております」と6名のリストを即座に差し出した訳だが。

「え? 艦長が? 」

 案の定、涼子は驚いた表情で顔を覗きこんできた。

「いや、取り越し苦労で済むなら、それはそれでいいじゃないか。な? 石動」

 余りの近距離に、小野寺がのけぞりながらそう答えると、涼子は嬉しそうな表情を浮かべ、小さく頷いた。

”こりゃ、ヤバい……”

 ニアミスした涼子の美しく整った、しかしそれでいて人柄を感じさせる豊かな表情が瞼に焼き付き、小野寺はこのまま放置しておくと自分の理性がやられる、そんな危険を感じて、慌てて話題を逸らす。

「それより、陸士長。尾行を撒かんように、な」

「イエッサー」

「それと、艦隊司令部と連絡を取りたい」

「イエッサ。手前座席の背凭れのダッシュボードを開けて頂くと通信機が入っています。波は、IC2司令部ならば、Ch8に登録済みです」

「アイ」

 小野寺はダッシュボードを開けて観艦式艦隊司令部とのチャネルをオープンしながら、運転席とリアシートの仕切りの防音ウインドウを閉じた。曇りガラスがせり上がり、後部座席は密室になる。

「……縄付きが不在なら司令部ワッチでいい、うん……。ワッチか? ……小野寺だ。駐英武官事務所から連絡が行ったと思うが……。うん……、ああ、そうだ……」

 小野寺は、IC2の司令部ワッチと通話を始めた途端、隣の涼子がアタッシュを膝の上に乗せて、開けたり閉じたりし始めたのが気になっていた。

 チラと横目で見ると、暗い車内でもはっきりそうと判るほど、涼子の頬が赤い。

 なんだろう、なにか心配事でもあるのだろうか?

 それとも熱か? 襲撃事件のショックで体調でも崩したか?

 それにしてはさっき武官事務所を出る時までは、そうは見えなかったが。

 思い当たることがなく、首を捻る。

”……考えても、判らん”

 元々、女心に敏感なタチじゃあないんだ。

 そんな自己評価を下した自分はとんだチキンだ、思わず苦笑を浮かべてしまった。


「了解した。……ああ、艦長にもよろしく伝えておいてくれ。……ん、頼む。アウト」

通信を終えた小野寺がチラ、と視線を飛ばしてきたので、涼子は開きかけていたアタッシュを慌てて閉じた。

「痛っ! 」

 指を挟んでしまう。

 掠った程度だが、それでも彼の視線を誤魔化す為に、涼子は人差し指を口に咥えて見せた。

「……なにやってんだ、石動」

 呆れた表情を浮かべてボソリと言った彼に、涼子はエヘヘヘと照れ笑いをして見せながら、内心、上手く誤魔化せたとホッとした。

 ……のも束の間。

「挟んだ指は、右だろう? 」

「ふぁ……」

 左手の人差し指を咥えたまま、声をあげてしまった。

 慌てて指を口から抜き取ると、彼は、フ、と力が抜けたような微かな笑顔を浮かべた。

 顔が急激に熱くなっていくのが判る。

 恥ずかしくて、慌てて、視線を彼の顔から膝の上のアタッシュケースに移す。

”渡さなきゃ……。今、渡さなきゃ……”

 アタッシュの留め具を指で玩びながら、そっと彼の様子を伺うと、横顔は窓の外を後方へゆっくりと流れていく景色に向いている。

 チャンスだ。

 涼子は、そっとアタッシュを10cmほど開き、右手を中に入れる。

 アタッシュの中は書類やら携帯端末やらで混沌の世界だ。

 しかし、涼子の指先は間違えることもなく目的のモノに辿り着く。

 仕事、任務にはこれっぽっちも関係のないもの。

 アタッシュの中、微かな指先の感触だけで判る、その異質さ。

 だけど、今の涼子にとって、何よりも大切な、その異質さ。

 自分には似合わないから、異質に感じられるのかもしれない、と、ふと、思う。

 心の中で、ずっと昔から葛藤を繰り広げている『二人の自分』の、『弱い涼子』が攻勢に転じたせいだ、それは判っている。

 判ってはいるけれど、もう一人の『強い涼子』の繰り出す、だけど頼りなげな反論ではどうしても駆逐することの出来なかった、漠然とした、だけど手強い不安感を思い出して、アタッシュの中、”異質さ”を弄んでいた指が、発作的に”それ”を握り潰そうとした。

 その刹那。

「石動。……おい、石動! 」

「は、はいっ! 」

 呼ばれていたらしい。

 助かった、と思いながら涼子は彼を見た。

「どうした? ……やっぱり疲れてるんじゃないのか? 」

 心配してくれているんだ、と思うと嬉しくて、たったそれだけのことなのに、泣いてしまいそうになる。

「い、いえ……。ちょっと、考え事を……」

 握り潰さないで良かった、と指で”それ”を優しく撫でた。

 彼は、少し微笑んで、それから顔を真っ直ぐ前に向けた。

「あの……、艦長? 」

 問い掛けると彼は、涼子の視線から逃れるように、再び窓の外に顔を向けて、言った。

「なあ、石動。……お前はあの時、聞こえなかったか? 」

「え? ……何を? 」

 予想を大きく裏切る言葉に驚いて、間抜けな声が出てしまった。

「あのとき、ヒースローで、銃撃の直前に。若い女性の声を」

 涼子の心に引っ掛かっていながら、尾行騒ぎやアタッシュの中の”それ”に気を取られ忘れていた疑問がズーム上昇してきた。

「聞いた。聞きました、私、確かに。……えと、確か『正面に銃』なんとかかんとか。……うーん、後半はよく聞き取れなかった、……かな? 」

「そうか、お前も聞いたか」

「艦長も? 」

 彼は無言で頷いた後、リアウインドウからチラ、と尾行車を見、すぐに視線を涼子に戻した。

「これは俺の勘、なんだが……。あのタクシー……。その警告の声に関係あると、思わないか……? 」

 涼子は、思わず後ろを振り返り、リアウインドウを照らすヘッドライトを見つめる。

「じゃあ、あのタクシーの客が……。警告してくれた? 」

「ああ……。最初俺は、聴き間違いかとも思ったんだが。お前も聞いたとなると、そう考えるのが自然なような気がして、な」

 そして、声を落として涼子に訊ねる。

「で、言葉の後半は、本当に判らなかったか? 俺も聞き取り難かったんだが」

 涼子は首を捻って思い出す。

 あの時は……。

 そうだ。

 言葉の後半は銃声が被ってしまって、聞き取れなかったんだ。

 彼に向かって涼子は、ぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい、艦長……。思い出せません」

 彼は珍しく、はっきりそうと判る笑顔を浮かべて、涼子の髪を撫でた。

「なに、構わんさ。なにもお前が謝る事ない」

 彼のしてくれている行為が嬉しくて、照れ臭くて、だからそれ以上に申し訳なさが先に立つ。

「だって、私がちゃんと聞いてたら……。今頃あの尾行の正体だって判ったかも知れないのに」

「だから構わん、別に」

 そう言いながら離れていく彼の手を、涼子の左手は思わず追いかけ、掴んでいた。

「……あ」

 瞬時に理解した。

 彼の大きな手が心地良くて、心の底から安心できて、胸に大切に仕舞いこんできた切ない想いが哀しくて。

 だから思わず彼の手を掴んでしまったんだ。

”だったら、放しなさい”

 弱い自分が耳元で囁く。

”駄目よ、放しちゃ。二度と戻らないかも知れないわよ! ”

 強い自分が、ドキドキと忙しく鼓動を打つ心臓の辺りを叩きながら叫んでいる。

 放してはいけない、そう思った。

 例えこの腕が千切れようと。

”無駄な足掻きだわ。判っているでしょ? ……彼は、貴女の腕ごと、遠くへ行ってしまうのよ? ……腕の無くなった貴女は、この先いつか、お似合いの相手が現れたって、そのひとを捕まえることが出来なくなるのよ? ”

 構わない。

 私は、艦長以外の誰も、掴むつもりなんか、ない。

 初めて自分の心の中の熱い何かの正体を知ったあの日から今日まで、私の腕は誰も掴まず、ただ、艦長への想いの重さに押し潰されそうになり、その痛みと苦しさに気が狂いそうなる自分を励まし癒す為だけの、自分の身体だけを抱きしめる為だけのものだったのだから。

 艦長が遠くへ去って二度と私に戻らないのなら。

 もう、腕なんかいらない。

 艦長が持って行ってしまったって、構わない。

 私の腕を持ったままの艦長だったら、ひょっとしたら、私ではない誰かさんが、気味悪がって艦長から離れるかもしれないじゃない。

 だって私は、もう厭なんだもの。

 私じゃない誰かを抱きしめる、私の大好きな艦長の大きな、優しい手が、大嫌いだもの。

 私、哀しかったもの。

 サマンサ先生を優しく抱きしめる艦長の腕が、艦長が大好きだったから、耐え切れないほど大嫌いだったもの。

 もう、厭だ。

 あんな、痛いのは厭。

 大好きな艦長の幸せを願ってあげられない自分が大嫌い。

 大好きな艦長に幸せを貰って微笑んでいた、私じゃない誰かが大嫌い。

 大好きな艦長の大好きな誰かが大嫌いな私なんて、大嫌い。

 そして今以上に痛くなるだろう心の傷を、寂しく一人抱き締め慰める腕すら、私には残っていないのだとしたら。

「厭」

「? 」

 思わず空気を震わせた心の悲鳴は、覚悟を決めるトリガーとなり、涼子にしては珍しく『弱い涼子』を駆逐した。

「厭。駄目」

「なにが? 」

 不思議そうな表情を浮かべる彼の顔が、すぐに滲んで流れた。

 堰き止め難い想いは堰を切って両の瞳から溢れ、熱く火照った頬に気持ち良く、されど堰き止められなかった痛みは胸に、全身に、一層響く。

 彼が掴んだ手を振りほどこうとしない事さえ、今の涼子には苦痛でしかなく、その優しさが、ますます想いを涙に変えていく。

「涼子」

 誰が自分の名前を呼んだのか、理解するまでに数十秒を要した。

 そして漸く、自分の名前を呼んだのが、愛しい彼だと理解して、嬉しさよりもひとつの疑問が先行する。

 なぜ?

 苗字ではなく、名前を呼んだ彼の意図を測りかねて、涼子は涙と洟と涎でぐしょぐしょになった見っとも無いだろう顔を、まともに彼に向けてしまう。

「艦長……」

 袖を捉まえていた左手は、いつの間にか彼の手を包み込むように握っていた。

「私、厭。厭なの」

「涼子。だからなに」

「艦長が他の女の人のところに行っちゃうのは、厭! 」

 彼の言葉を最後まで聞くのが怖くて、涼子は叫ぶ。

 形振り構ってなど、いられなかった。

「私、艦長でなきゃ駄目。艦長が私以外の女の人を見るのも、厭! 」

 きっと、見っとも無い女だと思われているだろう。

 きっと、我儘な女だと呆れられているだろう。

 きっと、身の程知らずな女だと嫌われただろう。

 それでも、構わない。

 何故か、そう思えた。

 だって。

 彼が、頭を撫でてくれたから。

 彼が名前で呼んでくれたから。

 その思い出を、煌く宝石のように抱き締めて、私はもう、一生独りで歩いてゆけるから。

 刹那。

 奇跡が起きた。

「涼子、判った。……つか、判ってる」

 再び彼は名前を呼んで、大きな手で髪を撫でてくれたのだ。

 涼子にはその意味が図り切れなかった。

 いや、違う。

 図り切りたくて、ただ、そうすることが怖かったのだ。

 怯える涼子に、彼の手は温かく優しすぎて。

 震える心に、彼の声はただただ甘く、だから切なすぎて。

 そしてその彼に、涼子は今、世界中を裏切ることになっても構わないと思えるほどに、執着し過ぎている。

 涼子の、混乱し、掻き回されて、根源の水となって溢れ出る想いをよそに、彼は静かに話す。

「俺も、もうこんな歳だ。今日までなにひとつ、何事もなくキレイに生きてきたとは言わん。何れ、時期がくればちゃんとお前に話すつもりだ」

 そして、言葉を区切り、一息ついてから、言葉を継いだ。

「しかしまあ、今言えることは、今言おう」

 彼はそっと、優しく涼子の手を握り返した。

 途端に、早鐘を打つ心臓の鼓動が緩まる。

「今の俺には、涼子。お前しか見えない。……そして、これから先も、だ」

 直前まで、胸の中で暴れ回っていた、不安、期待、怖れ、喜び、哀しみ、切なさ、ありとあらゆる感情が、みるみるうちにただ一種類の想いへと収斂していくのが判った。

「艦長……」

ただ変わらないのは、滂沱と堰を切って流れ続ける、涙。

「涼子。好きだ。愛している」

 嬉しかった。

 飛び上がってしまいそうなくらい、叫び出してしまいそうなくらい、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 嬉しすぎて、どんな顔をすればいいのか、判らなくなって、ただ、呆然と彼の顔を見つめ続ける。

 後から後から、涙が滝のようにこぼれて、どうしようもなかった。

 数瞬の後、やっぱり笑うべきだ、と気が付いた。

 涼子は、最高の笑顔を、彼に見せたい、と努力した。

 しかし、もう無理だった。

 堰き止めようとして堰き止め切れない想いが、涙となって滂沱と頬をつたい、顎から滴り、ぽつり、ぽつりと涼子のブレザーやスカートに喜びの跡をつけていく。

「だから、な? 」

 一定のインターバルで過ぎていく街灯の灯りに浮かぶ彼の顔は、今まで見たこともないくらい、赤く染まっているように思えた。

「まあ、なんだ。だから、さっき演奏会に誘ったんだが……。やっぱり言わんと判らんか……? 」

 涼子は首を横に振る。

 ただ、恐かっただけなのだ。

 期待して、期待が外れたときの絶望が、恐かっただけなのだ。

 あのね、艦長?

 知ってるでしょう?

 私は、任官当時からずっと、恐がりで泣き虫だった、ってこと。

 だから、恐かったの。

 早とちりして、傷つくのが。

「私で、ね? 」

 漸く、言葉らしい言葉を話せたことに、ホッとする。

「いいの? 艦長……」

「何が? 」

「私、もうオバチャンになっちゃったよ? 」

「そうだな」

「それに、やっぱり泣き虫のままだし」

「そうだな」

「なんか、ドジばっかだし」

「そうだな」

「我侭だし」

「そうだな」

「歌ヘタだし料理も上手くないし字も汚いしお洗濯すぐ失敗するしお掃除嫌いだしすぐ無駄遣いするしヤキモチ妬くし馬鹿っぽいしドジばっかだしそれも二回言っちゃったし」

「そうだな。全くもってその通りだが、涼子」

 焦れたように被せて名を呼ぶ彼の声に、涼子は自分で止められなくなっていた言葉を飲み込む。

「……俺は、そんなお前が、結構前から、好きだったんだ」

 そして照れたように、微笑んだ。

「知らなかったか? 」

「艦長っ! 」

 気が付いたときには、涼子は彼の首っ玉にしがみついていた。

 彼のドレスブルーに涙や洟や涎がついてしまうのも構わずに。

 ただ、離したくなかった。

「嬉しい。好き。大好き。好き過ぎて、死んじゃう! 」

「死なれちゃ、困るな」

 彼の吐息が耳に擽ったい。

 そんな些細なことさえ、嬉しくて嬉しくてたまらない。

「あのねぇ、艦長? 」

 返事の代わりに、いつのまにか背中に回されていた大きな彼の手が、トントン、とリズムを打つ。

「幸せだよ? ……幸せだ、私。だから、私の一生、これから先は、ずっと、ずぅっと……。もう幸せばっかりに違いないんだよ? 」

「能天気な奴だ」

 呆れたような彼の声に、涼子は漸く、笑顔を浮かべる事が出来たように思えた。

 無論、涙と洟と涎で顔はぐしゃぐしゃだけれど。

「だけど好きなんでしょ? 」

 見っとも無い顔を見られたくなくて、彼の胸に押し付けていた顔が、細かく上下する。

 彼が笑ってるんだ、と気が付いた。

「そうだな」

「もっぺん言って? 」

 首に回した腕に力を入れると、再び背中が、トントントン、とノックされた。

「もう、言わん」

「ヤだ! 言って! 毎日、言って。一日一回! 」

「別れよう」

「艦長のイジワル! 」

 むしゃぶりつくと、髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。

 気持ち良くて思わず目を瞑った涼子の耳に、彼の声が響いた。

「ほら、離れろ。もう、到着だ」

 思わず振り向くと、曇りガラスの外の景色に、煌びやかな光の洪水が溢れていた。

 光源のひとつひとつが、ガラスについた水蒸気に、虹色の光の輪郭を浮かび上がらせているのが、まるで夢のようだった。

「夢じゃ、ないよね? 」

 思わず呟くと、彼がまた、笑った。

「こっちが聞きたい」

 思わず彼の方に顔を向けると、自然と、笑みが互いに零れた。

「そうだ! 」

 涼子は片手を首に回したまま、もう片手を背後のアタッシュに伸ばす。

「あの、艦長、これ! 」

 差し出された腕に彼はのけぞりながら、涼子の掌の上の、可愛らしくラッピングされた包みを見た。ベルベッド地の緑のリボンがシックだ。

「なんだ? コンサートのお返し……、って訳じゃなさそうだな」

 涼子は彼の、如何にも彼らしいリアクションに思わず吹き出す。

「あはははっ! 艦長、今日何の日か……、あ」

 涼子は、前部ベンチシートの背に埋め込まれたダッシュボードの時計に目をやり、その言葉をフェードアウトした。

「ああ。バレンタインデーか。昨日は」

「ぅぐぅ」

 小野寺は、涼子を放置したまま、包みのリボンを解いた。

「おお……」

 彼にしては珍しく、絶句している。

「艦長とお揃い!Cz75のグリップ、パックマイヤーだよ! 先月、会議でニューメキシコの航空本部航本に行った時、街の銃砲店で買ったの! 」

 先月、航空本部での会議に出席した時、ロズウェルの下町をぶらついて見つけた、警官向けの銃砲店でみつけたものだ。

 涼子のメインアームは、チェコの名銃と呼ばれ、今や骨董的価値まで出てきて入手困難、状態がいい物ならネットオークションで1万ドルはするとも言われる、Cz75初期型。

 小野寺のそれがCz75と知って、探し回る事数ヶ月。一尉になって2ヶ月分の給料を注ぎ込んで入手した、涼子にとっての宝物。

 そのグリップを店でみつけて、自分の分と彼の分をこの日の為に購入したのだった。

「チョコは、EU本部に行った時に買ったゴディバ! 」

 暫くは無言で包みの中に視線を落としていた小野寺だったが、フ、と短い吐息をつくと、顔を上げて涼子に微笑みかけた。

「ありがとう。さっそく使わせてもらおう」

「チョコは早めに食べてね? 」

 ヒースローの銃撃戦に巻き込まれたせいで、14日バレンタインデー中には渡せなかったけれど。

 けれど、結果オーライだ。

 だって、大好きな彼は優しく微笑んでくれていて~そうだ、滅多に見せてくれないけれど、一瞬でも微笑んでくれると、もう、世界一の幸せ者に思えるほどの破壊力なのだ、私にとっては~、私を好きだと言ってくれているのだから。

 こんな幸せをくれたこのひとを、私はけっして、放さない。

「私こそ、ありがとう、艦長」

 彼は、ゆっくり頷くと、静かに言った。

「そんなのはお互い様だ。……焦ることはない。二人でゆっくり、歩いていけばいい。涼子。恋は、な? 」

 いつの間にか止まっていた涙が再び、頬を伝う。

 ああ、嬉しい。

 幸せだ。

「恋ってもんは、二人でするもんなんだ。俺と、お前でするもんなんだから」

 彼の囁きが、耳朶を擽る。

 嬉しい。幸せだ。

 今の私はきっと、世界中で一番の、幸せ者だ。

 それはもう、きっときっとそうに違いないのだ。

 だって、彼は。

 私に『明日』を指し示してくれたのだ。

 私に、確かな『明日』を指し示してくれたのだ。

 二人で歩いていこう、と。

 二人で恋していこう、と。

 中学を出てから、一人で歩いてきた私だから。

 一人が怖くて、一人が哀しくて、たった一人を追い掛けてきた私だから。

 だから、嬉しい。

 幸せで、幸せで、たまらない。

 頬を流れ続ける涙だって、きっと私達を祝福してくれているに違いない。

「もう、泣くな。到着したぞ」

 彼が言った途端、身体に軽いショックを感じる。

 さっきから、曇りガラスを通してキラキラと踊っていたイルミネーションの動画が、静止画へと変わった。

 離れなきゃ。

 放したくなかったけれど、でも、大丈夫。

 一緒に歩こう、彼がそう言ってくれたから。

 二人で歩いていこう、そう言ってくれたから。

 明日も二人で生きていける、そんな確信を私にくれたから。

 首に回していた腕をゆっくりと解こうとして、彼に手を掴まれた。

「え? 」

 涼子は驚きの声をあげる。

 不意に彼が動いた。

 唇に触れた、柔らかいなにか。

 刹那、動いた空気に運ばれてきた、懐かしい、彼の香り。

 啄ばむような、キス。

 彼はすぐに身体を離し、ボソリと言った。

「おやすみのキス、って奴だ」

 そう言われて、初めて、血液が顔に怒涛の如く流れ込んで来た。

 茹蛸みたいになってる、と思うと恥ずかしくて、咄嗟に両手で顔を隠そう、考えた刹那。

 冷たい風が車内に舞い込んできた。

「室長代行、到着いたしました! 」

 陸士長の声が響き、ドアが開いたことに気付いた。

 涼子は慌てて帽子とアタッシュを掴み、車外へ降り立ち、陸士長に答礼し、そのまま車内へ顔を向ける。

 照れ屋の艦長のことだから、きっとそっぽを向いているだろう、そう思った。

 が、予想は裏切られた。

 嬉しい方向に。

 彼は真っ直ぐ涼子の顔をみつめていた。

「ご苦労だった、欧州室長代行」

 声が、途轍もなく優しく感じられた。

「おやすみなさい、軍務部長」

 彼が、それだけは普段通りの、ラフな答礼をしたと同時に、ドアはゆっくり、静かに閉められた。

 悠然と走り去るロールスロイスのテールをみつめながら、涼子はいつまでも立ち尽くしていた。

 真っ赤に火照った頬に、2月の風は心地良かったから。

 流れ続ける涙を、風が運び去ってくれるから。

 寒さに思わず身体が震えてしまうけれど、それが夢じゃない、現実だと教えてくれるから。

 幸せを手にした実感を、冷たい風で刻み込んでおきたかった。

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