第41話 7-3.


「お待ちを、統幕本部長」

 SP達に続いて一歩踏み出したマクラガンを、涼子が鋭く呼び止めた。

 ハードでタイトな外交交渉の場以外で、厳しい口調で話す涼子を見たのは、リザは初めてだった。

”……いや。ブリッジでもそうだったな”

 リザは、数年前、戦艦土佐の操舵長だった時に、艦長として着任した涼子と半年ほど一緒に勤務した。

 涼子を慕うのも、その時からだ~だから、他の俄かファンと違って、私のは筋金入りだと思っている、誰にも言ったことはないが~。

 ブリッジでの涼子は、徹底的な『サイレント・オフィサー』だった。

 任せていい時は、徹底的に部下に任せて口出しは一切しない。

 本当に、艦長自ら操艦しなければいけない時が来るまで、絶対に口を挟まない。

 涼子が自ら操艦する時はいつだって、絶体絶命とも呼べるシチュエーションだった。

 それでいて彼女が一旦口を開くと、短い言葉の中にも、適切で的確、そして冷静な指示が、神懸り的なタイミングで出される。

 そして、必ず部下を誉める。

 任せるときも、誉めるときも、必ず周囲や命令される本人が納得のいく理由が、簡潔に語られるのも常だった。

 もちろん、オフの時は人が変わったように、良く喋り良く笑い、初級士官や初年兵よりも幼く、そして可愛らしいのだが。

 そんなブリッジで彼女が指示を出すときは、必ずと言って良いほど、先程のように鋭く、短い言葉で出されるのだ。

 が、今となっては、彼女がそうする理由が、なんとなく判る。

”きっと、あの男が……”

 そういうタイプなのだろう。

”ああ! 駄目よ、駄目! 意識を集中しなきゃ! ”

 自分にそう言い聞かせつつ、視線を前方を歩く統合司令長官のガッシリした背中に注いでいると、当のマクラガンが不意に涼子の方を振り返った。

「なんだね、どうした? 」

「SPの安全確認オールグリーンがすむまで、今暫く。クリアでしたら、まず石動が先に出ます。後をお進み下さい」

「なんだ、石動君。そこまで慎重にならんでも」

 ハッティエンの言葉に、涼子は真剣な表情で答える。

「ロンドン市内での今後の我々の行動を考えた場合、一番リスクが高いのは、ここ、ヒースロー到着時です。明日以降、唯でさえ厳戒態勢のロンドン市内で行動を起こす困難さを考えれば、もしも私が犯人なら、ここヒースローでの襲撃でカタをつけるつもりで、全力を挙げて事に臨みます」

 そして再びマクラガンに顔を向けた。

「本部長がなんと仰ろうと、これほど危険性の高い場面にご出馬願ったのは私です。ですから、本部長のロンドン滞在中は、石動が命に代えて、お守り致します」

「そう片意地を張らんでも、石動君」

 執り成すように声をあげたボールドウィンを、マクラガンが笑顔で遮った。

「よし、判った。アレックスもいいじゃないか。私も、訪英中はこんな可愛らしいSPについて貰ったほうが、景色もいいというものだ」

「セクハラ発言ですよ、統幕本部長」

 涼子の言葉をシオに、全員が笑い声を上げると、警備の警察官達が驚いたように一斉に肩を震わせた。

「リザ。リーザ」

 皆が笑い合っている最中、涼子に袖を引っ張られて、リザが歩み寄ると、涼子が耳元で囁いた。

「リザは、後ろにいなさい。私についてちゃ駄目だよ」

「そんな! いいえ、私は貴女の副官です。離れる訳」

 むにゅ、と何かが唇を塞いだ。涼子の人差し指だった。

 思わず顔に血が上る。

 そんなリザに気付いていない様子で、涼子は言葉を継いだ。

「こんなところで、危険な目に合わせたくないの。ね? 」

 小首を傾げてそう言った涼子に、リザはまるで催眠術にかかったように、思わずコクリと頷いてしまう。

「よし! いいこ」

 涼子は少しだけ背伸びをしてリザのブロンドの髪を撫で、前を向き直った。

 いつだってそうだ、とリザは複雑な想いを胸に抱きながら、愛する上官の艶やかな黒髪を眺めて思う。

 自分は、自分がどんなに強い想いを抱いていようと、涼子がにこりと微笑むだけで、ころりと全てを捨て去ってしまう。

 そして、それを内心悔しいとも思わず、それどころか快感さえ感じてしまっているのだ。

 駄目なのに、こんな時こそ逆らえなければいけないのに。

 いつか自分は、涼子への甘さと自分自身への甘さ、その両方の板挟みにあって、死んでも死に切れない程の後悔をする事になるかもしれない。

「欧州室長代理、クリアです」

「ありがと、ダルタン一尉」

 リザも顔馴染みの、そして涼子とも親しいSPと上官との会話が耳に届いて、リザは我に返った。

 馬鹿みたい。

「オール・グリーンです。それでは統幕本部長」

 苦笑を浮かべる。

 後悔なんて、とっくの昔に済ませたじゃないの。


 自動ドアをくぐって外に出た途端、2月の風が骨にまで沁みるような気がした。

「石動の言葉通りだとすると」

 リザは声のする方を振り返る。

 独り言のようだったが、リザの背後を歩いていた小野寺の顔は、確かにこちらを向いていた。

「……通りだとすると? 」

 いくらなんでも、少し失礼すぎたか、とも思うが、リザはそのまま続きを待った。

「今日の動向次第で、38号議案の実行可否が決まる訳だな」

「……今日、カタがついた方が良いと? 」

 彼は明後日のほうを向きながら答える。

「石動のことを考えると、な。まあ、何事もなく終わるのなら、それにこしたことはない」

「統幕本部長のことはどうでもよろしいのですか? 」

 思わずキツイ口調になってしまうが、止められなかった。

「そうは言わんが、ヤツが本職の警務9課の邪魔をせんかと、そっちのほうが心配だ」

「じゃあ室長代行のことはど」

 突然、小野寺の表情が変わった。

 理由はすぐに判った。

 直前に、リザの耳にも届いていたのだから。

『正面の装甲車から、銃が! 』

 小野寺がリザを押し退けるようにしてマクラガンへ走り寄る姿が、まるでスローモーションのようだった。

「室長代行! 」

 リザの叫びを、銃声が掻き消した。


 ドアを開いたロールスロイスまで後5m程だった。

「やはり寒いな、この季節のロンドンは」

 独り言のように呟いたマクラガンの前を歩いていた涼子は、思いついて彼を振り返り、ポケットから携帯使い捨てカイロを取り出して差し出した。

「これ! 使いかけですけど、まだ、暖かいから!」

「おう! しかし、いいのかね」

 カイロは、冬のロンドンでは必需品だ。

 昨年までの3年間はずっと、空調完備の艦隊勤務、久々の地球の四季は結構体調に直接的な影響が出る。

 実は、ブレザーやらシャツやらスカートやら、ありとあらゆるポケットにカイロが入れまくってあった。

 少し恥ずかしかったので、涼子は身体をマクラガンに寄せた。

「あの、実は他にもたくさ」

『正面の装甲車から、銃が! 』

 知らぬうちに身体が反応していた。

 身体を寄せていたのがラッキーだったのかもしれない。

 涼子は考えるより先に、両手を伸ばしてマクラガンにしがみつき、両足で地面を思い切り蹴った。

 不意を突いたのが良かったのか、五分五分の賭けだったが、涼子より頭2つ分背の高い、身体の幅なら2倍はある、がっしりとしたマクラガンの膝が崩れ、二人はそのまま地面に転がった。

「全員伏せてっ! 」

「ぐわっ! 」

 仰向けに転がったマクラガンの上に被さった涼子が叫ぶと同時に、悲鳴が聞こえた。

「? 」

 何事? と思う間もなく、顔見知りの警務9課SP、ジャハール・ダルタン一等陸尉のインド人らしい彫りの深い端正な顔が、眼の前に落ちてきた。

「ダルタン! 」

 見る見るうちに血溜まりが彼の身体の下に広がっていく。

「ダルタン! ダルタンっ! し、しっかりなさい! 」

 周囲は反撃を開始した警官隊の銃声で埋め尽くされており、涼子には自分の声がダルタンに届いたようには思えなかった。


「室長代行! 」

 リザは前方にマクラガンに覆い被さるように倒れている涼子をみつけ、叫びながら駆け寄ろうとした。

 瞬間、身体がフワッ、と浮き上がったような感触を憶える。

「えっ? 」

 何かに躓いた感覚はなかった。

 躓いたなら、前のめり。

 だが、自分は足元を掬われたように、顔は天を向いている。

”背中から落ちる”

 銃弾が飛び交う中、そんな暢気なことを考えている自分が、少しだけ可笑しかった。

 が、痛みはなかった。

「馬鹿野郎、死ぬ気かっ? 」

 どうやら本当に足を掬われたようだった。

 小野寺が身体の下で、顔を歪めていた。彼が足を払い、助けてくれたようだ。が、礼は言いたくなかった。

 そこで漸く気付く。

「だけどっ! 室長代行がっ! 」

 叫ぶと、何故か彼はニヤ、と笑った。

「統幕本部長はどうでもいいのか? 」

「ぐっ! 」

 思わず言葉に詰まった途端、頭を押さえつけられた。

「もっと頭下げろ! 5.56m/mか、7.62m/mNATO弾だろう、跡形なくなるぞ! 」

 周囲のタイルがビシッ、ビシッと音を立てて跳ねる。

「弾が集まってきてる」

「涼子、涼子様はっ? 」

 職名で呼ばなかったことに気付いたのは、ずっと後だ。

「無事だ。今のところ」

 見ると、確かに涼子は未だに首を竦めてマクラガンに覆い被さっている。

 が、これも小野寺が言った通り、弾は徐々にマクラガンの方へ集まりだしているように思えた。

 差し回されたロールスロイスを初め、アドミラルが乗る車両は全て、防弾防爆仕様車だ。最初はそれを盾に防げていた弾丸も、やがて、装甲車側が微妙に位置を前後させつつ、歩道に伏せる人々を狙える射角をみつけたようで、それがますます警備陣の被害を増大させているようだった。

 少し余裕ができて周囲を見回すと、マクラガンの隣のSPを初めとして、首の可動範囲内だけでも、10名近い負傷者が倒れている。

 しかも、テロリストの火力は未だ旺盛、よほど残弾にも余裕があるようだ。

「だが、銃は一丁だけのようだな。あれがコリンズ二佐の言っていたカレーのNATO軍から奪取された武器だとすると……。ガス圧発射には違いないが、M240のロングストロークピストンじゃない、ショートストロング……。サコーM60軽機関銃だろう」

 確かにそのようだ。

「だけど、こんな状況じゃ一丁でも二丁でもっ! 」

 一緒のように思えた。

「チェーン・チェンジが狙い目だ。走るぞ」

「チェーン・チェンジ? 」

「M60にしろM240にしろ、ベルト給弾式だ。慣れてなきゃ弾倉交換で間隔が開くはずだ」

 なるほど、と思う間もなく、小野寺が突然叫んだ。

弾切れホールド・オープン! 走れ! 」

 小野寺が身体を起こしたのに続いてリザも慌てて立ち上がった。

 確かに周囲は相変わらず銃声の嵐だが、向かってくる弾丸は止んだように思えた。

「本部長! 石動! 」

「涼子様! 」

「艦長ぉっ! リザッ! 」

 涼子は首を上げて上気した顔を見せた。

 途端に安心してしまい、リザは涼子に滑り込んで抱きついた。

「本部長、お怪我は? 」

 普段より少しだけ早口で、隣では小野寺がマクラガンを抱き起こしている。

 初めて、勝った気分を味わった。

「おい! SP、しっかりしろっ! 」

 言う間に、あちこちで地面に貼り付けになっていたSPが駆け寄ってくる。

「運べ! ターミナル内に運べっ! 」

 SP5人懸かりでマクラガンとダルタンを運び上げた途端、同じように駆け寄ってきた警官が「ぐわぁっ! 」と悲鳴を上げた。

「伏せろ! 射撃再開! 」

 誰とも判らぬ声が聞こえた途端、リザは倒れてきた涼子の身体を受け止めながら地面に倒れこんでしまった。

「涼子様っ? 」

 撃たれたのか、と思った刹那、顔から血の気が引いていた。

「ひ……、酷い……」

「え? 」

 胸に抱きとめていた涼子が、そう呟いたように聞こえた。

 涼子の背中を受け止めた姿勢で地面に倒れ込んでいたリザが、彼女の肩越しに覗き見ると、涼子は胸に、負傷した警察官を抱きとめていた。

 肩から間欠泉のように溢れ出す血が、見る見る歩道を赤く染めていく。

「酷い」

 今度ははっきりと、涼子の声が耳に届いた。

 身体の芯まで瞬時に凍結してしまいそうな、ぞっとするほど冷たい声だった。

「涼子様? 」

 涼子は、リザの方に首を捻ると、警官の血で赤く濡れた左手をまるで見せびらかすように翳してから、フ、と笑った。

「ひっ! 」

 思わず喉の奥から悲鳴が洩れた。

 それほど、冷酷で、残忍な微笑だった。

 普段はキラキラと、まるで銀河を映したように輝く黒い瞳が、今はまるで鮫の洞のような眼にも似て、光が消え失せていた。

 と言うより、光さえ吸い尽くす、ブラックホールのように無限の深さと冷たさを湛えて、それでも見事に美しい笑みを浮かべていた。

「私を殺そうとする人はみんな……、死んじゃうんだよ? 」

「な……、し、し……、な」

 どう答えればいいのか、何を言えばいいのか、判らぬままただ唇をパクパクさせていると、涼子は顔を正面に向けて、言葉を継いだ。

「だって、私が殺しちゃうから」

 無邪気な口調だった。

 それだけに、一層恐怖が募った。

 リザとて軍人であり、それなりに危険な戦闘や、目を覆いたくなるような戦場を数々往来してきた経験もあって、それだけ恐怖への耐性もあるつもりだった。

 しかし、今リザが感じているのは、もっと根源的な、生物としてその本能から忌避したくなるような、恐怖だった。

「涼子……、様」

 漸く口から転がり出た愛しい人の名前は、銃声で掻き消され、そのせいではないだろうけれど、涼子は振り向かず、銃弾の雨の中をゆらり、と立ち上がった。

「石動! 」

 小野寺の声に、涼子は振り返った。

 残忍そうな微笑を浮かべた顔で涼子は、ニヤ、と笑った。

 悪魔が笑うと、きっとこんな笑顔だろうとリザは思った。

 涼子はゆっくりと俯き、自分が抱いていた警官の手からサブマシンガンを拾い上げると、血塗れの左手を顔の前に持っていき、ペロ、と舐めて再び笑った。

「私が殺しちゃうもん」

 言うなり涼子は、サブマシンガンを連射し始めた。

「石動! 」

 足元で跳ねる銃弾をものともせず、涼子はゆっくりとした足取りで、躊躇うことなく、トリガー引きっ放しでずんずん歩いていく。

 正確無比な射撃だった。

 カンカンカンカンと派手な音を立てて涼子の撃つMP5の9m/m弾キューパラを跳ね返していた装甲車だったが、やがて、鉄扉の隙間から覗いていたテロリストの銃のマズルの先端に火花が走ったかと思うと、それっきり敵の火力は沈黙した。

 それでも涼子はトリガーを絞り続け、そして歩みを止めない。

 やがて装輪装甲車は急発進し、走り出した。

「追え! 」

「救急車を! 早く! 」

「道路封鎖だ、特車、前へ出ろ! 」

 無線交信とそのノイズ、怒号と悲鳴、サイレンと靴音がごっちゃになった、血の臭いと硝煙の臭いで咽かえる地獄のような現場で、涼子は未だに失弾したMP5のトリガーを引き続けていた。

「涼子様! 」

 リザは我に帰って立ち上がり、よろめく足を励まして涼子に辿り着く。

「涼子様、テロリストは逃走しました、もう、いいんです! 」

 叫びながら涼子の前に回り込み、リザは再び言葉を失った。

 涼子は笑っていた。

 頬から唇、顎にかけてまるでカブキの化粧のように塗られた赤い筋は、さっき舐めた血だろう。

 そんな壮絶な姿で、涼子は洞のような光の消えた瞳を弓のようにして、ある種の恍惚感を湛えたような半開きの口から、笑い声を洩らしていた。

「あはは……、うふ、うふふふふ……。死んじゃえ。みんな、死んじゃえ」

「石動」

 リザがフリーズしている間に、涼子の背後に小野寺が歩み寄っていた。

「ん? 」

 涼子は身体を捻り、小野寺の顔を見ると、笑顔のままで、サラリと恐るべき台詞を口にした。

「次はアンタ? 」

 言うなり涼子はマズルを小野寺の胸に突き当て、トリガーを絞った。

「! 」

 リザは、声にならない悲鳴を上げて、思わず一歩後退さる。

 失弾しているのだ、勿論弾は発射される筈もなく、耳に届くのはカチカチと五月蝿いハンマーの空撃ちの金属音だけだ。

 判っていても、それでもリザは今にも小野寺が血飛沫を上げて斃れるのではないか、そう思えて仕方なかった。

 だが、当の小野寺は顔色も変えず表情も変えず、声さえも普段通りのままで、静かに言った。

 喧騒の中でもよく通る、不思議な低さだった。

「石動。もう、いい。終わりだ。放せ」

 言いながら彼は、銃把を握った涼子の指を、一本一本、順番に、ゆっくりと、開いていく。

 全ての指が銃から離れ、カシャン! と乾いた金属音が地面で響く。

 まるでその音が催眠術から醒める合図でもあったように、涼子の顔からス、と笑顔が消えた。

「石動」

「艦長……? 」

 涼子の瞳に弱々しいが、煌きが戻った。

「涼子様? 」

 漸く呼べた名前に、涼子は苦しげな表情を浮かべた顔をリザへ向け、一言、搾り出すように言った。

「頭……、痛いよぅ」

 まるでマリオネットの糸が切れたようだった。

 全身から力が抜けて、崩れ落ちる瞬間を、小野寺の両手が軽々と横抱きに掬い上げた。

「ふぅっ! 」

 そこで漸く彼は、顔を歪めて大きな吐息をひとつ吐き、リザに顔を向けて苦笑を浮かべた。

「すまんな、先任。これも経験、ってヤツだ」

 意味は判らなかったが、やっぱり最後の最後で負けた、そう感じた。

 小野寺は首を捻って、駆けてくるマズアやコリンズに指示を出していた。

「駐英武官! 統幕本部長、政務局長軍務局長を車にお乗せして、A倉庫へ向かえ! 先発しろ。ああ、警察の車列警護は全部連れて行け、残りは要らん、GoGoGo! 武官補佐官! 英国政府代表はご無事か? 一緒に車に乗せてお帰り頂け、貴様が同行しろ! 後任、怪我はないかっ! 」

「アイサ! 部長、ご無事で! 」

 イボーヌが駆け寄ってくる。

「見ての通りだ。俺は手が放せん。貴様、コリンズ二佐の手を借りて、特別機のメンバーや残留SP取り纏めて、現場整理を指揮しろ。ああ、SPは半分、駐英武官に預けてA倉庫へ回せ。残りは負傷者救助だ」

「アイアイサー! 部長は? 」

 小野寺は彼の腕の中で気を失っている涼子をチラと見て、それから何故かリザに視線を飛ばし、それからイボーヌに顔を戻してから答えた。

「俺はこのお姫様が起きたら、コリンズ二佐、それにお姫様の先任とA倉庫へ戻る。車1台、残しとけ。貴様も適当なところで切り上げてA倉庫へ戻れ」

「アイアイサ! ……ところで部長? 」

 イボーヌが悪戯小僧のような笑顔を浮かべ、チラとこれまたリザを見た後、問うた。

「お姫様を起こすのは古来、王子様のキスと決まっておりますが? 」

 小野寺は鼻白んだような表情で、ボソリと答えた。

「遠慮する。王子を名乗る程、調子モンじゃない」

 小野寺はそう言うと、チラとリザを見て、踵を返した。

「石動の先任! 付いて来い」

 呆然と軍務部長と後任副官のやりとりを見守っていたリザは我に帰って後を追った。

 アイサーと返事をすべき場面だったが、何故かしたくなかった。

 やっぱり、負けた気分になった。


「なななななななんなのアイツ! りょ、涼子様を抱き上げるなんて身の程知らずがっ! 」

 思わず大声で罵ってしまった後で、マヤははっと我に帰り両手で口を塞いで左右を見回す。

 が、どうやら周囲はそれどころではない様子だ。

「そ、そうだわ! 涼子様を見失わないようにしないと! 」

 マヤは慌てて涼子を抱いた男の行方を眼で追う。

 どうやら涼子は気を失っているだけのようで、怪我をしているわけではないらしい。男はターミナル内のロビーに入ると、ソファに涼子を横たえた。

 後をついて行った副官らしきブロンド美人がなにやかやと世話を焼き始めると、男は外へ出て煙草を吸い始めたので、マヤは一安心と胸を撫で下ろす。

「でも、涼子様……。相変わらず凛々しいお姿だったわ……」

 柱の陰から見ている限り、涼子が一人機関銃を持って立ち向かったお蔭で、テロリストは退散したようなものだ。

 後で気を失ったのも、4年前、ニューヨークでの事件を考えれば頷ける。

「たぶん、動き出すのは、涼子様が目覚められてからのようね」

 再会は、今夜は諦めるしかないだろう。

 マヤはそう決断し、この混乱に乗じて現場を退散、待たせているタクシーの車内で涼子を待つ事にした。

「大丈夫かね、お客さん! 」

 待たせていたブラック・キャブに戻ると、運転手が額の脂汗を拭いながら心配そうな顔を振り向けた。

「ありがとう、おじさま。おじさまこそ、大丈夫でらしたかしら? 」

「ああ、お蔭様で、というかなんと言うか……」

 運転手はそこで口篭り、おずおずと口を開いた。

「で、まだかね、お客さんの待ち人は? 」

「うん。ごめんなさい。もうすぐ出てくると思うのだけれど……」

 マヤは振り向いて、リア・ウィンドウからエントランスを眺めた。腕時計を見ると、もう日付は変わっている。

 長い夜になりそうだった。


 救急車とパトカー、警官隊の喧騒に、事件を聞いて駆け付けたマスコミが加わってますます混乱状態が深まった現場を、小野寺、コリンズ、それとリザに抱きかかえられた涼子が抜け出してきたのは、30分後だった。

 マヤは、彼等がジャガーに乗り込んだのを確認して、運転手に尾行を命じた。

「まあ、出てきたときに、涼子様を女性に任せていたのだけは評価してあげますわ」

 知らぬうちに声に出していたらしく、運転手がルームミラー越しに聞いてきた。

「お客さん、しかし、あんたの待ち人ってのも、何やら物騒な立場らしいねえ」

「え? ……え、ええ、ま、あの、そ、そうですわね……」

 本当は違うんだけどな、と思いつつ、それは口にしない。

”涼子様、でも、大丈夫かしら? ”

 まさか、地球へ戻って毎日があんなスラップスティックではなかろうが、よくよく考えれば、最前線に出ている時は毎日があれ以上の”物騒な”日々だった筈だ。

 なにせ、戦争をしているのだから。

 それを考えると、同じ軍人であるあの男よりも、自分の方が何倍も涼子を幸せに出来る。

 そんなことを思いながら、涼子はフロントガラス越しに光る、ジャガーの赤いテールランプを、マヤは睨みつけていた。


 マヤを乗せたタクシーは、ロンドン市内に入り、やがて人通りの絶えたグリーンパーク通りに入った。

 途中、マヤ達は何度か検問にあったが、女性客一人を乗せたブラック・キャブは殆どノーチェックで通過する事が出来、失尾することなくここまで辿り着いた。

「あ、地下駐車場へ入ったな」

 運転手の呟きにマヤがフロントガラスを見ると、ジャガーはとある一見なんの変哲もない8階建てのビルの地下駐車場へと降りて行った。

「おじさま! どこか、このビルを見張れる所で停めてください! 」

 タクシーはビルの50m程手前にある歩道沿いのコインパーキング・エリアに滑り込み、ライトを消した。

 前方では貼り付け警戒中のスコットランドヤードのパトライトが点滅している。その向こうで小さく見える青い回転灯は、日本大使館の警備車両だろう。

「おじさま。あのビル、ご存じ? 」

「ああ、知ってるよ。通称、UNビルだよ、ありゃ……。そう言えば、制服の軍人連中もよく見かける。あれは地球防衛艦隊だと思うが……」

 マヤは小さく肯くと、意を決して運転手に言った。

「あの……、おじさま? ここまで、ほんとうにありがとうございました。もう少しだけ、お願いを聞いて下さらないかしら? 」

 運転手ははルームミラー越しにマヤに笑顔を見せて言った。

「ああ、判ってるって! このまま、見張りたいってんだろ? こうなりゃ、とことん付き合ってやるよ! 」

「ありがとう! この御恩は一生忘れません! 」

「そんな大袈裟な、照れるじゃねえか! 」

 そう言って大笑いしてから、運転手はふと真顔に戻り、リアシートを振り返って、少し声を落として訊いた。

「それにしても、お客さん……。ここまでするとは、よっぽど大変な野郎に惚れちまったようだねえ? あ、お姉さんだったっけ? 」

 マヤはそう言われて、少し寂しそうな表情をして、ポツリと言った。

「ええ、そうですね……。ほんと、大変……、ですわ」

 そう答えてからマヤは、そっと、まだ殆ど全館煌煌と灯りがついているビルを見上げて思った。

”ほんと、涼子様……。貴女ってなんて大変で……、素敵な方なの? ”

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